ジョー・シュミット (アメリカンフットボール)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョー・シュミット
Joe Schmidt
基本情報
ポジション ラインバッカー
生年月日 (1932-01-19) 1932年1月19日(92歳)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ペンシルベニア州ピッツバーグ
身長: 6' 0" =約182.9cm
体重: 195 lb =約88.5kg
経歴
大学 ピッツバーグ大学
NFLドラフト 1953年 / 7巡目全体85位
初出場年 1953年
初出場チーム デトロイト・ライオンズ
所属歴
選手歴
1953-1965 デトロイト・ライオンズ
コーチ歴
1967-1972 デトロイト・ライオンズ
受賞歴・記録
オールプロ選出(9回)
1954-1958、1960-1963
プロボウル選出プロボウル選出10回回)
1954-1963
その他受賞・記録
NFLチャンピオン2回(1954年、1957年)
NFL1950年代オールディケイドチーム
デトロイト・ライオンズ永久欠番 #56
NFL 通算成績
インターセプト 24回
インターセプトリターン 294ヤード
タッチダウン 2回
Player stats at NFL.com
Player stats at PFR

ジョー・シュミット(Joe Schmidt 1932年1月19日- )はペンシルベニア州ピッツバーグ出身のアメリカンフットボール選手、指導者。NFLデトロイト・ライオンズに1953年から1965年まで13シーズン所属し、プロボウルに10回選ばれた。ポジションはラインバッカー

経歴[編集]

選手として[編集]

ピッツバーグ大学で1950年から1952年まで3年間プレーした。1952年10月11日のノートルダム大学戦では、試合前に印象的なスピーチを行い、チームは22-19で番狂わせを演じた。身長6フィート(約180cm)、体重195ポンド(約88kg)と小柄の彼はNFLドラフトではなかなか指名されず、カレッジオールスターゲームでオールスターチームと対戦したデトロイト・ライオンズに7巡で指名された[1]

ライオンズでは1年目の1953年から活躍し、チームは2年連続でNFLチャンピオンとなった。1956年にはチームキャプテンとなり、9シーズンに渡って、ディフェンスのシグナルコールを行うようになった[1]。また1955年から1964年まで、10シーズン連続でプロボウルに選出された[1]

1957年にはチームが4年ぶりのNFLチャンピオンになるのに貢献した。この年の彼のサラリーは、1万1000ドルであり、オフシーズンに半年の兵役を務めた後、彼はホールドアウトを行った。1958年、6インターセプト、及び当時のNFL記録となる8ファンブルリカバーをあげた[2]

1960年9月11日の試合で肩を脱臼し、6試合の欠場が見込まれたが、怪我から1ヶ月後の10月16日に行われたフィラデルフィア・イーグルス戦で復帰、プロ入り後初のタッチダウンをあげた。

1962年グリーンベイ・パッカーズニューヨーク・ジャイアンツとのNFLチャンピオンシップゲーム賭博に関与し、2000ドルの罰金を科せられた。

1965年、4インターセプトをあげた後、1966年3月10日、現役引退を表明した。

1999年にスポーティングニュースが選ぶ100人の偉大なアメリカンフットボール選手の65位にランクされた。65は、ピッツバーグ大学時代の彼の背番号と同じであり、同大学の永久欠番になっている。ライオンズでの背番号56は、彼の引退後、永久欠番となったが、パット・スウィリングがライオンズに移籍した際、シュミットが特別に許可した。

コーチとして[編集]

引退後、すぐにライオンズのアシスタントコーチになった。この年、ラインバッカーマイク・ルッチ(後にプロボウラー[3])、ウォリー・ヒルゲンバーグ(後にミネソタ・バイキングスの守備の主力となった)らを指導した。

ハリー・ギルマーヘッドコーチの後任として、1967年1月、35歳の誕生日を前に、ライオンズのヘッドコーチに就任した[2]。1年目は5勝7敗2分で終えた。シーズン終了後、彼は元チームメートのジム・ニノウスキーの獲得を欲したが、フロントに拒絶され、1968年は、ロサンゼルス・ラムズから獲得したビル・マンソンが先発QBとなった。この年は前年より成績を落とし、4勝8敗2分で終えた。NFL50周年となった1969年、選手時代の活躍に対して、"Greatest Lion Ever" として表彰された。この年、チーム成績は9勝4敗1分と大幅に向上した。12月14日、11勝2敗のラムズに0-28で敗れた後、彼は飲酒運転で逮捕された。1970年、11月8日のニューオーリンズ・セインツ戦では、トム・デンプシーにNFL記録となる63ヤードのFGを成功させられ、17-19で敗れた。次の試合からシュミットはマンソンに代わり、グレッグ・ランドリーを先発QBに昇格させた。12月14日のラムズとのマンデーナイトフットボールを制して、チームは10勝4敗で13年ぶりにプレーオフに進出した。12月26日のダラス・カウボーイズとのプレーオフは、ディフェンス合戦となり、0-5で敗れた[4]

1971年10月24日のシカゴ・ベアーズ戦でWRチャック・ヒューズが亡くなった。この年チームは7勝6敗1分と成績を落とした。1972年を8勝5敗1分で終えた後、1973年1月12日、ヘッドコーチを辞任した[2]。その年、プロフットボール殿堂に選出された[5]

コーチとしては43勝35敗7分であり、彼の後に勝ち越ししているライオンズのヘッドコーチは、7試合で4勝したゲイリー・モーラーを除いて現れていない[4]

脚注[編集]

  1. ^ a b c Hall of Famers”. プロフットボール殿堂. 2013年5月7日閲覧。
  2. ^ a b c Detroit Lions Gridiron Heroes”. デトロイト・ライオンズ. 2013年5月12日閲覧。
  3. ^ Detroit Lions Pro Bowl and All Pro History Defense and Special Teams”. detroitlions34515.blogspot.jp (2012年12月16日). 2013年5月7日閲覧。
  4. ^ a b Paul W.Reeves (2008年11月12日). “The Detroit Lions Are Suffering the Curse of…..Joe Schmidt?”. bleacherreport.com. 2013年5月12日閲覧。
  5. ^ CAREER CAPSULE”. プロフットボール殿堂. 2013年5月7日閲覧。

外部リンク[編集]