ジョー・シュミット (アメリカンフットボール)
Joe Schmidt | |||||||||
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基本情報 | |||||||||
ポジション | ラインバッカー | ||||||||
生年月日 | 1932年1月19日(92歳) | ||||||||
没年月日 | 2024年9月11日(92歳没) | ||||||||
出身地 |
アメリカ合衆国 ペンシルベニア州ピッツバーグ | ||||||||
身長: | 6' 0" =約182.9cm | ||||||||
体重: | 195 lb =約88.5kg | ||||||||
経歴 | |||||||||
大学 | ピッツバーグ大学 | ||||||||
NFLドラフト | 1953年 / 7巡目全体85位 | ||||||||
初出場年 | 1953年 | ||||||||
初出場チーム | デトロイト・ライオンズ | ||||||||
所属歴 | |||||||||
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受賞歴・記録 | |||||||||
NFLチャンピオン(2回) | |||||||||
1954, 1957 | |||||||||
オールプロ選出(計10回) | |||||||||
1954, 1955, 1956, 1957, 1958, 1959, 1961, 1962
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プロボウル選出(10回) | |||||||||
1954, 1955, 1956, 1957, 1958, 1959, 1960, 1961, 1962, 1963 | |||||||||
その他受賞・記録 | |||||||||
NFL1950年代オールディケイドチーム | |||||||||
デトロイト・ライオンズ永久欠番 #56 | |||||||||
NFL 通算成績 | |||||||||
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Player stats at PFR | |||||||||
Coaching stats at PFR | |||||||||
ジョー・シュミット(Joe Schmidt、1932年1月19日 - 2024年9月11日)は、ペンシルベニア州ピッツバーグ出身のアメリカンフットボール選手、指導者。
NFLのデトロイト・ライオンズに1953年から1965年まで13シーズン所属し、プロボウルに10回選ばれた。ポジションはラインバッカー。
経歴
[編集]選手として
[編集]ピッツバーグ大学で1950年から1952年まで3年間プレーした。1952年10月11日のノートルダム大学戦では、試合前に印象的なスピーチを行い、チームは22-19で番狂わせを演じた。身長6フィート(約180cm)、体重195ポンド(約88kg)と小柄の彼はNFLドラフトではなかなか指名されず、カレッジオールスターゲームでオールスターチームと対戦したデトロイト・ライオンズに7巡で指名された[1]。
ライオンズでは1年目の1953年から活躍し、チームは2年連続でNFLチャンピオンとなった。1956年にはチームキャプテンとなり、9シーズンに渡って、ディフェンスのシグナルコールを行うようになった[1]。また1955年から1964年まで、10シーズン連続でプロボウルに選出された[1]。
1957年にはチームが4年ぶりのNFLチャンピオンになるのに貢献した。この年の彼のサラリーは、1万1000ドルであり、オフシーズンに半年の兵役を務めた後、彼はホールドアウトを行った。1958年、6インターセプト、及び当時のNFL記録となる8ファンブルリカバーをあげた[2]。
1960年9月11日の試合で肩を脱臼し、6試合の欠場が見込まれたが、怪我から1ヶ月後の10月16日に行われたフィラデルフィア・イーグルス戦で復帰、プロ入り後初のタッチダウンをあげた。
1962年のグリーンベイ・パッカーズとニューヨーク・ジャイアンツとのNFLチャンピオンシップゲームの賭博に関与し、2000ドルの罰金を科せられた。
1965年、4インターセプトをあげた後、1966年3月10日、現役引退を表明した。
1999年にスポーティングニュースが選ぶ100人の偉大なアメリカンフットボール選手の65位にランクされた。65は、ピッツバーグ大学時代の彼の背番号と同じであり、同大学の永久欠番になっている。ライオンズでの背番号56は、彼の引退後、永久欠番となったが、パット・スウィリングがライオンズに移籍した際、シュミットが特別に許可した。
コーチとして
[編集]引退後、すぐにライオンズのアシスタントコーチになった。この年、ラインバッカーマイク・ルッチ(後にプロボウラー[3])、ウォリー・ヒルゲンバーグ(後にミネソタ・バイキングスの守備の主力となった)らを指導した。
ハリー・ギルマーヘッドコーチの後任として、1967年1月、35歳の誕生日を前に、ライオンズのヘッドコーチに就任した[2]。1年目は5勝7敗2分で終えた。シーズン終了後、彼は元チームメートのジム・ニノウスキーの獲得を欲したが、フロントに拒絶され、1968年は、ロサンゼルス・ラムズから獲得したビル・マンソンが先発QBとなった。この年は前年より成績を落とし、4勝8敗2分で終えた。NFL50周年となった1969年、選手時代の活躍に対して、"Greatest Lion Ever" として表彰された。この年、チーム成績は9勝4敗1分と大幅に向上した。12月14日、11勝2敗のラムズに0-28で敗れた後、彼は飲酒運転で逮捕された。1970年、11月8日のニューオーリンズ・セインツ戦では、トム・デンプシーにNFL記録となる63ヤードのFGを成功させられ、17-19で敗れた。次の試合からシュミットはマンソンに代わり、グレッグ・ランドリーを先発QBに昇格させた。12月14日のラムズとのマンデーナイトフットボールを制して、チームは10勝4敗で13年ぶりにプレーオフに進出した。12月26日のダラス・カウボーイズとのプレーオフは、ディフェンス合戦となり、0-5で敗れた[4]。
1971年10月24日のシカゴ・ベアーズ戦でWRチャック・ヒューズが亡くなった。この年チームは7勝6敗1分と成績を落とした。1972年を8勝5敗1分で終えた後、1973年1月12日、ヘッドコーチを辞任した[2]。その年、プロフットボール殿堂に選出された[5]。
コーチとしては43勝35敗7分であり、彼の後に勝ち越ししているライオンズのヘッドコーチは、7試合で4勝したゲイリー・モーラーを除いて現れていない[4]。
2024年9月11日に死去。92歳没[6]。
脚注
[編集]- ^ a b c “Hall of Famers”. プロフットボール殿堂. 2013年5月7日閲覧。
- ^ a b c “Detroit Lions Gridiron Heroes”. デトロイト・ライオンズ. 2013年5月12日閲覧。
- ^ “Detroit Lions Pro Bowl and All Pro History Defense and Special Teams”. detroitlions34515.blogspot.jp (2012年12月16日). 2013年5月7日閲覧。
- ^ a b Paul W.Reeves (2008年11月12日). “The Detroit Lions Are Suffering the Curse of…..Joe Schmidt?”. bleacherreport.com. 2013年5月12日閲覧。
- ^ “CAREER CAPSULE”. プロフットボール殿堂. 2013年5月7日閲覧。
- ^ “Lions legend, Hall of Fame LB Joe Schmidt dies at 92” (英語). NFL.com (2024年9月12日). 2024年9月12日閲覧。
外部リンク
[編集]- 通算成績と情報 NFL.com, or Pro-Football-Reference
- Pro Football Hall of Fame Member profile
- Joe Schmidt football card gallery
AP通信 オールプロ ファーストチーム選出(8回) | ||||||
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