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佐々木恭介

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佐々木 恭介
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県丹波市
生年月日 (1949-12-28) 1949年12月28日(75歳)
身長
体重
176 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1971年 ドラフト1位
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

佐々木 恭介ささき きょうすけ1949年12月28日 - )は、兵庫県氷上郡青垣町(現:丹波市)出身の元プロ野球選手・元プロ野球監督野球解説者

来歴・人物

柏原高校から新日鉄広畑を経て、1972年ドラフト1位で近鉄バファローズに入団。1974年外野手に転向しレギュラーとなった。1978年には打率.354の好成績で首位打者を獲得。1979年1980年のリーグ連覇の原動力となった。しかし、1982年肝炎による内臓疾患により、33歳で現役を引退。

引退後は、1983年近鉄スカウト、1984年 - 1989年近鉄打撃コーチ。1991年 - 1992年中村勝広監督の要請により阪神タイガース一軍打撃コーチに就任。阪神時代は新庄剛志亀山努らをブレイクさせ、最終的にはヤクルトに優勝をさらわれたものの、6年ぶりのAクラス入りに貢献した。

その後、1993年から毎日放送解説者、スポーツニッポン評論家を経て、1996年 - 1999年近鉄監督に就任。就任直後のドラフト会議では(赤いふんどしを着用し当日に臨んだと言われる)抽選でPL学園福留孝介の交渉権を獲得し(入団は拒否)、『ヨッシャー』の掛け声(これが氏の愛称となる)で話題となった。2001年東尾修監督に請われライバルチームである西武ライオンズ一軍ヘッド兼打撃コーチに電撃就任、2002年中日ドラゴンズ一軍ヘッド兼打撃コーチとなり、同チームに入団した福留と再会する。2003年のシーズン終盤は解任された山田久志監督に代わって20試合指揮を執った。

2007年には韓国プロ野球・三星ライオンズ2007年キャンプ中の特別打撃コーチを務める。そしてペナントレース終盤(9月 - )同チームの臨時コーチを現在勤めている。

エピソード

  • 少年時代は相撲をとったら負け知らずだった為、相撲部屋からスカウトが来た。
  • 西本幸雄を尊敬しており、監督時代の背番号を近鉄監督時代の西本と同じ68番にしたばかりか、自身の公式ブログのアドレスにも「68」を入れたほどである。ちなみに佐々木の現役時代の背番号は、西本と同じ5番だった。
  • 1979年の日本シリーズの「江夏の21球」で江夏豊と対戦した打者の一人。江夏が自分に投じた第2球目、ど真ん中のシュートを見逃してしまい(判定はストライク)、結局三振に倒れる。佐々木は「人生をやり直せるとしたら、あの打席の2球目の場面をやり直したい」と述べたことがある。
  • 福留孝介は近鉄の入団は拒否したものの、佐々木をコーチとして慕っていた。ちなみに、スカウトより意中球団で無い為、事前に近鉄に入団する可能性は極めて低いという報告を受けていたが、PL学園は藤井寺から10分たらずの距離なのに、何もしないのは惜しいということで強行1位指名に踏み切ったという。実際に、福留が2002年に首位打者を獲得できたのは、佐々木の打撃指導によるものとされている。また、プライベートでの親交は今も続いており、時々食事を共にする仲だという。2006年の日本シリーズ開幕戦の試合前、サンデードラゴンズの収録中だった佐々木に本人から直接電話がかかってくるという一幕も。なお福留獲得のため近鉄球団は7億円まで積み、さらに数年間プレーすれば自由契約にするとまで約束したそうだが福留は首を縦には振らなかったと、関西のラジオ番組ゴー傑Pという番組で佐々木は語っている。当時は巨人と出来ていると思っていたがふたを開けてみると中日だったのかと驚いたらしい。
  • 1996年11月のドラフト会議で、3位で近鉄が指名した礒部公一は当初オリックス・ブルーウェーブ志望であった。しかし、佐々木は交通の便が悪い広島県東広島市の礒部の実家へ、球団が用意したヘリコプターで近鉄の指名選手中一番先に会いに行き、その結果ヘリまで飛ばし挨拶に来てくれた熱意と、その場での説得で礒部は近鉄入団を決意した。
  • 1993年~1995年の野球解説者時代に担当していたラジオ番組では話術の巧みさを発揮、野球ファンを驚かせた。
  • 監督としての成績は凡庸とも言われるが、打撃コーチとしては金村義明村上隆行、亀山や新庄などを育成した実績もあり、解説での打撃理論も緻密であるので、コーチとしての評価が高い。事実、金村は今でも「僕がプロ野球でやっていけたのは仰木監督と佐々木コーチのおかげ。」と言っている。
  • 2005年愛知県中部日本放送でレギュラー出演していたテレビ番組で、佐々木の公式戦予想が外れた罰ゲームとして、当時首位だった阪神中日が追いかけるという意味で「トラの尻尾をつかむ」と称して、動物園でトラのオリに入って本物のトラの尻尾をつかまされるというバラエティタレント並みの企画を実行させられた。
  • 2008年日本ハムオリックス戦で解説中に舌打等をし、不快に感じた視聴者にブログ炎上される。

背番号

  • 5 (1972年~1982年)
  • 50 (1984年~1985年)
  • 85 (1986年~1989年)
  • 83 (1991年~1992年)
  • 68 (1996年~1999年)
  • 77 (2001年)
  • 75 (2002年~2003年)

年度別打撃成績

  • 表中の太字はリーグ最多数字
年度 チーム

試合 打数 得点 安打 二塁
三塁
本塁
塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四死
三振 打率(順位)
1972年 近鉄 5 53 122 13 30 7 0 5 52 12 6 1 1 10 36 .246
1973年 91 209 26 47 12 0 8 83 26 5 1 1 22 39 .225
1974年 118 362 40 95 25 0 13 159 39 7 5 3 32 49 .262
1975年 117 364 44 111 7 5 13 167 69 8 3 12 45 32 .305(4)
1976年 125 418 49 112 17 1 10 161 41 15 5 5 51 40 .268(18)
1977年 109 293 30 59 8 0 6 85 30 9 5 2 30 39 .201
1978年 109 376 47 133 19 2 9 183 62 8 6 10 34 23 .354(1)
1979年 111 363 56 116 13 0 18 183 46 14 4 3 45 38 .320(8)
1980年 112 359 68 114 18 0 19 189 66 8 4 4 47 36 .318(9)
1981年 91 253 31 66 7 1 4 87 21 14 5 3 27 17 .261
1982年 1軍出場なし
通算成績 1036 3119 404 883 133 9 105 1349 412 94 39 44 343 349 .283

タイトル・表彰

監督通算成績

  • 535試合 250勝 274敗 11分 勝率.477
※1 1996年は130試合制
※2 1997年から2000年までは135試合制

現在の出演番組

関連項目

外部リンク

先代
有藤道世
パ・リーグ首位打者
1978年
次代
加藤英司
先代
加藤秀司
パ・リーグ最高出塁率
1978年
次代
加藤英司
先代
水谷実雄1995年途中)
近鉄バファローズ、大阪近鉄バファローズ監督
1996年1999年
次代
梨田昌孝2000年2004年
先代
山田久志
2002年2003年途中)
中日ドラゴンズ
監督(代行)
(2003年途中)
次代
落合博満
(2004年~)
※1 カッコ内は監督在任期間。
※2 2003年は9月10日からシーズン終了まで指揮。

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