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ジョージ・クック (1768年没)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ジョージ・クック英語: George Cooke1705年ごろ – 1768年6月5日)は、グレートブリテン王国の政治家。庶民院議員(在任:1742年 – 1747年、1750年 – 1768年)、陸軍支払長官(在任:1766年 – 1768年)を歴任した[1]

生涯

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サー・ジョージ・クック(1676年 – 1740年11月4日)と妻アン(Anne、旧姓ジェニングス(Jennings)、1681年 – 1736年、庶民院議員エドワード・ジェニングスの末娘)の息子として、1705年ごろに生まれた[2][1]。1717年にインナー・テンプルに入学、1728年に弁護士資格免許を取得、1733年にインナー・テンプルの評議員英語版に選出された[1]。1732年に父から譲られる形で人民間訴訟裁判所英語版首席書記官(chief prothonotary)に就任して、1768年に死去するまで務めたほか[1]、1742年にインナー・テンプルの朗読者(reader)に、1743年に会計係に選出された[3]。1740年に父が死去すると、その遺産を継承した[1]

1742年1月、第2代ファルマス子爵ヒュー・ボスコーエンの支持を受けてトレゴニー選挙区英語版の補欠選挙に出馬、当選を果たした[4]1747年イギリス総選挙ではミドルセックス選挙区英語版から出馬したが、得票数3位(899票)で落選した[5]。1747年の当選者の1人である第4代準男爵サー・ヒュー・スミソンが爵位継承により1750年に庶民院を離れると、補欠選挙が行われることになり、クックトーリー党候補として再び立候補した[5]。スミソンはホイッグ党所属の銀行家フレイザー・ホニーウッドを支持したが、1747年の総選挙でホイッグ党候補を支持した第4代ベッドフォード公爵ジョン・ラッセルが選挙介入で不人気になり、スミソンも熱心に選挙活動をしたわけではなかったため、クックは1,617票対1,201票で当選した[5]。その後、1754年1761年の総選挙でホイッグ党の現職議員である初代準男爵サー・ウィリアム・ビーチャム=プロクター英語版とともに再選した[6]

2度目の議員期では1751年12月に土地税法案に反対、1752年1月にザクセン傭兵の雇用に反対した[1]。1757年までにトーリー党から大ピット派に転じ、以降1768年に死去するまで大ピット派にとどまった[3]。『英国議会史英語版』によれば、この立場の変更によりクックの発言に矛盾が生じることになり、クックは1761年2月にハノーファー選帝侯領への資金援助に反対した一方、同年11月には七年戦争のドイツ戦線への参戦継続に賛成した[3]ビュート伯爵内閣期(1762年 – 1763年)では1762年12月に七年戦争の予備講和条約に反対票を投じ、グレンヴィル内閣期(1763年 – 1765年)ではジョン・ウィルクスへの一般逮捕状(general warrant)をめぐり野党に同調して投票、第1次ロッキンガム侯爵内閣期(1765年 – 1766年)では1765年印紙法に反対した[3]。1766年7月に大ピットが首相に就任すると、クックは陸軍支払長官に任命され、以降議会で発言しなくなった[3]。在任中の1767年2月に土地税法案に反対票を投じたため、大ピットへの手紙でそのことについて詫びた[3]

1768年イギリス総選挙ではジョン・ウィルクスが立候補してきた上、痛風に悩まされたため大苦戦したが、827票(得票数2位)で辛うじてビーチャム=プロクター(802票)に競り勝った[3][6]。しかし、その後も回復することなく、選挙から2か月後の1768年6月5日に死去した[3]

家族

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1735年7月、キャサリン・ツイスデン(Catherine Twisden、1765年没、第3代準男爵サー・トマス・ツイスデン英語版の娘)と結婚[2]、7男1女をもうけた[1]

  • ジョージ・ジョン(1784年没) - 1765年、ペネロープ・ボウヤー(Penelope Bowyer、1821年没、第3代準男爵サー・ウィリアム・ボウヤーの娘)と結婚、子供あり[2]
  • トマス - 海軍軍人[2]
  • ウィリアム[2]
  • チャールズ - サー・チャールズ・モロイ(Sir Charles Molloy)の領地を継承して、姓をモロイに改めた[2]
  • ほか3男 - 子供なし[2]

出典

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  1. ^ a b c d e f g Cruickshanks, Eveline (1970). "COOKE, George (c.1705-68), of Bellamond, or Bellacketts, in Harefield, Mdx.". In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年8月21日閲覧
  2. ^ a b c d e f g Burke, Sir Bernard (1863). A Genealogical and Heraldic Dictionary of the Landed Gentry of Great Britain and Ireland (英語). Vol. 2 (4th ed.). London: Harrison. p. 1576.
  3. ^ a b c d e f g h Brooke, John (1964). "COOKE, George (c.1705-68), of Harefield, Mdx.". In Namier, Sir Lewis; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年8月21日閲覧
  4. ^ Cruickshanks, Eveline (1970). "Tregony". In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年8月21日閲覧
  5. ^ a b c Cruickshanks, Eveline (1970). "Middlesex". In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年8月21日閲覧
  6. ^ a b Cannon, J. A. (1964). "Middlesex". In Namier, Sir Lewis; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年8月21日閲覧

外部リンク

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グレートブリテン議会英語版
先代
ヘンリー・ペントン
トマス・ワッツ英語版
庶民院議員(トレゴニー選挙区英語版選出)
1742年 – 1747年
同職:ヘンリー・ペントン
次代
ウィリアム・トレヴァニオン
クラウディアス・アミアンド英語版
先代
サー・ウィリアム・ビーチャム=プロクター準男爵英語版
サー・ヒュー・スミソン準男爵
庶民院議員(ミドルセックス選挙区英語版選出)
1750年 – 1768年
同職:サー・ウィリアム・ビーチャム=プロクター準男爵英語版 1750年 – 1768年
ジョン・ウィルクス 1768年
次代
ジョン・ウィルクス
ジョン・グリン英語版
公職
先代
チャールズ・タウンゼンド閣下
陸軍支払長官
1766年 – 1768年
同職:ノース卿 1766年 – 1767年
トマス・タウンゼンド 1767年 – 1768年
次代
リチャード・リグビー英語版