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ノート:ココ・シャネル

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ラガーフェルドが引き継いだもの

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デザインに対する姿勢の節で「これらの姿勢は、ココの後を引き継いだドイツ人ファッション・デザイナーのカール・ラガーフェルドにも引き継がれている。」とありますが、その直前にフェミニスト達による虚像云々の記述があるため、意味がよくわからなくなっています。(元々、虚像云々の文はなかった。[1]

ラガーフェルドは(シャネルに仮託して?)『男に支配される女を徹底的に排除し、女のからだと心を解放しよう』と主張しているのでしょうか?  --忠太 2009年9月23日 (水) 11:59 (UTC)[返信]

 上の指摘箇所ですが、改善される気配がなく、出典も見つからないためいったん削除しました。またこの記事はLGBTカテゴリに入っていましたが、英語版にはシャネルがバイセクシュアルであるという記述はなく、フランス語版にもぱっと見たところそれらしい箇所が見つからなかったためカテゴリを外しました。ローランサンがシャネルに求愛した際、ヘテロセクシュアルであったシャネルが断ったという話をきいたことがあるのですが、何かシャネルの性的指向に関して伝記などに信頼できる記述はありませんでしょうか? --さえぼー 2011年1月8日 (土) 18:29 (UTC)[返信]

愛人関係について

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このページでは『誰も知らなかったココ・シャネル』のみ、あるいは俗説に頼った記述しかないので出典を求めます。『シャネルの真実』においては愛人である外交官ハンス・フォン・ディンクラージを通じてヴァルター・シェレンベルクと知り合い「ボンネット作戦」を計画したとあります。『シャネルの戦略: 究極のラグジュアリーブランドに見る技術経営』では「ココは美貌のドイツ軍将校ハンス・フォン・ディンクラージ(Hans von Dincklage, ドイツ語読みではディンクラーゲ)男爵の愛人となる」との記述があります。 シェレンベルクが愛人であったということについては息子の証言が確たる証拠として扱われているようですが。そのあたりのことを詳しく述べないままだとゴシップ記事のようで百科事典には不適切です。--Wikikana会話2013年8月22日 (木) 21:18 (UTC)[返信]

重要な情事:ルヴェルディとイリーブについて

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ピエール・ルヴェルディを加筆した関係から、ココ・シャネル#重要な情事:ルヴェルディとイリーブのみ英語版に照らして、またはさらに調べて修正しました。英語版ではこの短い記述にすら誤記があり(たとえば『Le Témoin』は「月刊ニュースレター」ではありません)、疑問も残ります。まず、”financing Pierre Lestringuez's radical left-wing magazine Futur” ですが、fr:Pierre Lestringuez(この名前は日本語版では削除されていますが)がFuturという雑誌を主宰していたことは、多少調べた限りではChaney以外に文献が見当たりませんし、彼が極左とは思えず、むしろ、極右雑誌『Le Témoin』を主宰したポール・イリーブの別の大衆紙(1934年)にシャネルとともに寄稿しています。また、ルヴェルディとの関係についても、1926年に終わったというのは、彼がカトリックに帰依して、北西部ソレムに隠棲した年ですので問題ありませんが、約40年間、交友関係が続いたという記述には疑問が残ります。「約40年間」というのは、ルヴェルディが1960年に70歳で没するまでということになりますが、彼は文字通り「隠棲」し、妻とともに孤独な生活を送っていました。著書の発表にすら7年ものブランクがあります。したがって、シャネルと交友関係があったとしたら、どのような関係であったのか、調べる必要があります。これらとは別に訳語も修正しましたが、もちろん、内容の変更に伴って再修正が必要になるでしょう。--Hparis11ed会話2020年1月5日 (日) 15:20 (UTC)[返信]

  • 返信 検証と修正ありがとうございます。Pierre Lestringuezの名前が抜けているのは単なる翻訳漏れで意図したものではないですが、上記の件からはとりあえず無いままの方がよさそうでしょうか。恐らく問題点は他にもあると思うので、日本語で出版されている伝記と対照しようと思っていますが、関連分野の知識が乏しく私の方ではルヴェルディとの関係については短期間のうちには調べられないだろうと思います。一応en:Coco Chanelen:Pierre Reverdyにある対応する記述はいずれもVaughan, Hal (2011). Sleeping with the Enemy: Coco Chanel's Secret Warを出典としているようなので日本語訳版の記述を確認してみようと思います(経歴を見るとルヴェルディとシャネルの関係についてHal Vaughanが詳しいのかちょっと疑問符もつきますが)--TEN会話2020年1月6日 (月) 12:55 (UTC)[返信]
ご説明ありがとうございます。ルヴェルディの記事ではシャネルとの関係についてごく簡単に触れた程度ですが、文献は主にDominique Laty, Misia Sert & Coco Chanel (Odile Jacob, 2009) を参考にしました。決別に関する部分(149頁)では、二人の性格の違い、ルヴェルディがシャネルの住む世界(ファッション界、社交界、貴族社会)を毛嫌いしていたことなどが挙げられており、きっぱり決別したという表現になっています。したがって、(田舎での隠棲生活ゆえ、実際に会うことはほとんど不可能であったと思われますので)もし何らかの関係が続いたとしても、手紙のやり取り程度かと思われますが、これほど性格の異なる二人に(しかも、ルヴェルディの文学仲間は対独レジスタンス参加者、シャネルは対独協力者)どのような「交友」が可能だったのか疑問に思います。Vaughan, Hal (2011)は読んでいませんが、en:Pierre ReverdyがVaughan, Hal (2011)の記述に基づいているとのこと、実際、専ら本書に基づく記事であることを知って驚きました。しかも、これを出典に彼が対独レジスタンスに参加したと書いてあります。私の理解では、隠棲していた彼はレジスタンスには参加していないはずで、今、あらためて調べてみても、レジスタンスに参加したという記述は見当たりません。実際、記事に引用した「「バリケードを張ること」は必要であっても、「バリケードを張りながら、同時にまたバリケードを歌うこと」、すなわち抵抗の詩を書くことはできない」という趣旨の彼の発言はしばしば引用されています。また、この関連でVaughan, Hal (2011)について紹介する「ニューヨーク・タイムズ」の記事には、(en:Pierre Reverdyの内容と多少重複する)She tipped off the poet and anti-Nazi partisan Pierre Reverdy, a longtime occasional lover, so that he could arrange the arrest of her wartime partner in collaboration, Baron Louis de Vaufreland Piscatoryという記述があります。上記と併せて、a longtime occasional loverという記述にも、また、ルヴェルディがBLVP逮捕のために何かできる立場にあったのかどうかについても、かなり疑わしいと感じます。
Lestringuezと雑誌Futurについては、さらにネット検索しましたが、やはり不明です。Futurという雑誌そのものが存在したのかどうか、誌名が短いせいもあって見つかりません。私がChaney以外に文献が見当たらないと書いたのは、このようなサイトが存在するからですが(このようなサイトが存在して良いものかどうかすら疑問ですが)、ここではradical left-wing magazine Futurの代わりにpowerfully left-wing magazine, Futurとなっており、powerfullyと言えるほどの雑誌であれば、戦前の左派知識人の反ファシズム運動が盛んだった時期の左派雑誌として記録が残っていないのは不思議です。もちろん、ネット検索では不十分ですが、存在したとしてもあまり知られていない雑誌であり、もし、記事のこの部分の意図が、左派嫌いのシャネルが左派にも協力したことを示すことであれば、ジャン・ルノワールへの協力で十分な気がします。--Hparis11ed会話2020年1月6日 (月) 16:47 (UTC)[返信]
追記)ルヴェルディが対独協力者シャネルと40年にわたって(生涯にわたって)交友関係があったと記述することで、彼がコラボラシオンに関わっていたと誤解されてはいけないと思い、くどくど書きましたが、シャネルの記事に関する限り、細部にすぎないことかもしれませんので、2、3確認し、これで終わりにしたいと思います。VaughanとCharles-Rouxをざっと見てみましたが、ルヴェルディがレジスタントだったというVaughanの主張は、他の文献からは裏付けが取れません。VaughanもCharles-Rouxも、戦後も手紙を送っていた等の言及がありますが、会うことはほとんどなかったようです。ルヴェルディが対独協力者シャネルに手紙を書き続けていたことは、対独協力者に対する当時の厳しい制裁(そして彼自身の強い信念)を考えれば「驚くべきこと」(Charles-Roux)ですが、彼の手紙を見ても、通常知り合いに対して使うtutoyerではなくvouvoyerを使っているため、その意図は推測しがたく、また、Vaughanが強調しているルヴェルディの信仰(信仰心からシャネルの「行為」を赦したというような記述)についても、晩年の詩には信仰への不信感が伺われるなど、あまりに複雑です。したがって、「交友関係」について誤解を招かないように説明するためには、当時の状況やこうした事実について(ある程度解釈を加えながら)書く必要があり、これでは、かなりの脱線になってしまいますので、むしろ、「その後も二人は友人関係を続け、約40年間続いた」を削除するだけにした方が良いのではないでしょうか。「同紙終刊の1年後の1936年には、シャネルは急進左翼誌の『Futur』への資金提供を行い、極右から極左に急旋回した」の部分も、極右加担のカムフラージュのように読めないこともありませんので、いずれにせよ、他に裏付けがなければ削除した方が良い気がします。--Hparis11ed会話2020年1月7日 (火) 13:48 (UTC)[返信]
  • 返信 様々な検証ありがとうございます。一応Vaughanについて赤根洋子訳の和訳版『誰も知らなかったココ・シャネル』で記述を確認して見ました。既に原典に当たられたようですが、一応確認した限り本記事本文に該当する記述があります。大雑把に以下のような記述です:「やがて彼ら(引用注:シャネルとルヴェルディ)の関係は深い友情へと成熟し、それは四十年以上変わらずに続くこととなった。(pp. 48-49)」「彼には彼女の子のよの日常生活を受け入れることができなかった。一九二六年五月三十日、彼は友人たちの面前で自分の原稿を焼き捨て(中略)隠遁生活に入った(p. 49)」「とはいえ、彼女はルヴェルディと完全に別れたわけでもなかった。ルヴェルディはときどきパリに出てきたから、そんなときには会うこともできたのである。(p. 50)」「彼女はこっそり彼の原稿を買い上げたり、作品の版元を通じて金を融通したり、彼の仕事のスポンサーになったりして、気前よく、しかも如才なく彼を援助した。(p. 50)」。この点から見る限り、少なくとも英語版の記述はそれが正しいか、適切であるかどうかは別として、出典には忠実な記述となっていると思います。また、VaughanはCharles-Rouxが1926年にシャネルがルヴェルディと別れたという記述をしていることに触れつつ、「とはいえ」と上記の記述を続けています。
Vaughanの記述は簡潔ではありますがそれなりに具体的で信頼性に乏しい類の書籍ではないように見えます。同書の文脈的にはストラヴィンスキー、パヴロヴィチ、ピカソ、コクトー、さらにはヴェルテメールなど、1920年代のシャネル(とその後の経歴)にとって重要な人間関係を男女関係含めて述べる欄でルヴェルディにも触れられています。ですので、確かに1926年の「別れ」以降のルヴェルディに関する記述は蛇足と言える部分ではあると思います。「その後も二人は友人関係を続け、約40年間続いた」という記述については、本文に無い方が良いとすれば削除でも良い程度の内容ではあると思いますが、それなりに信頼性のあると思われる出典にはっきり書かれている点から、私としてはこの場合削除ではなく注釈に記述を移動させ、「ハル・ヴォーンはこのように言っている」という形にするのが妥当なところではないかと思いますがいかがでしょうか。ルヴェルディがレジスタントに参加という英語版の記載については該当する箇所をまだ発見できていないのでノーコメントです。--TEN会話2020年1月8日 (水) 13:54 (UTC)[返信]
  • コメント ご確認、ありがとうございます。もちろん、最終的には執筆者であるTENさんのご判断にお任せしますが、引用されたVaughanの記述について、こちらで入手している情報と付き合わせますと、上述のLaty (2009) によると、ルヴェルディを経済的に支援したのは、シャネルの親友ミシア・セールということになっています。たとえば、ルヴェルディが創刊した『南北』誌のスポンサーであり(148頁)、その後も、ルヴェルディの作品を高く評価し、支援を惜しまなかった(148頁)、ルヴェルディがカトリックに帰依してソレムに暮らすことが多くなった後も毎月、仕送りをしていた(149頁)(その後、原稿焼却、ソレム隠棲)。実際、ミシア・セールの記事にも(残念ながら出典がありませんが)「ミシアは困窮した友人に対して気前がよく助けを惜しまなかった。詩人ピエール・ルヴェルディがソレムのベネディクト会修道院に閉じこもるための資金を必要としたとき、ミシアは財政的支援を行った」という記述があります。したがって、ルヴェルディのスポンサーについてもシャネルであったと断定するのは難しい気がします。一般的にはミシア・セールとされているようです。ですから、「ハル・ヴォーンはこのように言っている」とされるのであれば、矛盾する意見も紹介する必要があるということになりそうです。--Hparis11ed会話2020年1月8日 (水) 15:21 (UTC)[返信]
追記)Vaughanを確認していましたが、これだけ詳しい脚注を付しながら、ルヴェルディとシャネルの「交友」関係が40年続いたこと、隠棲後も「ときどきパリに出てきたから、そんなときには会うこともできた」こと(会える時間はあったと書いてあるだけで「会った」とは書いてありません)、レジスタンスに参加したこと、その関係でシャネルが彼に連絡を取ったことについては、一切脚注(出典)がありません。なお、英語版のVaughanの引用範囲に間違いがあると思われますので、関連箇所を修正しました。--Hparis11ed会話2020年1月8日 (水) 22:43 (UTC)[返信]
追記)Vaughanについては厄介ですね。英語版の翻訳であるため、Vaughanの主張ばかりが強調され、中立的と言えるのかどうか、疑問です。たとえば、先刻修正した部分に「セルジュ・クラルスフェルト」の意見がありますが、この記事を執筆した者として、彼がいかに誠実な歴史学者か(特にナチ・ハンターとして、また、ホロコーストの記憶の継承にどれほど大きな貢献をしたか)ある程度理解しているつもりであり、彼の判断は重要だと思います。他言語版を見ても(英語版からの翻訳であるスペイン語版を除いて)Vaughanの主張をこれほど強調している記事はありません。ましてや、冒頭から「ナチスの諜報員」と明言して良いのかどうか・・・。厄介です。--Hparis11ed会話2020年1月9日 (木) 00:06 (UTC)[返信]
  • コメント 「ナチスの諜報員」という記述については私も違和感があります。そもそも最初にこの記事を翻訳しようとしたのは去年で、途中で一時放置していたのですが、その段階では英語版冒頭にこの記述はなかったと記憶しており、英語版でも最近になって追加された記述です。Vaughanを信頼するとしても、ファッションデザイナーとしてのシャネルは紛れもなく巨人であるのに対し、シャネルの「諜報」活動については見るべき成果も影響もなく、単なるスキャンダルの域を超えるものではないでしょうし、一応そのまま翻訳しましたがこれは削除が穏当であると考えます(ファッション史においてシャネルを外すことは多分出来ない程度には重要ですが、ドイツ軍の諜報活動や第二次世界大戦の推移を語る上でシャネルの行動の話は枝葉末節に類すると考えて良いように見えます)。
一応ルヴェルディがレジスタンスに参加したというVoughanの記述については和訳版でも対応する記述:「(のちのドイツによる占領時代、ルヴェルディはパルチザンとしてドイツ軍と戦った。パリ解放直後、彼はシャネルのスパイ仲間ルイ・ド・ヴォーフルランを逮捕し、ナチス協力者として拘置所に送った。(p. 93)」を見つけました。恐らくはこの部分が引かれているのだと思います。もっとも、軽く検索してみた限りネット上で確認できるヴォーフルランとルヴェルディの関係も概ねVaughanを出典にしているようであり、クロスチェックはちょっと難しい感じです。ルヴェルディについて私は全く詳しくないので、Hparis11edさんから見て記述が疑わしいということではあれば、1926年以降のルヴェルディに関わる記述は少なくとも本文からはご指摘の通り全面的に削除で良さそうと思います。もう1冊くらいは伝記を確認しようと思いますが、少なくともVaughanの記述を追う限り、同書にある「別れ」以降のルヴェルディとの関係は、当時のシャネルを語る上で既に重要な話でもないようです。--TEN会話2020年1月9日 (木) 15:40 (UTC)[返信]
  • コメント 引用された箇所の「パルティザン」は原著仏語版では「レジスタンス(運動)のメンバー」という表現に変えられています。「パルティザン」と言えば、レジスタンスのなかでも共産党主導の過激な活動ですから、これはもう(当時の文学者のレジスタンス活動についていくつかの記事で触れた私としては)そんな馬鹿な・・・という印象です。そのルヴェルディに(Vaughan曰く、「自分のナチスとの関係をばらす可能性のある唯一のフランス人」)ヴォーフルランを逮捕させて、後にヴォーフルランの裁判に召喚される・・・辻褄が合わない気がします。導入部の「ナチスの諜報員」の文言も、1926年以降のルヴェルディとの関係も他に確かな情報がない限り、(些末なこととして)削除ということで良いと思います。--Hparis11ed会話2020年1月9日 (木) 17:17 (UTC)[返信]

出生にまつわる問題及びVaughanの引用の問題について

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こちらの編集を受けて。

  • コメント Charles-Rouxの記述に従うと、ボヌールという名前はココ・シャネルが後から自分でつけた「架空の」ものであって、出生にまつわる資料には登場しないもののようです。また出生届時に父アルベールが実際に不在だったのか、居留守をつかっていたのかは明確にはわからず、母ジャンヌがどういう状況で出産をしたのかも不明で、はっきりしていることは出生届にも戸籍簿にも本来あるべきアルベールの署名が無いということだけということになります。というわけで括弧付きで「不在」と書きましたがこれ自体は出生届に記載されているわけではなく、「travelling」と訳し得るような記載があるのかどうなのかはこちらの書籍ではわからなかったです。--TEN会話2020年1月15日 (水) 14:53 (UTC)[返信]
  • コメント ご説明、ありがとうございます。出生届に「ボヌール」がないことのほか、父親の名前はアルベールでなくアンリ(Henri)になっており、職業は商人(marchand)とあります。そうであれば、travelling は「行商人」とでもした方が良いのかもしれませんが、Chaney の文献も扱いが難しいですね。--Hparis11ed会話2020年1月15日 (水) 18:03 (UTC)[返信]
  • (追記) これは言うまでもないことかもしれませんが、ミシア・セールのシャネルに関するコメントで「訳語疑問点」が2つ付いている「ミシアは「彼女の天才に、恐るべき機知・・・」」についてもVaughanの邦訳でご確認いただきたいのですが・・・。これは、「女性の香水」というようなタイトルの第2章(冒頭にヴァレリーからの引用)の4~5ページ目ぐらいにあると思うのですが、仏語版では「彼女の辛辣な精神と結びついた(天才的な)才能、気前の良さ、狂気の沙汰、彼女の皮肉、破壊的な傾向に魅せられると同時に不信感を抱いた」というような内容で、多少違いがありますし、ミシア・セールの別の伝記作家の名前(Arthur Gold、Robert Fizdale)もありますので、Vaughanから直接引用したのかどうか、多少疑問があります。というのは、en:Misia Sertに、MisiaをSertに変えただけのまったく同じ文章(Sert was attracted to Chanel by "her genius, lethal wit, sarcasm and maniacal destructiveness, which intrigued and appalled everyone.")があって、出典の付け方が違うので、シャネルの記事でVaughanからの引用とするなら、正確でないと著作権にも関わるおそれがあるからです。--Hparis11ed会話2020年1月15日 (水) 20:17 (UTC)[返信]
  • コメント 父親の名前についてはこちらのサイトなど複数のWebサイトでHenri-Albert Chanel となっていますが、一般的にはアルベールの名で言及するものと思われます。正直なところ、出典となる文献はどれも取り扱いに難がありそうです。Charles-Rouxも和訳版だけ見るとむやみに詳細な心理描写や修辞の多い表現など、あまり学術的な素養がある著者の手になるとは思えず、むしろ小説に近い体裁であり個人的には出典として用いるのに若干の躊躇を感じます(和訳の問題である可能性はありますが)。フランス語版Wikipediaなどは大部分をCharles-Rouxに負っているようでありVoughanも同書をかなり参照している様子ではあるのですが。「彼女の天才に、恐るべき機知・・」についてはご指摘の通り該当する文章が第二章に二度登場します(和訳版 p. 34, 45)。和訳版でも明確にVoughanがArthur Gold、Robert Fizdaleを引用しているものであり、英語版の記載は「孫引き」ということになります。一応、和訳書からの翻訳に置き換えましたが「同時に不信感を抱いた」という記載はないです。恐らく同一の文章の引用がp. 34では「愕然とさせた」p. 45では「怖じ気づかせる」となっていますが、これが多分そうでしょうか。--TEN会話2020年1月16日 (木) 16:45 (UTC)[返信]
  • コメント ご確認、ありがとうございます。はい、「愕然とさせた」という意味合いであれば問題ないと思います。父親はアルベールで問題ないと思うのですが、結婚はシャネル出生より後なので、情報に食い違いがあっても不思議ではない気がします。Charles-Rouxはレジオンドヌール勲章グラントフィシエや国家功労賞も受けていますが、ゴンクール賞受賞作家、つまり小説家であって研究者ではありませんし、このような記事の場合、むしろ、研究書を探すは難しいですね。--Hparis11ed会話2020年1月16日 (木) 17:22 (UTC)[返信]
  • (追記) 固有名詞チャンドラー・バール、ルカ・トゥリンへの表記変更はいずれも邦訳があるためです(チャンドラー・バール著『匂いの帝王』金子浩訳、早川書房、2003年、ルカ・トゥリン、タニア・サンチェス著『世界香水ガイドIII』秋谷温美訳、原書房、2019年)。『匂いの帝王』は引用確認にも役立つと思います。また、1946年のポール・モランによるシャネルの言葉の引用「同性愛者?・・・」もVaughanからの引用ですが、やはり引用が不正確と思われます。第3章の6~7ページ目くらいにあると思われますが、これは、ポール・モラン『シャネル 人生を語る』として邦訳がある著書(L'Allure de Chanel)からの引用であるため、直接確認して、こちらから引用するべきではないでしょうか。--Hparis11ed会話2020年1月16日 (木) 21:14 (UTC)[返信]
  • コメント 情報ありがとうございます。教えていただいたポール・モラン『シャネル 人生を語る』を確認したのですが、和訳書で確認する限り『誰も知らなかったココ・シャネル』と『シャネル 人生を語る』では相当ニュアンスが違います。
  • Vaughan(赤根訳、日本語)「同性愛者?いつも女たちにつきまとって、『美しい人、可愛い人、私の天使』とか言って、女をお世辞で窒息させる男のことね?若い女がそういうおぞましいホモに人生を滅茶苦茶にされるのを見てきたわ。ドラッグに離婚にスキャンダル。女というライバルを打ちのめして復讐するためなら、彼らはどんな手段でも使うのよ。ホモは女になりたがってるけど、彼らは出来損ないの女だから」
  • Vaughan(英語)「Homosexuals? Are they not always hanging around women: 'my beauty, my little one, my angel'- continually strangling them with flattery? I have seen young women ruined by these awful queers: drugs, divorce, and scandal. They will use any means to destroy a competitor and to wreak vengeance on a women. The queers want to be women - but they are lousy women. They are charming!」
  • Morand(山田訳、日本語)「こうした『醜悪なオカマたち』のたくみな陰謀にのせられた若い女性が、変なことにひきずりこまれたあげく死んでしまった例をたくさん知っている。死、ドラッグ、醜さ、破産、離婚、スキャンダル、女との競争に勝って復讐する種にうってつけのものばかり。同性愛者というこの気の触れた連中は女になりたいと望んでいるけど、それってひどく病的な女なのよ。それでもまだ女は言う。-あの人たちって素敵!」
単純に見比べると、Vaughanの英語⇒日本語の翻訳は末尾の「They are charming!」を何故か落としていますが、それなりに忠実なように見えます。気になるのはVaughanが使用したMorandの英訳が原文をどの程度忠実に翻訳してるのかという点で、フランス語版を底本に翻訳された山田訳の『シャネル 人生を語る』と相当ニュアンスが異なります。しかも、冒頭が「こうした『醜悪なオカマたち』」で始まる通りこの文は、クチュールのモードに性倒錯者/同性愛者が大きな影響を与えている。彼ら同性愛者(ホモセクシュアル)が女性におべっかを使うことに長けていて、女性の側でも彼らが自分の理解者だと考えている。女は褒められるのが大好きで、ホモセクシュアルは女をほめることにとても優秀である。でもそれは錯覚で同性愛者は女の敵なのだ・・・というような内容を受けて続く文章です。実際問題、私には「They are charming!」は本記事を翻訳した時に意味不明でしたが(このために訳語疑問点をつけています)『シャネル 人生を語る』を見てようやく合点がいきました。同書におけるシャネルの発言は全般的に「女というのはどうしようもないものだ」というような類のものが多く(男性が「男ってのはバカなものだ」と語るような感じです)上記の引用もそういうノリの一文でもあります。
Morandが記すシャネルの言は確かに彼女の同性愛者に対する軽蔑と偏見を露わにしたものと言って良さそうな内容ではあるのですが、この文章においてシャネルが語っていることはむしろ女性側の同性愛者に対する姿勢(特にファッションにからめて)でもあり、また続く文章では皮肉をからめて社交界で娘の婿探しをする父親たちを「同性愛者/同性愛者的精神の持ち主」とも描写しています。またこの部位はウェストミンスター公とは全く関連づけられておらず、単純にこれを英語版の記事にあるように「He shared with her an expressed homophobia.」とまとめてしまって良いのかかなり疑問でもあります。とりあえずVaughanによるMorandの引用は英訳の正確性に疑問があり、文章の切り取り方ははっきりと不適切であるように見えます。少なくともポール・モラン『シャネル 人生を語る』の文章からは、現在の記事と同じ内容の文章は作れません。そもそもにおいて同性愛にかかわる分野においてシャネルが特に重要な人物というわけでもないと思われるので、出典をVaughanによるこの引用部は一旦削除してしまおうと思います。何かご意見等あればよろしくお願いします--TEN会話2020年1月22日 (水) 14:07 (UTC)[返信]
  • 書き忘れたので一応補記します。Vaughan(英語)の「Homosexuals? Are they not always hanging around women」には該当する文は『シャネル 人生を語る』にはなく、前の方の長めの文をざっくり一言にしたものであるようです。「'my beauty, my little one, my angel'」は上に書いた文の2つ前の段落にありますが、「- continually strangling them with flattery?」もかなり長い文章を一言にまとめたものです。私はフランス語は全く解さないのでフランス語原文の確認は不可能ですが、Vaughanが引用符で括った文の前半部はかなり「大胆な」要約と思われます。--TEN会話2020年1月22日 (水) 14:33 (UTC)[返信]
  • コメント はい、まさに、ご確認いただいたとおりで、Morandの著書では3ページほどにわたる内容を「ざっくり」まとめ、しかも、引用符が付いている部分(引用範囲)の内容が不正確で、趣旨を歪めているおそれがあります。さらに、ご指摘のように、英語版執筆者の解釈の問題もあると思いますので、「VaughanによるMorandの引用を削除する」に賛成です。--Hparis11ed会話2020年1月22日 (水) 16:30 (UTC)[返信]

コスチュームジュエリーについて

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  • ちょっとノートページが長くなっていたので簡単に節分けしました。訳語疑問点箇所の確認ありがとうございます。コメントアウトで指摘していただいた内容と出典及び別途確認したいくつかのサイト(こちらなど)から判断して、以下の点を説明できればいいのかなと考えます。
  • シャネルがファイン・ジュエリーの代用品ではない、本格的なジュエリーとしてのフェイク・ジュエリー(vrais bijoux en toc)の普及を推し進め流行させたこと。
  • 特にファイン・ジュエリーとフェイク・ジュエリーを組み合わせて使うのを好んだこと。
  • 複数のコスチュームジュエリーを重ねて着用することやフェイク・パールのチェーン、宝石ベルトなどが代表的であること。
  • §ジュエリーは大量の訳語疑問点がある通り、正直あまり意味を理解できずに訳文を作成しています。現時点で、英語版の出典がジュエリーについて元来何を説明しているのかは理解できましたが、それでも英語版記事の文章をうまく翻訳できず、出典を元に書き直してしまおうと思います。特に「Originally inspired by the opulent jewels and pearls given to her by aristocratic lovers, Chanel raided her own jewel vault ...」の部分は出典のvogueのアーカイブに該当する記述が見当たらず出元不明なのも気になります。--TEN会話2020年1月24日 (金) 14:03 (UTC)[返信]
  • コメント ご確認、ありがとうございます。英語版から離れて、出典に基づく内容に書き換えるのは大賛成です。「一ヶ月間に3,000人の参加」すら、出典では「約30,000人」となっているなど、初歩的なエラーもありますし。3点に要約された内容についても適切だと思います。一つ気になるのは、Vogueの Pushes the craze for vrais bijoux en toc, or costume jewelry that looks real の解釈で、vrais bijoux en tocを「本物に見えるコスチュームジュエリー」としていますが、このフランス語自体は「本物の偽物」という一種の言葉遊び(撞着語法)として使っているのであって、この言葉を使うと(この点を説明しない限り)逆に混乱を招く気がします。ですから、フェイク・ジュエリーの流行を逆手に取って、フェイクならフェイクで堂々と(これ見よがしに)身に着けたこと、そしてそれによって価値観を逆転させたことが重要になると思います。これは、娼婦の花カメリアを敢えて使ったことや、喪服の黒を敢えて使ったことに通じるタブー破り・革命ですよね。ですから、最後の彼女の言葉にあるprovocativeも、まさに「挑発」なのだと思います。--Hparis11ed会話2020年1月24日 (金) 18:37 (UTC)[返信]
  • コメント ありがとうございます。vrais bijoux en tocについて非常に参考になりました。ただ、私の方ではこれについて適切に説明できないのでとりあえずはこの言葉に触れない形で修正をかけています。確認してわかったのですが、元の英語版の§Jewelleryでは末尾のシャネルの言葉にだけ出典としてVaughanが挙げられていますが、vogueを出典としている部分にもVaughanの記述が混ざっており、「Originally inspired by the opulent jewels and pearls given to her by aristocratic lovers, Chanel raided her own jewel vault ...」に該当する記述もVaughanの第5章に発見しました。全体的にVaughanの書き方はシャネルに対して必要以上に辛辣というか若干の悪意を感じさせるものになっており、シャネルの最後の言葉も日本語版を確認すると孫引きであり、また前後の文脈に違和感を感じるので除去しました。というのもVaughanの該当する部位は「シャネルは貴婦人たちをバカにすると共に羨んでもいた」⇒「コスチューム・ジュエリーを大ヒットさせた。今度はシャネルが社交界の貴婦人たちにこう教えてやる番だった」⇒「"It's disgusting to walk around with millions around the neck because one happens to be rich. I only like fake jewellery ... because it's provocative."(たまたまお金持ちだったからといって、首に何百万もするようなものをぶら下げて歩くのは悪趣味よ。私が好きなのはフェイク・ジュエリーだけ。……それはフェイクが徴発的だからよ)の引用」⇒「そうは言っていたが、コスチューム・ジュエリーが大成功した後シャネルはファイン・ジュエリーのラインも発売したのだが。」と、最後の皮肉を導くためにこのシャネルの発言を引用しています。この引用の発言はVaughanの文脈から切り離しても成立しますし、またVaughanはシャネルのコスチューム・ジュエリーに対する美意識や姿勢を語るものとして引用しているわけでもありません。むしろHparis11edさんの解釈の方が個人的には納得でき、同性愛に関する部位と同じく曲解された形で引用されている可能性が高く、Vaughanを出典とするのはあまり適当ではないように見えます。--TEN会話2020年1月26日 (日) 03:54 (UTC)[返信]
  • コメント なるほど。ここでもまたVaughanバイアスがかかっていたのですね。気づきませんでした。provocativeを含む引用、確かにAxel Madsenからの孫引きであること、確認しました。しかも直前の「貴族は私を馬鹿にしたけれど、今度は私が彼らを跪かせてやる」というような引用もMadsenからのものでありながら、原著では100ページも離れている。原著を確認してないので何とも言えませんが、コスチューム・ジュエリーの制作がまるで貴族への復讐であるかのような記述にするための我田引水と言えないこともない気がします。vrais bijoux en tocについてはもう少し検索してみましたが、シャネルが1920年代にコスチューム・ジュエリー(製品)ライン(シリーズ)を開始し、宝石商「グリポワ」の娘シュザンヌ・グリポワがこの企画に協力してvrais bijoux en tocコレクション(シリーズ)が生まれた、とのことでした(Vanity Fair (fr)ほか、マイナーなサイトやbooks.google.fr数件)。シャネル自身が使ったコスチューム・ジュエリー・コレクション名ですが、省略して構わないと思います。ジュエリーのセクション、わかりやすい記述になったと思います。ありがとうございました。--Hparis11ed会話2020年1月26日 (日) 13:53 (UTC)[返信]

ハリウッド評について

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ハリウッド評に関するコメントアウトに対するご回答、ありがとうございます。すみません、脚注にある、ガブリエル・パラス・ラブリュニーとの電話で「下品」という言葉を確認したことは、あらためて確認しました。ただ、この脚注が付いている本文の「ハリウッドは・・・のモン=サン=ミシェル」から「なんでもかんでもスーパーなんだから」まではCharles-Roux (p.475) からの引用ですよね。これを、Vaughanが著書内でthe capital of bad tasteと言い換えているということでしょうか。引用符が付いているので、直接引用しているということになりますが、そうではなく英語版執筆者が言い換えているという意味でしょうか。--Hparis11ed会話2020年1月28日 (火) 18:35 (UTC)[返信]

  • コメント ちょっと長くなりますが、自分の確認した範囲で関連するそれぞれの記述の仕方は以下のようなものになります
  • Wikipedia(英語):Her experience with American movie making left Chanel with a dislike for Hollywood's film business and a distaste for the film world's culture, which she called "infantile".(出典:p. 68) Chanel's verdict was that "Hollywood is the capital of bad taste ... and it is vulgar."(出典:p. 62)。・・・出典はいずれもVaughan。
  • Vaughan(英語):Later, Chanel would say, "Hollywood is the capital of bad taste. it was like an evening at the Folies Bergères. Once it is agreed that the girls were beautiful in their feathers there is not much to add - and when everything is super: super sex, super production it all looks alike - and it's vulgar."(p. 62)。(中略)"The Hollywood atmosphere was infantile; one day we were entertained by a famous actor who had painted all the trees in his garden blue in our honor... I laughed at it affected Misia.(以下略)"
  • Vaughan(英語⇒日本語):のちに、シャネルはハリウッドについてこんなことを語っている。「ハリウッドは悪趣味の都ね。<フォリー・ベルジェール>(訳注:パリのミュージックホール)の夜みたいだった。羽根飾りを付けた女がきれいだとみんなが言うなら、私としてはもうそれ以上付け加えることはないわね。それに、スーパー・セックスだのスーパー・プロダクションだの、何でもかんでもスーパーなんだから、みんな似たり寄ったりよ。下品なだけね。」(p. 107)「ハリウッドの雰囲気は子供っぽかった。あるとき有名な俳優の家に招待されたんだけど、彼、私たちの栄誉を称えて庭の木を青く塗ってくれていたの。……笑っちゃったわ。ミシアは感動してたけど。(以下略)(p. 114)
  • Charles-Roux(仏語⇒日本語):「ハリウッドはどうでした?」「おしりとおっぱいの殿堂ってとこね。」(中略)「キャバレーの<フォリー=ベルジェール>の夜会みたいなものよ。女の子はみんな綺麗で、羽根飾りをつけてた。それだけ」「でも……」「でもなんてないの。だいたい"超"がつくものなんて、どれもこれも同じよ。超性(性染色体の比率が乱れた中性の有機体)にしろ、超大型プロダクションにしろ……ああいうものはみんな、いつかかならずだめになる。(中略)」「ではハリウッドの雰囲気はどうでしたか?」「幼稚ね……ミジアなんか、私よりもっとうんざりしてたわ。私は笑ってただけ。いつだったか、ある有名な俳優さんのお宅に二人で招待されたことがあったんだけど、その俳優さん、私たちに敬意を表するためだとかいって、庭の木を青く塗っちゃってたの。気をつかってくれたんでしょうけど、ちょっと幼稚ね……」
  • 「悪趣味の都」について:Vaughanが引用するシャネルの台詞の出元がCharles-Rouxなのは間違いなく、同書でも出典としてあげられています。「the capital of bad taste」はVaughanの本文にあり、英語版Wikipedia執筆者の言いかえではないです。対応するCharles-Rouxの日本語版の文章は恐らく「おしりとおっぱいの殿堂」であるように見えます。和訳がどれくらい仏語原文に忠実であるのかわからず、英訳をVaughan自身が行ったのかもわかりませんが、言いかえているのはVaughanであると言えると思います。このフレーズに限らずVaughanの引用は少しニュアンスが異なります。また、Vaughanの引用はCharles-Rouxの文章では一つながりのシャネルとCharles-Rouxの会話を切断して分離し、別々の文脈に引用するなど、例によってあまり誠実なものではないように見えます。日本語版と比較した時の差異は上の通りです。
  • 英語版Wikipediaでの記述について:記事内のコメントアウトで話題にした「infantile」の件ですが、上記を踏まえて英語版Wikipediaの記述を検討してみました。改めて確認したところ要約ではなくVaughanの本文でもCharles-Rowxからの引用がありました。英語版Wikipediaの文章の成立の経緯は
  1. Charles-Rouxがシャネルとの会話(インタビュー?)を著書に記載。
  2. VaughanがCharles-Rouxとシャネルの会話を切断して別々の箇所に引用。
  3. 英語版Wikipedia執筆者がVaughanが切断した会話の順番を入れ替え、長い文章の中から「infantile」だけを抽出して引用。
  • という感じになると思います。出典と照らしてWikipediaの記述が大きく間違っているということはこの部分に関してはなさそうですが、「a distaste for the film world's culture」については、Charles-Rouxの文章ではシャネルの発言は軽くて「distaste」という感覚はまるで感じとれないですね。Vaughanはハリウッドのやり方にうまく適応できないシャネルの姿をCharles-Rouxよりずっと具体的に描写し、「ふくれっ面で」ハリウッドを去ったとしていますが、これも「distaste」いうほどではなく、この部分は英語版Wikipedia執筆者の「オリジナル」なのかもしれません。--TEN会話2020年1月29日 (水) 13:24 (UTC)[返信]
  • (追記)よくよく考えたら「下品」という言葉に該当する記述はCharles-Rouxには前後の文章にも見当たらないですね・・・。Vaughanの書いた「シャネルの発言」はCharles-Rouxが書いたシャネルの発言をベースにガブリエル・パラス・ラブリュニーに確認した内容を混ぜて作ったものなのかも・・?--TEN会話2020年1月29日 (水) 14:03 (UTC)[返信]
  • コメント 詳細なご説明、ありがとうございます。よくわかりました。少なくとも、英語版執筆者のVaughanからの引用が適切であることが確認できました。比較のために仏語版について補足説明します(Charles-Rouxの邦訳には間違いはないと思います)。仏語版では「Vaughan(英語)」にある引用部分("Hollywood is the capital … all looks alike" に相当する部分)がすべてCharles-Rouxからの引用となっており("and it is vulgar" はありません。「下品」は脚注で、ラブリュニーに確認した言葉 "vulgaire" にのみ引用符が付いています)、実際、Charles-Rouxの著書の該当する部分とぴったり一致しています(但し、ご指摘のように、Charles-Rouxでは質疑応答の形を取っているのに対して、Vaughan仏語版ではシャネルの回答のみ1つにまとめています)。これは英仏翻訳者が気づいてそうしたのか、著者Vaughanに確認をとったのか、まったくわかりません。したがって、「悪趣味の都」に相当する言葉はなく、「おしりとおっぱいの殿堂(モン=サン=ミシェル)(le Mont-Saint-Michel de la fesse et des seins)」になります。VaughanがCharles-Rouxから引用していることは明らかであり、「おしりとおっぱいの殿堂(モン=サン=ミシェル)」を「悪趣味の都」に言い換えるのは適切ではないと思いますが、Vaughanの著書にある内容を正確に引用している限り、ウィキペディア執筆者としてはそれ以上の責任は負わないわけですから、後はVaughanの誠意をどの程度信用するか、執筆者個人の判断に任せられると思います。「幼稚」についても、Charles-Rouxからの引用ですから、こちらから引用した方が良いと思いますが、確かに、dislikeとかdistasteというより、あきれている、小馬鹿にしているという感じであって、「嫌悪」は強すぎるというか、そこまで「真面目」に言っているわけではないという気がします。ましてや、「ハリウッド映画産業」や「ハリウッドの映画文化」に触れているわけではなく、「印象」や「雰囲気」を語っているのであって、Vaughanの引用の仕方もそうですが、少し攻撃的なものを感じます。少なくとももう少しユーモアを解するセンスがほしいというか・・・(国民性の違いでしょうか)。ともかくも、Vaughan仏語版との違いがわかり、Wikipedia英語版をそのまま訳しても問題ないことが確認できました。ありがとうございました。後はTENさんのご判断にお任せ致します。--Hparis11ed会話2020年1月29日 (水) 18:29 (UTC)[返信]
  • 追記)英語版以外の他言語版をいくつか見ましたが、Vaughanを出典としているのは「ナチスの諜報活動との関わり」に相当する情報に関してのみであり、最も多く引用している仏語版ですらナチスとの関連以外ではVaughanを引用していません。実際、Vaughanの重要性はこの点に関してのみであり、他ではもっと信頼性のある文献に基づく記述をするべきであると、個人的には判断します(これはこれまでの議論からも言えることではないでしょうか)。--Hparis11ed会話2020年1月29日 (水) 23:37 (UTC)[返信]
  • コメント Vaughanの取り扱いについて同意します。少なくともMorandとCharles-Rouxを出典としたVaughanによるシャネルの発言の引用は発言の一部のみを切り出して関係ない文脈と結びつけたり、ニュアンスや言い回しにかなり強めのアレンジを利かせて印象操作を行っているのは間違いなく(彼は政府や軍の情報・広報部門やジャーナリストの経歴を持っているようですが、悪い意味で「らしい」文章の作り方だなと思います)、出典としての信頼性はかなり低いと言わざるを得ないと思います。Vaughanによる他の出典からの引用も同様に考えるべきですね。--TEN会話2020年1月30日 (木) 16:00 (UTC)[返信]

反ユダヤ主義・同性愛嫌悪等について

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  • 上の議論を受けて、ちょっと大きめの記事修正を考えています。Vaughanは出典として問題が大きいことが上記の議論から明らかになったと思いますが、これに関係した厄介な問題が現在の記事で大きめの比重を持つシャネルの政治信条に関する記述です。シャネルの反ユダヤ主義や同性愛者嫌悪に関する記述を行うとやはり出典の中核を成すのはVaughanということになるのですが、実際問題Vaughanの記述を確認すると、シャネルの反ユダヤ主義や同性愛者嫌悪についてはほとんど具体的な論証が無く、根拠になっているのは(Vaughanがアレンジを加えている)シャネル自身の発言であることがわかります。Vaughanの著作で反ユダヤ主義について具体的に確認できるシャネルの行動は
  1. 反ユダヤ主義者であったウェストミンスター公と交際していた。
  2. ユダヤ人であるヴェルテメール兄弟との金銭トラブルをナチスの力を借りて解決しようとした。
という二点だけであり、一応全部読み切りましたがシャネルを反ユダヤ主義者とする根拠は事実上ないと言って良いと思います。Charles-Roux・Morandと合わせて読むと、そもそもユダヤ人についてにせよ、同性愛についてにせよ、さらには右翼左翼といった話題にせよ、これらについてシャネルが多少なりとも整理された考えを持っていたとは考え難いものがあります。Vaughanについて具体的に不信を感じるのは以下のような記述です。
第1章、和訳 p. 23:「シャネルの脳裏にはドレフュス事件の差異にカトリック教会がおこなった反ユダヤ主義的キャンペーンが焼き付いていたのかもしれない。ユダヤ人に対するシャネルの恐怖と憎悪の毒々しさには、反ユダヤ主義的な人たちでさえへきえきするほどだった。」
第6章、和訳 p. 164:<シャネルがブティックを閉鎖して従業員を全員解雇したのは>「ユダヤ人レオン・ブルムの社会党・急進社会党連立内閣によって引き起こされた(と彼女は考えていた)ゼネストに対する報復だった。
第1章の記述の前半部についてはドレフェス事件の時シャネルは11歳であり極めて疑わしい決めつけですし、後半部の文章はそれを証明するような何かは書籍内に見えません。第6章の方は出典がCharles-Rouxになっているのですが、Charles-Rouxの方には社会党云々という話は無く、従業員に反抗(ストライキ)されて激昂した、という筋立てになっています。
  • これに関連してちょっと前の話ですが、最初の頃に指摘していただいた1926年に分かれた後のルヴェルディとの関係については、Vaughan、Charles-Roux、Morandいずれを見ても、復縁したり別れたりしながらそれなりに深いものがあったようです。対独協力者のシャネルがレジスタンス側の立ち位置を持っていたルヴェルディとどういう関係を持っていたか、という点は多分こうした政治的な話から関係を説明することが不適切なような気がします。要は「元カレと元カノが別れた後も何となくズルズルと連絡を取り合っていて、時々よりを戻したりしていた」というだけの話なのではないかと思えます。多分、憎からず思っていた元恋人の二人にとって対独協力がどうのこうのといった色気のない話はあまり重要ではなかったということではないかと・・。右翼への肩入れも、「恋人だったイリーブを手助けした。彼は右翼雑誌を発刊していた。」というだけの話と理解した方が(左翼への急旋回の話も含めて)シャネルの発言集とも矛盾がないように見えます。
  • また、Charles-Rouxを元にすると、対独協力は「その方が(強制収容所に入った甥の解放を依頼するため、というのも併せて)快適な生活を送る上で都合がよかった」ことや「自己の存在のアピール」から説明する感じになりますし、実際この方が合理的で、彼女の対独協力姿勢の出所は反ユダヤ主義云々よりはむしろアイヒマンのそれに近いものに見えます。ルヴェルディとの関係や対独協力姿勢の出所については完全に私の感想なのでさすがに記事には反映できませんが、Vaughanを使用しないと他の出典からはシャネルの「政治思想」を記述することはほとんどできないですし、もう一冊、マルセル・ヘードリッヒの和訳あたりを確認してシャネルの政治信条が読み取れるような記述がなければ、関連する話題は第二次世界大戦の節にまとめた上で圧縮しようと思います--TEN会話2020年1月30日 (木) 17:12 (UTC)[返信]
  • コメント シャネルに何らかの確固とした政治信条があったわけではない、という点について、まったく同感です。この出典によると、反ユダヤ主義に関するVaughanの指摘を受けて、(シャネルが寄付をしたという)ボードレール協会の会長 Isée St. John Knowles は、シャネルは教養豊かであったし、付き合いのあった右派のモランや貴族より、むしろ、(左派)人道主義者であるジョゼフ・ケッセルアーヴィング・ペンマックス・ジャコブピエール・ルヴェルディに近かったというのに、反ユダヤ主義だなんて「実に馬鹿らしい」と憤っています。さらに、「ユダヤ人であろうとなかろうと、彼女(シャネル)はそんなことはどうでもよかった」、「(シャネルは)自己中心的だったから、人間に対する共感というものがなくて、ドイツ人もド・ゴールのレジスタンス運動家も何とも思っていなかった(侮蔑していた)」と語っています。これは、ご指摘の対独協力に関するCharles-Rouxの見解とも多少重なると思いますので、参考までに。
  • ルヴェルディとの関係は、「引きずっていた」というような感じはあったのかもしれません。この出典では、彼が隠棲したサルト県ソレムに一度だけシャネルが会いに来たという、彼の娘の発言があります。もし、私の修正による現行版の「彼女とルヴェルディの恋愛関係は・・・終わったが」という表現が不正確であれば、たんに、ルヴェルディが1926年にカトリックに帰依してパリを離れ、北西部サルト県のソレムに隠棲した事実だけを書いておけば良いのかもしれません。それ以後の関係は、当初のVaughanの引用による「約40年間続いた」というほどのものではなかったのではないか、いずれにせよ、それぞれ、詩人として、ファッションデザイナーとしての人生においては些事になると思います。
  • また、ユダヤ人であろうとなかろうと、ドイツ人であろうとレジスタンス運動家であろうと、「どうでもよかった」ように、ルノワールやコクトーなどの左派ともイリーブなどの右派とも、政治思想に関係なく、一緒に仕事をしたというだけのことと思われます。--Hparis11ed会話2020年1月31日 (金) 01:27 (UTC)[返信]
  • ご意見と情報ありがとうございます。まだ途中ですが、とりあえずシャネルの行動を政治思想と結びつける記述を一通り除去しました。ルヴェルディを含む戦間期人間関係については概ねCharles-Rouxに従って書き換えましたが、ルヴェルディとイリーブを並べて並置する意味が薄いので分離しました。ルヴェルディの隠棲以後の関係がそれぞれの人生においては些事という点は全く同意です。「恋愛」を大きな比重を持つものとした場合、少なくともシャネルにとってのルヴェルディとの関係は小さなものではなさそうですが、これに触れるとCharles-Rouxの想像と見解に大きく依拠する形になるので、特にその後の連絡については触れない形にしています。
  • 紹介していただいた出典は機械翻訳でしか読めないこともあり、現状は活かせていません。第二次世界大戦部分の比率が大きすぎるので節を1つにまとめて、§論争は§来歴から切り離して独立した項目にしようと思うので、その部位にVaughanの見解と共に掲載する形にしたいなと思っています。--TEN会話2020年2月2日 (日) 16:10 (UTC)[返信]
  • コメント 大幅な再編集、ありがとうございます。Vaughanの見解に偏りがちな英語版を読む限り、シャネルは「嫌な奴だ」という印象を与えますが、TENさんのお蔭で日本語版はかなり中立的な記述になったと思います。すでにシャネル・グループの見解は補足しましたが(「謎の部分が残る」こと)、フランスではVaughanの見解を真に受けているわけではなく、「謎の部分が残る」ということは、むしろ、それ以外は事実として認めるということなのか、という多少の驚きを伴うものであったと思います。そうでなかったら、シャネル製品ボイコット運動が起こっても不思議ではない国ですから。上記のボードレール協会会長の意見は追って必要に応じて加筆したいと思います。--Hparis11ed会話2020年2月2日 (日) 16:55 (UTC)[返信]
  • 追記)すみません、上記の引用が不正確でしたので訂正します。「実に馬鹿らしい」というのはラブリュニーの発言です。
出典)Quand on évoque avec elle les soupçons d'antisémitisme, la vieille dame sursaute, outrée : « C'est tellement ridicule ! » Cette Chanel érudite, aussi proche des humanistes Joseph Kessel, Irving Penn, Max Jacob, Pierre Reverdy que de Paul Morand et des Windsor, notoirement antisémites, éprouvait-elle la haine des Juifs ? « Juifs ou pas, elle s'en foutait », tranche Isée St. John Knowles, président de la société Baudelaire à laquelle elle a fait une donation. « C’était une égocentrique qui n'avait aucune empathie pour le genre humain, qui méprisait les Allemands autant que les résistants et de Gaulle. »
試訳)彼女(ラブリュニー)と(の対談で)(シャネルの)反ユダヤ主義の疑いのことに触れたとき、この年老いた婦人(ラブリュニー)は、飛び上がらんばかりの勢いで、「実に馬鹿らしい」と憤慨した。学識豊かで、反ユダヤ主義者として悪名高いポール・モランやウィンザー家だけでなく、人道主義者のジョゼフ・ケッセルアーヴィング・ペンマックス・ジャコブピエール・ルヴェルディにも近かった、あのシャネルが、実際、ユダヤ人に対する憎悪を抱いていたのだろうか(注記:これは本記事の著者の問いかけ)。彼女(シャネル)が寄付をしたボードレール協会のイゼ・サン(セント)・ジョン・ノウルズ(Isée St. John Knowles)会長は、「ユダヤ人であろうとなかろうと、彼女(シャネル)はそんなことどうでもよかった」ときっぱりと言う、「(シャネルは)自己中心的だったから、人間に対する共感というものがなくて、ドイツ人もド・ゴールのレジスタンス運動家も何とも思っていなかった(侮蔑していた、まったく問題にしなかった)」(出典、日付:2011-09-22、記事の著者:Catherine Schwaab、サイト設定者:Paris Match)。
  • 以上、必要な部分だけ引用するか、不必要であれば無視してください。なお、Isée St. John Knowlesはかなりシャネルに詳しいらしく、この2月20日には彼が書いたシャネルの伝記『Coco Chanel』が出版されます。この解説によると、「ココ・シャネルは、1947年から亡くなる1971年まで、戦時中の行動について口を閉ざしていた。だが、この秘密を、彼女の弁護士(代理人)で(ピエール・)ラヴァルの義理の息子のルネ・ド・シャンブラン(fr:René de Chambrun)と、(ボードレールの)『悪の華』の(挿絵)画家でボードレール協会の会長(ロジェ・)リムーズ(fr:Roger Limouse)には明かしていた。リムーズはナチス・ドイツ占領下でこのスタイリスト(シャネル)の腹心であった(De 1947 jusqu'à sa disparition en 1971, Coco Chanel entretient le secret sur son action pendant la guerre. Elle le partage, néanmoins, avec son avocat, René de Chambrun, gendre de Laval et avec le peintre des Fleurs du Mal et président de la Société Baudelaire, Limouse (1894-1989), confident de la styliste sous l'Occupation)」とのことですから、このあたりがさらに明らかになる可能性があるかもしれません。--Hparis11ed会話2020年2月2日 (日) 23:47 (UTC)[返信]
  • 返信 わざわざ翻訳までしていただきありがとうございます。§論争を伝記から切り離したので、紹介していただいた話も含めてそちらの方に整理したいと思います。シャネルの対ドイツ姿勢についてはやはり友人であったマルセル・ヘードリッヒもはっきりと自己中心的な動機から来ていると書いており、実際にシャネルと言葉を交わした人々はやはり反ユダヤ主義から来たものとは見ていなかったと言えそうです。ポール・モランについて私は正直全く知りませんが、上に書いていただいた通り「反ユダヤ主義者として悪名高い」人物であったとすれば、彼が書いた『シャネル 人生を語る』にユダヤ人に関する話がほとんど登場しないのもまた、(戦後の著作なので「書けなかった」可能性はあるにせよ)シャネルが普段そういう話に関心を持っていなかったことの傍証になるのかもしれません。--TEN会話2020年2月4日 (火) 16:30 (UTC)[返信]
  • コメント とりあえず対独協力についての論争に関する記述は節にまとめ、上で紹介していただいた記述を使用させていただきました。何かおかしかればお手数ですが修正していただければと思います。まだ細々と編集をかけると思いますが、ポール・モランについてはとりあえずシャネル自体について述べるならばあまり詳述する必要もないと思うのであまり細かくは書いていませんが、この記事の大枠はこんな感じかなと思っています。--TEN会話2020年2月9日 (日) 09:08 (UTC)[返信]
  • 返信 対独協力に関する論争、より中立的・客観的な記述になったと思います。はい、ポール・モランへの言及を含むホモフォビアに関する記述も削除されたことですから、彼についての記述は特に必要ないと思います。ありがとうございました。--Hparis11ed会話2020年2月9日 (日) 12:13 (UTC)[返信]
  • コメント 延々と続けてしまって申し訳ないですが、シャネルの「反ユダヤ主義」についてMazzeoにも記述があったので追記します。MazzeoとVaughanを両方見てわかったのですが、パルファム・シャネルの経営権を巡る問題からシャネルが反ユダヤ主義を強めていた、という両者にある記述の出典となっているのはどちらも「Derrière l'empire Chanel」であるようです。Mazzeoにはこれの29ページを出典としてシャネルが妄想を膨らませ反ユダヤ主義をつのらせて、付き合いのあったユダヤ人を3つのグループに分類していた、といった記述があります。媒体が違うのか上記のpdfファイルでは9ページ目になりますが、多分「En tout cas, Coco entre dans un délire que fortifie son antisémitisme d'époque. Un membre de sa famille la qualifiera d' «atroce emmerdeuse» et précise que la dame avait sa grille de lecture: «Elle distinguait trois groupes. 1. Les Israélites, parmi lesquels elle plaçait les Rothschild. 2. Les juifs. 3. Les youpins. Selon les jours, elle classait les Wertheimer dans la deuxième ou la troisième catégorie.」が該当する記述であるようで(機械翻訳で読んでいるので不安ですが^^;)、親族の証言?によるようです。出典の性質がわからず、エピソードも孤立して見えるので取り扱いに悩みますが、一応シャネルの「反ユダヤ主義」を立証する側の大本の資料(特にVaughanについていえば、シャネルの発言に対する彼の「解釈」を除くと数少ない具体的な根拠となる)の一つかもしれません。--TEN会話2020年2月18日 (火) 17:03 (UTC)[返信]
  • コメント 重要な情報、ありがとうございます。Derrière l'empire Chanel、目を通してみました。まず、この出典はfr:L'Express(『レクスプレス』誌)で中道左派のまともな(?)雑誌です。私はこの雑誌の創刊者2人のうちの1人フランソワーズ・ジルーの記事を書きましたので、ある程度理解しているつもりです。また、Derrière l'empire Chanelはpdfで保存されたものですが、2005年7月4日付『レクスプレス』誌掲載のこの記事に現在でも直接アクセスできます(La fabuleuse histoire des Wertheimer)。但し、有料ですので完全に一致しているかどうかは確認していませんが、(記事名は異なりますが ―「シャネル帝国の背後に」、「ヴェルテメール家の驚くべき物語(歴史)」)冒頭の部分と完全に目次が一致していますので、たぶん間違いないでしょう。
  • 問題は引用箇所の「文脈」や「解釈」です。いずれのタイトルからもわかるように、これはシャネルとヴェルテメール兄弟の長年にわたる経営権争いに関するものです。引用箇所の文脈では、日本語版シャネルにも書かれている、シャネルが「株式の10パーセントを保有する」ことになったという内容に続いています。このあたりは主にMazzeoからの引用になっていますので、Mazzeoはこの出典のみに基づいていると思われます。Mazzeoの邦訳で、この引用箇所(3つのグループ)がどのように訳されているのか(訳されていないのか)わかりませんが、少し説明的に訳すと、以下のようになります。
  • いずれにせよ(経営権争いのことで)、ココは妄想を抱くようになり(訳注:文脈から被害妄想だと思います)、この妄想がさらに当時彼女が抱いていた反ユダヤ主義を募らせた。彼女の親族の一人は、彼女のことを「とんでもなく嫌な女だった(嫌な女になった)」とし、(理由を)彼女が(ユダヤ人を3つのグループに)分類していたからだと説明した。(すなわち)「彼女は1. ロスチャイルド家(のような貴族の資産家)を含むイスラエル (民族)、2. ユダヤ人、3. ユパン(ユダヤ人の侮蔑的な表現)の3つのグループに分類し、彼女は日によってヴェルテメール兄弟を2つ目のグループに入れたり、3つ目のグループに入れたりしていた」
  • 「反ユダヤ主義」という言葉はこの記事の執筆者による表現ですが、この言葉は、この長い記事でこの1か所以外では使われていません。
  • また、この親族の言葉にしても、このような分類をするのは確かに「とんでもなく嫌な女」ですが(とはいえ、親族としての卑下もあるかもしれません)、この引用から「反ユダヤ主義」という結論を下すことができるでしょうか。ヴェルテメール兄弟を日によって(気分によって)普通のユダヤ人か軽蔑すべきユダヤ人とみなしていたことが「反ユダヤ主義」でしょうか・・・しかも腹立ちまぎれに妄想を抱くようになったという文脈があるのですから、当時の世相としての反ユダヤ主義の風潮を考えると、「良いユダヤ人、普通のユダヤ人、悪いユダヤ人」の分類は差別というより単に幼稚な発想(しかも日替わり気分・・・)という気がします。反ユダヤ主義とは、ユダヤ人はみんな悪いということですよね。
  • 以上によって、記者が一度だけ使っている「反ユダヤ主義」という言葉に拘泥し、文脈を十分に検討していないMazzeoやVaughanの解釈は、個人的には間違っていると思います。どう思われますか。--Hparis11ed会話2020年2月18日 (火) 23:20 (UTC)[返信]
  • 補足)というより余談かもしれませんが、上記でも引用されているように、シャネルが最も親しくしていた作家としてしばしば挙げられるのは、ピエール・ルヴェルディマックス・ジャコブジャン・コクトーです。たとえば、ここにも3人の名前が挙がっています。最近、マックス・ジャコブの記事を大幅加筆しました。彼はカトリックの洗礼を受けましたが、もともとユダヤ人であり、ゲシュタポに逮捕されてドランシー収容所で亡くなりました。日本語版マックス・ジャコブではシャネルとのつきあいに触れませんでしたが、たとえば、マックス・ジャコブが交通事故で入院したときには、コクトー、ピカソ、シャネル、ミシア・セール、ローランサンの見舞いを受けたと著名なマックス・ジャコブ研究者によるこの資料に書かれています(これについては仏語版fr:Max Jacobにも書かれています)。また、彼が逮捕される直前に妹のミルテ=レアが逮捕されてドランシー収容所に送られたとき、彼女を救い出すために多くの友人に手紙を書いていますが、特にコクトーに書いた手紙(この資料に手紙が転記されています)には、「シャネルに私(の状況)について伝えて欲しい」と書いています。これも専門の研究者の注釈によると、「マックス・ジャコブは、ココ・シャネルにはドイツ人の恋人ハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲ男爵がいると知っていたと思われるが、シャネルに妹を助けてもらえると考えた。しかし、コクトーは彼女(シャネル)に手紙を書くのは危険だと考えたに違いない」と、実際には手紙を書かなかったのですが、逮捕される直前のコクトー宛の手紙には、「あなたには止めた方がいいと言われたが、すでにシャネルに手紙を書いた。返事はなかった」、他からも返事はなかったので「もう何も言わない、待つだけだ」としています。状況は複雑ですが、こうした文脈を考えても、シャネルを反ユダヤ主義者と決めつけるには無理があると思います。--Hparis11ed会話2020年2月19日 (水) 11:46 (UTC)[返信]
  • 追記)もし、Mazzeoの邦訳に[35]:152–53のシャネルの手紙の引用文がありましたら、お差し替えください。と言いますのは、Derrière l'empire Chanelでは、以下のように状況説明が多少異なっているからです。
  • (本文のMais les ennuis continuent以下の翻訳)だが、いざこざはさらに続いた。今度は、シャネル社のアーリア化(ユダヤ人排除・財産没収)が実際に行われたかどうかを確認するために、ヴィシー政権によって任命された臨時行政官ジョルジュ・マドゥーによるものであった。マドゥーは「(フェリックス・)アミオ氏の主張はまったくの虚偽だと思わざるを得ない。パルファム・シャネルはまだユダヤ人の企業だ」と結論付けた。そこで今度はココ自らが窮地を切り抜けた。彼女は早速1941年5月5日にマドゥー宛に手紙を書き、「私は、パルファム・シャネルの全株式の買い手となります。…これはいまだにユダヤ人の所有となっていますが、あなたはアーリア人にこれを譲渡するまたは譲渡させる任務を担っています」と主張した。彼女(シャネル)と臨時行政官(マドゥー)は長い付き合いで、互いに信頼し合っていた。彼は戦前、パルファム・シャネルの営業責任者でオートクチュールの責任者でもあったからだ。フェリックス(・アミオ)はこのように結託した二人を前に、どのようにして窮地を切り抜けたのだろうか。--Hparis11ed会話2020年2月19日 (水) 21:09 (UTC)[返信]
  • コメント 様々な検証ありがとうございます。「シャネルの反ユダヤ主義」については全く同感で、以前にも書いた通り、シャネルはこうした問題について体系的な見解を持ってはいなかっただろうと考えます。シャネルの被害妄想については、Charles-RouxやHaedrichも書いており、シャネルNo.5が1920年代後半以降爆発的な人気を得るようになると、シャネルは最初の契約条件を後悔するようになり、ヴェルテメール兄弟に不当に利益を奪われているという考えを強めていったのは全ての伝記作家の記述で一致していて、『Derrière l'empire Chanel』の文脈とも整合的であろうと思います。ただMazzeoの記述に従うなら、妄想というのはちょっと強すぎる言い方であるようにも見えます。やはりヴェルテメールとシャネルの間には商人としての経験に各段の差があったのか、実際にヴェルテメール側に有利な契約内容であったのは間違いないようです。ヴェルテメールの行動には「利益の10%」という契約を利用して売上が膨張する中で広告費や経費を膨らませて分配金を目減りさせたり、「シャネル」と「ブルジョワ」の広告を連動させて「ブルジョワ」側に客を誘導したりといったものもあったようで、契約上ヴェルテメール側に非は無いとしても、シャネルが感じた不満はまあ一般的な感覚においてそれ程突飛なものではないようにも見えます(大手だと思って深く考えずに出版社との契約書にハンコを押したらとんでもない内容だった、というような話は作家や漫画家の方の話には良く出てくるものですし、類例とも言えそうです)。
  • マドゥーへの手紙については邦訳にあるのでそちらの訳文に切り替えましたが、Mazzeoの記述による限り、手紙の内容は修正前のWikipediaの訳文と大きい違いは無いので、切り替えてもご指摘いただいた『Derrière l'empire Chanel』との齟齬は解消されないですね・・・。この手紙の文章に関する限り、英語版WikipediaのMazzeoからの引用は正確ですが、手紙に至る経過説明(Mazzeoの説明はかなり端折っていますが、上に書いていただいた内容と重大な矛盾はありません)を除いて手紙の文章だけを引用したのでおかしくなっているように見えます。脚注を見るとMazzeoのこの部分はほとんど『Derrière l'empire Chanel』を出典としており、そこにMadsen, ChanelやNew York Timesの記述も付け加えられていますが、あまりオリジナルの情報は無いように見えます。手紙の前提となる前後の状況の説明をもう少し加えるべきかもしれません。--TEN会話2020年2月20日 (木) 16:43 (UTC)[返信]
  • コメント Mazzeoからの引用の差し替え、ありがとうございます。文脈との関係と併せて、私自身が背景知識もなく訳語を変更しましたので不安もありました。実際、マドゥーとシャネルが知り合いだったと知らなかったので、やけに丁寧な言葉づかいにしていました。Derrière l'empire Chanelにおける上記の引用の続きですが、前後の関係からフェリックス・アミオは、何度かヴェルテメール兄弟の名義人になっているだけであって正式に株式を譲渡されているわけではないとの疑いをかけられ、出頭を命じられたようですが、マドゥーがかつて不正会計によってシャネル社を解雇されていたとして臨時行政官を解任され、次いでフランス人行政官が「(理由は不明だが)確かにアミオがヴェルテメール兄弟から事業を引き継いだ(すなわち、「アーリア人」の手に渡った)こと」を証言したとのことです。これらについては、事実なのかアミオが働きかけた結果なのか、詳細はわかりませんが、いずれにせよ、これでパルファム・シャネルを取り返そうという彼女の目論見は失敗に終わったということになります。ですから、こうした経緯は省略しても、結果的には日本語版に書かれている内容に問題はありません。
  • ポンピドゥー大統領夫人が計画したシャネル追悼式典に関する加筆について補足説明しておきます。元の文章では、大統領夫人の計画がご破算になるなんて大スキャンダルという印象を与えます。フランス語でこの件について調べましたが見つかりませんでした。加筆時の出典はワシントン・ポストですが、これは例のVaughanの著書に関する記事なので疑問が残りますが、少なくとも、大統領夫人がシャネル・コレクションを愛用していたことや(これはかなり有名です)、エリゼ宮殿の晩餐会に招いたことに触れることで(実際、ポンピドゥー大統領も夫人も大の芸術愛好家で、ですからポンピドゥー・センターを建てたのですが)、多少背景説明になるかな、という感じです。--Hparis11ed会話2020年2月20日 (木) 21:13 (UTC)[返信]
  •  追記 すみません、上記のアミオに関する内容ですが、「シャネルは ... 1940年5月にパルファム・シャネルの経営権をフランス人カトリック教徒の実業家・事業家フェリクス・アミオに法的に譲渡していたことを知らなかった」という記述と矛盾するようですね。追って検討します。--Hparis11ed会話2020年2月21日 (金) 14:52 (UTC)[返信]
  •  追記 もう少し確認しました。当初はシャネル社の株式を正式に譲渡していたわけではなかったが、ドイツ当局とのいざこざがあって、ゲシュタポ本部で尋問を受けるなどかなりの危険を冒しながらも、ウェルテメール兄弟の弁護士と相談の上、書類を整え、1940年5月までに書類からウェルテメール兄弟の名前は「正式に」消えた … 1945年の夏にロンドンでアミオがヴェルテメール兄弟に再会し、「ブルジョワとシャネルの鍵を返した」という表現になっています。したがって、シャネルはこのような経緯について知らなかった可能性が高いと思われます。--Hparis11ed会話2020年2月21日 (金) 15:54 (UTC)[返信]
  • コメント詳細な検証ありがとうございます。。よくよく読み込むとMazzeoの記載も概ね上と矛盾はないのですが、彼女はこの経緯はほぼDerrière l'empire Chanelの記述を引き写していると想像されますし、割と要約された形になっているので、Mazzeoよりも、上に追記していただいた内容を出典としてベースにした方が良さそうな感じがしますね。一応、Mazzeo側の独自?の情報としてはアミオの経歴も多少触れられていて、それによればアミオ自体もユダヤ人であるヴェルテメール兄弟に協力してパルファム・シャネルの経営権をココ・シャネルから守りつつ、一方ではプロペラの製造工場を経営してドイツに軍需物資を供給する「対独協力者」の一人であり、戦後はヴェルテメールの協力によって訴追を逃れるなど、シャネルと同じく第二次大戦において複雑な経緯を持つ人物であるようです。もっともシャネルの記事ではここまでの話は冗長すぎるように感じるのでこれは余談です。私としては、翻訳していただいた『Derrière l'empire Chanel』の文章にあるシャネルとジョルジュ・マドゥーの関係については、手紙の引用の前後に簡単に記述(あるいは注釈)があった方が正確なような気がしますがいかがでしょうか。--TEN会話2020年2月22日 (土) 17:50 (UTC)[返信]
  • ポンピドゥー大統領夫人についての加筆ありがとうございます。英語版は内容面でも十分ではなかったですし、一番最初に私が作った訳文はかなり違和感のある日本語文であったので大変助かります。--TEN会話2020年2月22日 (土) 17:50 (UTC)[返信]
  • コメント そうですね、ジョルジュ・マドゥーとシャネルの関係には言及した方が良いかと思います。それに、「長年にわたりパルファム・シャネルの経営権を争っていたヴェルテメール兄弟がユダヤ人であることに目をつけたシャネルは、ドイツによる占領を利用してこの争いに勝利しようと目論んだ」、「またドイツ当局は管理者が財産を残して離れた場合(ヴェルテメール兄弟は亡命していた)、その財産は新たな管理者の手に委ねられることを定めていた」とのことで、これは、シャルル=ルーとマッツエオのそれぞれの邦訳が出典になっていますのでその通りなのだろうと思いますが、一方で、ナチス・ドイツ占領下では、全般的にユダヤ人の財産没収を定めていたと思うのですが(これはもう少し後のことかもしれませんが)、もし、そのような文脈であれば、シャネルが「アーリア人」の立場を利用したとしても、さほど不思議ではない気がします。このあたり、「ヴィシー政権によるユダヤ人並びに外来者に対する法」のようなユダヤ人差別法がどの程度まで進んでいたか …、シャネルがマドゥーに手紙を書いたのは1941年5月5日ですから、おそらくすでにユダヤ人の財産没収まで定められていたのではないか … 「アーリア人」の立場を利用したということの背景を確認する必要があると思われます。ユダヤ人の財産没収を命じる法が成立していたのであれば、アーリア人であることを強調する意味もあまりないような気がします。法律がユダヤ人から財産を奪うよう定めているのであれば、では、私がシャネル社を買い取ります … それだけのこととも解釈されますので、歴史的背景を確認しないといけませんね。いずれにせよ、歴史的背景や、経営権争いの複雑な背景を知るにつけ、ますます反ユダヤ主義からは遠くなる気がします。
  • また、Derrière l'empire Chanelを引用する場合ですが、これは出典がfr:Arrêt sur imagesで、このサイト自体は(いろいろ論争があるにしても)問題はありませんが、記事名はDerrière l'empire Chanel... La fabuleuse histoire des Wertheimer、出典はL'Express、日付は2005年7月4日、著者はBruno Abescat, Yves Stavridès(いずれも著書のあるかなり著名なジャーナリストです)、リンクだけ(検証可能性のため)これにした方が良いと思います。Vaughanの著書ではDerrière l'empire Chanelだけになっていますが、これでは不正確だと思います。
  • 余談ですが、しばらく前に触れたボードレール協会の会長Isée St. John Knowlesの著書Coco Chanelについては、2月20日出版予定のところ、残念ながら10月1日に延期になりました。このビデオで彼自身が本書について解説しており、最初の方にガブリエル・パラス・ラブリュニーも登場します。彼女が序文を書いているのだそうです。本書では、1941年から44年にかけてのシャネルのナチス関与に関する資料で、没収されたものに直接あたって書いた、と説明しています。Isée St. John Knowlesは、やはり(直接には触れないまでも)Vaughanが描くようなシャネル像には批判的です。シャネルはスパイだったかもしれない、だが、何のために …、誰のために …、まだ何もわかっていない、と。--Hparis11ed会話2020年2月22日 (土) 22:26 (UTC)[返信]
  •  追記 上記の「さらに長年にわたりパルファム・シャネルの経営権を争っていたヴェルテメール兄弟がユダヤ人であることに目をつけたシャネルは…」以下の内容についてですが、「ドイツ当局は管理者が財産を残して離れた場合…その財産は新たな管理者の手に委ねられることを定めていた」については、「ヴィシー政権によるユダヤ人並びに外来者に対する法」の1941年7月22日の「ユダヤ人資産の管財人指定」に関する法律のことですね。仏語版では “22 juillet 1941 : loi relative aux entreprises et biens ayant appartenu à des Juifs absents ou disparus, dite « Loi d'aryanisation », prise par le gouvernement de Vichy(1941年7月22日、ヴィシー政権により、不在または行方不明のユダヤ人に属する企業及び資産に関する法、通称「アーリア化」)”となり、たとえば、この資料でも、”La loi du 22 juillet 1941, « relative aux entreprises, biens et valeurs appartenant aux Juifs », était destinée à éliminer « toute influence juive dans l'économie nationale » ( J.O (官報). du 26 août 1941)”とあり、裏付けになります。したがって、シャネルがマデゥーに例の手紙を書いた1941年5月5日にはまだこの法律が施行されていなかった…。矛盾がありますね。一方で、すでに1940年10月3日には、「商業・産業職からのユダヤ人排除」に関する法律が成立している。手紙の日付との関連では、この時点での経営権争いはこの法律の適用によるものではないでしょうか。いずれにせよ、こうした背景がある以上、むしろこの背景をきちんと説明するべきであり、「ドイツはユダヤ人に対する過酷な弾圧(ホロコースト)を行っており、シャネルは「アーリア人」であった」とか、「彼女のパルファム・シャネルに対する所有権の根拠は、パルファム・シャネルは「今だユダヤ人の財産」になっているが、所有者であった彼らはすでにこれを法的に「放棄している」というものであった」といった記述は、歴史的背景を考慮せず、シャネル自身の独断であるかのような誤解を招きがちな冗長な記述ではないでしょうか。--Hparis11ed会話2020年2月23日 (日) 16:02 (UTC)[返信]
  • 助言いただいた内容と、翻訳していただいたL'Expressの文章を使用させていただいて、前後の記述を調整してみました。具体的な根拠法の施行などについては知識が及ばないので言及しない形でちょっと逃げを打っています。「シャネルは ... 1940年5月にパルファム・シャネルの経営権をフランス人カトリック教徒の実業家・事業家フェリクス・アミオに法的に譲渡していたことを知らなかった」については英語版WikipediaとMazzeoの記述を再確認してみましたが、英語版Wikipediaの記述の仕方がおかしいようです。時系列としては以下のようになります。
  1. 1940年春、ヴェルテメール兄弟亡命。その際にパルファム・シャネルをアミオに売却(Mazzeoはこれを「ココ シャネルに知らされていなかったのだが」と書いています。)。
  2. 1940年10月(とMazzeoでは再度この話が出ます、亡命前の売却と別件なのか手続き上の登記日が違うのかなどよくわかりません)、パルファム・シャネル売却。
  3. 法律上の問題を解決するため、アミオはドイツ当局の関係者などに賄賂をばらまき、パルファム・シャネルの株式譲渡日を実際に日付よりも古い日付に改竄した(1940年5月1日にはヴェルテメール兄弟の存在は公式に消えていた、という引用はこの件に関連して行われています)
  4. 1941年春?、マドゥーがパルファム・シャネルの買収は見せかけであると結論を出す。
  5. 1941年5月5日、ココ・シャネルがマドゥーに手紙を出し、自分の優先権を主張。
  6. 日付未詳:ドイツ人調査官ヘル・ブランクがパルファム・シャネル社がユダヤ人の事業であるとは認められないという結論を出す(アミオの主張を認める)。
  7. 1942年2月、再度アミオに尋問が行われるが、その後も判断に変更は無し。
  • 大雑把にMazzeoの記述の時系列をまとめるとこんな感じです(1と2はちょっとよくわからないのですが、Mazzeoのこの部分は全体的に1940年と1941年を行ったり来たりして説明していてとても読みづらいです)。そして1941年の説明をした後に、1940年5月(10月?)のヴェルテメール兄弟からアミオへの売却は「ココ シャネルに知らされていなかった」という話が加えられています。英語版Wikipediaはこの構文を忠実に引き継いでいて「On 5 May 1941, she wrote to the government administrator...」の後に「Chanel was not aware that the Wertheimers, anticipating the forthcoming Nazi mandates against Jews had, in May 1940, ...」という文書を置いています。しかし、Mazzeoはあくまで<1940年にシャネルに通知されることなくヴェルテメール兄弟がアミオに株式を譲渡した>と書いているのであって、これを「Chanel was not aware...」と書いてしまうのは多分おかしいです。少なくともマドゥーに手紙を出した1941年5月段階では間違いなく知っていたはずなので、手紙の文章の後にシャネルは知らなかった、という文章を続けるのは説明上あまり好ましくないとも思います。というわけで、若干自分の理解に曖昧なところが残るのですが、上記理解に沿って記述を変えてみました。L'Expressは私には十分活用できないので、おかしなところ等見つけましたら修正していただけると嬉しいです。--TEN会話2020年2月24日 (月) 17:26 (UTC)[返信]
  • コメント 大幅な書き換え、ありがとうございました。話の流れがわかりやすくなりました。アーリア化に関する法律については、ドイツ軍占領下の北部では(南部のヴィシー政権の自由地域と違って)当初からナチス・ドイツの法が適用されたのかもしれません(わかりませんが、何かわかったら加筆します)。この部分のもう一つの出典Dana Thomas, The Power Behind The Cologneも確認しましたが、記事は長めですがこの件についてはごく短い記述で、出典として付されている「放棄された」、「戦後に返した」ということ以外では、ヴェルテメール兄弟がすでにアミオが経営する企業の株式の50%を買い取っていたので、シャネルがヴェルテメール兄弟を「裏切ったとき」(つまり、パルファム・シャネルを「放棄された」ものとして取り返そうとしたとき)パルファム・シャネルを(「ナチに武器を売っていたコラボの」とはっきり書いてあります)アミオに譲渡した…と、こうなるとますます前後関係や対独協力との関係がわからなくなりますので、Derrière l'empire Chanelおよびこれに基づくMazzeoによる記述に留めておいた方が良さそうですね。--Hparis11ed会話2020年2月24日 (月) 19:03 (UTC)[返信]

出典からの誤記

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上記の議論でも指摘されましたが、出典をいくつか(ウェブサイトのみ)確認したところ、英語版には矛盾(誤記)が複数ありました。他も確認する必要がありそうです。--Hparis11ed会話2020年2月9日 (日) 23:00 (UTC)[返信]
(追記) その他、たとえば、書籍Mazzeoは確認できませんが、"see what the pictures have to offer me and what I have to offer the pictures"は、123のいずれでもColliersではなく、New York Timesニューヨーク・タイムズ)となっているなどの問題もあります。Colliersという雑誌名も見当たらず、en:Collier'sではないか、などの疑問も残ります。 Lisa Chaney, Coco Chanel An Intimate Lifeでは、New York Timesとして上記2のAxel Madsen, Chanel: A Woman of Her Own, p. 186.からの引用となっています。--Hparis11ed会話2020年2月10日 (月) 01:05 (UTC)[返信]

  • 検証ありがとうございます。"see what the pictures have to offer me and what I have to offer the pictures"について、Axel Madsen, Chanel: A Woman of Her Own, p. 186.を確認しました。ご指摘の通りですね。とりあえず本文はNew York Timesに変更しは出典をこれに切り替えた方が良さそうでしょうか。Mazzeoは原典にあたるのはちょっと厳しいですが、使用箇所がかなり多いですし、幸い邦訳が出てるみたいなので一応そちらを確認してみようと思います。--TEN会話2020年2月11日 (火) 15:31 (UTC)[返信]
コメント そうですね、Mazzeoについては、ネット検索では(書誌情報以外は)ほとんど情報がみつからず、入手・閲覧も難しそうで確認のしようがありません。たとえば、TENさんがマルセル・ヘードリッヒ邦訳からの引用に変更された「もし、マドモアゼル・シャネルが、占領下の憂鬱な年月についてもらす数少ない打ち明け話を文字通り受け取っていたら、われわれは歯ぎしりしたくなるだろう」も、もともと(英語版では)出典Mazzeoとして孫引きされていたわけですし、出典Mazzeoとなっている"a legal fight might illuminate Chanel's wartime activities and wreck her image—and his business"「(ピエール・ヴェルテメールは)法的闘争がシャネルの戦時中の活動を照らし出し、(どれほどまでに)彼女のイメージを破壊してしまうだろうか―それによって彼のビジネスも破壊されてしまうだろうか(を心配していた)」も、同じ『フォーブス』誌からの引用として、Axel Madsen, Chanel: A Woman of Her Ownも引用しています。「ユダヤ人の金融資産の処分に関する採決を担当している政府行政官に手紙を書いた」ことなど重要な内容に関わるため(シャネルが「アーリア人」としての有利な立場を利用したことは他でも言及されていますが)、確認した方が良いかもしれません。--Hparis11ed会話2020年2月11日 (火) 20:47 (UTC)[返信]
返信 遅ればせながらMazzeoを確認できたのでとりあえず明らかにおかしい箇所だけ修正しました。"see what the pictures have to offer me and what I have to offer the pictures"についてはご指摘の通りでMazzeoの文章では
  1. シャネルについて1932年に『Colliers』誌が書いた。
  2. 『Collier's』からの引用。
  3. シャネルの台詞「映画が私に何を与え、私が映画に何を与えられるかを確かめるために」の引用
という文章構成になっているものを、英語版Wikipediaの執筆者が2を飛ばして引用したためにおかしくなっているものでした。3の引用は出典にMadsen, Chanel, p. 195と明記されており、ページ番号は違うもののの、Mazzeoの引用はAxel Madsen, Chanelからのものであることが確実です。New York Times⇒Axel Madsen, Chanel⇒Mazzeo⇒(不適切な引用)en.wikipedia という流れのようです。2が地の文に『Collier's』からの引用と書いてあるのに対し、3は脚注にしか引用元が書いていないために読み間違えたのであろうと思います。
シャネルがパルファム・シャネルの経営権を握るために「アーリア人」としての立場を使用していた件についてはMazzeoにも確かに記述があり、『フォーブス』からの引用も見つけました。これもMazzeoの出典はMadsen, Chanelとなっており、概ねこの部分の記述もMazzeoを経由してMadsen, Chanelを出元としていることを確認しました。これについては一応Mazzeoからの引用としては正しく、Charles-Rouxの記述とも整合的であるので重大な問題はないかなとは思います。最終的には『フォーブス』自体を出典とすべきかもしれませんが。--TEN会話2020年2月17日 (月) 13:06 (UTC)[返信]
返信 ご確認、ありがとうございます。英語版および英語版で引用している出典には誤記、孫引きおよびそのための誤記が多いことに驚かされます。お蔭様で日本語版はかなり改善されたと思います。あらためて感謝いたします。--Hparis11ed会話2020年2月17日 (月) 20:39 (UTC)[返信]