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ジャック・ラムジー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジャック・ラムジー
Jack Ramsay
故人
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
生年月日 1925年2月21日
没年月日 (2014-04-28) 2014年4月28日(89歳没)
出身地 ペンシルベニア州フィラデルフィア
キャリア情報
出身 セント・ジョセフ大学
永久欠番 トレイルブレイザーズ  77 
指導者経歴
1955-1966
1968-1972
1972-1976
1976-1986
1986-1988
セント・ジョセフ大学
フィラデルフィア・76ers
バッファロー・ブレーブス
ポートランド・トレイルブレイザーズ
インディアナ・ペイサーズ
受賞歴

コーチ時代

エグゼクティブ時代

ジャック・ラムジー (John Travilla "Jack" Ramsay, 1925年2月21日 - 2014年4月28日[1]) は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィア出身。バスケットボールヘッドコーチとして有名な人物。1996年にNBAの偉大なコーチに選ばれ、「ドクター」の愛称でも呼ばれる。バスケットボール殿堂入りしている[2]

経歴

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コネチカット州ミルフォードで育った彼は、少年時代両親の勧めにより、様々なスポーツを行った。その後、フィラデルフィア郊外に家族で移り住み、アッパーダービー高校でバスケットボール、野球、サッカーを行い、1942年に卒業した。1979年に高校のウォール・オブ・フェイムに選ばれている。母親の強い勧めもあり、セントジョセフカレッジに進学したが、第二次世界大戦アメリカ海軍に入隊したため、3年間学業から離れた。大学ではバスケットボールと野球を行った。最終学年では、野球のスーパースター、タイ・カッブのチームメートだったペップ・ヤングの指導を受けた。1949年に学士号を取得、その後ペンシルベニア大学で、1962年に修士号、1963年に教育学の博士号を獲得した。大学を卒業後、6シーズンイースタン・ペンシルベニア・バスケットボール・リーグでプレーした。ガードでプレーした2年目のシーズン、ハリスバーグ・セネターズでチーム2番目の得点をあげた。選手としての活動と同時に、ペンシルベニア州チェスターにあるセントジェームズ高校や、デラウェア州ウィルミントンにあるマウントプレザント高校のコーチで副収入を得ていた。

1955年にセントジョセフカレッジのヘッドコーチに就任、3500ドルの年俸を得た。

1年目チームは23勝6敗で、フィラデルフィア・ビッグ5で優勝した。そしてナショナル・インビテーション・トーナメントに初出場したチームはデイトン・大学に敗れたものの3位となった。彼は1966年までセントジョセフカレッジでヘッドコーチを務め、プレーオフに10回進出、ビッグ5で7回優勝、ミドル・アトランティック・カンファレンスで5年連続1位となった。1961年にはNCAAトーナメントでファイナル4に残っている。

41歳となった1965-1966シーズン、右目の網膜浮腫のため、医師の勧めにより、コーチを辞任した。大学では通算234勝72敗の成績を残した。

大学のコーチを務めた後に[3] NBAフィラデルフィア・セブンティシクサーズゼネラルマネージャーに就任した。1年目の1966-1967シーズン、シクサーズはNBA史上最高の68勝13敗の成績でNBAチャンピオンになった。チームの平均得点は125得点で、ウィルト・チェンバレンが1試合あたり24得点、24リバウンド、8アシストをあげていたが、1967-1968シーズン終了後、チェンバレンをトレードで放出した[4]1968-1969シーズンよりヘッドコーチに就任、地元スペクトラムでのロサンゼルス・レイカーズ戦ではジェリー・ウェストエルジン・ベイラー、チェンバレンに合計で71得点をあげられたが。114-96で勝利した。この年チームは55勝27敗、NBAトップの平均119得点をあげた。シクサーズでは4シーズン指揮をとったが、その内3シーズンでプレーオフに進出した。1971-1972シーズンは30勝52敗に終わり、プレーオフを逃した。

1972年より、バッファロー・ブレーブスのヘッドコーチに就任、1年目は21勝61敗に終わった。翌シーズンは平均得点が17チーム中トップの111.6得点、平均失点はリーグワーストの111.8得点であったものの、勝ち星を倍に増やして、プレーオフに進出、カンファレンスセミファイナルでボストン・セルティックスを相手に第6戦まで粘った。ブレーブスでは4シーズンで158勝170敗の成績を残した。

1976年から1986年までポートランド・トレイルブレイザーズを指揮した。創設以来6年間勝ち越ししたことがなく、プレーオフに出場していなかった[5]ビル・ウォルトンを中心とした若いチームABA崩壊に伴い、パワーフォワードモーリス・ルーカスを獲得した。1年目の1976-1977シーズンにチームに初優勝をもたらした。NCAAトーナメントファイナル4とNBAチャンピオンに指導者としてなったのは彼が初めてであった[6]。2シーズン目も開幕から60試合で50勝10敗の成績をあげていたが、ウォルトンが足を骨折し、連覇はならなかった。1986年までラムジーはブレイザーズのヘッドコーチを務めたが、最後の9シーズン中、プレーオフに進出できたのは2回であった。1978年のNBAオールスターゲームでは、ウェスタン・カンファレンスのコーチを務めた[7]

1986-1987シーズンより、インディアナ・ペイサーズのヘッドコーチに就任した。1年目のシーズン、NBA2位の成績をあげたが、1988-1989シーズン、開幕から7連敗したところで辞任した[8]

その後、9シーズンに渡ってシクサーズ、マイアミ・ヒートのテレビ解説者を務めた[9]

1992年にバスケットボール殿堂入りを果たした[9]

2014年4月28日、癌により89歳で亡くなった[10][11]。ラムジーが長期にわたって解説者を務めたESPNは彼の死をツイッターで報じた[12]

人物

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大学時代の1948年とイースタンリーグでプレーした1954年に脳震盪を起こした。1999年の定期健康診断で、前立腺癌を早期発見、治療に成功し、その年解説の仕事を1試合も休まずに行った。2004年10月、メラノーマに罹った他、晩年は他の病気と闘った。2013年5月10日、癌が再発したことを告白、長年務めた解説者から引退した。

ラムジーの養子であるジム・オブライエンは、ボストン・セルティックス、フィラデルフィア・セブンティシクサーズ、インディアナ・ペイサーズ、デイトン大学でヘッドコーチを務めた。

ヘッドコーチ実績

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21シーズンに亘って、ヘッドコーチを務め、16シーズンでプレーオフに進出、1度の優勝を果たしている。 通算成績は、レギュラーシーズン 1674試合 864勝783敗(.525)、プレーオフ 102試合 44勝58敗(.431)

NBAヘッドコーチ実績表略号説明
レギュラーシーズン G 試合数 W 勝利数 L 敗戦数 W–L % レギュラーシーズン勝率
ポストシーズン PG 試合数 PW 勝利数 PL 敗戦数 PW–L % プレイオフ勝率
チーム シーズン G W L W–L% シーズン結果 PG PW PL PW–L% 最終結果
 PHI  1968–69 82 55 27 .671 2nd in East 5 1 4 .200 ディビジョン・セミファイナル敗退
PHI 1969–70 82 42 40 .512 4th in East 5 1 4 .200 ディビジョン・セミファイナル敗退
PHI 1970–71 82 47 35 .573 2nd in Atlantic 7 3 4 .429 カンファレンス・セミファイナル敗退
PHI 1971–72 82 30 52 .366 3rd in Atlantic Missed Playoffs
 BUF  1972–73 82 21 61 .256 3rd in Atlantic Missed Playoffs
BUF 1973–74 82 42 40 .512 3rd in Atlantic 6 2 4 .333 カンファレンス・セミファイナル敗退
BUF 1974–75 82 49 33 .598 2nd in Atlantic 7 3 4 .429 カンファレンス・セミファイナル敗退
BUF 1975–76 82 46 36 .561 2nd in Atlantic 9 4 5 .444 カンファレンス・セミファイナル敗退
 POR  1976–77 82 49 33 .598 2nd in Pacific 19 14 5 .737 優勝
POR 1977–78 82 58 24 .707 1st in Pacific 6 2 4 .333 カンファレンス・セミファイナル敗退
POR 1978–79 82 45 37 .549 4th in Pacific 3 1 2 .333 ファーストラウンド敗退
POR 1979–80 82 38 44 .463 4th in Pacific 3 1 2 .333 ファーストラウンド敗退
POR 1980–81 82 45 37 .549 3rd in Pacific 3 1 2 .333 ファーストラウンド敗退
POR 1981–82 82 42 40 .512 5th in Pacific Missed Playoffs
POR 1982–83 82 46 36 .561 4th in Pacific 7 3 4 .429 カンファレンス・セミファイナル敗退
POR 1983–84 82 48 34 .585 2nd in Pacific 5 2 3 .400 ファーストラウンド敗退
POR 1984–85 82 42 40 .512 2nd in Pacific 9 4 5 .444 カンファレンス・セミファイナル敗退
POR 1985–86 82 40 42 .482 2nd in Pacific 4 1 3 .250 ファーストラウンド敗退
 IND  1986–87 82 41 41 .500 4th in Central 4 1 3 .250 ファーストラウンド敗退
IND 1987–88 82 38 44 .463 6th in Central Missed Playoffs
IND 1988–89 7 0 7 .000 (resigned) -
Career 1647 864 783 .525 102 44 58 .431

脚注

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外部リンク

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