トッパー・ヒードン
ニッキー・“トッパー”・ヒードン | |
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2008年のヒードン | |
基本情報 | |
出生名 |
ニコラス・ボーウェン・ヒードン Nicholas Bowen Headon |
別名 | トッパー |
生誕 |
1955年5月30日(69歳)1955年5月30日 イングランド・ケント州ブロムリー |
出身地 | イングランド・ロンドン |
ジャンル | ジャズ、ソウル、R&B、ロック、パンク・ロック、レゲエ、ロックンロール 他 |
職業 |
ドラマー、パッカッショニスト 作詞作曲家 |
担当楽器 | ドラムス、パーカッション |
活動期間 | 1975 – 現在 |
レーベル |
CBSレコード (1977–1982), マーキュリー・レコード |
共同作業者 | ザ・クラッシュ |
トッパー・ヒードン (Nicholas Bowen "Topper" Headon、1955年5月30日 - ) はイギリスのロック・ドラマー。パンク・ロックバンド ザ・クラッシュのメンバーとして知られる。
「トッパー」というあだ名はポール・シムノンの命名で、ヒードンに似た漫画のキャラクターに由来する。
ヒードンは1970年代後半から1980年代前半にかけての最高のパンク・ロック・ドラマーとされている。評論家グレッグ・プラト (Greg Prato) は「プロデューサーのサンディ・パールマンは、ヒードンの正確なタイミングやテクニックから彼を“人間ドラムマシーン”と評した」と書き記している[1]。
キャリア初期
[編集]十代の頃からジャズドラマーとして地元のパブで活動し、後にクラッシュのオーディションを受けた際にも影響を受けたミュージシャンとしてビリー・コブハム、バディ・リッチなどジャズドラマーの名を挙げている。高校卒業後はアルバイトをしながらバンド活動をする生活が数年続いた[2]。アメリカのR&Bグループテンプテーションズの前座をつとめたバンドにいたことがある[1]が、ヒードンはこれを「テンプテーションズにいた」と偽っていた[3]。
クラッシュ
[編集]ロンドンSSがドラマーを募集していた際にミック・ジョーンズと知り合い、これがきっかけで後にジョーンズが結成したクラッシュに加入した[2]。ヒードンに出会うまでに、クラッシュはアルバム『白い暴動』レコーディング時のドラマー、テリー・チャイムズ他何人ものドラマーを迎えた。職人肌のドラマーだったヒードンは、評価を得るまでの一時的のつもりでクラッシュに参加した[1]。しかしヒードンはクラッシュのポテンシャルを引き出し、当初の計画を放棄した。彼は1978年のアルバム『動乱(獣を野に放て)』、1979年のUS版『白い暴動』中の数曲、同年の『ロンドン・コーリング』、1980年の『サンディニスタ!』と1982年の『コンバット・ロック』で演奏した。また、彼は『サンディニスタ!』の「イワンがG.I.ジョーに会う時」と『コンバット・ロック』の「ロック・ザ・カスバ」でリード・ボーカルを担当している。この両曲でヒードンはほとんどの作曲と、ドラム、ピアノ、ベースの演奏をこなしている。
クラッシュのボーカル、ジョー・ストラマーは、ヒードンのドラムはバンドの生命線だったと語っている。ヒードンは力強さ、スタミナを兼ね備え、伝統的ロックドラミングに加えファンクやレゲエ等においても有無を言わせぬプレイを見せた[3]。
解雇とドラッグ中毒の日々
[編集]ヒードンのヘロイン中毒は彼とバンドの間の緊張を高めた[1]。1981年末にはヘロイン所持容疑で逮捕され、東京·大阪公演を翌月に控えてバンドのメンバー全員が日本への入国許可を取り消されそうになる、という事態を招いた[4]。コカインも常用しており、ライブの最中にもステージの照明が落とされた時を見計らって使用していた[5]。 これらは彼のドラミングに大きな影響を及ぼし、バンドは彼に「薬をやめるかバンドをやめるか」の最後通牒を突きつけた。ヒードンはドラッグをやめることが出来ず、コンバットロックツアーの始まった1982年5月10日にバンドを去った。バンドはヒードン脱退の本当の理由を隠し、疲労によるものと発表した。
ヒードン脱退後、クラッシュはツアーのため、オリジナルドラマーのテリー・チャイムズを再び雇った。
その後ヒードンはジョーンズのクラッシュ後のバンドビッグ・オーディオ・ダイナマイトのドラマーとして考えられたが、ヒードンがまだドラッグをやめていなかったため、実現しなかった。
ヒードンはその後、結果的にはほとんど注目されなかったソロアルバム『ウェーキング・アップ (Waking Up)』(1986年)と、「ドラミング・マン (Drumming Man)」、「DuKane Road」、自作の「ホープ・フォア・ドナ (Hope for Donna)」(この曲はマーキュリー・レコードのサンプラーアルバム『ビート・ランズ・ワイルド』(1986年)にも収録されている)を収録した12インチシングルのレコーディングに集中[6]。このアルバムの後、ヒードンからヘロインの譲渡を受けた男性が中毒死する事件があり、1年3ヶ月の禁固刑に服した[4]。
ヒードンは北ロンドンのプライオリー・サイキアトリック・ホスピタルで中毒と向き合いながら時間を過ごした。この病院はドラッグの中毒治療プログラムを持つ組織として世界的に知られる。また、ヘロイン用の注射針からC型肝炎に感染していたが、治療の結果ウイルスが排除され治癒した[5]。
ドラッグ中毒後の活動
[編集]ヒードンはロキュメンタリー『ウェストウェイ・トゥ・ザ・ワールド』でインタビューを受けている。この映画で彼は率直に自身のドラッグ常用について詫び、自身が解雇されていなかったらバンドはもっと長く継続し、まだ一緒にいられたであろうと述べた。一方で「やり直すチャンスがあるなら、自分は後悔無しにまた同じことをやるだろう。俺はそういう奴だから」とも語っている[3]。
クラッシュ解散後、彼の名前を聞くことは稀有になった。解散後に手掛けた仕事のひとつでニューヨークのバンド、ブッシュ・テトラス (Bush Tetras) のプロデュースを担当した。
大衆の目前から去ったものの、ギグは続けていた。ジョー・ストラマーの死を知ったのは、パブでのステージの終演後である。そこでヒードンは以下のように述べている。
ジョーの死は俺にクラッシュの偉大さを実感させてくれた。俺たちは政治的なバンドで、その詞はジョーが書いたんだ。奴はあんたらが会った中でも本物の男の一人だ。奴が「俺はお前の味方だよ」と言うなら、それは100%の意味なんだってことがわかるさ。 — トッパー・ヒードン – 2002 [7]
ヒードンはクラッシュの旧メンバーが『ウェストウェイ・トゥ・ザ・ワールド』での再集結の後、ストラマーの死後に再結成を計画したことを嘆くコメントを残している[3]。
ヒードンはストラマーのドキュメンタリー映画『ロンドン・コーリング/ザ・ライフ・オブ・ジョー・ストラマー』についてのインタビューを受け、ヘロイン中毒になった過程や自身がバンド解雇に至るまで、ストラマーがヒードンのガールフレンドと寝た為に精神的苦痛を受けたこと、ジョーンズが大麻無しのバスツアーを敬遠したことといった経緯があったと述べている。またヒードンはロック・ザ・カスバのビデオを見て「誰か(テリー・チャイムズのこと)が俺の場所で俺の曲をやっている」と語った。このことが彼をひどく落胆させ、さらにドラッグへ溺れさせるきっかけとなった。ヒードンのドラッグ中毒が、1年後のジョーンズの解雇、そして1986年のバンド解散の引き金となったとも云われている。
ドラミングスタイル
[編集]ドラマーとしては、ヒードンはしばしばシンプルなバスドラムとスネアのアップダウンビートを強調し、クローズ・ハイハットの装飾でアクセントをつけるという独特のスタイルを使った。このようなやり方は、「クランプダウン」、「トレイン・イン・ヴェイン」、「ロスト・イン・ザ・スーパーマーケット」で見られる。「トレイン・イン・ヴェイン」でのドラミングは、ロックの中で最も重要で独特なビートとして特色付けられる[8]。
ディスコグラフィ
[編集]- クラッシュでの曲についてはクラッシュのディスコグラフィ参照
ヒードンは1枚のスタジオアルバムと、1枚のEP、3枚のシングルをソロアーティストとして発表。また、忌野清志郎『RAZOR SHARP』 等、他のアーティストのアルバムにも参加している。 [9]。
スタジオアルバム
[編集]年 | タイトル | レーベル | 備考 |
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1986年 | ウェーキング・アップ (Waking Up) | マーキュリー 826 779-1 | |
1986年 | ビート・ランズ・ワイルド (Beat Runs Wild) | マーキュリー | マーキュリー・レコードのサンプラー。ヒードンの曲はB面5曲目の「ホープ・フォア・ドナ」 |
EP
[編集]年 | タイトル | レーベル | 備考 |
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1985年 | リーヴ・イット・トゥ・ラック (Leave It To Luck) / イースト・ヴァーサス・ウェスト (East Versus West) / ゴット・トゥ・ゲット・アウト・オブ・ディス・ヒート S.O.S / カサブランカ |
シングル
[編集]年 | タイトル | アルバム | レーベル | 備考 |
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1985年 | ドラミング・マン (Drumming Man) / ホープ・フォア・ドナ (Hope For Donna) |
ウェーキング・アップ | 7" | |
1985年 | ドラミング・マン / Ducaine Road (Special 12" Mix) / ホープ・フォア・ドナ / ドラミング・マン (7") |
ウェーキング・アップ | 12" | |
1985年 | リーヴ・イット・トゥ・ラック / カサブランカ (Casablanca) |
ウェーキング・アップ | ||
1985年 | リーヴ・イット・トゥ・ラック(ダブルパック) | ウェーキング・アップ | マーキュリー MERD 201 | |
1986年 | アイル・ギヴ・ユー・エヴリシング (I'll Give You Everything) / ユーアー・ソー・チーキー (You're So Cheeky) |
ウェーキング・アップ | ||
1986年 | アイル・ギヴ・ユー・エヴリシング(フル・ヴァージョン) / フェン・ユーアー・ダウン (When You're Down) / ゴット・トゥ・ゲット・アウト・オブ・ディス・ヒート(拡大ミックスヴァージョン)(CAN) |
ウェーキング・アップ | ||
1986年 | アイル・ギヴ・ユー・エヴリシング(7" ヴァージョン) / アイル・ギヴ・ユー・エヴリシング(ダブ) / アイル・ギヴ・ユー・エヴリシング (Douce Ruj) / ユーアー・ソー・チーキー[10] |
ウェーキング・アップ | 12" |
出典
[編集]- ^ a b c d グレッグ・プラト. “allmusic ((( Topper Headon > Biography )))”. allmusic. 2012年7月25日閲覧。 “a) Sandy Pearlman dubbed Headon "The Human Drum Machine," due to his impeccable timing and skills.
b) Headon grew up a soul and jazz fan (an early influence was ace fusion drummer Billy Cobham), and he was once a member of a local group that opened a show for the Temptations.
c) Headon's original plan was to stay with the Clash for only a year — which he figured would give enough time to get his name known so he could move on to another more "suitable" group. But Headon quickly realized that the group was not just a one-dimensional punk band, as they branched out and touched upon a wide variety of styles — all the while never losing sight of their original punk ideals.
d) a heroin addiction had drawn a wedge between Headon and the rest of his bandmates.
e) After a planned reunion with Jones (who was expelled from the Clash himself a year after Headon's dismissal) in the group Big Audio Dynamite failed to work out, Headon focused on recording a solo album.” - ^ a b Mick Jones, Paul Simonon, Topper Headon, the estate of Joe Strummer (2008). The Clash. London: Atlantic Books. ISBN 978 1 84354 788 4
- ^ a b c d ドン・レッツ; リック・エルグッド、ジョー・ストラマー、ミック・ジョーンズ、ポール・シムノン、トッパー・ヒードン、テリー・チャイムズ、ザ・クラッシュ『ウエストウェイ・トゥ・ザ・ワールド』(ドキュメンタリー)ソニー・ミュージックエンタテインメント; ドリスモ; アップタウン・フィルムズ、ニューヨーク。ISBN 0738900826。
- ^ a b Salewicz, Chris (2008). Redemption Song: The Ballad of Joe Strummer. New York: Faber and Faber, Inc.. p. 309. ISBN 978-0-86547-982-1
- ^ a b 'I forgive you': The Clash's drummer Topper Headon makes peace with the man who sacked him
- ^ ブランドン・クック;ピート・シェリー、トム・ヴァーレイン、トッパー・ヒードン、ヒップスウェイ、キュリオシティ・キルド・ザ・キャット、ウェット・ウェット・ウェット、ラヴ・アンド・マネー、スウィング・アウト・シスター、ゼラ・ワン『ビート・ランズ・ワイルド』(LP)マーキュリー、ロンドン。
- ^ “Celebrity Tributes to Joe Strummer”. strummernews.com. 2007年12月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年12月12日閲覧。 “It's taken Joe's death to make me realise just how big The Clash were. We were a political band and Joe was the one who wrote the lyrics. Joe was one of the truest guys you could ever meet. If he said 'I am behind you', then you knew he meant it 100 per cent.”
- ^ スコット・キーンモア (2007年3月21日). “All Talk and No Stick”. ポップマターズ. 2007年12月12日閲覧。 “a) Rock fans everywhere recognize his opening beat to the Mick Jones song “Train in Vain.” A typical example of Topper’s excellent work, the beat is both catchy and deceptively complicated.
b) Despite his personal failings, his contribution to the music was tremendous, and his drumming remains an undiscovered treasure for too many.” - ^ “Albums by Topper Headon - Rate Your Music”. rateyourmusic.com. 2007年12月12日閲覧。
- ^ トッパー・ヒードン『アイル・ギヴ・ユー・エヴリシング』(LP)マーキュリー、イングランド。