コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

古田重然

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。~riley (会話 | 投稿記録) による 2016年5月9日 (月) 03:43個人設定で未設定ならUTC)時点の版 ((GR) File renamed: File:130202 Nanshuji Sakai Osaka pref Japan31s3.jpgFile:Nanshuji garden.jpg File renaming criterion #2: To change from a meaningless or ambiguous name to a name that describes w...)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

 
古田重然
古田重然(織部)像(大阪城天守閣蔵[注釈 1]
時代 戦国時代後期 - 江戸時代前期
生誕 天文12年(1543年[注釈 2]
死没 慶長20年6月11日1615年7月6日
改名 景安(初名)→重然
別名 左介(通称)、織部
戒名 金甫宗屋禅人
墓所 京都府京都市北区紫野大徳寺町の大徳寺三玄院
京都府京都市上京区堀川通寺之内上ルの興聖寺
官位 従五位下、織部正、織部助
主君 織田信長豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠
氏族 古田氏[注釈 3]
父母 父:古田重定、養父:古田重安
兄弟 重然重則重続
正室:せん中川重清の娘)
重広[注釈 4]ほか男子4人、娘(古田重続室)、娘(鈴木某室)
テンプレートを表示
織部作と伝わる南宗寺庭園(国の名勝

古田 重然(ふるた しげなり[1]、ふるた しげてる[2])は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名。一般的には茶人古田 織部(ふるた おりべ)として知られる。「織部」の名は、壮年期に従五位下織部正(織部助)の官位に叙任されたことに由来している。千利休が大成させた茶道を継承しつつ大胆かつ自由な気風を好み、茶器製作・建築・庭園作庭などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代にもたらした。

生涯

武将・重然

天文12年(1543年)、美濃国本巣郡山口城主・古田重安の弟・古田重定(勘阿弥、還俗主膳重正と改名したという)の子として生まれ[3][注釈 5]、後に伯父・重安の養子となったという。家紋は三引両。『古田家系図』[注釈 6]に重定は「茶道の達人也」と記されていることから、重然も父の薫陶を受け武将としての経歴を歩みつつ、茶人としての強い嗜好性を持って成長したと推測される[4]。しかし、松屋久重編の「茶道四祖伝書」では佐久間不干斎からの伝聞として「織部は初めは茶の湯が大嫌いであったが、中川清秀にそそのかされて上々の数寄者になった」と記されていることや、重然の名が茶会記に初めて記録されるのが天正11年(1583年)の重然40歳のときとかなり遅いことから、若い頃は茶の湯に興味がなかったとする研究者もおり、事実ははっきりしない[5]

古田氏は元々美濃国の守護大名土岐氏に仕えていたが、永禄9年(1567年)、織田信長の美濃進駐と共にその家臣として仕え、重然は使番を務めた[6]。翌年の信長の上洛に従軍し、摂津攻略に参加したことが記録に残っている。永禄11年(1569年)に摂津茨木城主・中川清秀の妹・せんと結婚[7]

天正4年(1576年)には山城国乙訓郡上久世荘(現在の京都市南区)の代官となった。天正6年(1578年)7月、織田信忠播磨神谷城攻めに使番として手柄を立て、同年11月に荒木村重が謀反(有岡城の戦い)を起こした際には、義兄の清秀を織田方に引き戻すのに成功する[8]。 その後も羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の播磨攻めや、明智光秀丹波攻め(黒井城の戦いなど)、甲州征伐に清秀と共に従軍し、禄高は300貫[9]と少ないながらも武将として活動している。

信長死後は秀吉に仕え、山崎の戦いの前に中川清秀に秀吉へ人質を出すことを認めさせたという逸話[10]が残る。天正11年(1583年)正月に伊勢亀山城滝川一益を攻め、同年4月の賤ヶ岳の戦いでも軍功をあげる。この時、清秀が戦死したため重然は清秀の長男・秀政の後見役となり、翌年の小牧・長久手の戦いや天正13年(1585年)の紀州征伐四国平定にも秀政と共に出陣している[11]

同年7月、秀吉が関白になると、重然は年来の功績を賞され従五位下織部に任ぜられた。このとき、義父・重安の実子で義弟に当たる重続を美濃から呼び寄せ、長女・せんを中川秀政の養女とした上で配偶し中川家の家臣とする。この重続の子孫は、重然の正系が絶えた後も中川氏の家老として存続した[12]。同年9月、秀政の後見を免ぜられる。その後、九州平定[13]小田原征伐に参加し、文禄の役では秀吉の後備衆の一人として150人の兵士を引き連れ名護屋城東二の丸に在番衆として留まり、朝鮮には渡らなかったとみられる[14]

茶人・織部とその友誼

天正10年(1582年)から千利休の書簡に重然の名前(左介)が見える。この間に利休と知り合い弟子入りしたものと考えられ、のちに利休七哲のひとりとされる。天正19年(1591年)に秀吉によって利休の追放が決まると利休と親交のあった諸将が秀吉を憚って現れない中、重然と細川忠興のみが堂々と利休の見送りを行った。利休死後は、天下一の茶人となった。慶長3年(1598年)には子の重広に家督を譲った[15]とされるが、史料に確認できない。

慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。

この時期の重然は茶の湯を通じて朝廷貴族寺社・経済界と様々なつながりを持ち、全国の大名に多大な影響を与える存在であり、二代将軍・徳川秀忠の茶の湯の指南役にも抜擢されている。

最期

慶長20年(1615年)、大坂夏の陣の折りに重然の茶頭である木村宗喜豊臣氏に内通して京への放火を企んだとされる疑いで京都所司代板倉勝重に捕らえられた。重然も冬の陣の頃から豊臣氏と内通しており、徳川方の軍議の秘密を大坂城内へ矢文で知らせた[16]などの嫌疑をかけられ、大坂落城後の6月11日7月6日)に切腹を命じられた。重然はこれに対し、一言も釈明せずに自害したといわれる。享年73。宗喜も処刑されている。後に長男・重広[注釈 4]も切腹し、ついに古田家は断絶した。

茶道の師である千利休同様に反骨精神が旺盛で、江戸幕府の意向を無視することが少なくなく、その影響力を幕府から危険視されていたことが背景にあったと考えられている。

なお、次男・重尚(前田利常家臣)、三男・重広[要出典](小三郎、池田光政家臣)、四男・重行(九八郎、豊臣秀頼家臣)、五男・重久(左近徳川秀忠家臣)がいたとされるが、史料で確認できない。重然の妻の隠居所が興聖寺の塔頭にあったといい、そこには重然の墓の左右に墓石が並んでいる[17]

織部の茶の湯

織部は千利休の「人と違うことをせよ」という教えを忠実に実行し、利休の静謐さと対照的な動的で破調の美を確立させ、それを一つの流派に育て上げた。職人や陶工らを多数抱え創作活動を競わせ、自らはいわば茶の湯のコーディネーターとして指導にあたった[18]。茶の湯の弟子とされる人物には小堀遠州上田宗箇徳川秀忠金森可重本阿弥光悦毛利秀元らがいる[要出典]

織部好みの代表的な茶室に、藪内流の「燕庵」[注釈 7]がある。しかし、これは江戸時代中期に建てられたものである[要出典]。茶書としては『織部百ヶ条』などを残したが、百ヶ条で伝存しているもののほとんどは写しである[要出典]。なお、書家として織部の書は左へ斜めにずれるのが特徴で、本阿弥光悦に影響を与えたとする説もある[19]

博多の豪商、神谷宗湛は、織部の茶碗を見た時、その斬新さに驚き、「セト茶碗ヒツミ候也。ヘウゲモノ也」と、『宗湛日記』に書いている。なお、織部が用いた「破調の美」の表現法に器をわざと壊して継ぎ合わせ、そこに生じる美を楽しむという方法があり、その実例として、大きさを縮めるために茶碗を十字に断ち切って漆で再接着した「大井戸茶碗 銘須弥 別銘十文字[注釈 8]」や、墨跡を2つに断ち切った「流れ圜悟」[注釈 9]があげられる[注釈 10]

織部について加藤唐九郎は「利休は自然の中からを見いだした人だが作り出した人ではない。織部は美を作り出した人で、芸術としての陶器は織部から始まっている」と述べた[21]司馬遼太郎は「おそらく世界の造形芸術史のなかで、こんにちでいう前衛精神をもった最初の人物ではないかとおもう」とその芸術志向を評している[22]。なお、織部が利休死後、他の名だたる茶人たちを抑えて「天下一の茶の湯名人」と謳われたのは、織部のもつ大名という高い身分の力もあるという見方がある[23]

逸話・伝承

茶話真向翁』や『茶話指月集』により、以下のような逸話が伝わっている。

利休が弟子達の集まっている席で「瀬田の唐橋擬宝珠の中に見事な形のものが2つあるが、見分けられる人はいないものか?」と訊ねた。すると一座にいた織部は急に席を立ってどこかに行って、夕方になって戻ってきた。利休が何をしていたのか訊ねると「例の擬宝珠を見分けてみようと思いまして早馬で瀬田に参りました。さて、2つの擬宝珠は東と西のこれではありませんか?」と答えた。利休をはじめ一座の者は織部の執心の凄まじさに感心した[24]

利休が茶入れの蓋を象牙で作らせたところ、スが入った疵物であった。恐縮する細工人に対して利休は「これは面白いものを作ってくれた」と喜ぶことで慰め織部を呼んで茶会を催した。利休はその際、蓋の鬆を勝手側に向けつまみの外側に茶杓を置いて点前を進めた。すなわち織部のほうに茶杓を置いたのである。茶会のあと、織部はその茶入れを利休に乞うて持ち帰り、今度は利休を茶会に招いて茶入れの蓋の鬆を客のほうに向けつまみの内側に茶杓を置いた。利休は「さてもよくやった。織部ほど作意のできる茶人はまたとあるまい」と述べて褒め称えた[25]

織部が薄板を布かずに籠の花入れを置いていたのを利休が褒めて「籠の花入れを薄板に乗せることは昔から皆やって来たことだが、私はどうも面白くないと思っていた。このことに関しては私があなたのお弟子になりましょう」と言った、それから利休は薄板を布かずに直に籠の花入れを置いていたという[26]

織部が大坂の陣で徳川方として従軍していた際、月夜の明るい日に茶杓の材料を求めて竹藪に入った。織部は出家していたので頭髪のないハゲ頭であったが、その頭のせいで何やら光るものを大坂方が発見して怪しみ鉄砲を撃った。弾は危うく頭上をかすめたので織部は慌てて陣中に戻ったという[27]

資料館

織部を題材にした作品

  • 『割って、城を』
    織部を主人公とした司馬遼太郎の短編小説。松坂城主古田重勝との混同がみられる。『別冊文藝春秋』1963年38号に発表。新潮文庫『人斬り以蔵』(ISBN 978-4101152035)に収録。
  • へうげもの
    織部を主人公とした山田芳裕の漫画、およびそれを原案としたテレビアニメ。
  • 『古田織部―乱世を駆け抜けた生涯』[29]
    構成里中満智子、作画村野守美の漫画。ISBN 4889916717ISBN 978-4889916713

演じた俳優

脚注

注釈

  1. ^ 岡藩中川家ゆかりの高流寺伝来。画面上部には織部の末裔で岡藩家老を務めた古田廣計の賛(文化4年(1807年))が記されている。
  2. ^ 天文13年(1544年)生まれの説もある。
  3. ^ 丹羽基二著、樋口清之監修『姓氏』によると古田氏は藤原氏庶流とされ、その発祥地は伊勢国員弁郡古田邑と記されている。
  4. ^ a b 久野治『古田織部の世界』(鳥影社)によると、重広は織部の四男とされ、長男は重嗣とする。
  5. ^ 尾張国出身説もある。
  6. ^ 重然の子孫所蔵。
  7. ^ 重要文化財
  8. ^ 三井記念美術館
  9. ^ 国宝東京国立博物館
  10. ^ ただし、掛け物を切断する行為は他の茶人も行っており、織部が常習犯のように器物を壊していたわけではない[20]

出典

  1. ^ 桑田忠親 1990, p. 15.
  2. ^ 南條範夫『大名廃絶録』(新装版)〈文春文庫〉、19頁。ISBN 978-4167282219 
  3. ^ 竜宝山大徳寺誌』
  4. ^ 桑田忠親 1990, p. 17.
  5. ^ 矢部良明 1999, p. 17.
  6. ^ 『古田家譜』
  7. ^ 『古田家譜』『豊後岡藩中川家譜』
  8. ^ 信長公記』より。
  9. ^ 「山城国上久世荘御年貢米御算用状」東寺百合文書」収録
  10. ^ 『烈公間話』
  11. ^ 桑田忠親 1990, p. 27.
  12. ^ 『古田家譜』
  13. ^ 桑田忠親 1990, p. 240.
  14. ^ 桑田忠親 1990, p. 62.
  15. ^ 桑田忠親 1990, p. 70.
  16. ^ 『続武家閑談』
  17. ^ 『茶道聚錦四』p.43
  18. ^ 矢部良明 1999, p. 28.
  19. ^ 桑田忠親 1990[要ページ番号]
  20. ^ 桑田忠親 1990, p. 181.
  21. ^ 海音寺潮五郎「日本の名匠」中公文庫
  22. ^ 司馬遼太郎『人斬り以蔵』〈新潮文庫〉。ISBN 978-4101152035 
  23. ^ 桑田忠親 1990, p. 71.
  24. ^ 久須見疎安『茶話指月集』
  25. ^ 『茶話真向翁』
  26. ^ 久須見疎安『茶話指月集』
  27. ^ 『茶話真向翁』
  28. ^ “古田織部の大胆さに憧れ…漫画・茶会・美術館”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2014年7月13日). http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20140630-OYT8T50176.html 2014年8月7日閲覧。 
  29. ^ 古田織部 - マンガ図書館Z(外部リンク)

参考文献

書籍
雑誌
  • 熊倉功夫編(編)「特集 天下の茶人 古田織部の謎」『芸術新潮』平成4年(1992年)7月号、新潮社、1992年7月。 
  • 「週刊日本の美をめぐる No.18 桃山3 利休・織部と茶のしつらえ」『小学館ウイークリーブック』、小学館、2002年9月。 
展覧会図録

関連項目

');