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グラントハイツ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
"ようこそグラントハイツへ"の正門案内看板
グラントハイツ周辺の航空写真(1955年10月27日アメリカ軍撮影。国土交通省国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)

グラントハイツGrant Heights)は、1947年昭和22年)から1973年(昭和48年)まで東京都練馬区に存在したアメリカ空軍の家族宿舎。

概要

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Grant Heights 全体の概要図 1974年(昭和49年)撮影の航空写真より

1942年(昭和17年)、日本陸軍は帝都防空を目的に成増飛行場をこの地に建設した。戦後になって同飛行場を接収した連合国軍(GHQ)は、この地にアメリカ陸軍家族宿舎を建設した。その物資などの輸送のために軍用輸送線が東武啓志線としてこの地に延伸し「ケーシー駅(啓志駅)」ができた。

その後、1958年(昭和32年)にはアメリカ空軍第5空軍が管理を引き継ぎ、後に、アメリカ空軍第34空軍の家族宿舎 (Grant Heights 34th Air Base Housing Area) となった。

正式名は、時期により「グラントハイツ (Grant Heights)」、「グランド・ハイツ住宅地区」、「グラント・ハイツ住宅地区 (Grant Heights Housing Area)」と推移する。名称の由来は、第18代アメリカ大統領グラント将軍にちなむ。グランドは誤り。

敷地面積約1.81 km2、建物数約730、入居家族世帯は1,284で、各種施設があり、多くの日本人も、メイド、ボーイ、運転手として働いた。

現在は、東京都練馬区光が丘の全域およびその周辺地域である。

沿革

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1940年代

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  • 1945年昭和20年)
  • 1946年(昭和21年)
    • 食糧難に苦しむ付近住民が、旧飛行場の東西滑走路の開墾を申し出て、当面の許可が出たため、麦などを植えた。(翌年、開発が始まり、収穫前に畑は道路などになる)
    • 3月25日 - 軍用線が東武啓志線として全線開通。啓志(ケーシー)駅ができる。啓志は進駐軍のケイシー中尉かその父のケイシー少将に因む。駅の場所は現在の光が丘秋の陽小学校の北側[1]
  • 1947年(昭和22年)
    • 3月3日 - 連合国軍が、成増飛行場跡地をグラントハイツと改称する。
    • 4月5日 - アメリカ陸軍航空軍の家族宿舎を建設着工。
    米軍から要請を受けた東京都が「成増建設事務所」を設け、全国の大小建設会社80社、のべ280万人の労働者、70万袋のセメントを投入した
    • 6月 - 啓志駅をグラントハイツ駅へ改称。
    • 9月18日 - アメリカ空軍省設立に伴い、アメリカ空軍第34空軍の家族宿舎となる。
  • 1948年(昭和23年) 6月 - 家族宿舎が完成する。

1950年代

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1960年代

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  • 1961年(昭和36年) 4月19日 - 日米政府間協定上の米軍施設名が「グラント・ハイツ住宅地区」に改まる[13]
  • 1962年(昭和37年)
  • 1963年(昭和38年) 3月11日 - 民有地の一部を接収解除とする[15]
  • 1964年(昭和39年)
  • 1965年(昭和40年)
  • 1966年(昭和41年)
  • 1968年(昭和43年)
    • 6月3日 - 第58回国会参議院本会議にて「練馬グランドハイツ汚水処理場(東京都練馬区)改善に関する請願」が、産業公害及び交通対策特別委員会決定の通り、異議なしで採択された。
    • 12月6日 - アメリカ軍が、代替地の提供を条件として、返還する意思を表明[10]
  • 1969年(昭和44年)
    • 8月14日 - 国有物(在日相互防衛援助事務所(旧米軍軍事援助顧問団)が使用していた睦台アパート)を、追加接収する[24]
    • 8月27日 - 防衛庁長官有田喜一)が、グラントハイツを視察し、返還につき米軍と話し合いが付いた旨を表明[10]
    • 9月1日 - 田柄町1丁目、田柄町2丁目、高松町1丁目の一部、高松町2丁目の一部、旭町の一部をもって、光が丘とする住居表示を施行[25]

1970年代

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  • 1971年(昭和46年)8月1日 - 外務省にて日米安全保障協議委員会が開かれ、1974年(昭和49年)3月を期限として全面返還を合意[10]
  • 1972年(昭和47年)
    • 敷地の半分を公園、半分を団地などの住宅地にする跡地の再開発計画の策定
    • 7月31日 - 土地建物の一部を接収解除とする[26]
  • 1973年(昭和48年)

施設

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  • 出入口
    • 正門 - 現在の赤塚新町小学校付近
    • 成増口 - 現在の光が丘公園地域安全センター付近
    • 土支田口 - 現在の光丘高校南側
    • 高松口 - 現在の光が丘わかば幼稚園付近
    • 田柄口 - 現在の光が丘秋の陽小学校南側
  • 鉄道
  • ヘリポート - 正門南に所在。現在の赤塚新町小学校付近。
  • 診療所 - 現在の光が丘駐車場付近
  • PX - 現在の光が丘図書館付近など3か所
    生活用品を販売。免税店
  • 礼拝堂 - 現在の光が丘公園憩いの森付近
  • 学校 - 現在の光が丘公園内、光丘高校口付近
  • 消防署 - 現在の光が丘公園野球場付近
  • プール - 現在の光が丘公園野球場付近
  • 映画館 - 現在の光が丘図書館付近
  • ゴルフ練習場 - 現在の光が丘公園陸上競技場付近
  • 将校クラブ - 現在の夏の雲公園北端付近
  • 下士官クラブ - 成増口南東に所在。
  • モータープール - 現在の光が丘第七小学校付近
  • バスターミナル - 現在の田柄第三小学校付近
  • 空調施設内燃工場 - 現在の光が丘第十一保育園付近
    巨大な煙突と、啓志線の貨物引込線があり、石炭搬入ホームがあった。
  • 汚水処理場 - 現在の光が丘公園牛房口付近

汚水処理場問題

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武蔵健児学園の跡地に、汚水処理場が設置された。

1947年(昭和22年)に作られた地上散布濾床方式の汚水処理場は、悪臭やハエの大量発生があった。

1966年(昭和41年)に、周辺住民から臭気とハエの発生の防止について改善の申し入れが、東京都を通じて防衛施設庁へあった。

この問題につき、1968年(昭和43年)の第58回国会(参議院)および1969年(昭和44年)の第61回国会(衆議院)で取り上げられ、1970年(昭和45年)度の防衛施設庁予算に問題解決費が算入された。

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 練馬区独立三十周年記念「練馬区史(現勢編)」(昭和56年刊行)。
  2. ^ 同日、外務省告示第34号
  3. ^ 昭和29年8月11日、外務省告示第93号
  4. ^ 昭和30年4月15日、外務省告示第46号
  5. ^ 昭和31年4月6日、外務省告示第31号
  6. ^ 昭和31年8月25日、外務省告示第96号
  7. ^ 昭和32年5月8日、外務省告示第45号
  8. ^ 昭和34年11月14日、外務省告示第31号
  9. ^ 昭和34年11月18日、外務省告示第112号
  10. ^ a b c d e 山下博史『光が丘公園』、東京都建設局公園緑地部監修・東京公園文庫52、東京都公園協会、2014年
  11. ^ 昭和35年4月26日、外務省告示第31号
  12. ^ 昭和35年8月31日、外務省告示第88号
  13. ^ 同日、調達庁告示第4号
  14. ^ a b c 昭和38年3月15日防衛施設庁告示第2号。国有、民有の土地約4,068m2、建物約69m2
  15. ^ 昭和38年7月10日、防衛施設庁告示第11号
  16. ^ 昭和39年12月4日、防衛施設庁告示第16号。国有建物約222m2
  17. ^ 昭和39年8月26日、防衛施設庁告示第12号。民有建物約87m2
  18. ^ 昭和40年3月1日、防衛施設庁告示第4号。公有、民有土地約3,401m2
  19. ^ 昭和40年10月18日、防衛施設庁告示第14号。国有建物約1,288m2
  20. ^ 昭和40年10月18日、防衛施設庁告示第14号。国有建物約4,471m2、国有工作物一式
  21. ^ 昭和41年7月5日、防衛施設庁告示第8号。民有建物約480m2
  22. ^ 昭和41年7月29日、防衛施設庁告示第9号。国有建物約17m2
  23. ^ 昭和42年2月14日、防衛施設庁告示第2号。国有建物約595m2
  24. ^ 昭和44年8月20日、防衛施設庁告示第17号。国有地約17,251m2、国有建物約6,400m2、国有工作物、国有樹木91本。昭島住宅地区内家族住宅の代替として提供。
  25. ^ 昭和44年12月16日自治省告示第197号
  26. ^ 昭和48年4月3日、防衛施設庁告示第5号。国有地約298,596m2、民有地約368m2、国有建物約38,493m2、給配水、汚水処理施設等
  27. ^ 昭和49年1月22日、防衛施設庁告示第1号。国有地約487,000m2、国有建物約58,466m2、工作物等
  28. ^ 昭和49年1月22日、防衛施設庁告示第1号。国有地約1,034,059m2、公有地約9,283m2、民有地約2,452m2、民有地(イーズメント)約368m2、国有建物約107,484m2および付帯設備等が返還された。返還に伴う代替施設として、横田飛行場周辺の土地等を米軍へ追加提供した。

関連項目

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外部リンク

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