イグノーベル賞
イグノーベル賞(イグノーベルしょう、英: Ig Nobel Prize)とは「人々を笑わせ考えさせた研究[1][2][3]」に与えられる賞。ノーベル賞のパロディーとしてマーク・エイブラハムズが1991年に創設した。
名称
[編集]「イグノーベル (Ig Nobel 英語発音: [ˌɪɡnoʊˈbɛl])」とは、ノーベル賞の創設者ノーベル (Nobel 英語発音: [noʊˈbɛl]) に、否定を表す接頭辞的にIgを加え、英語の形容詞 ignoble 英語発音: [ɪɡˈnoʊbəl]「恥ずべき、不名誉な、不誠実な」にかけた造語である。公式のパンフレットではノーベルの親戚と疑わない Ignatius Nobel(イグネイシアス・ノーベル)という人物の遺産で運営されているという説明も書かれている[4]。
概要
[編集]1991年、ユーモア系科学雑誌のマーク・エイブラハムズ編集長が廃刊の憂き目に遭いながらサイエンス・ユーモア雑誌『風変わりな研究の年報』 (Annals of Improbable Research)を発刊する際に創設した賞であり、面白いが埋もれた研究業績を広め、並外れたものや想像力を称賛し、科学、機械、テクノロジーへの関心を刺激するために始めた。 その雑誌と編集長がイグノーベル賞を企画運営している。共同スポンサーは、ハーバード・コンピューター協会、ハーバード・ラドクリフSF協会といった世界のSF研究会が数多く協賛する。
毎年9月もしくは10月に「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」や風変わりな研究、社会的事件などを起こした10の個人やグループに対し、時には笑いと賞賛を、時には皮肉を込めて授与される。このようにインパクトのある斬新な方法によって、脚光の当たりにくい分野の地道な研究に、一般の人々の注目を集めさせ、科学の面白さを再認識させてくれるという貢献に繋がっている[5]。カラオケやたまごっち、バウリンガルといった商品の発明に対して賞が贈られる場合もある。
賞が創設されて以来、日本はイグノーベル賞常連国になっている(ただし1991年、1993年、1994年、1998年、2000年、2001年、2006年は受賞していない)。また、継続的に受賞しているのは日本以外にイギリスで、創設者のエイブラハムズによれば、「多くの国が奇人・変人を蔑視するなかで、日本とイギリスは誇りにする風潮がある」という共通点を挙げている[6]。また「日本とイギリスは突出して多くの受賞者を出していますが、それは日本とイギリスでは、本当に風変わりなアイデアを思いついた人を排除することなく大切にして、自分たちの中の1人として受け入れてきた結果です。そうした小さなことの積み重ねがあって、両国はいまや誰もが使っているさまざまな技術の開発に大きな成功を収めてきたのです。」と分析した[7]。
部門
[編集]毎年テーマがある(といっても、毎年受賞に関係あるようでさほど関係ない)。その中から多くて10部門が賞に選ばれる。同賞には、ノーベル賞と同じカテゴリーの賞もあれば、生物学賞、心理学賞、昆虫学賞など本家ノーベル賞には無い部門も随時追加されている。そのため賞が贈られるジャンルは多種多様といえる。
選考
[編集]選考対象は5,000を超える業績(自薦も含む)で[5]、書類選考はノーベル賞受賞者を含むハーバード大学やマサチューセッツ工科大学の教授ら複数の選考委員会の審査を経て行われる[4]。受賞の公式基準として「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」に合致する項目から条件をクリアした、10程度の個人・団体が選考される[4]。また本家ノーベル賞とは違い、故人も対象となる。
皮肉や風刺が理由で賞が授与される場合もある。例えば「水爆の父」として知られるエドワード・テラーは「我々が知る「平和」の意味を変えることに、生涯にわたって努力した」として、1991年にイグノーベル平和賞を受賞した。1995年には、フランスのジャック・シラク大統領も「ヒロシマの50周年を記念し、太平洋上で核実験を行った」ため、平和賞を受賞した。1999年の科学教育賞は、進化論教育を規制しようとしたカンザス州教育委員会並びコロラド州教育委員会に贈られた。2020年には「新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的流行で、政治家が学者や医師よりも生死に影響を及ぼすことを知らしめた」として米国のドナルド・トランプ大統領やブラジルのジャイール・ボルソナーロ大統領ら9か国の首脳に医学教育学賞が贈られた[8][9]。
授与式に受賞者が現れないことも多いが、エイブラハムズの本ではこれに対し「受賞者は授与式に出席できなかった(出席する気もなかっただろうが)」と批評する。
2000年に「カエルの磁気浮上」で物理学賞を受賞したアンドレ・ガイムは、2010年にグラフェンの研究でノーベル物理学賞を受賞し、初のノーベル・イグノーベル両賞受賞者となった。
授賞式
[編集]- 2019年以前
授賞式には「プレゼンター」として、ノーベル賞受賞者も多数参加し、ハーバード大学のサンダーズ・シアターで行われる。ノーベル賞では、式の初めにスウェーデン王室に敬意を払うのに対して、イグノーベル賞では、スウェーデン風ミートボール(スウェーデンの郷土料理)に敬意を払う。また、受賞者の旅費と滞在費は自己負担で、授賞式の講演では、聴衆から笑いをとることが要求される[4]。
受賞者は一本の長いロープにつかまり、一列になってぞろぞろと壇上に登場する。これは引率されている幼稚園児のパロディである。
1999年の授賞式からは、60秒の制限時間が過ぎると、『ミス・スウィーティー・プー』[注 2]と呼ばれる進行役の8歳の少女[注 3]が登場し「もうやめて、私は退屈なの(英語: Please stop. I'm bored.)」と連呼するが、この少女を贈り物で買収することによって、講演を続けることが許される。ただし買収が効かず、贈り物だけ持ち去られてしまうこともあった[4]。2015年は、イグノーベル賞が25周年を迎えたことで、歴代のミス・スウィーティー・プーが集合[10]し、お互いに制限時間を過ぎた演説を止め合った。2016年には、授賞式の開催が夜遅かったため、出番は見送られた。
観客もおとなしく聴いているだけでなく、授賞式の初めに全員が紙飛行機を作り、投げ続けるのが慣わしで、その掃除のためのモップ係は、ハーバード大学教授(物理学)のロイ・グラウバーが例年務めている(2005年のみ例外となった。これはグラウバーがノーベル物理学賞を受賞し、そちらの式典に出席していたためである)[11]。
授賞式の合間には、ミニオペラや「24/7レクチャー」(ノーベル賞受賞者含む科学者が自らの専門を「24秒」以内で紹介し、その研究の内容を誰にでもわかるように「7単語」だけで表現するというもの[注 4])[10]などが行われる。
賞状はコピー用紙にプリントされたものに、選考委員のサインがある[11]。また賞金は原則としてゼロだが[12]、2015年以降10兆ジンバブエ・ドル(紙幣1枚、ただしこの時点ですでに貨幣としては無効)が授与された[13]。また、業績にちなんだ副賞が贈られる[要出典]。
2007年に国立国際医療センター研究所の山本麻由が「牛の排泄物からバニラの香り成分『バニリン』を抽出する研究」で受賞した際は、ケンブリッジ市の有名アイスクリーム店「トスカーニ」が「ヤマモトバニラツイスト」なるバニラアイスを新たに発売し、スピーチ中に会場で観客に振る舞われた。
- 2020年以降
新型コロナウイルス感染症の流行に伴い、オンラインで開催されている[14]。受賞者に対しての10兆ジンバブエドルやトロフィーはPDFにて授与[15][16]された。
歴代の受賞者
[編集]評価
[編集]イギリス政府の主任科学アドバイザー、ロバート・メイは1995年、「大衆がまじめな科学研究を笑いものにする恐れがある」と、イグノーベル賞の運営者に対しイギリス人研究者に今後賞を贈らないよう要請した[17]。この主張に対し、イギリスの科学者の多くからは反発・反論が起こった。マーク・エイブラハムズは、「偉大な科学的・技術的ブレイクスルーは、最初に登場した時は笑われた。パンのカビを見つめ続けるような研究を人々は笑ったが、この研究なしでは抗生物質は生まれなかった」と述べ、一見ばかげた研究に賞を贈るという意図を弁護した[17]。メイの要請にもかかわらず、1995年以後も選出されたイギリス人にはイグノーベル賞が贈られ続けている。
歴史
[編集]「イグノーベル賞」という名称を最初に考案したのは、イスラエルの物理学者アレクサンダー・コーンであるといわれている。コーンは1955年に『The Journal of Irreproducible Results (JIR)』を創刊し、1968年の同誌上で Ignobel Prize という語を複数回使用している。また、コーンは JIR 誌の編集者であったマーク・エイブラハムズに、実際にイグノーベル賞を設立することを勧め、1994年には共同で、イグノーベル賞を主催する Annals of Improbable Research (AIR) 誌を創刊している。
1997年、JIR 誌の編集者ジョージ・シェアは、商標侵害、詐欺、共謀などを理由として、エイブラハムズを裁判で訴え、また420万米ドルの賠償金を求めた。これに対し、ノーベル賞受賞者のリチャード・ロバーツ、ダドリー・ハーシュバック、ウィリアム・リプスコムは、"Strategic AIR Defence Fund" (戦略防空基金 = 雑誌名 AIR と、防空 "air defence" をかけた洒落)を設立し、エイブラハムズを支援した。
脚注
[編集]- 注釈
- 出典
- ^ 「ワニもヘリウムガスを吸うと声が変化」にイグ・ノーベル賞…受賞した日本人に“実験方法”を聞いた FNNニュース 2020年9月18日
- ^ 世界が笑って考えさせられる、イグ・ノーベル賞受賞者の研究! tenki.jp 日本気象協会 2018年09月30日
- ^ 笑う科学 イグ・ノーベル賞 志村幸雄著 PHP研究所
- ^ a b c d e 田口文章 第67話 イグ・ノーベル賞とはなんだろう
- ^ a b タマネギ研究でのイグノーベル賞受賞について
- ^ 8歳少女「もうやめて」おかしな?イグ・ノーベル賞授賞式 dot.(ドット)2013年10月02日
- ^ “「イグ・ノーベル賞 18年連続日本人が受賞 ブタはお尻からも呼吸”. NHK (2024年9月13日). 2024年11月1日閲覧。
- ^ “トランプ氏らにイグ・ノーベル賞 「コロナで生死に影響」と皮肉”. 時事通信 (2020年9月18日). 2021年3月11日閲覧。
- ^ “Ig Nobel Prize winner Trump teaches a new lesson” (英語). Ig Nobel Prize (2020年12月11日). 2021年3月11日閲覧。
- ^ a b 【速報】日本人9年連続受賞!2015年イグノーベル賞
- ^ a b イグノーベル賞という変わった賞 学長 熊谷英彦 - pdf
- ^ 琵琶湖病院・びわこクリニック 聴覚障害外来通信「ささやき」67号-2012年度の受賞者、村上純一によるコラム
- ^ Ig Nobel prize 'honors' research on kissing, bee stings - Deutsche Welle・2015年9月18日
- ^ “イグ・ノーベル賞 日本人が15年連続で受賞”. 日本テレビ放送網. (2021年9月10日) 2021年11月14日閲覧。
- ^ “ワニの発声原理を解明しイグノーベル賞!~遊び心と人のつながりが新発見に~”. 科学技術振興機構. (2021年1月14日) 2022年11月19日閲覧。
- ^ “2021年イグ・ノーベル賞の謎 受賞者が考える、動力学賞と物理学賞の「なぜ?」”. 東京大学先端科学技術研究センター. (2022年2月7日) 2022年11月19日閲覧。
- ^ a b “Here come the prize idiots” (英語). ガーディアン (1999年9月30日). 2022年4月30日閲覧。
参考文献
[編集]- 五十嵐杏南『ヘンな科学 “イグノーベル賞”研究40講』総合法令出版、2020年12月。ISBN 978-4-86280-779-3。
- マーク・エイブラハムズ 著、福嶋俊造 訳『イグ・ノーベル賞 大真面目で奇妙キテレツな研究に拍手!』阪急コミュニケーションズ、2004年3月。ISBN 4-484-04109-X。 - 原タイトル:Ig Nobel Prizes。
- マーク・エイブラハムズ 著、福嶋俊造 訳『もっと!イグ・ノーベル賞 世の常識を覆す珍妙な研究に栄誉を!』ランダムハウス講談社、2005年8月。ISBN 4-270-00091-0。 - 原タイトル:Ig Nobel 2。
- マーク・エイブラハムズ 著、福嶋俊造 訳『イグ・ノーベル賞 世にも奇妙な大研究に捧ぐ!』講談社〈講談社+α文庫 G201・1〉、2009年9月。ISBN 978-4-06-281313-6。 - 『もっと!イグ・ノーベル賞』(ランダムハウス講談社、2005年刊)の抜粋、加筆・修正、再編集。
- 久我羅内『めざせイグ・ノーベル賞 傾向と対策』阪急コミュニケーションズ、2008年10月。ISBN 978-4-484-08222-6。
- 志村幸雄『笑う科学 イグ・ノーベル賞』PHP研究所〈PHPサイエンス・ワールド新書 008〉、2009年11月。ISBN 978-4-569-77440-4。 - 並列シリーズ名:PHP science world。
- V.B.マイヤーロホ 著、江口英輔 訳『動物たちの奇行には理由(ワケ)がある イグ・ノーベル賞受賞者の生物ふしぎエッセイ』技術評論社〈知りたい!サイエンス〉、2009年4月。ISBN 978-4-7741-3799-5。
- V.B.マイヤーロホ 著、江口英輔 訳『動物たちの奇行には理由(ワケ)がある イグ・ノーベル賞受賞者の生物ふしぎエッセイ』 part2、技術評論社〈知りたい!サイエンス〉、2010年4月。ISBN 978-4-7741-4201-2。
- Nadis, Steve (October 1997). “Irreproducible pursues the improbable”. Nature (Nature Publishing Group) 389 (6650): 431. doi:10.1038/38852 .