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ノート:二・二六事件

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皇道派について

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 「皇道派」は幕僚将校の派閥の呼称であり、決起将校たちは皇道派の領袖を被帽することを目指したのでしょうが、彼ら自身は皇道派と呼ばれるべきではないと考えられます。有名なものでは松下芳男の立場ですが、当時の記述でも例えば、村中孝次自身の名で配布された『粛軍に関する意見書』で、北・西田派の青年将校と荒木・真崎・柳川・秦・小畑等(すなわち皇道派)が分けて記述されています。また『日本憲兵正史』でも「革新派青年将校」と真崎・荒木・松浦・小藤・鈴木(率)・柳川・山岡・山下・秦らが皇道派として分けて言及されています。つまり、決起将校は自他共に皇道派と認められていなかったと思われます。もちろん彼らが皇道派幕僚将校に影響を受けていたのは間違いないでしょうが「皇道派と呼ばれる一部青年将校」という記述は適切ではないと考えられます。--以上の署名の無いコメントは、山崎白州会話投稿記録)さんによるものです。

問題提起された件を本文の方に反映させました。「皇道派の影響を受けた青年将校」という表現を中心にしました。--Kawai 2006年12月11日 (月) 18:47 (UTC)[返信]

天皇の記述について

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「天皇 裕仁」という記述は一般的ではないと思います。昭和天皇に統一するべきだと思いますが、どうでしょうか?

事件当日の不明点について

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永井荷風の日記には、新聞社も襲撃を受け、号外が出た時刻まで書かれているようですが、解読できません(泣)東京朝日新聞社は確実なようですが、日日とも書かれており、これは東京日日新聞のことだと思われますが、推測の域を出ません。また、その後決意趣意書をどの社に撒いたのか、という問題も不明です。どうか有志の方、なにとぞ。 それと、皇居は結局無事だったというのが通説ですが、付属する坂下門が一時占拠されていた(それも近衛兵が交戦して取り返した)という情報があります。どうか有志の方、なにとぞ。--221.23.120.37 2006年3月29日 (水) 03:44 (UTC)[返信]

読み仮名について

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いくらなんでも「にーにーろく」は。語調を整えるために伸ばして発音しているだけなのを読み仮名に反映させるのはどうかと思いますが。紙の百科事典では「ににろく」で統一されているようですが。えの 2007年1月18日 (木) 16:51 (UTC)[返信]

読み仮名についてその2

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まだ本文の編集はしませんが、私は、「にぃにぃろくじけん」がよいかと思います。語調を整えるためといわれればそれまでです。が、物を数えるときに「にぃ」と発音するのは、日本語として定着した用法だと思います。さらに、「てん」を口に出して読む人が増えたように、実際に口に出して「ににろく」と発音する人が増えることを危惧します。

利用者:まつき

ふりがなは「ににろくじけん」のままで、「実際には『にぃにぃろく』のように発音する」と注意書きをつけたすという方法しかないんじゃないですかね。(しかしこういう場合「ソースを出せ」と言われたら、どうすればいいんだろう)。えの 2007年4月28日 (土) 04:56 (UTC)[返信]
『広辞苑』(岩波書店)、『大辞林』(三省堂)では「ににろくじけん」です。慣例に従う方がいいでしょう。どうしても必要ならえのさんのおっしゃるように注意書きを付け足せばよいと思いますが、「にい」ならいいとして、「にぃ」というのは日本語の読み仮名の表記として一般的ではないと思います。また、他に異なる表記があるならソースを明示していただいたうえで再考したらいかがでしょうか。--Rollin 2007年9月11日 (火) 13:29 (UTC)[返信]
この件に関して先行する意見交換が私のノートでありましたので、そちらの方もご参照ください。ただ議論空間を一本化するため、この件についてのご意見は必ずこちらの方へお書き込みください。宜しく。
PANYNJ 2007年9月11日 (火) 15:26 (UTC)[返信]

PANYNJさんは「にぃにぃろく」は「にてんにろく」とは別の読み方であると言うことですが、私には「にぃにぃろく」はまさに「ににろく」と同じ読み方であると思います。

さらに「にぃにぃろく」を表記した場合「にーにーろく」はなぜ記載しないのかという問題が浮上します。更に言えば「にてんにろく」も発音すれば同様に「にぃてんにぃろく」に近いと思います。これも記載するのでしょうか。話し言葉を記載する場合際限が無くなってしまいますから記載しないべきです。R-H 2007年9月12日 (水) 05:40 (UTC)[返信]

いや、別の読み方というより、「にてんにろく」というのはむしろ誤った読み方となります。近代日本語で使用され始めた中黒(・)は句点(、)が機能し得ない語句の区切りとして使うものですから、これはそもそも読むべきものではないのです。また長音に関しては、長音府(ー)はカタカナの語に用い、ひらがなには「あいうえお」の母音をつけくわえることになっていましから、「にーにーろく」というもの誤った表記になります。
ちなみに大辞林にもこのように記載されています。私が「ににろくじけん」と「にいにいろくじけん」の併記が望ましいとするのはこれに準拠するものです。ご参考まで。PANYNJ 2007年9月12日 (水) 06:05 (UTC)[返信]
ちょっと気がついたことがことがあって、コメントします。国道246号というのがありまして、これを「にいよんろく」と呼ぶ人が多いのですが、この記事には読み仮名のところではないのですが「ニーヨンロク」と書いてありまして、この表記はどうなのかなと。一方、国道248号は「にいよんはち」と読む人と、「にいよんぱ」と読む人と、「にいよんぱあ」と読む人がいるのですが、記事の読み仮名は数字をそのまま書いて済ませていて、後は一切読み方については書かれておりません。こういった数字の読み方の表記の不統一ついては、探せば他にもあるかもしれず、この項だけで議論するのはやはり無理なのではないでしょうか。
一方、俳句で五・七・五といったとき、普通は「ごうしちご」と読みますよね。ところが、短歌の五・七・五・七・七の場合は、「ごうしちごうしちしち」と読む。言語学には詳しくありませんが、何か法則があって読み方は自然と決まり、あえて個別に記載する必要はないのかもしれませんね。そのあたりは、詳しい方のご教示を賜りたいところです。--Rollin 2007年9月12日 (水) 07:55 (UTC)[返信]
PANYNJさんが「にてんにろく」を記載したままだったのでそれは既に一般認知されているものとして扱うのかと思っていましたが。そこも含めて考え直すのですか?
いまはPANYNJさんは「ににろく」と「にいにいろく」の併記もしくは「にいにいろく」の単独表記が良いと考えているということでしょうか。失礼。既に上で「ににろく」と「にいにいろく」の併記がよいとおっしゃってますね。
国道の件は興味深いですが、漢数字に関する読み方のガイドラインは無く、漢数字を算用数字のように扱い、
二二六事件(226じけん)
と読み仮名を表記するのはこれもおかしい感じがしますね。あーでも書いてみると案外普通かも。どうでしょう。R-H 2007年9月12日 (水) 13:11 (UTC)[返信]

(インデント戻す)「にてんにろく」は書くのか書かないのかという問題について一言。「アメリカ同時多発テロ事件」には「9.11(きゅうてんいちいち)とも呼ばれる」との記述があります。また、「平成16年7月新潟・福島豪雨」にも「7.13水害(ななてんいちさんすいがい)とも呼ばれる」という記述があります。本来は誤った読み方だとしても、このような読み方は今や定着してしまっていると見るべきでしょう。「にいてんにいろく」を併記するかどうかはまた別として、「にてんにろく」は書かないわけにはいかないと思います。--Rollin 2007年9月13日 (木) 15:33 (UTC)[返信]

磯部浅一の墓

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磯部浅一の墓 二二六事件の刑死者 磯部浅一の墓 心酔していた吉田松陰墓の近くに埋葬されたいとの願いでここに埋葬された。 ウィキぺディアでの記事では両国の回向院に墓があるようになっていますが、多くの情報で、千住の小塚原の回向院に墓があるのが正しいようです。 鈴木護 ——以上の署名の無いコメントは、61.213.120.88ノート/Whois)さんが 2011年1月28日 (金) 08:53 (UTC) に投稿したものです(Bellisによる付記)。[返信]

海軍の動き について

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--Bellis 2011年7月30日 (土) 02:35 (UTC)[返信]

二・二六事件#海軍の動き」に、次のようなくだりがあります。

当時の海軍大臣大角岑生に提案したところ、「とんでもない。そんなことをして陸軍との戦争になったらどうする」と却下されたという[3]。

末尾の「[3]」が気になったので、ちょっと調べたところ、「大日本帝国海軍#歴史」に同じ記述がありました。どうも不適切なコピペ編集があったようです。いつ頃の編集なのかとか、同様の編集がないかといった、さらなる調査が必要です。--Bellis 2011年7月24日 (日) 10:26 (UTC)[返信]

報告 編集記録が見つかったので(2011年7月1日 (金) 11:42(UTC))差し戻しておきました。--Bellis 2011年7月30日 (土) 02:35 (UTC)[返信]

文献について

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226事件関連の記事で、おかしな記述があるなと感じていたのですが、どうも次の文献を元に書かれている部分のようです。

著者について調べてみました。

  • 「山口富永(ひさなが)氏。1924年、長野県大町市生れ。国学院大学進学を病のため中途で断念。大町国民学校勤務中召集。在京部隊に入隊後再び発病、箱根陸軍の療養所にて終戦。戦後一貫して政治、思想運動に挺身して現在に至る。」[1]
  • 「日本はなぜ勝ち目のない戦争に誘導され、引きずり込まれ、一億玉砕寸前にまで追い込まれていったのか。戦前から戦後に亘って政府、官僚、軍部内の中枢深く潜入しているコミンテルンの左翼陰謀を白日の下に暴き、遂にその真相に到る注目の書。 」[2]
  • 「彼らは朝日、NHKを使い、巻き込み、半世紀前の2.26事件匂坂記録の出現を口実に、底の割れた数々の謀略を展開。それに踊らされた魑魅魍魎を抉む。 」[3]

Wikipedia:信頼できる情報源とは思えませんので全て削除させていただきます。さぱしあ会話2014年1月27日 (月) 10:41 (UTC)[返信]

編著の内容が太平洋戦争時の日本に否定的だとしても、それを理由として戦中の出来事の出典として不適切であるとすることはできません。さらに、出典に基づいた記述からその出典のみをはがしたうえで「要出典」とするのはかなり悪意のある行為です。差し戻しました。--Claw of Slime会話2014年1月27日 (月) 11:49 (UTC)[返信]
1週間程度余裕見て編集すべきでした。その点反省します。いろいろと誤解があるようなので説明します。まず問題の本は真崎擁護の観点から書かれたもので「太平洋戦争時の日本に否定的」なものではないです。統制派が実権を握った戦争中の陸軍指導部に批判的ではないかと言われればまあそうですが。それから226事件は言うまでもなく戦争中の出来事ではありません。「信頼できる情報源」とみなせない一番の問題がコミンテルン陰謀説です。統制派の背後にコミンテルンがおり、スターリンの策略で日本は戦争に引きずりこまれたのだというのは皇道派が当時から主張していたことで近衛上奏文でも取り上げられてますが言うまでもなく陰謀論に過ぎません。張作霖爆殺事件はコミンテルンの仕業だというものや、当の皇道派青年将校がコミンテルンの手先だったという妄説すらあります。現代の評論でこのようなものを真面目に扱うのは問題外です。朝日NHK云々はおそらく真崎首謀説のことでしょう。定説には程遠いですが、この説が取り上げられるのを謀略だと言うのは行き過ぎです。学術上の意見の対立は当然存在するものですが、上のような解釈を主張する人物の著書をWikipediaの記事中で他の研究書と平等に並べるべきではありません。排除すべきです。
私が行なった編集で一部の記述について問題の出典を削り要出典を貼ったのは、他のソースで確認できる可能性があると考えたためです。このような場合どう対応するべきなのかはよくわかりませんが全て削除すべきだったのかもしれません。 さぱしあ会話2014年1月31日 (金) 11:54 (UTC)[返信]

外部リンク修正

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編集者の皆さんこんにちは、

二・二六事件」上の2個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。

編集の確認が終わりましたら、下記のテンプレートの指示にしたがってURLの問題を修正してください。

ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2018年3月27日 (火) 15:38 (UTC)[返信]

テンプレの国旗レターコードについて

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昨日、過去合意に反するという理由で、[4]の書き換えが行なわれましたが、その行為自体が逆にその「合意」に即していないのではないかと思われ、それを含めた様々な疑問について「Wikipedia:井戸端/subj/PJ日本史の過去合意が、Wikipedia内の全記事の「大日本帝国」という言葉使用の際の合意にどの程度関わっているのかについて」でご意見を募ることにいたしました。--みしまるもも会話2019年10月5日 (土) 08:47 (UTC)[返信]

犯人欄について

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思想家の北と西田を犯人に含めるのには違和感を感じますがいかがでしょうか? 北は軍法会議において彼らの思想に影響を与えたことを認めつつも計画には加わっていないと主張し、事件発生後にも早々に政府によって捕まっています。また、西田も妻から聞いたことに対して反対してきた、黙認するとしており直接計画には加わっていないとしています。 どちらも軍法会議では死刑判決が下され、銃殺刑となっていますが、経緯を見れば犯人として名を連ねるのは間違いではないでしょうか? 今田三郎会話2022年5月7日 (土) 14:18 (UTC)[返信]