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東武啓志線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ケーシー線から転送)
東武鉄道 啓志線
概要
現況 廃止
起終点 起点:上板橋駅
終点: グラントハイツ駅(旧・啓志駅、ケーシー駅)
駅数 3駅
運営
開業 1943年 (1943)
全通 1946年3月25日
廃止 1959年7月22日 (1959-7-22)
所有者 東武鉄道
使用車両 運転の節を参照
路線諸元
路線総延長 6.3 km (3.9 mi)
軌間 1,067 mm (3 ft 6 in)
電化 全線非電化
テンプレートを表示
停車場・施設・接続路線(廃止当時)
KHSTa
池袋駅
LSTR
東上本線
BHF
0.0 上板橋駅
eABZgl exSTR+r
STR3 exSTR
東上本線
exBHF
2.8 練馬倉庫駅
exKBHFe
6.3 グラントハイツ駅

啓志線(けいしせん)は、グラントハイツ(現・光が丘)に建設された駐留アメリカ軍上級士官住宅居住者、関係者の人員輸送、物資輸送のため、上板橋駅 - グラントハイツ駅(旧・啓志駅)間を結ぶ東武鉄道が運営していた鉄道路線

啓志線の名称は、グラントハイツ建設工事総責任者のヒュー・ボイド・ケイシー中尉の名前からきている。しかし近年『光が丘学』等を初めとする各同人誌において、ケイシー中尉ではなく、その父親である、進駐軍の工兵部門トップであったヒュー・ジョン・ケイシー少将の名前からではないかとの説が提唱されている。なおケイシー中尉自身が第584建設工兵大隊に所属し、家族住宅担当であったというのは事実である。

旅客列車廃止後も貨物輸送は続けられていたが、1959年(昭和34年)7月22日に廃止された[1]

路線データ

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  • 管轄:東武鉄道
  • 区間(営業キロ):上板橋 - グラントハイツ(旧・啓志) 6.3km
  • 軌間:1067mm
  • 駅数:3駅(起終点駅含む)
  • 複線区間:なし(全線単線
  • 電化区間:なし(全線非電化

運転

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1943年(昭和18年)、上板橋 - 陸軍第一造兵廠構内東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫に所在。現在の陸上自衛隊練馬駐屯地)間が完成。終戦後、GHQにより啓志(成増陸軍飛行場跡。後のグラントハイツ)までの延伸と運行が命じられた。建設は国鉄新橋工事区が施工し、東武鉄道が運行を受託した。1947年(昭和22年)から1948年(昭和23年)にかけて、池袋駅から約30分間隔でグラントハイツ駅(旧・啓志駅)まで、ノンストップの駐留アメリカ軍専用列車を運転した。旅客列車の車両には、国鉄から10両のキハ41000形ガソリンカーを借り受け運転した。アメリカ軍の当初の方針は、ガソリンカーを東京駅まで直通運転させる計画であったが、諸般の事情により実現はしなかった。

貨物列車は、池袋駅 - 北池袋駅間の西山信号所(廃止)から東上本線に乗り入れ、グラントハイツまで向かった。

啓志線は、駐留アメリカ軍専用の鉄道であり、当初、東武鉄道はこの区間の鉄道免許を持っていなかった。廃止と同時に免許を申請、取得するが、実際にはその後の運行は行われなかった。

なお2017年頃より鉄道同人誌内において、当時の東武鉄道社内新聞記事を転載する形で、東上線上板橋駅から練馬倉庫までの開業年について1944年(昭和19年)4月とする説が提唱されている。

歴史

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練馬倉庫から西側、グラントハイツ周辺までの航空写真。昭和31年撮影
  • 1943年(昭和18年):上板橋 - 陸軍第一造兵廠構内間が開業(当時は啓志線の名はついていない)
  • 1946年(昭和21年)3月25日:啓志線が全線開通。陸軍第一造兵廠構内を練馬倉庫に改称
  • 1947年(昭和22年)
    • 6月:啓志をグラントハイツに改称
    • 12月6日:啓志線の旅客営業開始
  • 1948年(昭和23年)2月26日:啓志線の旅客営業廃止
  • 1957年(昭和32年)8月1日:啓志線全線閉鎖
  • 1959年(昭和34年)7月22日:啓志線廃止(練馬倉庫、グラントハイツ両駅も同日廃止)[1]
    路線廃止と同時に東武鉄道が啓志線を買収。旅客営業線として活用する計画があったが、グラントハイツ跡地の利用方法が定まらず、昭和40年代以降線路は徐々に撤去されていった。
  • 1962年(昭和37年)3月19日関東財務局の要請で上坂橋・グラントハイツ間のレール撤去作業を行っていた陸上自衛隊第101建設隊が作業を完了し撤収[2]

駅一覧

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上板橋駅 - 練馬倉庫駅(旧・陸軍第一造兵廠構内) - グラントハイツ駅(旧啓志・ケーシー駅)

グラントハイツ駅は現在の光が丘秋の陽小学校(旧田柄第三小学校)の北側に設置され[3]、連合軍輸送を指揮監督する現場機関として、RTO(Railway Transportation Office 鉄道運輸事務所)が置かれた[4]。連合軍輸送は、定時運行を最優先するものであり、列車の運行には細心の注意が払われた。

ルートの概略については航空写真、地図等で判明していたものの、駅構内の配線図や正確な平面図については発見されていなかった。しかし近年になり、鉄道同人誌内において練馬倉庫内の配線図や『グラントハイツ専用側線 1/10000』と記された当時の平面図が掲載された。列車が走っている映像を確認することは難しいが、蒸気機関車が北町(現在の錦2丁目)付近を走り、子供が耳を塞いでいる写真を練馬区が所蔵している[5]

接続路線

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脚注

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  1. ^ a b 啓志線の廃止年月には諸説あるが、「東武鉄道百年史」では路線・駅廃止日とも、1959年(昭和34年)7月22日と記載されている。
  2. ^ 自衛隊年鑑 1962, p. 670.
  3. ^ 練馬区独立三十周年記念「練馬区史(現勢編)」(昭和56年刊行)によるとグラントハイツ駅は現在の光が丘秋の陽小学校北側に設置された。
  4. ^ 東武鉄道では他に、館林駅西小泉駅朝霞駅の各駅にRTOが置かれた。
  5. ^ 三井住友トラスト不動産「写真でひもとく街のなりたち~6:光が丘の誕生、陸軍の飛行場から新しい街へ」より。

参考文献

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  • 東武鉄道年史編纂事務局(編)『東武鉄道六十五年史』東武鉄道、東京、1964年。NDLJP:2504143/497 
  • 東武鉄道社史編纂室(編)『東武鉄道百年史』東武鉄道、東京、1998年。 
  • 『光が丘学』東京。 
  • サークルTJ1914(編)『東上線三大ミスリー?研究本』東京。 
  • サークルTJ1914(編)『東上線三大ミスリー?研究本 修正改訂版』東京。 
  • 防衛産業協会 編「X 年誌記録篇」『自衛隊年鑑 1962年』防衛産業協会、1962年。NDLJP:9577410/354 

外部リンク

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