ウィリアム・バゴット (初代バゴット男爵)
初代バゴット男爵ウィリアム・バゴット(英語: William Bagot, 1st Baron Bagot、1728年2月28日 – 1798年10月22日)は、グレートブリテン王国の政治家、貴族。トーリー党に属し、1754年から1780年まで庶民院議員を務めた[1]。
生涯
[編集]第5代準男爵サー・ウォルター・ワグスタッフ・バゴットと妻バーバラ(Barbara、旧姓レッグ(Legge)、1765年10月29日没、初代ダートマス伯爵ウィリアム・レッグの娘)の息子として、1728年2月28日に生まれた[2]。1739年から1746年までウェストミンスター・スクールに通った後[3]、1747年2月28日にオックスフォード大学モードリン・カレッジに入学、1749年4月12日にM.A.の学位を修得した[4]。1749年から1752年までグランドツアーに出た後[3]、1754年7月2日にD.C.L.の学位を授与された[4]。
1754年イギリス総選挙でスタッフォードシャー選挙区から出馬した[5]。スタッフォードシャーでは1753年にホイッグ党とトーリー党の間で妥協が成立しており、ホイッグ党のルーソン=ゴア家が1議席を取り、トーリー党員の多いジェントリ層が1議席を取った[5]。これによりバゴットはジェントリの候補として無投票で当選、以降1761年、1768年、1774年の総選挙で再選した[5]。
議会ではトーリー党に属し、1761年12月に商務庁委員への就任を打診されたが、父に相談した後に辞退している[3]。七年戦争の予備講和条約に賛成したとされ、1766年には印紙法廃止に反対票を投じ、1769年初のミドルセックス選挙事件では政府を支持して、ジョン・ウィルクスの議会追放に賛成した[3]。1768年1月20日に父が死去すると、準男爵位を継承した[2]。
ノース内閣期では常に政府を支持し、1770年4月に首相ノース卿から国王私室財務官への就任を打診されたが、辞退している[3]。その後も1772年に王室結婚法を支持、1779年3月に国教忌避者救済への反対演説をした[3]。1780年イギリス総選挙でノース卿から叙爵の内諾を得て出馬せず[3]、同年10月17日にグレートブリテン貴族であるスタッフォードシャーにおけるバゴッツ・ブロムリーのバゴット男爵に叙された[1][6]。
貴族院では1783年にチャールズ・ジェームズ・フォックスが提出した東インド法案を支持し、1788年の摂政法危機で小ピットを支持した[1]。
1798年10月22日に死去、長男エドワードと次男ウォルターが早世したため三男ウィリアムが爵位を継承した[1]。
家族
[編集]1760年8月20日、エリザベス・ルイーザ・シンジョン(Elizabeth Louisa St John、1744年ごろ – 1820年2月4日、第2代シンジョン子爵ジョン・シンジョンの娘)と結婚[1]、6男4女をもうけた[3]。
- エドワード(1763年 – 1773年6月埋葬) - 猩紅熱で死去[1]
- ルイーザ(1764年9月30日 – 1834年5月7日) - 1786年5月9日、ウォルター・スニード(1829年6月23日没)と結婚[7][8]
- ウォルター(1766年 – 1773年6月埋葬) - 猩紅熱で死去[1]
- バーバラ(1768年 – 1773年6月埋葬) - 猩紅熱で死去[1]
- ウィリアム(1773年9月11日 – 1856年2月12日) - 第2代バゴット男爵[1]
- チャールズ(1781年9月23日 – 1843年5月19日) - 庶民院議員、外交官、カナダ総督。1806年7月22日、メアリー・シャーロット・アン・ウェルズリー=ポール(Mary Charlotte Anne Wellesley-Pole、1845年2月2日没、第3代モーニントン伯爵ウィリアム・ウェルズリー=ポールと妻キャサリンの娘)と結婚、子供あり[8]
- リチャード(1782年11月22日 – 1854年5月15日) - 聖職者。1806年12月22日、ハリエット・ヴィリアーズ(Harriet Villiers、1870年10月18日没、第4代ジャージー伯爵ジョージ・ヴィリアーズの娘)と結婚、子供あり[8]
- ヘンリエッタ(1807年11月2日までに没) - 生涯未婚[8]
- フランシス(1785年11月9日 – 1806年5月30日) - 1805年5月22日、エドワード・パジェット閣下と結婚、子供あり[7][8]
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary, eds. (1910). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Ab-Adam to Basing) (英語). Vol. 1 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 374–375.
- ^ a b Cokayne, George Edward, ed. (1902). The Complete Baronetage (1625–1649) (英語). Vol. 2. Exeter: William Pollard & Co. p. 24.
- ^ a b c d e f g h Drummond, Mary M. (1964). "BAGOT, William (1728-98), of Blithfield, Staffs.". In Namier, Sir Lewis; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2022年2月24日閲覧。
- ^ a b Foster, Joseph (1888–1892). . Alumni Oxonienses: the Members of the University of Oxford, 1715–1886 (英語). Vol. 1. Oxford: Parker and Co. p. 47. ウィキソースより。
- ^ a b c Brooke, John (1964). "Staffordshire". In Namier, Sir Lewis; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2022年2月24日閲覧。
- ^ "No. 12122". The London Gazette (英語). 26 September 1780. p. 2.
- ^ a b Lodge, Edmund (1832). The Peerage of the British Empire as at Present Existing (英語). London: Saunders and Otley. p. 35.
- ^ a b c d e Burke, Sir Bernard; Burke, Ashworth P., eds. (1931). A Genealogical and Heraldic History of the Peerage and Baronetage, The Privy Council and Knightage (英語) (89th ed.). London: Burke's Peerage Limited. pp. 186–187.
外部リンク
[編集]グレートブリテン議会 | ||
---|---|---|
先代 ウィリアム・ルーソン=ゴア閣下 サー・ウォルター・ワグスタッフ・バゴット準男爵 |
庶民院議員(スタッフォードシャー選挙区選出) 1754年 – 1780年 同職:ウィリアム・ルーソン=ゴア閣下 1754年 – 1756年 ヘンリー・フレデリック・シン閣下 1757年 – 1761年 グロビーのグレイ卿 1761年 – 1768年 サー・ジョン・ロッテスリー準男爵 1768年 – 1780年 |
次代 サー・ジョン・ロッテスリー準男爵 ルイシャム子爵 |
グレートブリテンの爵位 | ||
爵位創設 | バゴット男爵 1780年 – 1798年 |
次代 ウィリアム・バゴット |
イングランドの準男爵 | ||
先代 ウォルター・ワグスタッフ・バゴット |
(ブライスフィールドの)準男爵 1768年 – 1798年 |
次代 ウィリアム・バゴット |