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カナダの歴史

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カナダ史から転送)
カナダの国旗

カナダの歴史(カナダのれきし、英語: History of Canada, フランス語: Histoire du Canada)は、北アメリカ大陸に位置するカナダの歴史について記述したものである。

カナダの起源は17世紀初めにフランス人がセントローレンス川流域に入植したのが始まりである。1763年にイギリス領となり、フランス系住民と先住民がイギリス帝国の支配に組み込まれた。1867年英連邦制内の自治領となり、1931年に事実上独立国家となった。

前史

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カナダの先住民は4万年前の氷期シベリアからベーリング海峡がまだ陸続きだった頃新大陸に渡ってきたインディアン(モンゴロイド)である。インディアンの時代はカナダ史上、「ファースト・ネイションズ」(First Nations)と呼ばれる。西暦1000年頃には北欧ヴァイキングアイスランドからニューファンドランド島に到達し、さらに南下したが、ヴァイキングの居住地は永続しなかった。

西欧史上、最初にカナダを「発見」したのはイギリスヘンリー7世が派遣したイタリア人探検家ジョン・カボットセントローレンス川を探検したフランスジャック・カルティエである(1497年)。当時、大西洋を西北に向かえばアジアに到達する通路があると信じられており、カボットはこの西北航路発見のためニューファンドランド島に到達し、この付近の海域が豊かな漁場であることを知った。この知らせを聞いて、フランスやポルトガルの漁師が大西洋を横断してニューファンドランド沖で漁をするようになったが、イギリスは新世界領有にまだ食指を動かさなかった。

ヌーベルフランス

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1526年以降、フランソワ1世が探検家カルティエをしばしばカナダに派遣し、セントローレンス川流域を探検させた。16世紀半ば、この地はフランス領となった。1608年フランスの探検家サミュエル・ド・シャンプランがセントローレンス川中流域に永続的なケベック植民地(現在のケベック・シティ)を創設した。フランスの植民目的はインディアンとの毛皮交易の拠点を作ることで、ルイ13世の宰相リシュリュー枢機卿は1627年ヌーベルフランス会社を設立し、植民地経営を会社に委ね、同時にカトリック教徒以外の者が植民地に入植することを禁止した。

1642年にはモントリオールにも植民拠点が創設されたが、植民地経営はなかなか発展せず、ルイ14世のもとで植民地再編の任に就いたジャン=バティスト・コルベールはヌーベルフランス会社を廃止して、植民地を王領とした。同年、ケベック・シティ初の市長が選出されている。1672年にはルイ・ド・フロントナク伯爵が知事として赴任し、長年フランスと対立していたイロコイ族と和約した。1674年ラバル司教がケベック植民地に赴任し、聖職者養成のためにケベック・セミナリーを創設した。このセミナリーは北米最古の大学ラヴァル大学に発展する。

1682年ド・ラ・サールがミシシッピ川流域をフランス領と宣言し、1712年ヌーベルフランスメキシコ湾に至るルイジアナ植民地にまで拡大した。しかし、この頃から世界各地で英仏の対立が激化し、英国のアメリカ植民地との間に一連の北米植民地戦争が開始される。この一連の抗争の最後となる七年戦争が勃発するとニューイングランドの英軍はケベックを襲撃し、1759年英仏両軍はアブラハム平原で激突したが、仏軍の大敗に終わり、ケベックは英軍の占領下に置かれた。1763年パリ条約でフランスはカナダの植民地を放棄し、ケベックは正式に英領となった。これ以後、イギリスはカナダ植民地と称するようになる(ただし、カナダの名称は仏領時代から存在した)

英領カナダ

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新たに英国の支配下に入ったフランス系住民は約65,000人に達し、全てカトリックであった。新教国・英国はこれら新住民をイングランド国教会(アングリカン)に改宗させることもできたが、英国議会はより穏健な政策を取り、1774年ケベック法を制定して、フランス民法典とカトリック教会の存続を容認した。これは今日までケベックにフランス色が残る決定的な役割を果たす。

翌年アメリカ独立戦争が勃発し、アメリカ大陸議会がカナダ住民に革命への参加を呼びかけてきたが、フランス系住民は応じなかった(本国フランスはアメリカ革命軍を支援していた)。この年、モンゴメリー将軍率いるアメリカ革命軍はモントリオールを占領し、ケベック市に迫ったが撃退された。

1783年戦争が終結し、アメリカ合衆国が成立すると、アメリカのロイヤリスト(王党派)は国内に残ることを嫌い、ノバスコシアやケベック東部に大挙して移住してきた。ノバスコシアに移住したアメリカ人は35,000人と見られ、新たにニューブラウンズウィック植民地が設置された。またオンタリオ湖西方のセントローレンス川上流部に移住した者は約5,000人で、カナダの人口が増えたため、英国議会はアッパー・カナダ(上カナダ・現在のオンタリオ州)とロウアー・カナダ(下カナダ・現在のケベック州)に分離する措置を取った。

1793年にはアレグサンダー・マッケンジーロッキー山脈を越えてフレーザー川流域に達する大陸横断に成功し、英領カナダの領域は西方にも拡大していった。1812年米英戦争が勃発するとカナダは再び米国軍の占領の脅威を受けたが、上カナダにおける米軍の侵攻は撃退された。

1837年に責任政府の樹立を求める暴動(いわゆるカナダ反乱)が発生した。その鎮定後に、時のカナダ総督たる初代ダラム伯爵ジョン・ラムトンの名で、ダラム報告書がまとめられた[1]。同報告書は責任政府樹立の必要性、同政府は総督ではなく植民地議会に対して責任を負う点、隣国同様の連邦制導入が示唆された[1]。その結果、1840年には合同法が制定されて分離していた上・下カナダが中央政府の管理下に置かれ、これ以後はカナダ・ウエストとカナダ・イーストと呼ばれるようになった。

自治領カナダ

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南北戦争後のアメリカが産業革命によって急速に発展を始めると、再びアメリカによるカナダ併合の危機が高まったため、英国議会はカナダを統一するため、1867年英領北アメリカ法を制定し、両カナダやノバスコシア、ニューブラウンズウィックなどを併せた自治領カナダ政府を成立させた。この立法によってカナダは英連邦の下で自治権を有する連邦となり、オタワに連邦首都が置かれた。ただ外交権はまだ付与されなかった。

ジョン・A・マクドナルドが初代連邦首相に就任し、通算19年間在任した。この時代のカナダは新興の意気に燃える発展期であった。1871年にはブリティッシュ・コロンビアも自治領政府に参加し、1885年カナダ太平洋鉄道が完成、大西洋岸と太平洋岸が結ばれた(それまでは米国の大陸横断鉄道を利用するか、海運に頼るしかなかった)。1905年までには西部地域の発展により、ノースウェスト準州からマニトバ州サスカチュワン州が成立した。

この時期のカナダを代表する職業の一つに傭兵がある。1853年からのクリミア戦争で活躍した将兵の多くはカナダの出身者であり、またイタリア統一戦争ではバチカンを防衛してサルディニア軍と戦ったのもカナダの義勇兵であり、南北戦争に参加した者も少なくはなく、メキシコ内乱では反乱軍と皇帝軍の両陣営にカナダからの傭兵がいたとさえいわれている。そして、第一次世界大戦が勃発すると、カナダは英連邦の一員として参戦し、6万人のカナダ軍兵士が戦死している。戦後、カナダは1919年パリ講和会議にも代表を送り、国際連盟にも参加した。これらの実績のうえに、1926年イギリスはカナダに外交権を付与し、英国議会は1931年、英連邦諸国は英国と対等であり、共通の国家元首(英国君主)に対する忠誠心で結びついているだけであると決議した。このウェストミンスター憲章によってカナダは実質的には独立を達成したとされる。

独立国家カナダ

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アメリカ合衆国における株価大暴落に端を発する世界恐慌は、カナダにも様々な影響を与えた。当時政権の座にあった自由党は、伝統的な自由放任主義を奉じた。1930年、これに対して積極的な雇用創出を掲げる保守党が政権を獲得し、リチャード・ベネット政権が成立していた。ベネット政権は、合衆国がスムート・ホーリー法を定めて高関税政策をとったのに対抗して、「イギリス帝国」内における経済的連携の強化を図った。こうして、イギリスや諸自治領を招き、いわゆるオタワ会議(帝国経済会議)が開催された。この会議を通じて帝国内での自由貿易圏を形成しようとしたが、当時のイギリスは域外経済との取引拡大も期待していたため、この試みは実を結ばなかった。1935年より、ベネット政権は合衆国に倣ったカナダ版「ニューディール」を行おうとした。しかし、既に同政権が国民の信頼を失っていたこと、この試みが州権主義の侵害として反発を招いたこと、自由党のマッケンジー・キングへの期待が高まっていたことなどがあり、同年の選挙で保守党が大敗して「ニューディール」は挫折に終わった。

第二次世界大戦では、カナダは英連邦の一員として直ちに参戦し、英国に3個師団を派遣してブリテン島防衛の任務に就かせると共に、カナダ国内に英連邦空軍訓練計画を設立して約12万人の空軍要員を訓練した。1941年には香港防衛のためにカナダ軍3個大隊が派遣されたが、太平洋戦争勃発により日本軍の捕虜となっている。ヨーロッパ戦線ではカナダ軍は1944年ノルマンディー上陸作戦に参加し、その後の作戦でも大きな犠牲を払った。

戦後のカナダは国際連合NATOに当初から加盟し、朝鮮戦争には2万7000の兵力を派遣した。1952年にはカナダ生まれの総督が初めて任命され、1964年には赤白のカエデの葉の国旗を制定、1965年2月15日に初めて掲揚された。

1965年のモントリオール万博の頃からケベック民族主義の傾向が顕著になり、1969年には英仏両語がカナダの対等な公用語として定められた。1970年にはケベック分離主義者のテロ活動が活発になり、ケベック州労働長官ピエール・ラポルトの誘拐殺害事件が起こった(オクトーバー・クライシス)。ケベック分離主義政党は1976年ケベック州議会選挙に勝利し、1977年にはフランス語をケベック州唯一の公用語と定めて英語の使用を制限した。ケベック分離問題については1980年1992年に住民投票が行われ、いずれも否決されている。

1982年に英国のカナダ法の改正と、それに続くカナダ憲法の成立により、カナダは真の独立国家としての地位を確立した。

カナダの先住民族であるインディアンイヌイットの権利も問題となり、カナダ政府は1999年に彼らの自治権を承認した。また1997年の香港返還に前後してバンクーバー周辺では広東語中国人移民が激増し、1999年には香港からの移民のエイドリアン・クラークソンがカナダ史上初のアジア系総督に就任し、さらにハイチからの移民のミカエル・ジャンが2005年にカナダ史上初のアフリカ系総督に就任した。

2022年、新型コロナウイルスワクチンの接種義務化に抗議するトラック運転手らのデモを取り締まるため、緊急事態法を発動したと発表した、緊急事態法の発動は1988年の制定以来初めて[2]

脚注

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  1. ^ a b ニーアル・ファーガソン (2018年6月10日). 大英帝国の歴史(上),p=194. 中央公論新社 
  2. ^ “カナダ首相、緊急事態法を初めて発動 コロナ規制への抗議デモ対処で”. (2022年2月15日). https://www.bbc.com/japanese/60384010 2022年2月27日閲覧。 

関連項目

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外部リンク

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