ノート:ヘーレム/過去ログ1
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お知らせ
イザヤさんとBokemiannとの間で激しい議論が起こり、編集合戦が発生しています。議論はここだけでなく、アナテマとプロジェクト‐ノート:キリスト教でもかなり激しく行なわれています。また、ヘーレムでも若干の議論があります。--Bokemiann 2011年1月26日 (水) 06:52 (UTC)
提案
英語版では、Anathemaがあります。日本語版では、アナテマの記事が別にありますが、ここはやはり統合依頼したほうがよいのではないでしょうか?
異議が無ければ、Wikipedia:統合依頼に出します。78 2007年1月1日 (月) 07:49 (UTC)
- あっちは聖書に限らずアナテマという言葉全般についての説明なので、少し違う気が。--222.14.197.119 2007年1月25日 (木) 08:53 (UTC)
改名&統合提案
聖絶はヘーレムの日本語訳の試みで、元々余り一般的な用語ではないので、項目としてはヘーレムに改名&リダイレクトするのが望ましいと考えていました。昨日リダイレクト項目のヘーレムが新たに記事として起こされ、訳語の違いだけで内容的にほぼ同じ「聖絶」と「ヘーレム」と「アナテマ」の項目が並び立つようになってしまいました。従って、ヘーレムの項目が余り大きくならないうちに改名ないしは統合しておくべきだと考えます。また、アナテマは私が以前うっかり記事に起こしてしまったので言いにくいのですが、アナテマはヘーレムのギリシア語形なので、最終的にはヘーレム(聖絶)とアナテマも統合するのが望ましいと考えます。一部には異論もあるようですが、ここはキリスト教の専門事典ではないので、一般の百科事典としての利便性や整合性も考えて、同じ内容の記事が3つもあるのは不適切だと考えます。--Bokemiann 2011年1月24日 (月) 06:47 (UTC)
条件付き分割(≒現状維持)賛成案
私はこの程度のボリュームの記事ならば、分割せずにおいた方が却って記事の整合性が付くと考えています。そのための改名&統合提案だったのですが、ご理解いただけなかったようです。キリスト教項目での色々な問題もあるのかも知れませんが、これについては、とりあえずここでは繰り返さず、条件付き分割賛成案を提案します。
私が今回懸案だった改名&統合提案を思い切って表明したのは、あくまでイザヤさんによる執拗な逸脱編集行為を辞めてもらうための手立てとしてです。これで編集合戦もとりあえず終演します。ただ、それがうまく伝わらず、誤解されたので、同じ効果があると思われる条件付きの分割(実際には現状維持)賛成案を提案します。(なお、現在ヘーレムの項がイザヤさんによって立てられていますが、話がややこしくなるので、これはまずはとりあえず脇において話します。また、この案(A案)は最終案では必ずしもありませんが、これが履歴の統合などの複雑な処理が一番少なくてすむと思われる方法です。)
(A案)まず「ヘーレム」の項目をいったん削除(理由は後述)、「聖絶」の項目名を「ヘーレム」に改名
当項目では、編集合戦が始まった版のうち私が目次を改変した編集([1]か[2] 前者を推奨)を下に、以後はイザヤさんが言うところのユダヤ教及びリベラルな異教のヘーレム概念はこちらで編集する。イザヤさんは、必要と考えれば独自に「聖絶」の項目を自分で起こして、自分の好きなように福音派に特化した聖絶の項目の編集を行なう。
(B案)聖絶をヘーレムに統合または移動、福音派に特化した記事編集は以後聖絶で行なう
技術的な問題は分からないのですが、場合によってはこれでも聖絶の項目をいったん削除して再度起こす必要があるかも知れません。〔加筆:(B案)でも作業は(A案)と基本的に同じです。その場合はユダヤ教も含む記事になりますから、(A案)のどちらかの版を使うのがよいといと思います。それも不可というのならば、今回の編集合戦が始まる直前のこの版まで戻した上で統合することを提案します。--Bokemiann 2011年1月27日 (木) 10:57 (UTC)〕
(共通的操作)ヘーレムの項目をいったん削除
何らかの手違いで、現在ヘーレムの項目が2重に作成されていて、通常の内部リンク方式では、イザヤさんが作成したヘーレムの項目には飛ぶことが出来ない状態です(リダイレクト項目のヘーレムの方に飛んでしまい、聖絶のページを表示します)。障害や対処方法などを現在問い合わせ中(Wikipedia:利用案内#同じ名前のページが2つ以上存在する場合の対処方法)ですが、有効なお答えが得られない可能性も高いです。ページが重複しているがために何らかの障害が起こってもつまらないので、この際、両方のヘーレムのページをいったん削除するのが望ましいでしょう。その上で上記の操作を行ないます。
結論
ちょっと見ると(B案)が一番分かりやすい方法なのですが、記事間で記事の移動を行なうと、履歴の統合を行なう必要が生じます。聖絶は特に編集歴がそれなりに長いですから、当然履歴の統合等の作業は必須です。しかし、これは管理者しか出来ない作業で、こちらから依頼をするのですが、それ以外にも統合や記事移転は色々と手続きが煩雑で大変です。そこで、履歴の統合等の作業がなく、シンプルな(A案)を私としては強く推す次第です。
--Bokemiann 2011年1月26日 (水) 15:03 (UTC)
出典のない記述について
ウィキペディア日本語版の公式方針出典を示す責任は掲載を希望する側に「出典を示す責任は、ある編集を行った執筆者、またはその編集を残すことを希望する執筆者にあります。このため、執筆者は出典を明記すべきです。定評のある情報源がない場合、その話題に関する記事はウィキペディアで立てるべきではありません。」「信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません。」とあります。タグが付けられてからすでに一か月以上が経過しており、もう一週間待ってから除去します。異論があるなら、出典をつけてください。--イザヤ 2010年11月1日 (月) 15:52 (UTC)
- この箇所に要出典タグを付けたのは私ですが、タグ添付からまだひと月しか立っていません。たった一ヶ月ですよ。出典タグがついて暫くおかなければ、その記事について詳しい人、出典について心当たりのある人の目に触れることすら出来ないではありませんか。Wikipediaでの通常の編集では、これらのタグが貼られてから大概は3ヶ月以上の時が経た後にコメントアウトなり削除なりが為されることが多いです。それに対して貴方の問題は、当該記述箇所に対して(議論もなく)いきなり削除で対応したことです。こういう場合はまずはコメントアウトが相当ですし、でなければ貴方が引用した規則にあるようにノートページへの移行が相応しいでしょう。それよりももっと相応しいのが、削除などの編集の前にノートで問題提起を行ない、その上で上記の編集を行なうことです。
- また、異論があるならば何らかの出典を付けろとのことですが、出典を付けるのは私ではなく、この部分を執筆した人か、出典を知っている人に求めるべき事柄です。出典タグを付けた人は出典を知らないのだから、出典タグを付けた人に出典の明記を求める相手ではありません。なお、当該記述に関しては、あながち間違いではないと思いますが、出典に関しては寡聞にして知りませんでした。3ヶ月~半年もすればどなたかが出典を付けて下さるものと思い、要出典タグを添付したものです。貴方はWikipedia歴が短いのでこのような短絡な編集を為さるのでしょうが、他のページでの編集も参考にして、余り早急に編集をなさらないようにお願いします。--Bokemiann 2010年11月2日 (火) 06:43 (UTC)
- (追伸1)私も勘違いしていたのですが、イザヤさんが掲げた Wikipedia:検証可能性#出典を示す責任は掲載を希望する側にの内容をよく見ると、「信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません。しかし、もしも出典を示す機会を与えずに記述を除去すると、異議を唱える人がいるかもしれません。情報源を欠く記述について情報源の明示を求める場合、・・・ {{要出典}} 、{{要検証}} 、{{誰}} 、{{出典の明記}} 、{{未検証}}などのテンプレートを貼ることもできます。」とあります。要するにこの箇所は、「{{要出典}}等のタグが貼られた記述は安易に削除して構わない」とはひと言も言っていません。どうやら貴方は、人に規則を押しつけながら自分自身その規則を余りよく読んでいないようですが、今後は気をつけられた方がよいと思います。かくいう私も今回は急いでレスをしようとして規則をよく確認せずに対応してしまいましたが。
- 従って、先には3ヶ月と書きましたが、私がウォッチしている記事に関しても、出典が明示されていないことだけを理由として、{{要出典}}タグが貼られて3ヶ月程度で削除された記事は見た記憶がありません。なお私も、自分で{{要出典}}タグを貼って1年たっても何の出典も明記されない記事に関してコメントアウトしたことはあります。
- (追伸2)個人的な解釈かも知れませんが、{{要出典}}タグには、(1)検証可能性や独自研究の意味合いで、疑いのある記事に対して出典の明記を求める場合と、(2)単なる出典明記の要請の場合の2種類があると思います。今回の{{要出典}}タグは後者の意味合いで貼りました。この手のタグは、(1)(2)共にWikipediaの記述をよりよきものにしようとしてのものなので、出典がないからと言って録に議論もせず、しかもタグ添付からひと月足らずで安易に削除すべきではありません。ちなみに、Wikipediaは性善説的な立場で編集が為されている関係で、編集方針もWikipedia上の包摂主義に従うのがベターだと思っています。
- (追伸3)今回問題の箇所に関しては、私はバルト当たりに出典がありそうだと思っています。ただ、バルトは全くと言ってよいほど知らないので、詳しい人に出典を付けていただければ有難いと思ってのタグ添付です。イザヤさんならバルト神学や改革派神学に関して詳しいのではないでしょうか? 或はウィキペディアンで心当たりの人がいれば、その人に加筆依頼をされるのもよいでしょう。--Bokemiann 2010年11月12日 (金) 07:49 (UTC)
最初にこの出典もない記述があった時から、何年も経過しており、出典タグが付けられてからも一か月が経過しているのであり、この記述を残すことを主張するなら、主張者が出典を付けるべきです。「出典を示す責任は、ある編集を行った執筆者、またはその編集を残すことを希望する執筆者にあります」。ただし、もともとの責任は最初に出典のない記述をした者にあるでしょう。--イザヤ 2010年11月15日 (月) 10:45 (UTC)
- いま議論になっている記述が起こされてから何年も経っているとよく分かりましたね? 私が先日確認した時はずいぶん大変な思いをしました。最初の記述は2年くらい前のように思いますが(2~3日中に確認しておきます)、何れにせよ、この記述が為されてから何年か経っていると言っても、要出典タグが貼られて1~2ヶ月しか経っていないという事実に変わりはありません。分かりますか? もしも私が要出典タグを付けなければ貴方はどうされましたか?(ちなみに、私もそれまでは疑問を感じなかったのですが、ちょっと出典が必要かな?と軽い気持ちで編集したのです) 要出典タグがあるからという理由で記述を拙速に削除されたのですよね? 規則を盾にしながら、貴方はその規則自体をよく読めていませんでしたよね? それでいながら記述の削除を主張されるの姿勢からは、どうも削除ありきの意図を感じざるを得ません。この記述のどこがお気に召さないのですか? 単に記述に出典がないということだけではないように感じるのですが、どうでしょう? で、ちょっと疑問なのですが、貴方の編集項目をざっと確認したところ、福音派などの保守的な教派の信仰者のように見受けられますが、もしかして自分の信念と違う編集だからという理由で要出典タグが添付された記述を削除しようとしたというわけではありませんよね? だとしたらWikipedia上許されない行為です。そんな疑いも感じてしまいました。間違いだったら誤ります。
- それと、今は議論中だと言うことは理解できていますね? 余り多くの人に編集されているページではないので、出来れば他の人の意見も聞くべきだと思います。まずは井戸端当たりで意見を聞くことを考えています(もっとも仕事もあって余り頻繁に編集が出来ないので、井戸端への投稿は暫く後になりますが)。貴方の方から井戸端その他に意見を求められても構いません。今のところコメント依頼までする必要はないでしょう。なお、履歴を追うのが大変なので今は特に確認しませんが、この記述を起こしたのは確かIPユーザーでした。そのため、執筆者に出典明記を要請することは出来ませんが、私もこの分野に詳しいユーザー数名に出典に心当たりがあるかも含めて意見を聞いてみようと思っています。
- なお、私はこの記述だけに関して議論しているのではなく、今後こういった編集行為に対してどう対処するかも含めて、議論の形で問題提起しています。この記述を残すことのみを目的としての反論ではありません。それというのも、今後このような編集が横行すると、記事をよくしようとして要出典タグを添付する行為が却って記事の質を落とすことにもつながりかねないと思うからです。--Bokemiann 2010年11月15日 (月) 17:47 (UTC)
とりあえず{{告知}}タグを貼付しておきました。--Bokemiann 2010年11月15日 (月) 18:03 (UTC)
履歴を見て、これが何年も前の記述であって、このタグが付けられてから一か月以上が経っているのを確認してから私は削除しました。これをもって「規約を読めていない」と言われるのは心外です。出典を示す機会を与えなかったわけではありません。その機会はあったのです。出典のない記述が一か月どころか書かれて即座に削除された例はウィキペディアにいくらでもあります。削除された例を示せというなら大量に示せるでしょう。このタグをもしあなた様が付けなかったらどうかということですが、このタグに限らず、出典がなく削除を含めた改善が必要な記事は多くあると認識しております。現時点で意義を唱え、記述を残すと主張しておられるのは、あなた様なのですから、主張者に出典を示す責任があるでしょう。出典がないなら、記述を残す根拠がないことになりますが、削除する根拠は公式方針にあります。
契約神学の神学的確立は17世紀の事であり、そのずっと後にそれと異なり、また対立する神学を展開した新正統主義のバルトをあげられる理由がわかりません。契約神学の継承者とされるのは古プリンストン神学系のジョン・マーレイらです。また、新共同訳など他の主要な翻訳聖書はこのヘブライ語の訳語について統一して訳しているわけではありません。聖絶の語をヘブライ語ヘーレムの訳語として造語したのは新改訳聖書であり、神学的意味をもった神学用語です。これを違う前提から出発した思想、たとえば民族浄化であるとか高等批評であるとか、別概念について述べるなら、はっきりと別概念であると記事中に示すか、別概念として記事を独立させるべきです。WP:NPOV「争いのある主題についての長い記事」Q.「例えば進化論について書く時には、進化説と創造説(人間も他の動物も神が創造したとする説)の論争を全てのページで展開しなければならないわけではないですよね?」A.「もちろんそんな必要はありません。どんな主題について書くのであれ、誰かが反論の余地があると考えるような前提が必ず入ってしまうものです。これは進化生物学に限らず、哲学、歴史、物理学などについてもあてはまることです。」
この聖句についてのジャン・カルヴァンの解説は、John CalvinのCommentaries on the Four Last Books of Mosesにあります。カルヴァンの見解は契約神学と対立概念ではありませんが、契約神学として発展する前のものです。--イザヤ 2010年11月17日 (水) 14:06 (UTC)
聖絶はユダヤ教とキリスト教に共通の項目です
「聖絶」の語は確かにクリスチャンの手による翻訳語ですが、ヘーレムはそもそもユダヤ教の用語です。従って、旧約聖書での使用例の項目をキリスト教の項目に入れるのはおかしいです。それに、現代のユダヤ人の評価や批判の項目を含む上位の項目名を、「ヘブライ語聖書の聖絶の記述に関する異教的評価」と、わざわざ「異教」なる語を加えて記述されたことに対して、非常な違和感を感じました。それに、こちらでは「ヘブライ語聖書」の名称を用い、使用例の項目では「旧約聖書」の名称を用いるのも統一感がなく不自然です。最初にも書いたように、ヘーレムはユダヤ教の用語でもあるのですから、ヘブライ語聖書に関する記述を含む項目を異教として区別することは非常に不自然な感じを懐かせます。さらに、「批判」の項目もキリスト教に対する批判(追記:クリスチャンからの批判も含みます。特に小坂井氏氏は今も信仰者であるかどうかは存じませんが、聖公会を経てカトリックに改宗し修道院生活もされた方です)でもあるのですから、これを「異教」的評価評価としてしまうのはとても問題です。要するにあなたはキリスト教に偏った記事を編集したいのでしょうが、それはWikipediaの基本精神に反します。信仰を持つ人が護教的であるのは構いませんが、それをWikipediaの個人的編集方針にすることは問題です。とにかく、今回のあなたの編集は余りにも不自然で、細かい編集では対処しきれないので、申し訳ありませんが、とりあえずリバーとすることにしました。--Bokemiann 2011年1月23日 (日) 14:11 (UTC)
- ヘブライ語のחרםは確かに共通の項目です。しかし、旧約聖書という表現そのものが、教父たちの使い始めた用語であって、キリスト教POVであり、ユダヤ教を信じていらっしゃる方はヘブライ語聖書と呼びます。私はきちんと分割して書き、正確に記述することによって、キリスト教POVを避けるように努力しております。--イザヤ 2011年1月23日 (日) 14:22 (UTC)
- あなたの編集はキリスト教に偏りすぎなのです。そこが問題です。--Bokemiann 2011年1月23日 (日) 14:27 (UTC)
- これ以上のリバーと合戦は望ましくありません。前から考えいるのですが、本項を「ヘーレム」に改名&リダイレクトして、その上で「アナテマ」の項目と統合するのがよいのではないでしょうか。そうすればこのような問題はお子ならなくなると思いますが。--Bokemiann 2011年1月23日 (日) 14:31 (UTC)
- 私が目指しているのは両論併記です。私がキリスト教の観点を多く書いているのは事実ですが、他の宗教や学者を出典とするときは、その観点を書いて中立性を確保しています。必要なのは両論併記か分割です。聖絶はキリスト教の旧約聖書の新改訳聖書の訳語であって、あなた様が言われるようにヘブライ語のヘーレムはヘブライ語聖書を使うユダヤ教にも共通しているので、ユダヤ教や他の立場を含めた学問的見解はヘブライ語のחרםの所に転記すればいいではないですか。--イザヤ 2011年1月23日 (日) 14:41 (UTC)
- 申し訳ありませんが、あなたの為さっていることは私には両論併記とは見えません。それに、ややこしくなるので、分割も必要ないでしょう。なお、「聖絶」の語は今ではリベラルな岩波訳でも採用されていますが、こちらはヘブライ語聖書の配列に従って訳されています。「聖絶」を「ヘーレム」と改題して概要を記し、訳語の試みとして「聖絶」や「アナテマ」の項目を簡便に書いておけばすむことです。とにかく、聖絶はあくまで日本のみの訳語の試みですから、ヘーレムかアナテマに改名ないしは統合した方がよいでしょう。
- それと、あなたの今回の編集は何ですか? 事典類に出ている記述(後で出典明記しますが)や聖書を出典とする記述まで片っ端から出典要請タグを貼りまくっています。それに、まだ改名もされていないのにヘーレムの語を目次項目として使うのも不自然です。使用例にヘブライ語聖書の例しかなく、後段でキリスト教の項目で新約聖書の使用例を出すのも記事として整合性が感じられません。今回は差し戻しはしませんが、私でなくても編集する人が出てもおかしくないと思いますよ。出典明記次第、よく考えて編集をする予定です。--Bokemiann 2011年1月23日 (日) 15:03 (UTC)
- キリスト教的でない観点をあなた様は書いているのですから、あなた様の観点とキリスト教を出典とした観点は分けて記述されるべきです。それが両論併記のはずです。また、岩波がリベラルであるという認識をもっておられますね。その通りであって、それはキリスト教とは異なる観点です。異なる観点が分けて書かれ、分割されるのは自然です。--イザヤ 2011年1月23日 (日) 15:10 (UTC)
- 私だけが書いているのではありません。色々な人が書いています。私が書いた箇所は基本的にキリスト教の事典を見た上で書いています。アナテマの項目ですが、私が附した注解はカトリックの信者による事典と聖書信仰の立場の事典の両方を出典として明記しましたが、あれはキリスト教ではないのですか? 岩波の旧約聖書も立場は信仰的ではありませんが、翻訳者はキリスト者が大半です。リベラルな立場のクリスチャンであってもキリストを信仰していることに変わりありません。それを典拠にすることをキリスト教でないと否定することはあなたの個人的な立場でしかありません。自分の聖書信仰の立場と違うからと言って排除するのはWikipediaの精神に反します。ここはキリスト教事典ではないのですから、あなたの編集は偏っていると再三にわたって申し上げているのです。ちなみに、私はクリスチャンではありませんからリベラルよ寄りになるのは仕方がないでしょう。でも、信仰者のことにも配慮して偏らないように最低限の注意はしていますよ。--Bokemiann 2011年1月23日 (日) 15:37 (UTC)
- 違う教派で両論併記、あるいは分割にすることについて、いろいろ話し合われ、キリスト教プロジェクトの執筆者たちは非常に気を使っており、それだけ気を付けていても、キリスト教内部の事柄についてさえ両論併記について難しいのに、そんなに気を使っているのを無視して、教派の相違だけでなく、ユダヤ教とキリスト教の区別も付けずに書くことは偏っており、両論併記ではありません。キリスト教に対する批判的観点や、異教的観点、他の学問的観点も観点の一つとして尊重します。ただし、それは分けて書かれるべきです。私は進化論の項目の全体に渡って数多く出版されている福音派や聖霊派の反進化論本を使って埋めるようなことはしませんこんな場合はどうでしょうか? ――ある事柄について、複数の、長い記事を書く場合には、反論の余地のある前提を受け入れて書かなければ記事が書けないのではないでしょうか? 例えば進化論について書く時には、進化説と創造説(人間も他の動物も神が創造したとする説)の論争を全てのページで展開しなければならないわけではないですよね?もちろんそんな必要はありません。どんな主題について書くのであれ、誰かが反論の余地があると考えるような前提が必ず入ってしまうものです。これは進化生物学に限らず、哲学、歴史、物理学などについてもあてはまることです。個別のケースについて判断を下すための一般則を提供することは難しいですが、以下のような考え方は助けになるかも知れません:もしもある前提について他のページで踏み込んだ議論を行うのであれば、その前提について別のページで議論する優れた理由は、たぶん存在しないでしょう。ですが、手短で、他の記述の妨げにならない程度の言及はよいと思います。例えば、馬の進化について扱った記事で、創造説をとる人々の一部は馬の(そして他のいかなる生物の)進化があったことを一切認めないということを手短に一文書き、関連する記事にリンクを張るのはよいでしょう。もしもより具体的な点についての具体的な議論があるのなら、それについて説明する専用の記事があるのもいいでしょう。--イザヤ 2011年1月23日 (日) 16:02 (UTC)
- 私が申し上げているのはそういった観点の問題だけではありません。あなたの編集態度です。再度リバーとしなかったことは評価しますが、あなたの行為は非常に問題です。なぜ今になってやたらベタベタと出典要請タグを貼付したのですか? それに、聖書は出典にはならないのですか? 両論併記がどうのこうのと云ったレベルの問題ではありません。時と場合によっては悪質と取られても仕方のない行為をしているのですよ。少なくとも私には本項でのあなたの編集姿勢は認められません。--Bokemiann 2011年1月23日 (日) 16:27 (UTC)
- (追記)不充分ですが、とりあえず出典明記しておきました。聖書は出典にならないというのなら仕方がありませんが、事典の記述を丸写しするわけにもゆきません。
- さて、あなたの言うことは分からないでもないのです。ヘーレムはキリスト教よりも古代ユダヤ教の概念です。新約聖書には本来の意味でのヘーレムは出て来ませんし、古代から現代に至るまでキリスト教の神学的にも余り大きなテーマではないはずです。また、「聖絶」の訳語もポピュラーなものではありません。従って、神学的にも深められていないテーマでしょうから、記述がリベラル寄り(聖書学的=本文批評的)になるのも自然の流れだと思います。そこで本稿では、まずは古代ユダヤ教におけるヘーレムについての解説を主として、キリスト教での観点は後で扱うというのは問題はないと思います。ただ、使用例をユダヤ教とキリスト教とで分けるのは読者に不親切ですし、何よりも不自然ですから、この項目を後の方に廻してまとめるのがよいのではないかと思います。それと、何度も言うように、ここはキリスト教の事典ではないのですから、「異教」という表現は絶対に拙いです。--Bokemiann 2011年1月23日 (日) 17:11 (UTC)
- (追記2)ヘーレムは元々ユダヤ教の概念で、新約聖書ではヘーレムが元来の意味合いで使われることはないのですから、ここで新約聖書の使用例を上げるのは元々不自然です。疑問は感じながらも、削除するまでもないので、私もそのままにしていたのです。なので、記事としての不自然感をなくすためにも項目としてでなく記述するのが望ましいかも知れません。--Bokemiann 2011年1月23日 (日) 17:46 (UTC)
- 聖書を出典として記述していいかはキリスト教プロジェクトの執筆者の間で議論されております。聖書を出典として神学の説明をするのは事典に於ては危ういです。聖書の解釈は教派によって大幅に異なるからです。ペトロを岩として云々の箇所を根拠に教皇首位を導き出す教派とそうでない教派があるという事例は、挙げるまでもないとは思いますが念のため申します。聖書を出典として書いている時点で、何らかのバイアスを疑わざるを得ません。一体誰がある聖書の箇所を根拠に言っているのかを明示する必要が必ずあります。少しずつ書くほかないでしょう。--イザヤ 2011年1月23日 (日) 16:53 (UTC)
- 聖書を出典とするのは不可という論旨は分かります。ただ、聖書に書いてある事柄が書かれているだけなのに出典要請タグをベタベタと貼付したあなたの行為を疑問視しているのです。--Bokemiann 2011年1月23日 (日) 17:11 (UTC)
- コメント 私はイザヤさん引用の言葉の発言者ですが、聖書を出典とするのはやはり不可と思います。といって、一つの立場、一つの教派のみの注解書を引用するのもやはり不可です。NPOVを達成するには、本当に多くの教派の見解を掻き集めなければならないと思います。--Kinno Angel 2011年1月25日 (火) 09:15 (UTC)
- 私も神学的な項目で聖書を出典とするのは不可だという意見に全面的に賛成です。ただし、私がここで聖書が出典では駄目なのかと疑問を呈したのは、私を含む記者の方々が自分なりの言葉で聖書に書かれた事柄をまとめた記述に関してのものです。神学や教義上の問題ではなく、あくまでも「聖書に書かれている事柄についての聖書の該当箇所の明記」という意味での出典です。たとえば本文中の《聖絶は必ずしも異民族にだけ行われたのではなく、ヤーウェ以外の神を礼拝するイスラエル民族にも向けられた(出22:20, 申7:26)》という記述ですが、これは元々注記だったものを今回私がこのような形に直しました。この部分は原典に当たると、ちょっと個人的な拡大解釈のように見えて不適切な印象を与えますが、聖絶されるのは異民族だけでなくイスラエルの民も含むと言っているわけですから、何とか許容範囲だと思います。その辺の微妙な問題はありますが、これに出典要請タグを貼付して、先ほどKinno Angelさんがおっしゃったようなキリスト教の項目ではタグが貼られて一ヶ月もしたら当該記述を削除してもよいと解釈されるようなローカルルールがあるとしたら、どこかに聖書以外の出典がなければ早晩削除されてしまいます。それでは記事の質が悪くなるだけです。
- そんな訳で、Kinno Angelさんのおっしゃる懸念はこの箇所では必ずしも当てはまらないのではないかと考えています。思いっ切り分かりやすい例を出せば、「旧約聖書には神が天地を6日で創造したと書かれている」という記述があり、創世記第1章を提示しても、それにも何らかの書籍による出典が必要になるのでしょうか? 私がここで聖書が出典で充分で、わざわざタグを貼る必要はないのではと文句を言ったのは、そういった意味での聖絶に関する記述の部分です。確かにその表現で多少問題視される部分があるかも分かりませんが、それはそれで別の問題として、全体にタグを貼らず、その箇所だけにタグを貼付しておけばよいと思うわけです。--Bokemiann 2011年1月25日 (火) 12:18 (UTC)
議論一部リセット提案
コメント 申し訳ありません、議論の一部リセットを提案します。リセットして頂きたいのは以下の流れについてです。全部一字一句精査した訳ではないので、以下の捉え方に異議のある方がいらっしゃればぜひ御指摘下さい。
- イザヤさんが要出典タグを添付
- 一ヵ月後、イザヤさんが該当部分を除去
- Bokemiannさんが性急に過ぎると抗議
イザヤさんが1ヶ月で該当部分を除去した事自体は、それほど奇異なものではありません。キリスト教関連の記事は執筆者がとても少なく、出典を付与して記事を改善しようとした時に、該当部分を大幅に削除するといったことは珍しいことではないのです。タグ添付と除去それ自体は一般論としては責められないと思います。
但し、このページの場合、イザヤさんによる除去前後で議論というか対抗的な編集が既に発生していたのであって、イザヤさんが若干拙速だった面は否定出来ません。
他方、ここまで対抗的な議論になっている以上、出典をイザヤさんがより厳しく求めるのも止むを得ないと思います。
ですのでタグを貼った貼らないの正当性については措いて頂けませんでしょうか。お二方のいずれにもそれなりに瑕疵も正当性もあるように思いますので、ここは記事内容についてのみ議論して頂きたいと思います。--Kinno Angel 2011年1月25日 (火) 09:15 (UTC)
- コメント Kinno Angelさん、ありがとうございます。詳しくは後ほどご返事したいと思いますが、ちょっと誤解があるようなので、まずはそのことだけを取り急ぎ指摘します。(1)の最初に要出典タグを貼付したのはイザヤさんではなく私です。それを1か月後にイザヤさんが削除されたので拙速すぎると私が抗議した、という流れです。なお、これに関しては、このような規則の逸脱解釈が前例になると、記事をよくしようと考えての行為が台無しになる恐れもあると思い、私が本ノートで強力に主張したため、一応は治まっている状態です。それに対して今回の件は、私の編集差し戻しに対して、今まで幾らでも機会があったのに、わざわざこの時になってイザヤさんが要出典タグをこれ見よがしといった感じで貼付されたため、前回の編集合戦も含め問題をあえて再燃させてイザヤさんの編集態度に疑問を呈しているのです。そんな訳で、私としても今回はどうしても対抗的にならざるを得ませんでした。ご理解いただけましたでしょうか?--Bokemiann 2011年1月25日 (火) 10:47 (UTC)
Kinno Angelさんのご提案を受け入れたいと思います。ただ、もうひとつコメントさせていただきますと、イザヤさんの削除のご説明が「Wikipedia:検証可能性#出典を示す責任は掲載を希望する側に」を根拠に為されていたので、それは拡大解釈ではないかということで編集合戦になった次第です。《出典を示す責任は、ある編集を行った執筆者、またはその編集を残すことを希望する執筆者にあ》るのは異論ありませんが、《信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません》の部分を拡大解釈されて、それを根拠に出典要請タグを貼付したばかりの編集を削除されたことを問題にしたのです。当規則では、削除して抗議を受けないためにも、たとえば出典要請タグを貼付することを提案しているわけですから、この規則を根拠にタグが貼付された記事を削除するのは明らかに解釈を間違っていると判断しました。ちなみに、イザヤさんは何年も前から出典がなかった記事であることを強調しながら、しかし、私が偶々出典要請タグを貼付しなかった記述はなぜか削除しておられません。他の項目でも感じていることですが、イザヤさんの編集には不統一感があるのです。なお、この件の後、似たような編集合戦がひと月ほど前に破門でもありましたので、このような解釈をする人はイザヤさんばかりではないようです。そこで、検証可能性のこの文章は、出典のない記事の削除を推奨しているわけではないことを誰が読んでも間違わないような文言に書き改めるべきでなないかと、近く井戸端及び当該規則のノートページで問題提起をしようと思っていますが、その際どうしても本件を具体例に出さざるを得ないかも知れません。
また、キリスト教の項目では出典タグが付されてひと月もしたら削除する、してもよいという前例があるというのには驚いています。私がキリスト教の項目の編集に頻繁に関わっていた5~6年前は考えられない状態です。余りよい前例ではないように思います。Wikipediaの精神にも抵触する行為に思えます。
私の言いたいことはこれでほぼ書きましたので、多少の加筆等はするかも知れませんが、後はKinno Angelさんのご提案に従います。なお、私も含む合意形成があくまで前提ですが、限定付きでイザヤさんの分割要請に応じる用意もあります。詳しくは後ほど本ノートで提案いたします。--Bokemiann 2011年1月25日 (火) 11:46 (UTC)
- 珍しく多忙になっておりますため、取り急ぎ二つだけ。
- タグ添付の流れについての事実誤認につき(汗)、陳謝申し上げます。申し訳ありませんでした。また私の事実誤認にも関わらず、提案を受け入れて下さるとのこと、感謝申し上げます。今後とも宜しくお願いします。--Kinno Angel 2011年1月25日 (火) 15:28 (UTC)
ウィキペディア日本語版の公式方針出典を示す責任は掲載を希望する側に「出典を示す責任は、ある編集を行った執筆者、またはその編集を残すことを希望する執筆者にあります。このため、執筆者は出典を明記すべきです。定評のある情報源がない場合、その話題に関する記事はウィキペディアで立てるべきではありません。」「信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません。」とあるので、もう誰がタグを貼ったかという問題よりも、いまその出典の無い記述や出典の無い聖書解釈を残すと主張しておられる主張者、つまりBokemiannさんは、ある編集を行った執筆者、またはその編集を残すことを希望する執筆者になったのであるから、それらの記述が除去されてやむを得ない、ということをBokemiannさんが否定なさるのは、Bokemiannさんがウィキペディア日本語版の公式方針を否定しているということになります。--イザヤ 2011年1月26日 (水) 12:39 (UTC)
議論の経緯について(by Bokemiann)
私の編集及び編集方針について誤解されている方が若干いるようなので、今後の議論の参考のために、一連の編集について整理して説明します(但し、既に説明ずみの出典関連のものは省きます。また、必ずしも時系列でのまとめではありません)。
経緯
(1)Bokemiannによる出典明記(用例としての出典の意味合いが強い)
- 小坂井澄氏の書籍:民族浄化その他と同等に捉える見解の出典として。小坂井氏はルポライターながら、聖公会を経てカトリック修道院生活を送った方。今も信仰者かどうかは分からないが、キリスト教には詳しい。リベラル寄りの方からの評価が高い。(2010年12月20日 (月) 01:22時点における版 [3])
- ブーバーの見解:リベラルな立場の用例として。また、その発言に反発したレヴィナスの発言もオマケに付記。ここでユダヤ人学者の発言を加筆してしまったのが誤解のもとになった模様(後述)。(2010年12月20日 (月) 01:51時点における版 [4])
- イザヤさんにより上記加筆に対して「聖絶に対する現代のユダヤの評価」の目次が付加。ちょっと困ったなとは思ったが、その編集を活かして記事を目次を立てるに相応しい分量にするべくレヴィナスの発言について加筆修正。(2011年1月5日 (水) 21:01時点における版 [5])→(2011年1月20日 (木) 16:27時点における版 [6])
- ユダヤ教の公式的な評価ではなく、あくまで個人の見解なので、「ユダヤ人学者の見解」と目次を修正。(上記と同一)
(2)Bokemiannによる目次の大幅改訂。
- それまでの記事これの並びが雑然としていると感じていたので、この機会に整合性の取れたものをと思い、改編ここしたもの。全体の構成を「概要」「使用例」「評価」とし、評価の項目の最後に「批判」の小項目を入れる。また、「使用例」の項目は「旧約聖書」「新約聖書」に分割。
(3)イザヤさんとBokemiannによる編集合戦が発生。
- イザヤさんの改編は私には却って記事の質を損うものに見えたし、私には個別では対処できない範囲(これ)だと判断したので、ノートで提案の後リバートで対応。その後、彼が編集すればするほど記事が錯綜すると感じ、プロジェクト‐ノート:キリスト教他にコメント依頼。以下の経緯(議論)は本ノートを見られたし。なお、アナテマでも同様の論争あり。ヘーレムでも若干の議論あり。
(4)私がリバートした理由
- 概要がなくなって、いきなりキリスト教の項目が来ること。本来はユダヤ教ないしは旧約聖書から説明するのが歴史的にも自然の流れ。
- 片方では旧約聖書、もう一方ではヘブライ語聖書の名称がひとつの項目で並び立っていること。キリスト教に詳しい私ですら違和感を感じるし、一般の人が見たらなんと感じるか。これによって記事の整合性が全くなくなってしまっていること。
- 目次名が「ヘブライ語聖書の聖絶の記述に関する異教的評価」と異教の語を使用していること。こういった編集が非キリスト教徒にどんな感じを懐かせるかの配慮がない。護教的であることを超えて排他的な印象を与え、一般人に異常感すら感じさせる編集であること。(異教に違いないが、「他宗教」の言葉もあり、こちらの方が適切)
- この「異教的」評価にリベラルな立場のキリスト教徒の見解が「批判」の下位項目に含まれること。リベラルなキリスト教(小坂井氏など)だって同じキリスト教に違いないのに、これを「異教」とするのは排他的すぎて不自然で、上記と同様に他者に異常感すら懐かせかねないこと。
以上がイザヤさんの編集を不適切と判断してリバート及び編集合戦を厭わなかった理由です。再三にわたって「キリスト教に偏りすぎ」「ここはキリスト教の事典ではない」と注意し続けた理由でもあります。なお、ここで云う「キリスト教」は「保守的で福音主義のキリスト教」の意味で、全てのキリスト教を意味しているわけではありません。そんな訳で、イザヤさんの一連の編集はNPOVに違反しており、ウィキペディアンとして捨て置けないと判断した次第です。 --Bokemiann 2011年1月25日 (火) 16:30 (UTC)
以後の経緯
(1)合意形成を得ない段階でのイザヤさんによる大量編集 プロジェクト‐ノート:キリスト教にて合意形成を得ない状態での編集を控えてほしいとお願いしておいたにも拘わらず、リバートにも等しいような大幅な編集がイザヤ氏によって為される。Bokenmiannはこれに対して匙を投げるに等しい表現で、記事のリバートだけでなく、今後は該当者の行為につきWikipedia:コメント依頼とWikipedia:保護依頼への提出を考慮して対処する旨を当該掲示板で表明。 --Bokemiann 2011年1月26日 (水) 03:48 (UTC)
誤解の原因
上の経緯を見れば充分でしょうが、念のために説明しておきます。
- キリスト教もユダヤ教も一緒くたにしろとは言っておりません。
- ヘーレムは元々旧約聖書で使われている言葉であり、これに「聖絶」という翻訳語を与えたのは新改訳聖書が最初です。私は本項をヘーレムの説明をする記事と理解して編集していたため、それを嫌う人と編集合戦になったということだと理解しています。
- ヘーレムは旧約でのみ特徴的な使用例が認められる言葉なのだから、これを解説するのはどうしても(イザヤさんが幾ら反対しても)ユダヤ教の説明になるのは仕方がないことです。そして、説明も当然旧約聖書の使用例を元にして説明しないと自然の流れとしてもおかしいわけです。また、福音派のみで「聖絶」の語が使われていて、その福音派でも余りポピュラーな神学用語ではないはずです(日本聖書協会の聖書を使っているキリスト者は牧師ですらヘーレムについて知らない可能性だってあります)。そんな用語なのですから、これについて解説しようとすると、どうしても旧約聖書学的な説明をしなければならなくなるわけです。要するに、これは神学用語と言うよりは、どちらかと言うと聖書学の用語なのです。福音派の事典ですらそういった流れで説明をしているのだから、これを「ユダヤ教側の概念についても本項に加えろ」「キリスト教とユダヤ教を一緒くたにしろ」と主張していると判断されてはいささか心外です。それでは旧約聖書に関する説明は全てユダヤ教の説明になってしまい、旧約と新約の両方について解説している記事はユダヤ教とキリスト教を一緒くたにしている、分割しろと言うことになったら、それこそ厄介、いや滑稽です。
- なお、近年は岩波書店の旧約聖書でも聖絶の語が使用されているため、誤解が生じているとイザヤさんが某所にて発言されていますが、おかしな話です。上記で説明したような理由で、ここは聖書学上の説明がメインにならざえるを得ない項目です。そこでリベラルな岩波訳の解説が付記されても何の問題もありません。却って記事として質が高くなります。
- 私はここがキリスト教の専門事典でないのだから、キリスト教以外の項目を中心に書けばよいとは主張しておりません。
- これについてはイザヤさんの編集をなぜリバートしたのか説明した箇所で説明済みです。イザヤさんの編集が余りにもキリスト教のある立場に偏っていたので、そういった内容を書きたいのであれば、ここはキリスト教福音主義の専門事典ではないのだから、そうった編集態度はNPOVから言ってもちょっと問題ですよと再三にわたって申し上げているのですが、ご理解いただけなかったようです。何でこんな簡単なウィキペディアンであったら常識的な事柄すらご理解いただけないのか、私には全く理解できません。やりたいのならネットのキリスト教福音主義事典でも作ってそっちでやってほしいというのが正直な気持ちです。
--Bokemiann 2011年1月25日 (火) 17:20 (UTC)
聖書を出典とする記述について
上記で聖書を出典とする記述をしないという合意が形成されているように見えますが、Bokemiannさんは、ここで聖書を出典とした記述をしておられるように見えます。聖書の一字一句、一語一語、一行一行には、聖書釈義、聖書注解、聖書講解の2000年もの蓄積が、神学的、教理的、学問的に成立しているにも関わらず、合意に反して、出典の無い独自の聖書解釈がそこに書かれてあります。--イザヤ 2011年1月26日 (水) 07:52 (UTC)
- 合意に基づいて記述を除去したにも関わらず、Bokemiannさんがリバートされたことに驚いております。--イザヤ 2011年1月26日 (水) 07:56 (UTC)
用例としての出典と言われますが、私が、福音派、聖霊派で現役で使用されている用例を出典付きで入れると、Bokemiannさんにリバートされてしまいました。
「概要がなくなって、いきなりキリスト教の項目が来ること。本来はユダヤ教ないしは旧約聖書から説明するのが歴史的にも自然の流れ。」と言われる発言でもわかるように、概要自体にBokemiannさんのPOVが入っています。『岡田稔著作集』や昔の教父文書をご覧頂ければわかりますが、キリスト教はユダヤ教と旧約聖書を区別して考えています。
「異教の語を使用している」と言われますが、キリスト教福音派が作成し、現役で使用する聖絶という用語を使う以上、異教や偶像に対する言及が出て来るのはしごく当然です。とりあえず、手持ちの資料だけで書きましたが、資料はもっとたくさんあります。「合意形成を得ない段階」で編集したと言われますが、聖書を出典としないということにBokemiannさんは同意しておられるにも関わらず、Bokemiannさんはここで聖書を出典とし、聖書解釈を入れておられます。
「ヘーレムは旧約でのみ特徴的な使用例が認められる言葉」と言われていることから、Bokemiannさんは聖絶が死語だと思っておられるようですが、実際は死語ではありません。保守プロテスタント陣営が学問的、資金的な総力を結集し、翻訳した『新改訳聖書』が作成した訳語であり、現役に使用されている用語です。たとえばデボーションを行なうとき、旧約の聖絶のところに来るならば、聖絶を実生活に適用しなければなりません。聖絶の語に「殺戮という意味がある」などと言われるなら、旧約も含めてデボーションをして実生活に適用、実践する福音派や聖霊派のクリスチャンがそのデボーションに従って異教徒を聖絶に行かなければなりませんが、そんな奇怪なことはありません。霊的に適用します。ですので、Bokemiannさんがいくら反対しても、これを解説するには、福音派と聖霊派の用語としての説明になるのは仕方がないことです。たとえば異教の偶像を破壊するという旧約の命令については霊的にも物理的にも文字通り適用します。
「当然旧約聖書の使用例を元にして説明しないと自然の流れとしてもおかしいわけです。」と言われますが、その人が聖書をどのように引用するかということで解釈がはいります。またユダヤ教について説明したいなら、教父たちが作成した語でキリスト教POVが入った旧約聖書という語ではなく、ユダヤ教を信じていらっしゃる方々が使うヘブライ語聖書という用語を使うべきです。
「福音派のみで「聖絶」の語が使われていて、その福音派でも余りポピュラーな神学用語ではないはずです」と言われますが、これは認識違いです。福音派の日常会話に出て来る語です。例としてペンテコステ派の指導者でアッセンブリーズ・オブ・ゴッドのデイヴィッド・ウィルカーソン牧師の著書をあげました。聖絶が福音派の用語であるということは事実ですので、進化論について進化論者の理論が優先的に書かれるべきであるように、聖絶については福音派と聖霊派の理論が優先的に書かれるべきです。
「日本聖書協会の聖書を使っているキリスト者は牧師ですらヘーレムについて知らない可能性だってあります」と言われますが、神学校で、ヘブライ語、ギリシャ語は必修です。
「これについて解説しようとすると、どうしても旧約聖書学的な説明をしなければならなくなるわけです」と言われるのは、高等批評や批評的な聖書学である旧約聖書学的についてのことについて言われているのでしょうが、それも観点の一つです。
「ここは聖書学上の説明がメインにならざえるを得ない項目です。」とBokemiannさんが言われるのはまったく根拠がありません。
「そこでリベラルな岩波訳の解説が付記されても何の問題もありません。」この語で二つのことがわかります。第一点はBokemiannさんが岩波訳がリベラルだと認識しておられるということです。Bokemiannさんのその認識が間違っているとは考えません。次に「解説が付記されても何の問題もありません。」についてですが、たしかにヘーレムについて岩波訳の何と言う人による解説であるという出典が明記された上で、ヘブライ語のヘーレムについての「解説が付記」されることに私も問題があるとは考えませんが、福音派と聖霊派の用語としての聖絶と分けて書かれるべきです。キリスト教の中で正教、ローマ・カトリック、プロテスタントでも分けて書かれてあるのです。ヘブライ語やギリシャ語やラテン語のもとの意味がおなじでも、別項目になっている語がたくさんあります。岩波訳や他の宗教の観点が入ってくるならば、当然に分けられるべきです。
Bokemiannさんの正直なお気持ちは拝見いたしました。「ネットのキリスト教福音主義事典でも作ってそっちでやってほしいというのが正直な気持ちです。」--イザヤ 2011年1月26日 (水) 13:25 (UTC)
経緯確認
コメント Bokemiannさんの経緯まとめについてですが、イザヤさんからは異議ありませんか?Bokemiannさんによる経緯まとめで、今回の事態は把握しても構いませんでしょうか?Bokemiannさんによる「評価」の部分ではなく、時系列に並べられた「経緯」についてです。--Kinno Angel 2011年1月26日 (水) 08:57 (UTC)場所を移しました。--Kinno Angel 2011年1月26日 (水) 14:24 (UTC)
- コメント 聖絶とヘーレムが別項目であるべきかどうかの議論とは別に、経緯についての異論があるかどうかについてより詳しいコメントを、どうかお願いします。--Kinno Angel 2011年1月26日 (水) 14:24 (UTC)
経緯は履歴を確認すればわかると思います。まず出典のない記述があり、しかもタグがついていて記述されてから時間があったので履歴確認の上除去しました。削除の根拠はウィキペディアの公式方針です。しかし、Bokemiannさんは公式方針を否定しています。ウィキペディア日本語版の公式方針出典を示す責任は掲載を希望する側に「出典を示す責任は、ある編集を行った執筆者、またはその編集を残すことを希望する執筆者にあります。このため、執筆者は出典を明記すべきです。定評のある情報源がない場合、その話題に関する記事はウィキペディアで立てるべきではありません。」「信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません。」Bokemiannさんは、ある編集を行った執筆者、またはその編集を残すことを希望する執筆者となりました。キリスト教プロジェクトで教派ごとの用語を尊重するという合意があるにも関わらずに、その合意を無視して、教派どころか別の宗教の理解や別の観点をメインにすると主張されているので、今までキリスト教プロジェクトが築き上げてきた多くの記事が崩壊する危険性さえある主張です。キリスト教記事全体に悪影響を及ぼされる懸念を感じております。また上記でKinno AngelさんとBokemiannさんが聖書を出典とした記述はしないと合意されているにも関わらず、聖書を出典とした記述を行ない、独自の解釈を入れられました。聖書は聖書釈義、聖書注解、聖書講解で一字一句、一語一語、一行一行の2000年分の説明があります。その神学的、学問的蓄積の無視、軽視です。Bokemiannさんの記述はKinno AngelさんとBokemiannさんの合意に反するので除去し、また、この語が死語で重要でないと主張しておられるので、現役に使われる語であることを示す記述をいれ、また、新改訳の流れにある神学者たちの解説を複数いれました。それをリバートされてびっくりした次第です。--イザヤ 2011年1月26日 (水) 15:07 (UTC)
- コメント申し訳ありませんが、あなたとやりとりする気力が今はありません。お互いにとって一番よいであろう解決策を「提案」として掲示しました。賛成していただけるとありがたいのですが。--Bokemiann 2011年1月26日 (水) 15:11 (UTC)
- コメント 明日、お二人ともに返信させて頂きます。お待たせして申し訳ありませんが、どうかどうか、お待ちくださいませ。--Kinno Angel 2011年1月26日 (水) 15:44 (UTC)
Kinno Angelからのコメント
- コメント 取り敢えず、「事実経緯については」イザヤさんとBokemiannさんによる説明の間に殆ど齟齬は無いと理解致しました。ただしその「評価」について、大きな認識の差があるとも理解致しました。
- 大きく分けてお二人の認識の差異は以下が挙げられるでしょう。
- 合意がなされているかなされていないか(イザヤさんは「合意がなされている」とし、Bokemiannさんは「合意がなされていない」としている
- 方針・ガイドラインに対する認識の差
- 一番目については議論の当事者一方でいらっしゃるBokemiannさんが「合意がなされている」とはしていません。悪意ではないにせよ、イザヤさんによる「合意がなされている」という認識はBokemiannさんにより直後に否定された時点で成り立たなくなっていますので(しかも1週間以上返信が無かった云々ではなく、連日の議論の中で否定されています)、まずはイザヤさんにはそこはお認め頂きたいと思います。
- 二番目についてはより精査して申し上げます。--Kinno Angel 2011年1月27日 (木) 01:58 (UTC)
- Bokemiannさんが「合意がなされていない」と主張しておられると私も認識しています。Bokemiannさんは私のその編集が「作為」であったと言っておられるわけですが、私が「合意がなされている」と言っているのはあくまで、Bokemiannさんが、 2011年1月25日 (火) 12:18 (UTC)で「私も神学的な項目で聖書を出典とするのは不可だという意見に全面的に賛成です。」と言っておられる発言についてです。ただ、ここで続けて、Bokemiannさんは「ただし、私がここで聖書が出典では駄目なのかと疑問を呈したのは、私を含む記者の方々が自分なりの言葉で聖書に書かれた事柄をまとめた記述に関してのものです。」と言っておられる所ですが、私の指摘は記者の方々が自分なりの言葉で聖書に書かれた事柄をまとめた記述の部分です。これが聖書を出典とした記述でないと思っておられるようであったので、何度も聖書釈義、聖書注解、聖書講解があると申しております。Bokemiannさんがあるいは無自覚であったにしても「作為」があり、その記述を見過ごすことは「不作為」(omission)になります。私は不作為ではありませんでした。作為が問題であれば不作為も問題です。編集競合を避けるため、お返事は記述は順番に行きます。--イザヤ 2011年1月27日 (木) 13:15 (UTC)
- コメント 聖書の出典問題を論じるのは後回しにして、今ここでは取り立てて論じないようにしていただけませんか? 念のために繰り返しますが、私が合意ができていないと言っているのは、下のコメントでも書いたように、統合か分離かについての議論に関してです。私が合意形成されるまで編集を待ってほしいと申し上げているのはただ一点、これだけです。保護解除までまだ1週間以上あるので、それまで時間をかけてじっくり決めてゆきましょう。よろしくお願いします。--Bokemiann 2011年1月27日 (木) 17:15 (UTC)
- Bokemiannさんが「合意がなされていない」と主張しておられると私も認識しています。Bokemiannさんは私のその編集が「作為」であったと言っておられるわけですが、私が「合意がなされている」と言っているのはあくまで、Bokemiannさんが、 2011年1月25日 (火) 12:18 (UTC)で「私も神学的な項目で聖書を出典とするのは不可だという意見に全面的に賛成です。」と言っておられる発言についてです。ただ、ここで続けて、Bokemiannさんは「ただし、私がここで聖書が出典では駄目なのかと疑問を呈したのは、私を含む記者の方々が自分なりの言葉で聖書に書かれた事柄をまとめた記述に関してのものです。」と言っておられる所ですが、私の指摘は記者の方々が自分なりの言葉で聖書に書かれた事柄をまとめた記述の部分です。これが聖書を出典とした記述でないと思っておられるようであったので、何度も聖書釈義、聖書注解、聖書講解があると申しております。Bokemiannさんがあるいは無自覚であったにしても「作為」があり、その記述を見過ごすことは「不作為」(omission)になります。私は不作為ではありませんでした。作為が問題であれば不作為も問題です。編集競合を避けるため、お返事は記述は順番に行きます。--イザヤ 2011年1月27日 (木) 13:15 (UTC)
- コメント私が「合意がなされていない」と言っているのは、あくまでもプロジェクト‐ノート:キリスト教#比較宗教学等の見解にて、「統合か分離(現状維持)が決まるまでは過剰な編集は待ってほしい」と申し上げたその合意形成です。しかも、私は統合案は(条件付きながら)引き下げてもよいとまで申し上げているし、本ページの「提案」の節で修正案を提示しています。その提案に対してもイザヤさんからはお返事がまだありません。Kinno Angelさんのご質問に対しても、イエス・ノーでは答えません。そういうイザヤさんの対応のまずさが議論をここまでこじらせているのです。私が譲歩の姿勢を示しているのに、一方のイザヤさんからは何のすりあわせもない。そういうことで問題がこじれにこじれているのです。イザヤさんにとっては私の編集はキリスト教関連記事にとってゆるがせに出来ないほど大変なものと捉えていらっしゃるのでしょうが(私にはそんなことはないと思いますが)、何れにせよ、自分と違う立場の見解の記述を両論併記の形でも認めない(だから、どんどん記事を分割・立項したがる)というのでは幾ら何でもWikipediaの精神(NPOV)に外れます。--Bokemiann 2011年1月27日 (木) 06:48 (UTC)
- コメント二番目の問題に関しては現在井戸端でも意見を聞いています。これに関しては私の方の解釈が出典要請タグがついた記述を「残す」方に傾きすぎていたようです。なお、上にもコメントしましたが、昨年のやりとりについては一応決着が付いていると見てよいでしょう。ただ、私の感覚ではひと月程度で削除は早すぎます。最低でも3ヶ月は見てほしいところです。問題としているのは、今回の編集合戦で、何年にもわたって特に出典がなかった記事についてイザヤさんがいきなり出典要請タグをベタベタとまるでどさくさ紛れのように貼り付けた行為です。それまで幾らでもタグ貼付の機会があったにも拘らずです。その行為について説明を再三にわたって求めているのですが、イザヤさんからは今に至るまで何のお返事もありません。
- なお、今回タグがついた記述は私の方で出典がつけられるものが幾つかありますが、問題は聖書の記述に関するものです。これは、たとえば「神学的な論点以外の記述にも聖書を出典にすることは拙いのか?」というようなテーマでプロジェクトページで改めて論じた方がよいでしょう。少なくとも今はとりあえずペンディングにしていただけませんか? ただでさえヤヤコシイ議論がさらにややこしくなります。--Bokemiann 2011年1月27日 (木) 07:53 (UTC)
- (追記)今回の編集合戦でイザヤさんから出典要請タグが貼付された記述で私が出典をつけると、イザヤさんから、それはユダヤ教の記述だ、それはリベラルのキリスト教(じゃない)立場の見解だと騒がれてしまいます。それが現在の論争の焦点のひとつでもあります。そこで、現在関連記事でボリュームが一番大きくて(そのため、イザヤさんが嫌がるユダヤ教やリベラルの見解の説明が一番多い)この記事をヘーレムに改名の上、「聖絶」を新たに起こしたらどうかと提案しているのですが、その私の提案に対する合意形成まで拙速な加筆は控えていただけないでしょうかと再度申し上げたいと思います。そうすれば今回のような編集合戦は今後大分少なくなるでしょう。--Bokemiann 2011年1月27日 (木) 08:07 (UTC)
- コメントいま見ると、出典問題について論じている文章中で書いてしまったので誤解されたのでしょう。私はこう書きました。
- 「履歴の統合など色々と配慮しなければならない点が多々あるので、Wikipediaの手続きを無視せず、議論の合意が得られてから粛々と編集をなさって下さい。合意形成ができる前に記事の整合性を壊すような編集や、今回に限りませんが逸脱と判断されかねないような編集は、ウィキペディアンとして控えてほしいということです。」(2011年1月25日 (火) 02:40時点における版 これ)
- これを読むと確かに誤解されるのも已むを得ないかも知れませんね(^^;) 私は、出典問題の個別の編集云々に関しては昨年のやりとりで一応落ち着いているので、それとは別に統合・分割の合否について書いたつもりでした。ただ、ひとつの文章で改行もせず、まとめて書いてしまったので、そのことは反省します。その意味で合意はなされていません。なお、出典問題についてもまだ意見はありますが、いつまで言い合っても仕方がないので、これに関しては、昨年編集合戦になって私が出典をつけていない記述に限って、その中にイザヤさんがお気に召さない記述があれば、それは削除されても構いません。なるべくならコメントアウトでお願いしたいですが。--Bokemiann 2011年1月27日 (木) 07:21 (UTC)
- コメントプロジェクトノートを見てこの議論を知りましたが、以上の書き込みを読むとただBokemiannさんが「自分の書き込みに根拠を示すことは出来ないが、消されて悔しい」ということだけに思います。独自研究は排除されるので、記事を復活させたいのであれば、ご自身で出典を確保した後、出典と共に再掲示すればいいだけじゃないでしょうか。--木人 2011年1月27日 (木) 05:59 (UTC)
- コメント井戸端にはここのことではなく一般論として書いたのですが、誤解をされる人もいるのですね。そういう気持ちがあったことは認めますが、私の記述ではなく、私が出典要請した記述をひと月足らずで削除されたことを悔しい?と感じているのだと理解していただけますか? ちなみに、記事のひとつはIP氏によるものなので、個別に出典要請をすることがそもそも出来ません。それと、肝腎なことは、今回の議論の論点のひとつは過日の出典問題ではなく(それはKinno Angelさんの提案を受けてペンディングです)、今回の編集合戦の最中、今まで出典がなかった記述に(それまで幾らでも出典要請タグを貼付する機会があったにも拘らず)これ見よがしにいきなりベタベタと出典要請タグが貼付されたことを特に問題にしています。井戸端での提案はことが落ち着いてからの方がよかったかも知れません。反省しています。--Bokemiann 2011年1月27日 (木) 06:48 (UTC)
- コメント Bokemiannは誤解されておいでかもしれませんが^^;私について言えば、取り敢えず現時点で、Bokemiannさん一人に問題があるとは全く考えておりません。その事は申し上げておきますし、Bokemiannさんの異議が不当なものだったとも思ってはおりませんことも申し添えます。どちらかというと、イザヤさんが拙速に過ぎたという印象を持っております。これ以上の詳しいことは、後ほど書きます。--Kinno Angel 2011年1月27日 (木) 07:41 (UTC)
- コメント 「方針・ガイドラインに対する認識の差」についてですが、ちょっと考えを変えます。ここで話を拡大するのはやめておきます。収拾がつかなくなると思いますので。ただ「削除するのが可なのだから削除していいだろう」というイザヤさんと「幾ら何でも1ヶ月というのは早過ぎるのでは?」というBokemiannさんの見解の差があるという程度の意味で申し上げました。
- で、私からは、お二人の見解のいずれも、それなりに理解出来るものです。ただイザヤさんも、「早過ぎるのでは」と言われた時に、「出典が無いから削除して良い」という事で押し通されるのではなく、「ではメドはつけたいので、○週間経っても出典が付与されなければ削除ということで良いですか。」といったお答えをすれば宜しかったのではないかと思います。
- で、Bokemiannさん、大変大変申し訳ないのですが、沢山書いておいでなので、一体何がメインの御希望なのかがよく見えなくなっております^^;。目指されるところを数か条、箇条書き(出来れば一条辺り50字~100字程度にして頂きたいです)にして頂けないでしょうか。m(_ _)m
- 木人さんへ
- >ただBokemiannさんが「自分の書き込みに根拠を示すことは出来ないが、消されて悔しい」ということだけに思います。
- 問題になっている削除された記述はBokemiannさんによるものではありません。むしろ要出典タグを添付されたのはBokemiannさんであり、Bokemiannさんは「タグが添付されたからといえ、削除には早過ぎる」と異議を仰ったのが発端です。--Kinno Angel 2011年1月27日 (木) 08:49 (UTC)
- 大変申し訳ありませんが、それが難しいのです(笑) が、皆さんで議論して決めてほしいと思っていることを箇条書きにします。
- *(1)昨日新たに提案した私の「条件付き分割(≒現状維持)賛成案」を皆さんで議論して可否を決めて欲しいということです。今はこれに尽きます。
- *(2)神学的でない事柄にも聖書を出典にできないのかについて皆さんに論じてほしいと思っています。本項にとって今はこれが一番重要なのかも知れませんが、多少後回しにするのが得策だと思います。
- *(3)あとは、今回の編集合戦におけるイザヤさんの一連の行為を問題にしています。ただ、ここでこれをそれを論じていると話が混乱しますから、とりあえず今はペンディングにして、上記(1)について集中して話し合ってほしいと思っています。これが私の希望です。--Bokemiann 2011年1月27日 (木) 09:37 (UTC)
- コメント 御希望もありますので、(3)については取り敢えず措いておきます。
- (1)についてですが、元々の記事は「ユダヤ教・キリスト教(含:自由主義神学・高等批評)」の記事だったのが、イザヤさんによって福音派中心の記事が志向されたのであり、イザヤさんの主張によれば「聖絶は福音派における概念中心に記述されるべきだ」ということのようですね。
- Bokemiannさんの提案で、現時点では基本的に私は異議ありません。ただしイザヤさんの言い分も伺ってからにしたいと思います。なおこの話は、イザヤさんにとっては決して悪い話ではないと思います(むしろ有利な提案と思います)。
- 具体的方策としてはB案でいいと思います。「ヘーレム」が二版存在するように見えるのは、「へーレム」と「ヘーレム」の二版があるからです。前者は「へ」が平仮名で、後者は「ヘ」が片仮名です。これは、Jmsさんによる単純なミスによるもののようですね。ですので技術的課題はそう多くないと思います。
- (2)神学的でない事柄にも聖書を出典にできないのかについてですが、私の回答はこれに対しては「基本的には否」ということになります。「出典」ではなく「参照箇所」には出来ますが。
- たとえば「聖書に○○と書かれている(申命記○章○節)」という記述自体は可ですが、その聖書記述がどのような意味・価値を持つかについてはとんでもない数の解釈・釈義・理解方法がありますから、「聖書に○○と書かれているが(申命記○章○節)、このことについてAはXと解釈する<ref>出典(聖書以外の[[検証可能性]]のある有効な文献)</ref>」と記述しなければ、意味を成しません。
- 「出典として使えないのか」については「ガイドライン上の問題」というよりは、「事典として」意味ある記述にするためには、聖書のみでは「不適切」ではなく「不可能」ということです。--Kinno Angel 2011年1月27日 (木) 10:00 (UTC)
- (2)についての他の事例における余談気味の話ですが、イスラーム(イスラームにおけるイーサーなど参照)でも同様の事情がありますね。イスラームにも数多くの釈義方法があり、宗派・学派があります。クルアーン、ハディースについても、アリーを巡る解釈でワッハーブ派と十二イマーム派が同じ解釈になることは有り得ません。ですので当然クルアーンやハディースの引用だけでは記事文章は構成出来ないという事になります。仏教についても、法華経の位置付けについて日蓮宗と浄土真宗で同じになるということは有り得ないということで、仏典の引用だけでは記事文章は構成出来ません。--Kinno Angel 2011年1月27日 (木) 10:20 (UTC)
- コメント私の書き込みに少し誤解があったようですみません。分割案に関してですが、私は「聖絶」と「へ(平仮名)ーレム」の二版が存在したままでとりあえずはいいのではと考えます。共に完成されているのであれば、統合するのが望ましいと考えますが、現時点では統合時・あるいは後に再び問題が起こるように思います。それと聖書は出典として使用出来るか、ということに関してはKinno Angelさんの上記の意見に同感です。--木人 2011年1月27日 (木) 12:15 (UTC)
- コメント井戸端での議論を見て来られたのかと勘違いしました。現在「聖絶」「アナテマ」に加え、平仮名の「へーレム」と片仮名の「ヘーレム」(聖絶へのリダイレクト項目)が乱立している状態なのです。聖絶とアナテマは作成されて大分時間の経つ項目ですが、平仮名の「へーレム」はごく最近イザヤさんによって立てられたばかりの項目です。平仮名と片仮名が混在する項目はいくら何でも削除しないとまずいでしょう。その上で、リダイレクト項目として作られた片仮名の「ヘーレム」へ統合ないし移動が望ましいと提案しているのです。聖絶は新改訳聖書での造語ですから、福音主義(特に日本の)における聖絶の項目として新たに作成しましょうと、新たに提案しているわけです。--Bokemiann 2011年1月27日 (木) 13:02 (UTC)
手順については議論があるかも知れませんが、Bokemiannさんが福音派用語の「聖絶」の記事と、ユダヤ教や岩波の学問的解釈が入った記事の分離に同意くださるなら、基本的に異議はありません。ただし、アナテマとヘーレムも分割されるべきです。アナテマはギリシャ語でヘーレムはヘブライ語です。
タグについてですが、説明したと思ったのですが、他の例をあげてみます。この憑依の記事ですが、「キリスト教」の節にキリスト教知識がある人、クリスチャンであれば誰でも唖然とすること確実な記述が載っていたので、キリスト教プロジェクトに問題提起をしました。「キリスト教」ではない内容に、「キリスト教」と付いてるのだから間違いです。この憑依については私とKinno Angelさんが、改善のために介入しておきました。キリスト教福音派の用語としての聖絶とユダヤ教や岩波の見解が分離され、違う前提、用語の使用法の中で使われるのならばともかく、福音派用語の聖絶の「新約聖書」や「キリスト教」の節に異なる見解がいっしょに書いてあったので、タグを付けたのです。進化論の項目に進化論者の理論が書かれてあるのは当然です。批評的聖書学の項目や節に批評的な見解が書いてあるのは当然です。しかし、混在している状態であれば、細かくタグを付けてふりわけるか除去するべきです。進化論の項目には進化論、批評的聖書学には批評的聖書学、ユダヤ教にはユダヤ教です。
前提条件がいくつも違います。福音派はこの記述が史実と断じます。しかし、岩波訳の解説によれば史実ではありません。福音派にとっては現役の用語です。しかし、他の人たちにとっては死語です。またアナテマに『新聖書辞典』を出典として『新聖書辞典』とは異なる見解がいっしょにされている記述があったので、あらためて確認の上、記事の中で分離しておきました。些細な用語の違いに見えたのかも知れませんが、神学的な相違が出ています。しかし、神学的相違があるにも関わらず、Bokemiann さんは、「それを聞いてどうしようというのでしょうか? (あなたにとっては)神学的にも大事な問題かも知れませんが、Wikipediaは(一般向けの)百科事典なので、ここでそれを詳しく云々することは偏った記述になってしまう恐れがあります。」と言われました。神学に関する用語で神学的相違が重要でないと主張されるのはとても不思議です。アナテマはギリシャ語ですが、基本的にローマ・カトリックの用語であって、ジャン・カルヴァンは『キリスト教綱要』でこの語を分析しています。また、プロテスタントにとってギリシャ語聖書の語句としてか、あるいは教会論、規律、戒規に関わりがある語ではありますが、アナテマはまず、ローマ・カトリックあるいは正教用語として優先的に記述されるべきです。アナテマはとても強い意味を持った語です。また、プロテスタント正統主義の契約神学など持ち出さなくても、宗教改革時代に旧約と新約について詳しく説明されています。すでに教父時代の文書、正統神学で数多くの説明があるのです。それにも関わらず、契約神学がどうだとか書かれていて、しかもバルトと関係があるなどと言われて、その明らかに神学的に問題のある記述を放置するなら「不作為」となってしまいます。タグを付けたのは誰か、それを無視はしませんが、誰が付けたかはそれほど重要だとは認識していません。むしろ出典がなく、神学的におかしい記述を放置した「不作為」の方が問題だと認識しています。--イザヤ 2011年1月27日 (木) 13:58 (UTC)
- コメント 「それを聞いてどうしようというのでしょうか?」発言は自分でもちょっと拙かったと思っています。そのことについては謝罪します。まさか神学的な違いがそんなにあるとは思いもつきませんでした。逐語霊感説を取るクリスチャンにとっては聖書に書いてあることは100%紛れもない事実だったのですね。そのことをつい失念していたようです。なので、出典もなく独自研究しかできないのではないかと思っておりました。ただ、あなたが引用している文の後で、《出典を伴った両論併記ないしは「(○○の立場の)クリスチャンはこのように捉えている」という表記ならアリかも知れませんが。なお、肝腎の表現は『聖書思想事典』(訳注)の文言を多少変えて私が記述したもので、従来は「変化し」です。問題があるのならばそのように直したらよいと思います。》と私は書いています。「書くな」とはひと言も言っていません。その点はご理解下さい。そんな訳で、イザヤさんは色々と出典をご存知のようなので、福音派の神学的な見解を詳しく書いて下さい。私も詳しいことを知りたいので期待して待っています。ただ、これを書き込む項目は分離が成った後の「聖絶」の項目の方が記載先としては望ましいと思いますが。
- コメント神学については全く素人です。バルトは私の勘違いだったようです。契約神学に関する記述もイザヤさんのような詳しい人が見て明らかに間違いだとおっしゃるのなら削除ないしコメントアウトすることに私も全面的に賛成します。ただ、「ひと月は早いのでは?」と抗議しただけです。それに、私も興味があるので、『キリスト教綱要』のどこでアナテマを分析しているのか教えていただけませんか?(事が落ち着いた「聖絶」か「アナテマ」の記事の中で) 私も綱要のその部分を自分の目で読んでみたいと思います。--Bokemiann 2011年1月27日 (木) 18:00 (UTC)
- コメント
- 収束に向けて必要な話だけしたいと思います。これまでの問題については色々錯綜してしまっていて、それを解きほぐすのは無駄ではないにせよ、実りに比して必要なリソースが膨大過ぎて、当事者間では重要な位置付けがあるかと思われますが、申し訳ありませんが「解決・収束のためには」意義をあまり見出せません。
- イザヤさんの以下のご発言が収束にあたって重要と思います。
- >Bokemiannさんが福音派用語の「聖絶」の記事と、ユダヤ教や岩波の学問的解釈が入った記事の分離に同意くださるなら、基本的に異議はありません。ただし、アナテマとヘーレムも分割されるべきです。アナテマはギリシャ語でヘーレムはヘブライ語です。
- 聖絶(福音派概念説明記事)、アナテマ(ギリシャ語を巡る概念説明記事)、ヘーレム(ヘブライ語概念説明記事)の三本立てに賛成票を入れます。アナテマとヘーレムの分離についてはBokemiannさんの御見解を把握しておりませんが(既に仰っておいででしたら申し訳ないです)、少なくとも正教で「アナテマ」は言われますが「ヘーレム」はまず言われません。
- 「二本立て」か「三本立て」かの意見の相違はもしかしたらあるかもしれませんが、基本的にもはや結論においては対立点があまり無いように思えるのですが、如何でしょうか。
- なお「平仮名」と「片仮名」の違いが生じてしまったのは、Jmsさんによる単純なミスのようですね。実際の履歴継承をどのようにするか合意するのは、テクニカルな話題のみで済むと思います。
- で、大変大変申し訳ありません、本日から約1週間、多忙につき、出来るだけ本件を見に来るつもりではおりますが、殆ど編集が出来なくなります。どうか本件が冷静な議論のもと、収束していく事を願っております。1週間したら、また戻って参ります(少しだけ草取りさせて頂く事はあるかと思いますが、熱い議論に参加出来るほどの時間は申し訳ありませんが取る事が出来ません…)。--Kinno Angel 2011年1月27日 (木) 14:11 (UTC)
- コメント 私も仕事が押し迫っているので暫く積極的な編集活動は出来ません。議論には必要最小限の時間しか割けなくなると思います。技術的な問題が色々とあると思いますが、それも1週間程度たってから行ないましょう。簡単な提案ぐらいはするかも知れませんが、私もそれまで余り時間を取れません。--Bokemiann 2011年1月27日 (木) 18:12 (UTC)
最終的な提案
Wikipedia:利用案内#同じ名前のページが2つ以上存在する場合の対処方法にて相談した結果も考えて、
- 平仮名の「へーレム」はひとまずおいて、まずは「聖絶」を片仮名の「ヘーレム」に改名(移動)するのがよいと思います。その後で平仮名の「ヘーレム」をどうするか考えても充分でしょう。平仮名の「ヘーレム」は「聖絶」の片仮名の「ヘーレム」への移動後、統合するなり削除するなり決めましょう。まだ余り編集が為されていない項目なので、履歴の継承も特に必要がないのではないかと思います。
- アナテマも別立てにする。
- ヘーレム、アナテマ、聖絶で扱う範囲は以下の通りにする。
- ヘーレム:現在の内容をそのまま活かし、今後、ヘブライ語(ユダヤ教)及び旧約聖書学の観点から扱い、その上で現代的な観点(批判)にも触れる全体的な項目にする。
- 聖絶:福音派の訳語としてのヘーレムに特化した内容を扱う。※今回新たに記事を起こす。
- アナテマ:ギリシア語及びラテン語聖書の概念としてのヘーレムを中心に扱う。古代教会を含むカトリック教会(及び正教会)、古プロテスタントまでを範囲とし、それ以後はヘーレムで扱うが、特に聖書根本主義の神学の場合に限り聖絶で扱う。
- なお、聖絶の移動は私でもできますし、移動後の平仮名「ヘーレム」の片仮名「ヘーレム」への統合も私がやれます。問題は、聖絶のどの版を下に新項目のヘーレムとするかですが、上記の通りヘーレムは今後ヘブライ語の概念として記述されてゆくので、上記に提案した過去の版に戻した上で編集することを提案します。その辺の細かいことは今後相談して決めましょう。お互い拙速を戒め、合意の下に粛々と作業をするよう心懸けましょう。そのためにも、合意形成されたと思っても、直ぐに編集作業をせず、きちんと確認の上で判断するようにしましょう。--Bokemiann 2011年2月4日 (金) 04:03 (UTC)
- >合意形成されたと思っても、直ぐに編集作業をせず、きちんと確認の上で判断するようにしましょう。
- Bokemiannさんの仰るこれ↑、とても大事なことだと思います。実りの無い行き違いを避けるためにも、慎重に慎重を重ねましょう。--Kinno Angel 2011年2月4日 (金) 04:05 (UTC)
報告 時系列での誤解を招くことを避けるため、節の位置を変更させて頂きました。ご了承ください。--Kinno Angel 2011年2月4日 (金) 06:56 (UTC)
Kinno Angelさん、節位置の移動をして下さってありがとうございます。
さて、2/9朝(UTC)に保護が自動解除されます。しかしながら、本最終案に対する賛否が今のところ誰からも表明されていません。できれば明日中には有効なご意見が伺えれば幸いです。上に書いたように保護解除開けに編集作業が為されなければそれでもよいのですが、その時はじっくりと話し合い、合意形成しましょう。合意なく勝手に記事をいじり、改名をすることはお互いに避けたいものですが、ただ、今後特に何の意見表明もない場合は私の提案(最終案)が承認されたものと判断いたしますが、それで差し支えないでしょうか? --Bokemiann 2011年2月7日 (月) 06:35 (UTC)
ヘーレムは現在の内容をある程度活かすことに賛成しますが、福音派の神学と他の宗教や高等批評の観点が混在している部分があるので、それは分けられるべきです。福音派と聖霊派の用語としての聖絶の記事は私が資料を多く持っているので、新しく起こすのに問題はありません。アナテマはギリシャ語の説明と教父時代のことから書く必要があります。Bokemiannさんはいろいろな所で「気に入らない記述を削除したがっていた」ことを理由に削除したと言っておられますが、契約神学について言及された記述は明らかな神学的な誤謬です。出典のない誤謬を除去することに対して妙なレッテルを貼るBokemiannさんの態度を疑問に思っています。また、聖書解釈をしないといいながら、Bokemiannさんはご自分の聖書解釈を入れておられます。一字一句厳密に調べず、釈義、注解、講解を見ずに書かれてある記述は、独自の聖書解釈です。誰か個人の独自の聖書解釈を除去することは「気に入らない記述を除去した」のではありません。私は全体としてリベラルや批評的聖書学の記述はむしろ足りないぐらいだと考えています。日本語版ウィキペディアには批評的聖書学の代表格ともいうべきen:Jesus Seminarさえまだないのです。もと記事を充実させずに、それから派生したものではないかと考えられる記述や批判的聖書学ですらない独自研究が出典なしに書かれてあれば、それは問題です。私が問題としているのは、出典がない記述、誤謬、混在です。出典があれば誤謬であったとしても必ずしも除去されるべきだとまでは考えません。ただし、分けて記述されるべきだとは考えます。ただし、混在は前提が違う以上不正確になります。--イザヤ 2011年2月7日 (月) 08:18 (UTC)
- コメント 私がまず言いたいこと、そして現在一番懸念していることは、合意形成がしっかりと為されない前に拙速に編集作業をしないことにまず合意していただきたいということです。
- あと、前回の出典削除について、特に契約神学に関しては既にこのノートでコメント済みです。これに関しては私の知識不足であることを認めますが、何の議論もなく、私が出典要請タグを付した項目を全て削除されたのはイザヤさんです。それはお間違いのないようにお願いします。そして、あなたの反論は全て契約神学に関わることだけで、それ以外の2つの項目の削除については理由も説明されていません(これは私も多少の出典は知っていたのですが、より適切なものを求めての出典要請でした)。また、アナテマにおいても、私が付した出典を下に、片方は事典の編者名、片方は事典名で編集し直すような編集を為さるようでは、片方の見解を特定人物の個人的見解だと読者に思い込ませる意図を疑われても仕方がありません。そんな訳で、このような編集ばかり続けているイザヤさんが、「気に入らない記述を削除したがっていた」と言われるのも仕方がないことだと思います。ただ、ここでこのことを論じても無意味なので、この辺で止めておきます。今後は合意形成に向けて建設的な(技術的な)話し合いを中心に行ないましょう。
- なので、具体的な項目について賛否をお願いします。
- まずは手続き上色々とややこしい問題があるので、色々と意見はあるでしょうが、聖絶は私の提案する過去の版(イザヤさんの言うユダヤ教POVの版)にいったん差し戻しの上、ヘーレムへ改名するのがよいと思います。その上で編集作業をしましょう。
- コメント ヘーレムにはヘブライ語聖書や高等批評、現代の評価を中心として扱うとしても、福音派の解釈もある程度は触れる必要があると思いますので、現在のままで余り問題はないと思います。わざわざ分ける必要性を感じませんし、分ける案には反対です(これについては後述)。今後新規作成する聖絶で福音派や聖霊派の主張を詳しく取り上げればよいことです。とりあえずはヘーレムを中心項目として、アナテマ、聖絶に分割して個別論点を詳しく扱うのが理想だと思います。また、契約神学に関してはコメントアウトでも削除でも構いません。なお、どうしても分けるべきだという記述があれば後日改名後にご指摘下さい。その時新たに議論しましょう。
- 平仮名「ヘーレム」は「ヘーレム」への統合がよいと考えていますが、それとも廃棄(削除)がよいでしょうか? これはイザヤさんの一存に任せます。なお、統合の場合でも履歴の統合は管理人の判断で為されない可能性があります。
- 「ヘーレム」「アナテマ」「聖絶」で扱う範囲はこれでよいでしょうか?
- コメント ただ、幾ら厳密に定義しても、Wikipediaの性格上、新規参加者によって重複する内容が記述される場合があり、それを禁止することは不可能です。やろうとすれば労ばかり多く益が少ない不毛な作業が増えるばかりなので、余り厳密には適用しない、ある程度緩やかなものとすべきです。従って、現在の聖絶に福音派の解釈が多少入っていてもそのままとしてもよいと思います。
- なお、これは今回の議論からは多少はずれる論点ですが、あなたの各論別記の主張は、全体としてのWikipediaの整合性を考えた場合、いささか問題だと考えます。個別記事内での両論併記がいやなのは分かりますが、いささかやり過ぎではないでしょうか? 本来記事の分割は、その記事が肥大化するなどして利便性などの問題が発生した時に為されるのが筋ですから、現在のようにあれもこれも分割しては却ってWikipediaの利便性その他が損われてしまいます。なので、現在の聖絶でも色々な観点が混在していた方が利用者にとってはひとつの記事で色々な観点を知ることが出来て便利だと感じるはずです。それを必要以上に分割すると、利用者にあっちこっちのリンク先を読ませることになり、不便極まりない。あなたの編集に反対しているのはそのこともあってのことなので、その点はご理解下さい。
- また、私は必ずしも独自解釈を入れてはおりません。この項目には大分積極的に関わってはいますが、加筆が中心です。私以外の多くの編集者の何年のも渡る記述で成り立っている項目です。そういったことを踏まえて、それなりに根拠のある説明を加筆を中心に書いています。ヘーレムを異民族の殺戮と見るのはイザヤさんにとってはお気に召さない解釈なのかも知れませんが、多くの人の認める解釈ですし、聖書にもそのように書かれてある事実で、それは否定できないはずです(高等批評ではそのような事実は殆どなく後世の解釈だと見るのですが、私個人は必ずしもこの解釈を是とはしていません)。その辺の問題についても、多少時間はかかりますが、改名後に私の方でも色々と文献に当たってみましょう。なので、拙速な削除はどうかご遠慮下さい。--Bokemiann 2011年2月7日 (月) 10:14 (UTC)
- コメント 基本的にヘーレム・聖絶・アナテマの三本立てに統廃合すること、その内容についてはBokemiannさんによる区分に賛成です。ただし一部修正を加えますと、「アナテマ」に、現代も運用される教会法上の概念を加えたいところです。
- イザヤさんはそれで異議はないでしょうか?なお、これはかなりイザヤさんに有利な提案がされていると思います。
- どのように移動・統合・分割されるかについては、履歴継承される以上、それほど拘りはありません。他に異議が出されなければ、Bokemiannさんにお任せしたいと思います。なお当方の会話ページでも申しましたが、「履歴継承」と「履歴統合」は違います。前者はどのように統合が行われたかを要約欄に記すだけの簡単な記述であるのに対し、後者は管理者の手が必要となるものです。
- 統合にあたっての履歴継承→Wikipedia:ページの分割と統合#統合の手順を参照
- 管理者による履歴統合→Wikipedia:履歴#履歴統合を参照
- 統合作業の際に、Wikipedia:ページの分割と統合#統合の手順をよく御覧頂きますよう、Bokemiannさんにお願い申し上げます(私も記事の統合をする時には神経を使ってよく読みながらやっております)。--Kinno Angel 2011年2月7日 (月) 23:54 (UTC)
- Kinno Angelさんありがとうございます。
- アナテマで扱う内容に教会法も当然入るつもりで書きました。是非加筆して下さい。
- 私の区分案はあくまで多少の曖昧さを残すものです。Wikipediaの性格上、幾ら厳密に取り決めてもその通りにはゆきません。なので、各内容で多少の重複があってもよしとします。いや、多少なら重複はあった方がよいでしょう。問題があれば、ノートで提案した上で転記なり分割をして、そのつど対処すればよいことです。
- また、ページを改名するのですから、履歴もいっしょに移動するはずです。(ないとは思いますが、何か問題があって履歴が移動しなかった場合は、聖絶が新たに起こされる関係で、管理者に履歴の統合依頼を行ない、聖絶はいったん削除してもらうつもりです。)
- それと、これはイザヤさんへのレスですが、私は「聖絶」はこのままの形で「ヘーレム」へ改名を主張しています。作業がややこしくなるだけだし、殊更に分ける必要を感じません。訳語の試みとしてもアナテマと聖絶にも触れなければなりません。なので、上記2番目に書いたように福音派の解釈が多少混在していても構わないと思います。福音派や聖霊派に特化した内容を現在の聖絶以上の内容で加筆してゆけばよいのです。何も問題はありません。それができないとおっしゃるのならば分ける必要が元々ないことになりますし、3者を統合した方がよいことになります。それに、ここが重要なのですが、私の案はあなたの要望を最大限活かしたものです。もしもこれでも不満があり、異論があるというのならば、私としても少なくとも今の段階では合意できません。今はこれだけ言っておきます。改名提案を昨日いたしましたので、1週間以内に結論を出すようにお互いに努力しましょう。--Bokemiann 2011年2月9日 (水) 06:03 (UTC)
- Kinno Angelさんありがとうございます。
再度繰り返します
イザヤさんにお願いします。ご意見は合意形成に向けて私の提案の個々の技術的な問題にのみ集中して下さい。細かい論点は、やりたければ改名後にすればよいことです。色々と作業が繁雑になるので、まずは聖絶の過去の版(ユダヤ教・高等批評が前面に出た版)で改名を行ないたいと思います。今の版ですべきだとのお考えであれば、そのようなご意見を理由明記のうえ表明して下さい。それ以外の論点(出典云々)は、合意形成をイタズラに長引かせるだけなので、少なくとも今は受け付けられません。よろしくお願いします。--Bokemiann 2011年2月7日 (月) 17:35 (UTC)
- コメント どうもイザヤさんが勘違いされているようなので、ひと言。
- イザヤさんはご自分の利用者‐会話:イザヤで、「Bokemiannさんは、私の編集をこの前のような合意形成なしでの編集と主張しておられます。Bokemiannさんはそう主張しておられるのですから、そのBokemiannさんの主張に対しての返答は、論点ずらしとは考えられません」と書いておられますが、完全が誤解です。私はこのページで「統合に関する合意形成」と何度も言っています。聖書を出典にできるか否かの論点ではありません。何度言えば理解できるのでしょうか? そういう反論をするから「論点ずらし」と言われるのです。
- そんな訳で、そろそろ合意形成に向けて動かないといけません。よろしくお願いします。--Bokemiann 2011年2月9日 (水) 17:07 (UTC)
結論を出したいと思います
そろそろ結論を出したいと思います。
Kinno Angelさんからは私の改名案に対して全面的な賛成が表明されました。イザヤさんからは、それ以前に、反対なのか賛成なのかハッキリしない意見が表明されていますが、論点ずらしとも取れるような反論でしたので、昨日イザヤさんの誤解らしきことに対してコメントしておきました。申し訳ありませんが、イザヤさんは改めて賛否を表明して下さい。なお私は、統合案を取り下げて、イザヤさんに要望に添った改名案を提出しておりますので、細かい技術的な問題以外でのこれ以上の妥協はできないことを先に表明しておきます。なお、決裂した場合は統合案に戻して再提案も考えています。
では、以下に賛否を表明して下さい。(※なお、2/8に改名提案を提出してありますので、1週間程度たったも特に異論がない場合は私の案で賛成されたものと見なします。)--Bokemiann 2011年2月10日 (木) 10:15 (UTC)
- コメント 誤解があるといけないので説明しておきますが、改名はまず過去の版、すなわち上で提案した今回の編集合戦が始まる前の版に差し戻した上で行ないます。この版であれば福音派の見解も最小ですし、特に何も問題はないと思います。--Bokemiann 2011年2月11日 (金) 05:37 (UTC)
賛成 むしろ最初の統合案の方が色々と面倒な問題を抱えていると思っておりました私としては^^;、Bokemiannさんの現状案が最も収拾がつき易い、合理的な解決案であると思います。もし統合案に戻されてしまった場合には、内容によっては私がごちゃごちゃ言い出すかもしれません。現在の案にこそ積極的賛成票を投じます。--Kinno Angel 2011年2月10日 (木) 10:47 (UTC)
コメント 一週間以内にお返事する予定です。--イザヤ 2011年2月11日 (金) 09:28 (UTC)
報告色々と声をかけたのですが、賛否表明が意外と少ないので、多数決で決めても問題を残しそうです。そこで、客観的な第三者の目でも判断していただきたく、とりあえずコメント依頼(合意形成)に提出しました。--Bokemiann 2011年2月12日 (土) 09:45 (UTC)
- 「ご意見は合意形成に向けて私の提案の個々の技術的な問題にのみ集中して下さい」とのことですし、派生した議論もありますので、技術的な問題に絞って回答します。1.「聖絶は私の提案する過去の版(イザヤさんの言うユダヤ教POVの版)にいったん差し戻しの上、ヘーレムへ改名するのがよいと思います」は、わかりました。2.「聖絶」を新規に作成しますが、保守的な神学と語学の知識のある方がおられましたので、私一人でやるのではなく、彼に協力を求めたいと思います。3.カタカナ表記については、読み方に争いのあるようなものではなく、正しい日本語にあわせることで何ら問題がないはずですが、間違った表記については削除依頼がよさそうですね。4.「ヘーレム」「アナテマ」「聖絶」の区分ですが、当面はそれで問題がないと考えます。しかし、Bokemiannさんが言われるように、記事は成長していくものですし、Bokemiannさんや他の人にも何か新しい発見があるかも知れません。また、Bokemiannさんはマックス・ウェーバー関係にお詳しいようですが、Bokemiannさんのご関心と知識にはもしかしたら、聖戦や正戦論に加筆するのによりふさわしい内容もあるかも知れないと思っています。加筆やふりわけを考えるのにあたって、そちらのページもぜひのぞいてみてください。ことば社の新聖書辞典は聖絶と聖戦を分けています。正戦論については歴史的平和教会と言われる教会と、他の教会(伝統上)との間に対立軸が存在します。--イザヤ 2011年2月15日 (火) 11:41 (UTC)
- では、合意ということで決定ですね。--Bokemiann 2011年2月15日 (火) 12:06 (UTC)
改名しました
皆さまにはご心配を色々とかけましたが、「聖絶」を特に問題なく「ヘーレム」へ改名しました。また、平仮名の「ヘーレム」の内容も一部加味して編集したため、平仮名ヘーレムは削除が妥当だと思います。なお、ついでに出典のない記述のうち幾つかを取りあえずコメントアウトしておきました。まだまだ不備のある項目ですが、今後みんなで少しずつ改訂してゆきましょう。--Bokemiann 2011年2月16日 (水) 13:02 (UTC)
大幅な編集の報告
改名後、色々と編集してまいりましたが、まだまだ加筆しようと思えば加筆できる項目はあるものの、ほぼ当初の予定プラスαの加筆・編集がほぼ終わりました。
多少大まかながら、加筆の内容としては、まずは平仮名「ヘーレム」の項目の内容をなるべく活かす加筆等を行なった後、語義の変化と翻訳の試みを加筆し、それに加えてマックス・ウェーバーの『古代ユダヤ教』を出典とした記述を加筆しました。また、一部出典情報を付加・加筆し、ヘーレムの出現箇所を明記しました。そして最後に、「批判的視点」の節に付された「独自研究」タグとページトップに張られた告知タグをいったん削除しました。
なお、最後のタグ剥がしに関しては、出典はほぼ明記されており、改名によっていったん議論がリセットされたと解釈したこともありますが、特に「批判的視点」で要出典タグが付された文章が独自研究とは言えないことが理由です。この部分は私が書いた記憶があるのですが、福音派の信者からもよく聞かれる発言ですし、特に後者の内容は福音派信者の個人ブログや牧師説教(web情報)でも散見されるものでもあります。ただ、活字による出典がないため、要出典タグはそのままとしました。削除ないしはコメントアウトでも構いません。なお、後者の内容のみ「現代のキリスト教による評価」の福音派の部分に転記しようかとも考えましたが、とりあえずは現状のままとしました。タグ剥がし等の編集に問題があると思う方がいれば差し戻しをお願いします。
以上、簡単ながら一連の編集の内容について報告します。--Bokemiann 2011年2月22日 (火) 13:03 (UTC)
ヘブライストからの意見
IPアドレスで失礼いたします。「ヘレム」のノートのIPユーザーと同じ者です。はじめに、これまで気付かなかったのですが現行の本記事「ヘーレム」の内容はイザヤさんではなくBokemiannさんの手によるものだったのですね。「ヨッド (ヘブライ文字)」の記事中に見られた「活字体」という単語が本記事「ヘーレム」にもあったものですから、すっかりイザヤさんの手によるものかと勘違いしておりました。その「活字体」についての「ヘレム」のノートでの指摘ですが、少々角が立った言い回しになってしまったことをこの場を借りてお詫びいたします。ちなみに「活字体」ではなく「概念」という言葉に置き換えるのが適当かと思われます。
さて、せっかくですのでもうひとつ踏み込んだ意見を述べてみたいと思います。議論の混沌に拍車をかけるのは承知の上での話ですが、「ヘレム」の記事が不要なのは当然として、本記事「ヘーレム」でさえも日本語版ウィキペディアには時期尚早なのではないかと考えているのです。
そこで、この問題に関してひとつだけ確認しておきたいことがあります。Bokemiannさんによる現行の本記事「ヘーレム」における記述の多くは、いのちのことば社の『新聖書辞典』(1985年)と三省堂の『聖書思想事典(旧版)』(1973年)に拠っているみたいなのですが、『聖書思想事典(旧版)』はわたしのほうでも所有しておりましたのでさっそく出典を確認してみました。ところで、わたしは当然ヘーレムの項目において確認できると思っていたのですが、これは実のところアナテマの項目にヘーレムのことが書かれていたのですね。そこでお尋ねしたいのですが、『新聖書辞典』においてもやはりアナテマ、あるいは聖絶の項目にヘーレムについてのことが書かれており、その内容を本記事「ヘーレム」の出典とされたのでしょうか? もし『新聖書辞典』からの出典とされる記述がヘーレムの項目ではなくアナテマ、あるいは聖絶の項目からのものであるのなら、現行の本記事「ヘーレム」の大半はアナテマや聖絶といったフィルターを通じて書かれたということになります。言い換えれば、ヘーレムを語っているようでいて実際に語られているのはアナテマや聖絶でしかないということなのです。まず、これに関して教えていただきたく存じます。また、出典とされているそれ以外の書物の中で、できればユダヤ教ではなくキリスト教関連の書物の中で、アナテマや聖絶といった概念を介さずに直にヘーレムについて語っている記述を知っていれば、それも合わせて紹介いただければあいがたいです。とくにキリスト教関連と限定したのはそこに論点があるからに他なりません。よろしくお願いします。--以上の署名の無いコメントは、61.203.120.154(会話・投稿記録)さんによるものです。
- ご質問ありがとうございます。イザヤさんとの編集合戦のため、この関連の記事の履歴は非常にややこしくなっています。なるべく簡単にお答えしますが、本項は何年も前にまず「聖絶」の記事として立項され、私も半分ウィキブレイクしたりしながらもこの記事の加筆には大分関わってきました。そして、記事名は「聖絶」でありながら、立項の当初から福音派の立場に依らぬリベラルも含む記事展開でした。詳しくは上にまとめた編集合戦の経緯などを見ていただきたいのですが、昨年秋ごろからイザヤさんと編集合戦になり、後で分かったことですが、イザヤさんはリベラルな記述を排除し、福音派及び聖霊派に特化した記事として、何の議論もなしに本項を改変しようとされました。それで、当初は聖絶をヘーレムに改名して、アナテマと統合の案を提出していたのですが、イザヤさんが頑として譲らないので、この記事をイザヤさんの編集から守るために「聖絶」を「ヘーレム」に移動して、「聖絶」はイザヤさんの立場で編集してよいという案を提出、それが承認されたので、本記事を私が改名し、大幅に加筆した次第です。なお、「アナテマ」は私がうっかり立項してしまった項目です。今はそこでもイザヤさんとぶつかっています。
- さて、最初のお尋ねのヘブライ語の活字体という表現は、間違いだとは知らなかったので、イザヤさんのものをそのまま使いました。イザヤさんは、ヘブライ文字のリダイレクト先として間違って作成された「へーレム」(“へ”が平仮名)を統合の議論中に勝手に起こされ、それを私が「聖絶」の改名後に活かしたものです。不自然であれば以前のものに戻しますし、或はご指摘の概念とします。もっとも、分からないことはやりたくないので、内容を確認した上で以前の表記に戻すかも知れません。
- そんな訳で、元々この記事は旧約聖書のおいて異民族の殲滅が神の名において行なわれたという観点から書かれています。出典は『聖書思想事典』と『新聖書辞典』を実際に見て注記しました。後者は当然「聖絶」の項目で解説されています。なお、両者の説明には若干の違いがありますが、その違いについては先ほど「アナテマ」で簡単に触れておきました。本記事を「ヘーレム」に改名したのは上記の理由ですが、おっしゃる通りアナテマないしは聖絶のフィルターを通してヘーレムについて解説するのが問題であるとは指摘されるまで思いもよりませんでした。それは「破門」の意味合いがあるからでしょうか? それならば語義の変化として簡単ながら説明してあるし、そこで触れているので充分と思いましたし、「ヘレム」の内容を転記すればよいと思っていたのですが、それだけでは不充分なのでしょうね。本来は「聖絶」に戻した方がよいのでしょうが、イザヤさんが騒ぎ立てるので、それは今は不可能です。疲れ果てました。
- あと、今回の加筆で利用したのはマックス・ウェーバーの『古代ユダヤ教』上巻(岩波文庫)の聖戦の箇所です。他に参考にしたものは、岩波書店訳の旧約聖書のヨシュア記とサムエル記の解説、そして補注(こちらは合本版)です。また、まだ記事化していませんが、現代からの批判的視点として『キリスト教平和学事典』(教文館)が利用できそうです。この事典では聖絶やヘーレムの項目はありませんが、聖戦の記述などで聖絶の語が多少批判的に使われています。従って、「アナテマや聖絶といった概念を介さずに直にヘーレムについて語っている記述」としては、私の知るものは残念ながらありません。
- あと、イザヤさんに代わってお答えしておくと、「ユダヤ教で一番重要な儀式」というのは彼が見た黒川知文氏の著作にそう書いてあったらしいですが、多分それは「○○において」という限定が付いているものと思われます。イザヤさんはあのように理解力に難点のある人なので誤読したのかも知れません。ちなみに、イザヤさんに関しては逸脱行動が余りにも目立つため、現在コメント依頼中ですが、出典を見ないで出典付きの記事を書くことも時々ある方なので困った人なのです。
- 今日は疲れているためか、文章が中々うまく書けません。そんな訳で、何だか全然お答えになっていませんが、疑念があればいくらでも質問して下さい。そうすればもう少しうまく説明できるかも分かりません。--Bokemiann 2011年3月9日 (水) 16:35 (UTC)
- コメント とりあえず応急措置として「ヘブライ語の活字体」という表現から「活字体」だけを取り除いておきました。これは多分「חרם」のことを活字体とイザヤさんは書きたかったのだと思います。イザヤさんがヘブライ語の記事を書こうとしてトンチンカンな表現になったのでしょうか。それを変な表現だなと思いながらそのまま採用してしまった私にも責任があるかも知れません。いくら包摂主義を辞任しているからと言ってこれではいけませんね。ちなみに、従来の記事では、「聖絶はヘブライ語のCheremの翻訳語の一つ」とされていましたが、それが今回の編集合戦でいつの間にか削除されていました。もしもこれを復活させるとしたら、「英語ではCheremないしはHerem」としなければならないようですね。--Bokemiann 2011年3月10日 (木) 05:27 (UTC)
丁寧なご回答をありがとうございます。また、署名の補助をしていただいたことにも御礼申します。「ヘレム」のノートでのKinno Angelさんによるものも含め毎回心苦しく思っているのでずが、前にも申しましたようにすでにウィキペディアからは引退を決意した身ゆえ、今さらアカウントを再開させるのにためらいを覚えるのであります。その点を配慮の上、議論への参加をお許しいただければ幸いです。それから、イザヤさんの暗躍についての問題を解決できていない現状で大幅に手を加えるのはうかつな行為になるという点も承知しました。しかし、わたしの意見が意外にも問題の解決に役立つ可能性を秘めているやもしれないのでぜひ拝見していただきたく存じます。以下はBokemiannさんだけでなく全ユーザーさんに対してのものです。
それでは本題に参ります。本記事「ヘーレム」の出典のほとんどが、アナテマという外来語や聖絶という翻訳語によって間接的にアプローチされたヘーレムについての記述であることは想定内のことでした。もっとも、『新聖書辞典』にしても『聖書思想事典(旧版)』にしても四半世紀以上も前の出版物であるゆえ、あくまでも四半世紀前におけるこれらの単語の使用状況が反映されているに過ぎません。ならば現在における使用状況はどうなのかといえば、断言はできませんが、いまだその両事典を出典としなければならないあたりに旧態依然とした現状が暗示されているのではないでしょうか? とはいえ、ことアナテマに関していえば、1973年に出版された『聖書思想事典(旧版)』においてすでに日本語の語彙に交じってアナテマの項目があることからして、当時より、少なくともキリスト教関連の分野では、アナテマがすでに外来語としてのお墨付きを得て一定の地位を確立していたことを意味しているのです。一方のヘーレムは依然として外国語の地位に甘んじているといえましょう。ヘーレムを外来語というにはあまりにも浸透しておらず歴史も浅すぎます。これは日本だけでなく諸外国においても同様で、「アナテマ」の記事に貼られた他言語版ウィキペディアへのリンク数と「ヘーレム」におけるリンク数の歴然とした差がそれを端的に物語っているでしょう。グーグル検索の結果などは言うまでもありません。
とはいえ「本記事は時期尚早」というわたしの考えとは裏腹に、「アナテマ」や「聖絶」といった外来語や翻訳語の記事でもって外国語のヘーレムについて語るにとどまらず、あえて「ヘーレム」の記事を立てて「アナテマ」や「聖絶」との差別化を図るというのは、実のところ全く理にかなっており須らく要求されることなのであります。なぜなら、立項されたIPユーザーさんにその自覚があったのか否かは定かではありませんが、ヘーレムという概念とアナテマ、および聖絶という概念との間には意味上での明確な差異が認められるからです。とくに聖絶との間には顕著な差があります。ところが、その差異を明文化するという使命が現状の本記事「ヘーレム」では全く果たされておりません。その差異について具体的に説明したいのですが、理解の手掛かりに「ヘレム」の記事のノートでも紹介した聖書ヘブライ語における「חרם」の意味をここであらためて紹介いたします。下記のごとく3種類ございます[7]。
- (a)神のために人や家畜や財産を聖別すること。
- (b)戦争時における虐殺、破壊行為。
- (c)ある人物を共同体から排斥し、公共社会と接触しないよう遠ざけること。
そしてもうひとつ、ヘブライ語版ウィキペディアに立てられた「חרם」の曖昧さ回避のページに並べられた記事名とその意味をここに列挙します。
- 「חרם חברתי」(社会的なヘーレム):一般的な破門、追放
- 「חרם כלכלי」(経済的なヘーレム):経済制裁
- 「אמברגו」(embargo):通商禁止
- 「חרם צרכנים」(消費者のヘーレム):不買運動
- 「חרם מדיני」(国家のヘーレム):国交断絶
- 「חרם (הלכה)」(ヘーレム(ハラハー)):ユダヤ教での破門
- 「חרם (מתנות כהונה)」(ヘーレム(聖職者の奉納品)):ハザルが規定した24種類の祭司への奉納品のひとつで、(a)についての拡大解釈
「חרם דרבנו גרשום」(ラベヌー・ゲルショムのヘレム):ゲルショム・メオール・ハゴラーというラビが破門にされた事件- 「חראם」(ハラーム):アラビア語の「حرام」のヘブライ文字転写
- 「חוק רכישת מקרקעין」(不動産取得法):略して「חר"ם」
外来語や直接関係のない単語や熟語はグレーアウトしました。また便宜上「ヘレム」のノートにて紹介したのとは若干表現を変えておりますが、このように「חרם」という概念は現代ヘブライ語の文脈ではもっぱら(c)に基づいた意味で使用されており、(b)の意味では全く使用されていないことがお分かりでしょう。「חרם」(b)は歴史的な用法としてのみいくつかの記事において触れられているに過ぎないのです。参考までにリンクを貼っておきますが、Strong's Concordance [8]やBrown–Driver–Briggs [9]という聖書ヘブライ語辞書では認められるdestroyedやdestructionという意味は、Babylon[10]やWebster's[11]という現代語辞書からはすっかり消えてしまっております。anathemaという単語から間接的に二千年以上も前の過去の用法を知ることしかできないのです。つまり、「חרם」(b)は完全に死語と化しているのです。ところが、アナテマや聖絶を通じて語られるキリスト教徒にとってのヘーレムの意味というのは、(b)の独壇場であるといっても過言ではありません。現状の本記事「ヘーレム」の主眼が(b)にあることは客観的に見ても明らかでしょう。英語版ウィキペディアの「Herem」の記事などは(b)への執着の表れなのです。つまり、記事名と内容があべこべになってしまっているのです(この一言がいいたいがために長文を要してしまいました)。わたしのいう「フィルター」とはまさにこのことです。単なるフィルターではなく色付きのフィルターなのです。この色は完全にキリスト教色に染まっております。本ノートにおける激しいPOV論争のほとんどが(b)にまつわる話題に費やされているのは、まことにキリスト教的な展開であるといえましょう。では、なぜキリスト教徒は「חרם」(b)にこだわるのでしょうか? それはいうまでもなく、「愛の神」を謳いながらヘーレムという概念を用いて神聖護持のための残虐行為を命じた神に矛盾を感じるからであり、この倫理観というのは間違いなく新約聖書によって育まれたものなのです。キリスト教徒に特徴的なこの倫理観がなければヘーレムにまつわる各方面からの評価などは聞こえてこなかったはずですし、たとえユダヤ教徒であってもキリスト教徒と共存している以上、彼らのコンセンサスを無視できなかったでしょう。すなわち、本記事「ヘーレム」の主題に等しい「ヘーレムに対する評価」という項目はキリスト教界隈固有のコンセンサスがあればこその内容といえるのです。さらには、本ノートにおける混沌とした議論もまた、キリスト教徒固有のコンセンサスの賜物であるに相違ないでしょう。いうなれば、本ノート自体が「ヘーレムに対する評価」そのものなのです。
ここで要約します。
- 外来語ではなくあくまでも外国語の「ヘーレム」について語るからには、現代ヘブライ語の文脈で使用されている意味、すなわち「חרם」(c)が優先されるべきなのです。ただでさえ(c)の意味での使用歴が圧倒的に長いのですからこれは当然の判断となります。確かに多くの日本人にとって、ヘブライ語といえば現代ヘブライ語ではなく聖書ヘブライ語を意味しているのかもしれません。しかし現在イスラエル人を主におよそ500万人が第一言語として使用しており[12]、なおかつWindowsのMUI35言語のひとつにも選ばれている主要な言語である事実は無視できません。さりとて(c)を主題とした「ヘーレム(現代ヘブライ語)」の芽が残されているかといえば、「ヘレム」の記事のノートにも書いたように「破門(ユダヤ教)」で十分ということになりましょう。
- 一方、歴史的な用法を中心とした記事を書くのであれば、「ヘーレム(聖書ヘブライ語)」でも構わないかもしれません。もちろん(a)(b)(c)すべての意味を網羅した内容でなければなりません。とはいえ、その内容は「アナテマ」や「聖絶」とおおよそ一致するわけですから(「聖絶」に至っては聖書ヘブライ語の「חרם」に基づいた造語であると謳っている以上、必ず一致する必要があります)、わざわざ内容の重複する記事を別名で立てる必要もないことになります。なによりもアナテマという外来語は日本語圏において確たる歴史があるわけで、しかも今現在も現役で使用されているわけですからなんら不自由はないはずなのです。言い換えれば「聖絶」の記事すら必要ないと感じているのですが、ここは新改訳聖書の翻訳者の立場を尊重して残してもいいということにしましょう。
- では、大半の内容が「חרם」(b)に固執した現状の本記事にふさわしい記事名は何かといえば、ずばり「ヘーレム(キリスト教)」なのです。つまり、ヘーレムというのはユダヤ教やヘブライ語の概念ではなく、いまやキリスト教世界および非ヘブライ語圏における宗教的専門用語と化してしまっているのです。「חרם」(b)という死語をゾンビのごとく復活させたのはキリスト教徒に他なりません。ならば日本語版ウィキペディアでもって大々的に公認を得ればいいのです。
最後の「公認」というのはさすがに冗談なのですが、以上で本記事「ヘーレム」を不要とするおおよその理由を理解いただけたと思います。
ここまでの記述は半ば独自研究のようなものですが、実際問題として同じ「חרם」という概念からの「アナテマ」「聖絶」「ヘーレム」「ヘレム」という訳語、および転写が派生し、個別の記事となって乱立しているというのは大変不便な状況です。今回の文章を起こすにさいしてこれらの記事を吟味したくとも、どの記事に何が書いてあるのかをなかなか把握できず、頭の中で整理するのにかなりの時間を要しました。ヘーレムについて一定の理解のあるはずの自分でさえこの有様ですから、一般読者の混乱は想像に難くありません。この四すくみのなか最も優先されるべきは、やはり歴史および知名度において申し分なく、何よりも中立的な観点から外来語のアナテマとなりましょう。本記事「ヘーレム」の履歴を見ればBokemiannさんの重ねた苦労は察するに余りあります。しかし、利便性の観点から見ても「アナテマ」への統合が現状では最善の手段かと思われます。それにアナテマというキリスト教世界を代表する言語であるギリシア語の概念のもとでなら、たとえ「חרם」(b)に固執した内容の記事となってもさほど違和感はないはずです。また、現状の「アナテマ」の記事が質、量ともに満足のいく内容でないのはともかく、一瞥したところ本記事「ヘーレム」と矛盾するような記述は見受けられません。とはいえ、いずれの記事も『新聖書辞典』と『聖書思想事典(旧版)』を主要な出典としているのですから当然といえば当然ですよね。
以上の点をどうかご考慮願います。なお、ヘブライストと名乗りましたのはアナテマというギリシア語単語の使用者たるヘレニストとの対比からであって、「ヘブライ語を話すユダヤ人」だからではありません。決してサイモン・ウィーゼンタール・センターのごとく圧力をかけているわけではないので誤解のないようお願いします。また、イザヤさんの件でBokemiannさんが現在たいへん憔悴しきっておられるのは存じております。本記事にまつわる騒動を拝見してからまだ一週間程度しかたっておらず、他記事におけるものをも含めたイザヤさんによる発言内容もほんの一部しか目を通しておりません。それでも、「ヘレム」のノートにおけるわたしの質問への回答ひとつでもって、角笛を吹いてウィキペディアからのヘーレム(破門)を宣告しても構わないと思うのであります。勉強熱心な方であることわかります。しかし、わずか一度ばかり対話だけでも、イザヤさんが標準的な日本語能力を備えておらず、また、どうすれば相手を納得させることができるのか、という対話能力においても未熟な方であることがはっきりとわかるのです。この点に関して、身分不詳のIPユーザーごときという立場ゆえためらわれるのですが、Bokemiannさんが作成されたコメント依頼/イザヤにて証言するのもやぶさかではありません。なによりも、議論の混迷化の打開策としてイザヤさんに「聖絶」の記事の編集権をほば独占的に与えているというのは、いうなればテロリストの要求に屈して超法規的な措置をとっているも同然で、ウィキペディア全体にとっても重大な問題をはらんでいるといえるのです。ここは断固たる措置が必要です。ただし、現状では「ヘレム」のノートにおける再度の質問への返答を見たうえで決断したいと思っております。
- コメントほとんど見る人もいないと思いますが、なるべくコメントはわかりやすく簡潔にお願いします。又、感情的な個人に対する中傷はやめて下さい。私はイザヤさんをそれほど知っているわけでないですが、上記の書き込みよりイザヤさんのコメントや編集の方が論理的だと考えています。--木人 2011年3月10日 (木) 23:49 (UTC)
- どの様に論理的と思ったか説明していただきませんと、意見ではなく単なる感想でしかありません。--ジャムリン 2011年3月11日 (金) 03:53 (UTC)
ヘブライ語版ウィキペディアの「he:חרם」の曖昧さ回避についての説明にて、「חרם דרבנו גרשום」(ラベヌー・ゲルショムのヘレム)を「破門された事件」と述べてしまったのですが、ラベヌー・ゲルショムは破門する側の人間であることが分かりましたので、ここで記述の取り消しとお詫びを申し上げておきます。--ימח שמו וזכרו 2011年4月9日 (土) 16:15 (UTC)
皆様からのご意見を募集します
「ヘブライストからの意見」にて本記事「ヘーレム」の「アナテマ」への統合案を提言したIPユーザーと同じ者です。この度ようやくアカウントを取得いたしましたので、ここで正式に本記事「ヘーレム」の「アナテマ」あるいは「聖絶」への統合、および破門を中心とした記事への刷新の是非について、皆様のご意見をうかがいたい所存であります。そこで統合が相応しいと考えた理由をもう一度まとめておきます。
- 本記事「ヘーレム」の主要な出典元のひとつである『聖書思想事典(旧版)』では、ギリシア語に訳出された「アナテマ」の項目においてヘーレムの語根について触れているのみで、それ以外は一貫して「アナテマは~」という文脈で内容を説明している。提案者は未確認ながら、Bokemiannさんによれば『新聖書辞典』においても事情は同じで、こちらでは「聖絶」の項目において「聖絶は~」という文脈で語られているとのこと。また、『新改訳聖書』や『岩波訳聖書』といった異なる立場から翻訳された聖書における解釈も併記されているのだが、両聖書ともに「聖絶」と訳出されており、ヘーレムを直接語っているわけではない。換言すれば、「ヘーレムを語っているようでいて実際に語られているのはアナテマや聖絶でしかない」ということになる。その典型的な例は「ヘブライ語聖書(旧約聖書)における例」の項目における「旧約聖書中で58箇所の使用が見られる」という記述であり、これは実際にはヘブライ語の「חרם」(ヘーレム)ではなく、『新改訳聖書』において「聖絶」と訳出された数についてのトピックなのである。ちなみに現行の記事内容に当てはまるヘブライ語の「חרם」(ヘーレム)は、ヘブライ語聖書では動詞と名詞を合わせて80箇所で確認できる。さらには他言語に翻訳されることでその言語圏固有のフィルターにかけられる可能性があり、そういった観点も含め現行の本記事「ヘーレム」の内容は「アナテマ」か「聖絶」に統合されるのが無難である。本記事は一か月半ほど前に「聖絶」から「ヘーレム」へと改名されたばかりなのだが、その経緯にやや不透明な点があることも付け加えておく。
- ヘブライ語の「חרם」(ヘーレム)の語義には変遷があったとされており、現在ではおおよそ3つの意味で解釈されている。 ―(a)神のために人や家畜や財産を聖別すること。(b)戦争時における虐殺、破壊行為。(c)ある人物を共同体から排斥し、公共社会と接触しないよう遠ざけること。― 現代ヘブライ語ではもっぱら(c)に基づいた「破門」の意味で使用されており、ヘブライ語版ウィキペディアでも(c)を中心とした内容になっている。また、(b)は完全に死語と化しており、歴史的に見れば(b)の意味が付与されていた時期は古代に限定されている。にもかかわらず本記事「ヘーレム」ではあべこべに、執拗なまでに(b)へのこだわりをみせており、上記にて危惧された「その言語圏固有のフィルターにかけられる可能性」が現実のものとなっている。こういったこだわりを見せているのは本記事を見れば明らかなように自由主義神学や福音派といったキリスト教関連の分野なのだが、そのこだわりを表明するためにわざわざアナテマという外来語や聖絶という造語を用いていることからして、「ヘーレム」という表題のもとでアナテマや聖絶について語ることに何ら合理性を見いだせない。「アナテマ」や「聖絶」という表題のもとでなら、いかなるフィルターがかけられようと、その言語圏固有の事情があるゆえ翻訳元の言語に対する配慮は免除されよう。しかもキリスト教の分野に限らず、日本語文化圏において「ヘーレム」という単語の使用実績は皆無に等しく、同単語が積極的に飛び交っているコミュニティは、現状では本ノートを含めたウィキペディアの「聖絶」関連の記事における議論に限定されているといっても過言ではない。「ヘーレム」という表題の記事がどうしても必要であるのなら、そこに書かれる内容は現代ヘブライ語で用いられている(c)の意味が優先されるべきであり、書くべき内容も豊富に備えている。
- 現行のヘーレムの記事にはドイツ語版ウィキペディアを筆頭に8つの他言語版へのリンクが張られている。しかし、それぞれの記事に並べられた項目名を見る限り、いずれの内容もユダヤ教における(c)を中心とした内容になっていることがうかがえ、ドイツ語版に至っては記事名そのものが「Bann (Bibel)」(破門(聖書))という有様である。提案者は「ノート:ヘレム#ヘブライ語についての助言」においてイザヤさんの編集姿勢を糾弾したが、同ノートの「ユダヤ教で最も重要な儀式」における「英語版でいえばen:Heremに対応するのがヘーレムであり、ユダヤ教の専門用語であるen:Cheremに対応する記事がヘレムです」というイザヤさんの指摘に(専門用語を除いて)間違いはない。つまり、本記事において他言語版へのリンクが可能なのは英語版の「Herem」だけなのであり、「ヘレム」こそが(その内容はともかく)8言語版へのリンクが相応しい記事なのである。ここでもあべこべな現象が確認できるのである。これらの他言語版の日本語版へのリンク先が英語版を除いてはすべて「ヘレム」ではなく「ヘーレム」になっている現状では、日本語版ウィキペディアの特異性が際立っているといえよう。ならば現行の「ヘレム」の記事を(c)を中心とした内容で充実させ、他言語版のリンク先を「ヘレム」に変更すれば済む問題であるとも思えよう。しかしそれでは「ヘレム」「ヘーレム」「アナテマ」「聖絶」という4記事の乱立による利便性の悪さという根本的な問題の解決にはつながらない。
以上です。自由主義神学や福音派のくだりには事実誤認があるかもしれませんが、本提案の趣旨はご理解いただけると思っております。(c)の意味を優先した記事について提案者は以前「「破門(ユダヤ教)」で十分」と発言したのですが、前言を撤回して本記事「ヘーレム」の白紙化の後、(c)を中心とした内容の記事に置き換えようかと思っております。その理由は、「「破門(ユダヤ教)」の表題では(a)について多くを書けなくなってしまうからです。ただし、現状では(b)についての詳細は控え、「アナテマ」および「聖絶」への内部リンクを貼るにとどめておくつもりです。また、記事の刷新が終わり次第、「ヘレム」を本記事へのリダイレクトにするつもりです。
上記提案について皆様のご意見をお待ちしております。ただし、本記事の編集や議論に携わったユーザーは限られており、なかでもBokemiannさんが中心になっておられるようなので、あまりにも意見が集まらない場合はBokemiannさんの同意のみをもってコミュニティの合意と見なす可能性もあり得ますので、その点は留意しておいてください。--ימח שמו וזכרו 2011年4月2日 (土) 12:34 (UTC) 内容に追加があるのでご確認ください。長文になってしまったことを申し訳なく思っているのですが、提案者からすれば簡単だと思われる問題がここまで長期化している以上、理詰めで説得するのが最善の方法と考えた末の結果なのでどうかご容赦ください。--ימח שמו וזכרו 2011年4月3日 (日) 10:17 (UTC)
- 賛成 イザヤさんがウィキブレイクに入っている状態で事を進めるに若干の懸念はありますが、結論だけを申します。מח שמו וזכרוさんの提案に基本的に賛成します。本記事の統合先は「アナテマ」がよいと思います。--Bokemiann 2011年4月3日 (日) 12:07 (UTC)
- コメント途中から参加するのが困難だったこともあり、議論からは距離を置いていました。ימח שמו וזכרוさんの高い見識に比べ、あまりにも、な私が意見すべきではないのかもしれません。それでも「外野から」として述べさせて頂くと、今回の聖絶から始まった記事の乱立は、元かと言えば一人の編集者の暴走が発端であると理解しています。これらの議論はすべて、その尻ぬぐいではないのでしょうか。イザヤさんのコメント依頼については凍結を提案しましたが、記事は別です。不特定多数の方に、今もこれからも読まれ、クローンサイトにコピーされるのですから、対処は迅速になされるべきです。そういったことを踏まえ、ימח שמו וזכרוさんの提案は歓迎で、基本的に賛成いたします。整理が必要だと私も思います。しかし(読解力不足かもしれませんが)ヘーレムがもっぱら現代ヘブライ語の記事で、記事名はそれを音訳したものであるならば、そもそも記事として立項することの意義が希薄であると考えます。一方私の手持ちの文献(『古典ユダヤ教事典』)には「破門」の記事がありその3番目に「共同体からの永久破門(ヘレム)」とあり、(c)についてはこの日本語文献で確認がとれます。「聖絶」も検証可能な日本語文献があります。「聖絶」は近年の聖書のための造語であり、検証可能な出典としてはいのちのことば社と(それを踏襲した?)岩波書店の文献だけでしょう。見出し語として残しておいても良いほど特徴的な語ですが、乱立抑制の視点からは「ヘレム」へリダイレクトの上そこで記述するのも反対しません。「ヘレム」は前述の通りです。「ヘーレム」は「ヘレム」の表記揺れと考えるのがへブル語からの音訳としては妥当ではないでしょうか?だとすると「ヘーレム」は「ヘレム」へのリダイレクト(ימח שמו וזכרוさんご提案のとおり逆でも可)で十分だと思います。浅学による誤解はあるとおもいますが、検証可能性と利便性を重視する観点から書きました。最後に「アナテマ」は判断を留保します。--Sillago 2011年4月3日 (日) 14:26 (UTC)
- 賛成 該当記事項目群に関しては、ブレイク前のイザヤさんの反論も読みましたが、それを踏まえてもイザヤさんの主張や編集よりימח שמו וזכרוさんの解説や主張の方が判りやすく説得力を感じます。統合や後処理についても、ご提案に同意いたします。--ジャムリン 2011年4月3日 (日) 15:53 (UTC)
皆様のご意見に感謝いたします。本当はこの問題の一方の当事者であるイザヤさん、および積極的に議論かかわっておられたKinno Angelの意見も賜りたかったのですが、あいにく両者ともウィキブレイクに入られており、お声をかけるのもはばかられるような状況であるとも考えられるため、今回は頭数に入れずに賛否を決するつもりでおります。そこでもう少し具体的に意見をすり合わせてみたいと思います。
- 最初に、Sillagoのいわれる「ヘーレムがもっぱら現代ヘブライ語の記事で、記事名はそれを音訳したものであるならば、そもそも記事として立項することの意義が希薄であると考えます」という点ですが、わたくしも当初は同じように考えており、それゆえ「「破門(ユダヤ教)」で十分」という意見を表明した次第です。日本語圏におけるヘーレムという単語の使用実績が皆無に等しいという点からも、「ヘーレム」という表題の記事は日本語版ウィキペディアには時期尚早であるというのが本音であります。しかし、今回の問題がここまでの騒動に発展した理由のひとつには、「ヘーレム」という逃げ場があったからだとも考えられるのです。本記事は一か月半ほど前までは「聖絶」の記事名だったそうですが、なぜそれが「ヘーレム」に改名されたかについては皆様のほうが熟知されているかと思われます。当時議論に未参加ゆえ偉そうなことはいえないのですが、やはり安易な妥協は避けるべきであったというのが率直な感想です。その点について確認しておきたいことが多々あったのですが、統合へ向けて議論が動き出したうえは過去の議論について掘り起こすつもりは毛頭ございません。それでも今回あえてヘブライ語の意味に則した「ヘーレム」の存続を希望するのは、いうなれば記事の乱立に対する最善の「防衛手段」と考えたからであります。つまるところ今回の記事乱立という事態は、キリスト教内における福音派と自由主義神学との対話が物別れに終わった果ての醜態ということになるのですが、「聖絶」から「ヘーレム」への改名は、いうなればユダヤ教がとばっちりを食ったようなかたちになっているのです。というのも、キリスト教にとってのヘーレムというのは聖書の時代に限定されておりますが、ユダヤ教ではそれ以降の時代の出来事に重点が置かれているからです。わたしは「ノート:ヘレム#ヘブライ語についての助言」にてイザヤさんの編集姿勢を厳しい言葉で非難したのですが、「ヘレム」の記事を立項された動機に関しては同情を禁じ得ないのです。ユダヤ教の破門について書きたくとも、現行の「ヘーレム」の記事内容を鑑みれば手を付け難いと感じられたのでしょう。ならば今回はそれとまったく逆のことを行えばいいのであって、「ヘーレム」の記事をユダヤ教やユダヤ文化に特化したもので固め、アナテマや聖絶の付け入るすきをなくすことで、本来果たされなければならない福音派と自由主義神学の合意を促そうという算段に他なりません。というのは少々大げさかもしれませんが、平たくいえば例の(b)についての議論は「アナテマ」か「聖絶」のノートにてお願いしますというわけです。
- そこで統合先についての議論に移りたいのですが、わたしは現行の「ヘーレム」でも特徴的な、キリスト教の側に立ったヘーレムに対する見解というのをまったく把握していないも同然なので、「アナテマ」であろうが「聖絶」であろうが、どちらが選ばれようともコミュニティの合意に従うつもりでおります。しかし、あえて意見をいわせてもらうなら、現状では「聖絶」のほうが妥当であると認識しております。わたし自身が新共同訳聖書の読者ということもあり、当初は中立性を保てるとの判断から「アナテマ」のほうを推薦しました。一方の新改訳聖書発祥の「聖絶」では「生神女」のようにその造語の由来や他聖書における訳出との比較といった話題に特化すべきだと思っておりました。しかしここに来て必ずしもそれが最善ではないとの判断に至ったのです。「聖絶」から「ヘーレム」への改名にさいしてBokemiannさんは「聖絶はヘーレムの日本語訳の試みで、元々余り一般的な用語ではない」と発言されておりますが、これはあくまでも売上で優位に立っている日本聖書協会刊行の各聖書との比較によって導き出された見解かと思われます。しかし”聖絶”という言葉をグーグル検索すれば分かるように同語が日本語圏においてそれなりに浸透していることは間違いありません。一方の日本聖書協会による各聖書ではヘーレムに対する固定の訳語はなく、一般的な用語となるべきものをもっておりません。もちろんアナテマを当てているわけでもありません。つまり記事名を選択するにおいて、存在するものと存在しないものを比較していることにそもそも無理があると思われるのです。現行の「ヘーレム」の主題は聖絶という言葉ではなく、ヨシュア記の時代を中心に行われたイスラエル民族による「ヘーレムという行為」そのものです。しかしその行為をたった一言で表現する聖絶という用語を日本聖書刊行会が作ったという事実は、たとえその妥当性に疑問が呈せられようとも軽視できませんし、むしろ尊重すべきなのです。そこでアナテマと聖絶の一騎打ちということになるのですが、ヘーレムという行為にアプローチするための最短の手段を比較した場合、現状ではアナテマよりも聖絶のほうに分があるのは間違いないでしょう。”アナテマ”もグーグルでの検索数では聖絶とほぼ互角なのですが、いずれの聖書においてもアナテマと訳出されていない点は圧倒的に不利であるといわざるを得ません(すべての日本語訳聖書を確認したわけではないので間違っていたら訂正します)。情報化社会とは申しますが、多くの日本人にとって「ヘーレムという行為」を知る機会は、依然として聖書を開くことによって訪れるはずなのです。なによりも、本記事は一か月半前までは「聖絶」という記事名で問題なく過ごしてきたのですから、元のさやに納まるのが事態収拾の象徴となりましょう。そこで現行の「聖絶」を削除、および本記事を再度「聖絶」に改名した後、新規に「ヘーレム」を立項ということでもいいのですが、やや作業が煩雑になるきらいがあるので強くは推薦いたしません。
- つぎに、Sillagoのいわれる「「ヘーレム」は「ヘレム」の表記揺れと考えるのがへブル語からの音訳としては妥当ではないでしょうか?」という疑問なのですが、音訳という点ではどちらが正規でどちらが表記揺れとは申し上げられません。話し手と聞き手の個人差というのがあり、とくに慣れない日本人であればどちらにも聞こえる場合があるからです。聖書ヘブライ語になるのですが、参考までに音声ファイルのあるページへのリンクを貼っておきます[13]。おそらくこれを聞いて「ヘーレーム」や「ヘーレンム」と表記する人もいるでしょうから、音訳はあまりあてにならないかと思われます。そこで字訳に頼らざるを得なくなるのですが、「ノート:ヘレム#ヘブライ語についての助言」でも書いたように、「חֵרֶם」の最初の文字に付された母音は「ツェーレー」と呼ばれる「e」の音価を持つ長母音です。ヘブライ語の母音には長母音と短母音があるのですが、日本語の母音には長短の区別がないので、字訳にさいしては長母音に長音符を付けることで短母音との区別を図る場合が一般的です。つまり、機械的に字訳するのなら「ヘーレム」となるのです。もちろん長母音だからといって杓子定規に長音符を加えていれば、かえって原音から離れてしまう場合があるため、このあたりは翻訳者のさじ加減にかかっております。わたし自身も足場が不安定でして、長母音に長音符を付けるか否かはその時の気分次第で変わったりもします。しかし、「חֵרֶם」は最初の母音にアクセントのある単語なので、この観点から見ても「ヘーレム」と表記するのが最も妥当な字訳であると考えている次第であります。『古典ユダヤ教事典』についてはまったく存じていないのですが、英語原典に書かれた「herem」からの字訳であるとは考えられないでしょうか? もしそうであれば単なる翻字の問題ということになるので、より正確なラテン文字転写である「ḥērem」に則した「ヘーレム」のほうが相応しいかと思われます。あるいは、ヘブライ語原典からの翻訳でありながら、先に申しましたような「さじ加減」が働いた結果「ヘレム」となった可能性もあるのですが、客観性を求めるうえでは機械的な字訳である「ヘーレム」が現状では最も無難な選択となるはずです。
以上です。それからこれは蛇足なのですが、個人的な意見として、最終的には(b)が主題の「聖絶」と、(a)と(c)が主題の「ヘーレム」というふたつの記事に収れんされるのが理想だと考えております。ふたつを分ける理由は、(b)の背景には旧約聖書の記述が控えているのに対して、(a)と(c)はミシュナーやタルムードの記述によって意味が確定しているからです。しかもキリスト教とはコンセンサスが違うのか、ユダヤ教では(b)への関心がほとんどなく、単なる歴史上のひとコマ程度のあつかいでしかありません。それはともかく、「アナテマ」と「聖絶」の統合についてはまたの機会ということにして、上記3点について皆様からのご意見をちょうだいしたいと存じております。相変わらずの長文で失礼いたしました。--ימח שמו וזכרו 2011年4月4日 (月) 15:30 (UTC)
- 「聖絶」と「ヘーレム」に分ける案で賛成です。参考までに『古典ユダヤ教事典』(教文館)を著した長窪専三は「ユダヤ学者」とのことで、ローマ時代のユダヤ教文書の翻訳などを行っているので古代ヘブライ語のリテラシーは充分あると思います。その人が「ヘレム」と書いたので、検証可能性の観点から「ヘレム」もありかと考えました。これは些末なことなのかもしれません。「アナテマ」については判断留保をしていました。理由は元々セプトゥアギンタでヘーレムの訳語として使われたという経緯を考えれば、今回の議論においては「聖絶」に記載されるべきなのかもしれません。ですがコイネーで書かれた新約聖書に「呪う」という意味で登場し、現代ではローマ・カトリックで用いられている、日本語の複数のキリスト教関係の文書(事典系など)に見出し語として掲載されているようです。また一般的な英語の辞書に「anathema」として見出し語が掲載されているという事実(そうそう使われているとは思えませんが)を鑑みるに、独立項目もありか?とも思うのです。なおグーグル検索の結果はそれほど気にする必要はないでしょう。アナテマについては大半がゲームに登場する「何か」(よくわかんないけど(汗)ですから。--Sillago 2011年4月5日 (火) 14:42 (UTC)
- ご意見ありがとうございます。なるほど、「ヘーレム」がミシュナーやタルムードによって意味付けされたのと同様、「アナテマ」のほうも七十人訳聖書や新約聖書の記述によっていわば独自の進化を遂げているともいえるのですね。この点に関してはわたくしの認識が不足しておりました。確かにキリスト教における破門については将来的に「アナテマ」にて語られる可能性もあるので、残しておく価値は十分にありそうですね。となれば、たった2日で前言を撤回して申し訳ないですが、以下のようなかたちに整理するのが最善となりましょうか。
- 「聖絶」:旧約聖書の出来事、とくにヨシュア記の時代に行われた
聖絶(ジェノサイド)宗教的迫害についての記事。 - 「アナテマ」:七十人訳聖書や新約聖書の思想に基づいたキリスト教における破門についての記事。
- 「ヘーレム」:ミシュナーやタルムードに基づいたユダヤ教における破門と奉納品についての記事。
- 「聖絶」:旧約聖書の出来事、とくにヨシュア記の時代に行われた
- つまりは三位一体というわけですね。整理と同時に上記3記事共通のテンプレを各記事の冒頭に掲げることで、読者を目的に応じた記事へ誘導したいと考えております。今回の提案についてもご意見があれば遠慮なく申し出てください。--ימח שמו וזכרו 2011年4月6日 (水) 12:38 (UTC)
- ご意見ありがとうございます。なるほど、「ヘーレム」がミシュナーやタルムードによって意味付けされたのと同様、「アナテマ」のほうも七十人訳聖書や新約聖書の記述によっていわば独自の進化を遂げているともいえるのですね。この点に関してはわたくしの認識が不足しておりました。確かにキリスト教における破門については将来的に「アナテマ」にて語られる可能性もあるので、残しておく価値は十分にありそうですね。となれば、たった2日で前言を撤回して申し訳ないですが、以下のようなかたちに整理するのが最善となりましょうか。
昨日提案した共通のテンプレの試案があるのでここに貼っておきます。なお、「聖絶(ジェノサイド)」では公平性に欠けるので「宗教的迫害」に改めておきました。
- 聖絶
- アナテマ
- ヘーレム
キリスト教における破門については現在のところ「破門」の記事にて書かれております。これを分割して「アナテマ」に統合するには、この分野についての造詣が浅いわたしでは手に負えないでしょう。本来なら他力本願な提案は控えるべきところなのですが、他記事にまで問題を波及させないためにも、聖絶関連の記事はできれば上記3記事で完結させておきたいところなので、皆様の協力が得られれば幸いと思っております。
さて、提案を出してからまだ一週間も経っていないのですが、現行の「ヘーレム」を「聖絶」か「アナテマ」のいずれかに統合するという点についてはおおよその合意が得られたと認識しております。そして統合作業の適任者は、記事の編集の大部分に携わってこられたBokemiannさんであると思っております。つきましては、統合先についてのBokemiannさんの意見を再確認したいので、お答えいただけないでしょうか? 「アナテマ」への統合にこだわりがあるのならその意思を尊重するつもりでおりますが、イザヤさんによる現行の「聖絶」を残しておくのに意味があるとも思えないので、何か合理的な理由をお考えでしたら聞かせてください。これについては別の場所で散々対話を重ねてきたので、できれば即時の決断をお願いしたいところであります。--ימח שמו וזכרו 2011年4月7日 (木) 14:06 (UTC)
- 色々考えたのですが、昨晩よく考えて、現「ヘーレム」を「聖戦(古代ユダヤ教)」或は「聖戦(ヘブライ語聖書)」へ改名するのもよいのではないかと思うようになりました。
- 私も本来は統合先は「聖絶」がよいだろうとの見解を持っていましたが(イザヤさんだけでなく、Kinno Angelさんも統合には反対寄りです)、イザヤさんが復帰された時にまた編集合戦になるだろうとことを考えると気が重くなるというのが本音です。ちなみに、古代教界及びカトリックにおける「アナテマ」は確かに(c)の「破門」がメインですが、『聖書思想辞典』にも見る通り、(b)について詳しく説明されており、破門には余り詳しく触れておりません。確かにアナテマは一般日本人にとってはポピュラーではありませんが、伝統のある用語ですし、将来的に(c)の意味合いも含めて両者を統合する議論になった場合も現在では「アナテマ」が適当だと考えて「アナテマ」を提案しました。「アナテマ」は私がうっかり起こした項目ですが、その後も一向に「破門」に関する記述が加筆される様子もなく、そのため、「聖絶」とは別に「アナテマ」を残しても、「破門」中にて書かれてある以上のことが今後執筆されそうにも思えないという側面もあります。なお、未読ですが、バルバロ訳ではアナテマがそのまま使われていると聞いています。
- なお、それと関連しますが、共通テンプレにおいて、「聖絶」をヨシュア記に限定するような記述、特に「宗教的迫害」とするのは間違いです。「カナン定住にまつわる聖戦」とでもするのならばまだしもですが。適切な表現はまた後で考えましょう。
- そんな訳で、どちらを統合先として選んでも不備なところがあるのならば、ヘブライ語חרםへのこだわりを捨てて、現「ヘーレム」を「聖戦(古代ユダヤ教)」或は「聖戦(ヘブライ語聖書)」とするのもよいのではないかと思います。今すぐにはできませんが、簡単な改訂をするだけの参考資料は持っています。
- 結論を申します。
- まずは「聖戦(古代ユダヤ教)」への改名を提案します。その場合は「アナテマ」ではなく「聖絶」を残すことを提案します(両方残すのもOK)。
- 統合する場合は「アナテマ」がよいと思いますが、必ずしも「聖絶」を否定しません。ただ、「聖絶」が採用された場合、「今後イザヤさんが戻られた時に厄介な思いをしても構わないといのならば」という限定付きです。イザヤさんに対する私の日頃の言動と矛盾すると感じる人もいるかも知れませんが、イザヤさんをブロックすることを前提にしての議論には参加できません。そのような前提での編集作業ならば私は協力できません。
- 簡単ながら「利用者‐会話:Bokemiann#ヘーレムに関するやりとり」でも書いたように、現在コメント依頼提出中で、該当者がウィキブレイク中だからといって、それとは関係なく、イザヤさんの意思も尊重されるべきです。その意味でも、「聖絶」への統合の場合でもイザヤさんの編集は極力残すべきだと考えます。なお、「聖絶」の記事は加筆の用意ができているので、直ぐに加筆に入れます。そうすれば今の「聖絶」でも大分バランスの取れた記事になるでしょう。--Bokemiann 2011年4月8日 (金) 12:18 (UTC)
- 具体的な内容を伴った返答をいただきありがとうございます。「宗教的迫害」という定義につきましては単なる試案でしかないので、「カナン定住にまつわる聖戦」でも構わないと存じております。リンク先が現行の「ヘーレム」と同じの内容の記事になることからして、その内容にふさわしい定義づけは誰よりもBokemiannさんが承知しているはずなのでお任せいたします。つぎに「アナテマ」についてですが、Sillagoさんに指摘されてから英語版の「en:Anathema」の記事に目を通してみたのですが、いやはや改めて書くべきことは多いと感じました。現在個別に立項されている原始キリスト教におけるマニ教徒やネストリウスの破門、東方教会のシスマや異端なども「Anathema」の範疇にて語られております。現行の「破門」に書かれた内容と合わせてしかるべき人に編集を任せれば、アナテマの歴史を俯瞰した立派な記事になるはずなので、この分野の素人が迂闊に統合を主張するわけにはいきません。というわけで、将来性の観点から「アナテマ」の存続には賛成の立場であります。それから「聖戦(古代ユダヤ教)」というのは間違っております。ユダヤ教というのはバビロン捕囚以降のユダヤ人(ユダ族)を中心に興った口伝律法に基づいた宗教なので、それよりはるか以前の古代イスラエル王国誕生に至る歴史上の出来事に「ユダヤ教」の言葉は当てはまりません。「聖戦(ヘブライ語聖書)」についても、実際にヘブライ語聖書と照らし合わせて語ることができないのであれば、「聖戦(旧約聖書)」にしておくのが無難かと思われます。また、「聖絶」の存続をなおも希望されておりますが、これは今後のイザヤさんの聖絶にまつわる記事の編集については、Bokemiannさんがその責任のすべてを負う覚悟があるものと受け取ってもよろしいのでしょう? イザヤさんに対してコミュニティの総意を見せつけるせっかくの機会を不意にしてしまうのです。総意というのは「今後の聖絶関連の記事の編集は我々にお任せください」ということなのですが、今さら異論はないでしょう。震災という不幸ゆえのことかもしれませんが、ウィキブレイクに入られて一か月近くも音沙汰のないユーザーに対してそこまでの配慮が本当に必要なのかという点でも疑問に感じております。それでも存続という方針を変えないのであれば、聖絶にまつわる飽くなき論争は今後、「ヘーレム」と「アナテマ」には絶対に飛び火させないという確約をいただきたい所存であります。以上を確認したうえでまとめてみたいと思います。
- 「聖絶」: イザヤさんによる福音派の思想に特化した記事(現状維持)。
- 「アナテマ」:七十人訳聖書や新約聖書の思想に基づいたキリスト教における破門についての記事(とりあえずは現状維持)。
- 「ヘーレム」:ミシュナーやタルムードに基づいたユダヤ教における破門と奉納品についての記事(現在作成中)。
- 「タイトル未定」:旧約聖書のカナン定住にまつわる聖戦についての記事(本記事を改名)。
- この四位一体がいつまで維持されるかは定かでありませんが、これが現時点での合意事項ということになります。もちろん異論があれば今後も承ります。それから、例の平仮名の「へーレム」については近々削除依頼を出すつもりでおりますので、そのおりには賛成票を投じていただきたく存じております。今回は以上です。--ימח שמו וזכרו 2011年4月8日 (金) 15:30 (UTC)
- 具体的な内容を伴った返答をいただきありがとうございます。「宗教的迫害」という定義につきましては単なる試案でしかないので、「カナン定住にまつわる聖戦」でも構わないと存じております。リンク先が現行の「ヘーレム」と同じの内容の記事になることからして、その内容にふさわしい定義づけは誰よりもBokemiannさんが承知しているはずなのでお任せいたします。つぎに「アナテマ」についてですが、Sillagoさんに指摘されてから英語版の「en:Anathema」の記事に目を通してみたのですが、いやはや改めて書くべきことは多いと感じました。現在個別に立項されている原始キリスト教におけるマニ教徒やネストリウスの破門、東方教会のシスマや異端なども「Anathema」の範疇にて語られております。現行の「破門」に書かれた内容と合わせてしかるべき人に編集を任せれば、アナテマの歴史を俯瞰した立派な記事になるはずなので、この分野の素人が迂闊に統合を主張するわけにはいきません。というわけで、将来性の観点から「アナテマ」の存続には賛成の立場であります。それから「聖戦(古代ユダヤ教)」というのは間違っております。ユダヤ教というのはバビロン捕囚以降のユダヤ人(ユダ族)を中心に興った口伝律法に基づいた宗教なので、それよりはるか以前の古代イスラエル王国誕生に至る歴史上の出来事に「ユダヤ教」の言葉は当てはまりません。「聖戦(ヘブライ語聖書)」についても、実際にヘブライ語聖書と照らし合わせて語ることができないのであれば、「聖戦(旧約聖書)」にしておくのが無難かと思われます。また、「聖絶」の存続をなおも希望されておりますが、これは今後のイザヤさんの聖絶にまつわる記事の編集については、Bokemiannさんがその責任のすべてを負う覚悟があるものと受け取ってもよろしいのでしょう? イザヤさんに対してコミュニティの総意を見せつけるせっかくの機会を不意にしてしまうのです。総意というのは「今後の聖絶関連の記事の編集は我々にお任せください」ということなのですが、今さら異論はないでしょう。震災という不幸ゆえのことかもしれませんが、ウィキブレイクに入られて一か月近くも音沙汰のないユーザーに対してそこまでの配慮が本当に必要なのかという点でも疑問に感じております。それでも存続という方針を変えないのであれば、聖絶にまつわる飽くなき論争は今後、「ヘーレム」と「アナテマ」には絶対に飛び火させないという確約をいただきたい所存であります。以上を確認したうえでまとめてみたいと思います。
- 「Wikipedia:削除依頼/へーレム」(もちろん平仮名のへーレムです)を提出したので報告しておきます。--ימח שמו וזכרו 2011年4月8日 (金) 17:04 (UTC)
Bokemiannさんへ。「「聖戦(古代ユダヤ教)」への改名を提案します」という発言を受けてあれから「聖戦」の記事をのぞいてみたのですが、案の定とういか、「聖戦#ユダヤ・キリスト教における聖戦」の項目は記事としての体裁を保てないまでに混沌化していますね。聖戦の定義自体がそもそも曖昧なのですから当然といえば当然でしょう。改名後の記事名についてはBokemiannさんの判断に委ねたいのですが、「聖戦」という言葉を使用した場合にもたらされるであろう混乱をどの程度のものと見積もられているのでしょうか? 「イザヤさんが復帰された時にまた編集合戦になるだろうとことを考えると気が重くなる」と申されますが、これでは新たな論敵を招き寄せることは必至です。本当に編集合戦がこりごりだと思われるのなら、現行の「ヘーレム」の内容をPOVの面で誰からも文句をいわれないレベルにまでに仕上げればいいのです。イザヤさんを恐れているというのは、いいかえればBokemiannさんの自信のなさの表れではないのでしょうか? 誰からも文句をいわれない記事を書く自信がないゆえに「聖絶」への統合に難色を示され、その言い訳にイザヤさんを利用しているのであれば、こちらも考慮いたしかねます。もちろん「誰からも文句をいわれない」というほどの完璧な記事は誰にでも書けるものではありません。しかし、そういった完璧な記事に仕上げるために編集合戦を繰り返すというのもウィキペディアならではのものなのです。その忍耐力がないのならウィキペディアに参加しなければいいのです。わたしとの対話の中で聖絶へのこだわりを表明されたBokemiannさんであれば、なおさら避けて通れない道のりでしょう。「私も本来は統合先は「聖絶」がよいだろうとの見解を持っていました」といわれますが、今現在もそれが本心であることは明白であります。なぜなら、イザヤさん以外にその障害となるものはないというのが明白だからです。さらには現行の「ヘーレム」にて書かれていることが聖絶以外の何物でもないというのも明白なのです。それゆえ、上記についてもう一度熟考されることを要望いたします。ちなみに、わたしもイザヤさんのブロックなど今さら望んでもいません。ブロック云々ではなく、いつイザヤさんが戻ってこられても問題が起きないよう確固たる分類を済ませておきたいのです。ご自身の手で「聖絶」への統合作業にあたるのは忍びないとおっしゃるのであればわたしが代行いたしますので、その後の修正に携わってもらうだけでも結構です。今回は以上です。--ימח שמו וזכרו 2011年4月9日 (土) 13:33 (UTC)
- 結論から申します。私は本件から手を引かせてもらいます。統合後の編集にも参加できません。
- 諸般の事情から私の身辺も段々と忙しくなってきており、Wikipediaに割ける時間も一段と少なくなります。早ければ5月か6月には期間制限なしのウィキブレイクに入る予定でしたが、それを早めることにします。
- ימח שמו וזכרוさんとはどうも対話にならないようです。淡々と作業だけしていればよいかと思いましたが、無理なようです。本来は今週早々作業に入れるかと思っていたのですが、こんなやりとりを続けている限り、また直ぐに月末になってしまいます。私も仕事がありますから、その期間はウィキブレイクをしなければなりませんが、そんな個人の事情も理解できず、対話拒否だの何だのと個人のノートで延々と個人攻撃をしてくるような方とやりとりをして記事を作ってゆくような余裕は私にはありません。誰でもそうでしょうが、Wikipediaのために仕事に穴を開けるわけにはゆかないのです。
- そんな訳ですから、本件に関わりのある他の編集者の方には大変申し訳ないのですが、ご理解をお願いします。--Bokemiann 2011年4月11日 (月) 10:23 (UTC)
Bokemiannさんが本件から手を引かれることを宣言されたので、少人数ながら統合に関する議論は合意に至ったと見なします。皆様のご協力に感謝いたします。ただ、統合提案のテンプレートの貼り付けという事務的な手続きを怠っていたので、本日貼り付けたうえでしかるべき時期を見計らって作業を開始するつもりでおります。作業手順の大まかな流れとしてはとしては、(1)「聖絶」を「ヘーレム」に統合。(2)リダイレクトとなった「聖絶」の即時削除依頼。(3)「ヘーレム」を「聖絶」に改名。(4)リダイレクトとなった「ヘーレム」に新記事を作成。以上のように考えております。作業手順に関してご助言があれば遠慮なく申し出てください。よろしくおねがいします。--ימח שמו וזכרו 2011年4月12日 (火) 11:07 (UTC)
旧新約聖書66巻のイエス・キリスト
まず、キリスト教項目に提案するにあたって、イエス・キリストを冒涜するヘブライ語の名称をユーザー名とする行為におよび、非キリスト教的な項目をキリスト教の神学用語、聖書の語句に無理に統合しようとする人物に抗議します。ウィキペディアにおいて不適切な行為です。また、このような行為にSillago氏とジャムリン氏が同調されていることも問題です。強く抗議します。
統合提案に断固反対します。Bokemiann氏は、マックス・ウェーバーの『古代ユダヤ教』上巻(岩波文庫)の聖戦の個所、岩波のヨシュア記とサムエルの解説を参考に記述したと述べています。また、『聖書思想事典』でも戦いとアナテマの項目でヨシュア記のヘーレムを扱っています。Bokemiann氏のヘーレムの記述は本人が言う通り、聖戦です。
キリストを冒涜する名称のユーザーは「ヨシュア記の時代に行われた宗教的迫害」をキリスト教の聖絶の記事にすると主張しますが、これはユーザー名とあわせておかしな主張です。
聖絶は『新聖書注解』、『ウェスレアン聖書注解』、『66巻のキリスト』等、また私が付けた複数の出典で、イエス・キリストの十字架の救いと神の愛、キリストの血を教えています。旧約の出エジプト、ヨシュア、イザヤ書、新約のヘブル書、ヤコブの個所と合わせて、これはキリストの血、キリストによる救いを教える個所です。新約を否定し、イエス・キリストを否定するユダヤ教とは違い、ヨシュア記に限定などされません。主の軍の将のキリスト、契約の箱の主の臨在、過越しの祭り、ラハブを救ったキリスト、66巻のキリストの話です。
ヨシュア記の時代に行われた宗教的迫害という観点であれば、古くはヴォルテールの『キリスト教の検討』という反キリスト教的な本の「ユダヤ人の風習について」でヨシュア記のユダヤ人たちを非難しています。ヴォルテールは「人殺しどもの軍隊」、「もしこの物語の作者がユダヤ人を他の諸民族にとってにくむべきものたらしめようと意図したのであったなら、こうする以外にあっただろうか?」 というのです。リチャード・ドーキンスの『神は妄想である』にも同様の指摘があります。キリストを冒涜するヘブライ語はイエスがイエシュア、メシアであることを否定するものですが、「ヨシュア記の時代に行われた宗教的迫害」というイエス・キリストの愛を無視した非キリスト教的な概念を、キリスト教用語の聖絶に統合するのはナンセンスであり、まったく根拠がありません。
むしろ、キリストの無いヨシュア記のヘーレム、聖戦については、現代イスラエル国家のパレスチナ問題との関連が指摘されています。『ユダヤ国家とアラブゲリラ』という本にテルアビブ大学のタマーリン博士による研究が載っています。「聖書のヒーローによる大虐殺の勉強などについて。これらはいつも明らかに否定的なものでさえ、ユダヤ民族の英雄的行為とみなされて教育されている」として、「聖書に出ている物語の中で、ユダヤ民族がパレスチナに侵入し、土着民族の大量虐殺を行なった話を生徒に読ませた。」 タマーリン博士によれば「ヨシュアの物語がイスラエルの教育システムの中で特別な位置を占めていることから、われわれはこの例を選んだのである。」とあります。キリストを無視、否定するヨシュア記のヘーレムを統合するとしたら、聖戦かパレスチナ問題に統合されるべきです。--イザヤ 2011年4月13日 (水) 15:16 (UTC)
- イザヤさんへ。何か勘違いされていませんか? 「聖絶」を福音派にお返しするために統合するというのが分からないのですか? 「はじめに言葉ありき」なのです。百科事典である以上、言葉の語義に従って内容を適切に分類する必要があるのです。ヘーレムはキリスト教の言葉ではなくユダヤ教の言葉なのです。イザヤさんもそれを理解しているはずです。それでも「ヘレム」を立項されたのは「ヘーレム」に配慮されたからではないのですか? しかしそんな配慮は無用なのです。「ヘーレム」の項目はユダヤ教に明け渡す必要があるのです。その代り「聖絶」は福音派にお返しします。謹んでお返しします。「聖絶」はユダヤ教の言葉ではなくキリスト教の言葉なのですから好きにしてください。Bokemiannさんと仲良く喧嘩するのも結構です。あるいはBokemiannさんによる文章をすべて削除されようとも咎めはいたしません。わたしには知ったことではありませんので。ですから「ヘーレム」と「ヘレム」には絶対に立ち入らないでください。わたしも分類が終われば「聖絶」には手を付けませんし、手を付けたくもありません。共通テンプレートの「宗教的迫害」が嫌なのであれば、これだけは意見のすり合わせをしましょう。しかし、そこに至るまでにはしかるべき手続きを踏まなければならないのです。履歴の継承とかいろいろとややこしいのです。そのためには一旦「聖絶」を「ヘーレム」に統合する必要があるのです。しかし、これはあくまでも一時的な措置でしかありません。とにかく1週間か10日ほど待っていてください。わたし自身滞りなく完了できるのか少々不安に思っているところなのですが、そのころには現在「ヘーレム」という題のこの項目が2月16日以前と同じ「聖絶」の題に戻っているはずなので、それ以降はご自由に編集なさってください。キリストであれマックス・ウェーヴァーであれヴォルテールであれ聖戦であれパレスティナ問題であれ、ユダヤ人を批判し、ユダヤ教を冒涜したいのであれば思いのままにやってください。むしろ大歓迎です。その代り「ヘーレム」と「ヘレム」には絶対に立ち入らないでください。ユダヤ教のヘーレムについては今回のところはわたしにお任せください。イザヤさんが「ヘレム」の項目でやりたかったことをわたしが「ヘーレム」の項目で行います。わたしはイザヤさんの100倍の量の記事を書けます。手元にはほぼ完成している文章がありますので、ご覧になりたいのでしたらサンドボックスにでも仮置きしておきますのでその旨を申し出てください。きっと満足していただけるはずです。ちなみに「ヘレム」は「ヘーレム」へのリダイレクトにするつもりですので、これ以上手を付けないでください。それから、破門に限定して書けないのであれば、できれば「アナテマ」にも立ち入らないでください。とにかく1週間か10日ほど待っていてください。以上です。--ימח שמו וזכרו 2011年4月14日 (木) 11:33 (UTC)
統合作業開始の予告
テンプレートを張り付けてからまだ3日しか経っていないのですが、それ以前よりおおよその合意が形成されていたこと、および作業にあたってまとまった時間がほしいため、この土曜(16日)、日曜(17日)のいずれかに作業を開始するつもりでおります。そこでご報告すべきことがあるのですが、ここ数日にかけて大変親切なユーザーさんからアドバイスをいただき、わたしが今後の方針としていた、「聖絶」を「ヘーレム」に統合、リダイレクト化した「聖絶」の削除、「ヘーレム」を「聖絶」に改名、といったややこしい手順を踏む必要はなく、それだとかえって作業が行き詰る可能性があることが分かりました。履歴の継承という点を深く考えすぎていたようで、「ヘーレム」を「聖絶」に統合するというシンプルな方法でも問題はないそうです。というわけで、テンプレートに書かれているのとは全く逆の結果になるということを前もってお伝えしておきます。もちろん「聖絶」がキリスト教の記事、「ヘーレム」がユダヤ教の記事になるというのは間違いありません。
そこでイザヤさんにご相談があります。「ヘーレム」を「聖絶」統合した折にはとりあえず仮の修正を施しておくつもりですが、そのあとの本格的な修正作業はお任せしてもよろしいでしょうか? 引き受けてくださるのなら引き継ぎのタイミングで報告するつもりですので、もしご覧になっているのでしたら、できるだけ早くその可否をお知らせください。それから「宗教的迫害」に代わる案があるのならそれも合わせて提出しておいてください。今回は以上です。--ימח שמו וזכרו 2011年4月15日 (金) 16:51 (UTC)
- 統合完了後、「ヘーレム」の内容をユダヤ教に則したものに置き換えました。これから一週間ぐらいかけてもう一度出典と照らし合わせて誤訳等がないか確認いたします。とりあえず一段落ということで、皆様のご協力に感謝いたします。--ימח שמו וזכרו 2011年4月17日 (日) 02:59 (UTC)
改名先について
統合提案の合意は成立しておりません。
Bokemiann氏はマックス・ウェーバーの『古代ユダヤ教』上巻(岩波文庫)の聖戦の個所、岩波のヨシュア記とサムエルの聖戦の解説を参考に記述したと述べています。また、『聖書思想事典』でも戦いとアナテマの項目でヨシュア記のヘーレムを扱っています。Bokemiann氏のヘーレムの記述は本人が言う通り、聖戦です。
[14]で、Bokemiann氏はここで本記事の統合先にアナテマを候補にあげており、Bokemiann氏は現「ヘーレム」を「聖戦(古代ユダヤ教)」或は「聖戦(ヘブライ語聖書)」へ改名するのもよいのではないかと思うようになりました。と述べています。Bokemiann氏はまずは「聖戦(古代ユダヤ教)」への改名を提案します。 しかし、ヘブライ語ユーザー氏とSillago氏はこれをあくまで「聖絶」への統合であると言い張り、編集を強行しています。ヘブライ語ユーザー氏は4月22日 (金) 15:33 (UTC)[15]で、 Bokemiann氏が「何を血迷ったか「聖戦(古代ユダヤ教)」への改名を主張し」たと述べており、Bokemiann氏とご自分が異なる見解を持っており、合意が成立していないことを認識していたわけです。しかし、彼はあくまで「統合」の合意があると言い張り、これを強行しました。「本来ならBokemiannさんがすべきことを仕方なく代行したという認識しかありません。」と述べていますが、Bokemiann氏の代行であれば、聖戦へと改名しなければならなかったはずです。そしてそれが執筆者のBokemiann氏自身が提示した出典に沿っています。
もし、そこで合意が成立していると主張するなら、出典とBokemiann氏の意見(ヘブライ語ユーザー氏が「血迷った」と呼ぶもの)に従って、聖戦に統合、あるいは改名してください。--イザヤ 2011年4月27日 (水) 21:56 (UTC)
- イザヤさんのコメントをWikipedia:コメント依頼/ימח שמו וזכרוに転記してあります。今後は議論の場を拡散させずに一箇所に絞ってください。Wikipedia:コメント依頼/イザヤに昨日ようやく反応されたみたいなので、そちらのほうでも構いません。--ימח שמו וזכרו 2011年4月28日 (木) 17:08 (UTC)