ノート:井上成美/過去ログ1

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井上成美が二つの中学校の卒業生になってる謎 [編集]

井上成美は県立宮城県第一中学校(明治34年7月1日-明治37年5月31日の名称)、宮城県仙台第一中学校(明治37年6月1日ー大正8年10月31日の名称)の13回生(明治35年入学ー同40年卒業)として宮城県仙台第一高等学校の(「正会員 中学の部」)同窓会(卒業者)名簿にも載ってる。在学中の明治37年に学校の名称変更など若干の制度改正があったことはわかるが、何故、こういうことが起きてるのか謎。

井上成美が県立宮城県第一中学校に入学した後に学校が分校して宮城県仙台第一中学校と宮城県仙台第ニ中学校ができたとかなのかな?

分校したとかの場合だと両校の卒業生として名簿に載る可能性はあるのかな?

ソースといわれると困るのですが、私は1984年入学したのですが、直後に倫理の授業で井上成美の話を延々とされた記憶があり、上記のように入ったのは仙台一中だが学校が二つに分かれたために卒業が二中になったと教わりました。--218.110.226.90 2009年3月15日 (日) 13:44 (UTC)

兵機一系化問題について[編集]

兵科機関化の一系化については、井上の答申のみでは実現せず、この後さらに高田利種の調査・答申で実現化に向かう事に部内決定はしたが、日米関係の問題打開のめどがつくまで実施は延期して欲しいとの、連合艦隊側の要望からただちには実現せず、結果としては一系化実現の前に日本海軍が無くなったのでは、と認識していますが、どうでしょうか?--ターニャ 2009年1月6日 (火) 06:42 (UTC)


Pooh456さんの編集趣旨に関して[編集]

本日、私の会話ページに、Pooh456さんより私の編集に関するノートへの誘導がありましたのでこちらに書き込みます。

上記会話ページに、Pooh456さんの編集趣旨が以下のように整理されておりますので一部を転載します。

井上成美の実兄二人について当方が行った編集を、貴殿が「井上達三の死亡経緯はここより本人項に記載すべき&外部リンク先もwiki形式であり検証可能性の観点から疑義あり。実質rv)」として「実質rv」しましたが、下記の理由により復活させました。
(1)井上成美の実兄二人は、本人についてWikipediaに立項するほどの人物ではない。事実として立項されていない。
(2)私が設けた、井上成美の実兄二人の経歴についての外部リンクは、wikipedia井上成美の記述の出典ではないので、Wikipedia:検証可能性は直接には適用されないと解する。なお、外部リンク先には検証可能な出典が明示されている。
(3)貴殿の編集では、私が作成した「井上達三が、無天組であるのに陸軍中将に昇進した」記述の『検証可能な出典』が消されていた。これは貴殿のミスと解し、復活させた。

以上3点の編集趣旨を、参加者の皆様に議論していただきたいと思います。なお、上記趣旨に関する当方の見解は以下の通りです。

  • (1):「立項するほどの人物ではない」とされるが、当該項外部リンク先のように検証可能で有力な出典があれば、wikipediaに立項することは必ずしも否定されない。
  • (2):井上成美項の記述の出典でないとすれば、その記述の出典となりうる項に記載するのが適当であり、当方はその前提に立って前回の「実質rv」の編集を行っている。
  • (3):上記同様。"「井上達三が、無天組であるのに陸軍中将に昇進した」"の記載残は当方のカットし忘れです。それは申し訳ない。

それと、前回も申し上げましたが、あなたが私の記載を変更しても、いちいち私のページに報告していただかなくてもけっこうですよ。自分が提起した議論を放置するほど無責任ではないつもりなので。

以上の議論への参加、よろしくお願いします。--CB750 2011年7月14日 (木) 02:29 (UTC)


CB750さんの見解についてコメントします。

「井上達三」と「井上美暢」について、Wikipediaにどなたかが検証可能な出典を元に立項することは、もちろん自由である。ただし、現段階では、両名について立項されていないのが事実であり、「井上達三、井上美暢は、Wikipediaで立項する価値のある人物である」と判断して行動する人がいないことが示される。

現段階では、両名の実弟で、Wikipedia井上成美に両名についての簡単な記述があるので、それに対して検証可能な出典を有する記述「井上達三が、無天組であるのに陸軍中将に昇進した」を付加し、両名の経歴についての外部リンクをつけるのを排除する理由はない、と解する。

仮に上記の排除が正しいのであれば、井上成美のもう一人の実兄「井上秀二」についての「土木学会会長、水道協会理事長」という井上成美での記述も、「Wikipediaで『井上秀二』を立項し、そこに『土木学会会長、水道協会理事長』と記載すべし」という理由で排除されるべきとなる。

「井上成美項の記述の出典でないとすれば、その記述の出典となりうる項に記載するのが適当」

意味が不明です。私が設けた外部リンクは「出典の表示」ではなく「井上達三と井上美暢について、それぞれ Wikipedia の外に検証可能な出典を有する情報が存在することの表示」です。

「あなたが私の記載を変更しても、いちいち私のページに報告していただかなくてもけっこうですよ。」

貴殿の記述を大幅に変更しましたので、「会話」を利用して貴殿とコミニュケーションを取るのが妥当と判断しました。--Pooh456 2011年7月14日 (木) 03:33 (UTC)

井上秀二を加筆したのは私ですので、参考までに井上兄弟について情報提供します。秀二は京大土木科を恩賜で卒業し、京大助教授を務めました。道志川から横浜市への引水事業を完成させ、土木学会会長となった人物です。達三は臼砲、要塞砲の開発にあたった重砲の権威であり、その妻は米内光政の親友である海軍中将の妹であります。美暢は中尉時代に連隊長に制裁を加え、陸大受験ができませんでした。井上の兄弟には、他に会社役員や、検事になった人物がおります。なお、井上成美の名前の読み方ですが、海大の同期生会を『成美会』名づけ"せいびかい"と呼んでいました。念のためですが、成美の本来の読み方は"しげよし"です。以上出典は井上成美伝記刊行会『井上成美』第10版になります。--Stingfield 2011年7月14日 (木) 04:39 (UTC)


Stingfieldさん、情報提供ありがとうございます。頂いた情報を反映して、『いのうえせいび』ヨミの部分と、井上成美の実兄弟の部分を書き直してみました。お時間があれば、お手元の井上成美伝記刊行会『井上成美』第10版と照合して頂き、正すべき所があれば正して頂ければ幸いです。
『いのうえせいび』ヨミの部分は、「人物像」の部分に移動しました。--Pooh456 2011年7月14日 (木) 09:05 (UTC)
議論に加わるつもりはなかったのですが、意見を述べます。歴史上の人物の親族は記載しても構わないと思います。ただし、親族総登場は避けるべきで、その人物の履歴と関わりがあったり、その親族が歴史上の人物であったりする場合に限られるかと。私が井上秀二や、他の大名家当主、田村丕顕を加え、会社役員、検事を記述しなかったのはそういう趣旨です。記載した親族がwikipediaに記事が無い場合、多少の説明はあってもよいかと考えます。理由はなぜその親族が記述されているか不明ですから。で記事が立項された場合link先を読めばわかる情報は削除し、最低限の情報を残す。例えば、(陸士○期、陸軍中将)。話は変わります。Pooh456さんには或いは苦言になります。wikipediaへの記述は御自身で出典を確認して行うべきです。私の情報を信用して下さったことはあり難いことですが、もしいい加減な情報であった場合どうされますか?記述された内容は間違いではないですが、いったんリバートすることをお勧めします。私自身は井上の記事が記載過多だと感じておりますので加筆する予定はありません。なお、外部linkとして張られているサイトがふさわしいとは思えません。理由は外部リンクの選び方をお読み下さい。もしお願いできるのであれば、井上秀二、達三の記事を書いて見ませんか?外部リンクには文献がのってますし、日本陸海軍総合事典は公立図書館にはたいてい置いてあります。土木学会会長について社団法人が紹介しているサイトもあります。そして井上成美の伝記もあります。--Stingfield 2011年7月14日 (木) 09:53 (UTC)


Stingfieldさん、私の加筆部分をご閲読頂き、また貴重なご助言を頂きありがとうございます。伝記刊行会『井上成美』と『日本陸海軍総合事典』を利用できる目処が立ちましたので、近日中に、井上成美に自分で加筆した部分は伝記刊行会『井上成美』で記載を確認して参照頁を加筆し、井上達三の記事作成も検討いたします。
Wikipediaの井上成美が記載過多に陥っている、というのは同感です。いったんここまで「育った」記事を刈り込むのは難しい訳ですが。--Pooh456 2011年7月14日 (木) 11:07 (UTC)
趣旨はご理解いただけたようですのでよかったです。『井上成美』は非常に有益な本だと思います。本編と資料編に分かれていますが、特に資料編は感動しました。900貢を超える毎日出版文化賞受賞作です。まだネットが未発達な時代に古本屋でお財布と相談して購入したのを思い出します。なお秀二の肩書きは資料編の系図から取っていることをお断りしておきます。CB750さん、無視しているように見えましたらご勘弁願います。現実にWikipediaに立項されている軍人の記事に軍人の親族が掲載されているのは珍しくありません。影響が大きいものですので(1)の論点についてはスタイルマニュアル (人物伝)での議論提起が必要になるかと思います。(2)については上記で表明済み。では良い解決を願っております。--Stingfield 2011年7月14日 (木) 12:06 (UTC)


この議論について、7月14日以降、1週間が過ぎても意見が出ていませんので議論終了と看做します。異議のある方は書き込んで下さい。--Pooh456 2011年7月22日 (金) 00:47 (UTC)

:終了宣言を行う前に、Stingfieldさんがあなたに提案した(1)の論点についての回答が無いと思いますので、それに関する回答なりはしておいた方がよろしいかと思います。他は特に問題はないかと。お疲れ様でした。--CB750 2011年7月22日 (金) 05:02 (UTC)当方の錯誤による回答のため取り消し--CB750 2011年7月22日 (金) 14:57 (UTC)

Stingfieldさんの2011年7月14日 (木) 12:06 (UTC)の発言での「CB750さん、無視しているように見えましたらご勘弁願います。」から後の部分は、CB750さんの2011年7月14日 (木) 02:29 (UTC)の発言に対するコメントだと思いますが?
Stingfieldさんから改めてのコメントがなければ、この議論について私から申し上げることはありません。--Pooh456 2011年7月22日 (金) 07:12 (UTC)


「過剰な内容の整理」タグ貼り付け&内容削減検討提案(再)[編集]

(注:参加者お2人の希望により改めて新規提案。新規提案前の議論については こちら でご確認下さい)


この上のセクションの議論中、Stingfieldさんより「本項の記載が過多になっている」旨のご意見がありました。当方も同じ意見を持っておりますので、記載内容の削減を前提に、記載内容の見直しを提案したいと思います。


当方の主な提案理由は以下の通りです。

  • 提案理由
(1)目次整理の必要性と、それに応じた記載の簡略化の必要性
  • 例:現在の項の目次に「略歴」や「人物像」などと同レベルのセクションに、軍歴に関する「海軍省軍務局第一課長時代」などがあるのはバランスが悪い。これらは全て「略歴」あるいは「年譜」、もしくは適切な名前の新セクションを起こし、その下にサブセクションとして整理・見直しのうえで記載する。
※現在の目次:「3〜11、16」のセクションに適用されるべきと考えます。
(2)過度な引用や、本筋にさほど影響しない人物記載等の防止
  • 例1:「横須賀鎮守府参謀長時代のエピソード」上段の「荒木貞亮柴山昌生両少将がケンカをしている」という記載。両者とも立項されておらず、氏名を表記しなくても井上のエピソードにさほど影響しない。
  • 例2:防大初代校長・槇智雄への語りかけの掲載量、遺言全文の掲載などが適切かどうかの議論
このように、井上を語る文章の上でさほど影響しない人物の記載や、その人物に関する説明、出典元にあると推定される会話文などは極力最低限の記載とすべき。
(3)出典が明確になっていない記載の排除
  • 例:目次「人物像」最下の2段落(「トラトラトラ」受電に「バカヤロー」、陸軍をめった切り)などは出典が全く無い。
本来は即時カットでもいい対象ではあるが、これらの記載は長期間掲載されていた事を鑑み、一定期間「要出典」添付→「コメントアウト」で記載を保留 とし、一定期間を経ても出典記載が無い場合は全カットとする。「一定期間」の期間決定は議論内の話し合いによる。
(4)脚注記載の簡略化
現在、脚注に詳述されている部分があり、多いものだと脚注だけで400字を超え、確認の際に煩雑になりうる。これらはできるだけ本文に組み込む。脚注記載が適切な場合でも極力最低限の記載に収め、脚注を簡潔にする。
  • 例:脚注[86] -ほとんどが井上達三に関する記載であり、概略だけ記載して当該項に誘導すれば足りる。
(5)出典記載の工夫
現在、「阿川弘之 『井上成美』 新潮社(新潮文庫版)」を出典としたものが多数あるが、これに関しては最初のみを上記のようにフル記載した後に、「以下『阿川・井上』」等と置き換えて充当する。


なお、上記提案はあくまでも「削減賛成」に拠った私個人の私見であり、賛成反対を問わず理由を追記したい方はしていただいて構いませんし、むしろ活発な議論を行ううえで必要と思われますので積極的な記載をお願いします。


提案後の流れとしてはガイドライン「過剰な内容の整理」に沿って、まず、上記を理由にした「内容過剰タグ」をの貼り付け可否をコメント依頼にかけ、意見を集約した上でタグの貼り付けの合意形成を行い、合意に至った場合にはタグ貼り付け後に「運用基準の制定」を行った後に、その基準に沿った記事の削減を前提に進めて行きたいと思います。

  • 「内容過剰タグ」をの貼り付け可否(2週間)-(可決)→ 運用基準の制定(2週間~)基準に沿って編集開始


募集期間は再提案した事を鑑み、新規参加者を広く募る観点から、また、再提出前の混乱を収束させる「冷却期間」を加え、「内容過剰タグ」をの貼り付け可否に関する取りまとめ期間としてまず2週間とります(~2011年8月8日深夜12時[8月9日午前0時])。最初の1週間前後で賛否表明や理由記載等をしていただき、次の1週間前後は議論を経た上での意見集約期間とします。そして、前記タグの貼り付け提案が通った場合、記載基準策定にさらに2週間程度とりたいと考えております(ただし、この期間はお盆を挟みますのでもしかしたら3週間程度が良いかもしれません。それは別途タグ貼り付けが通った際に改めて話し合いにて決定したいと考えています。)。もちろん、議論の進行によっては多少の増減は加味しますが、前述の通り広く参加者を募る観点から、参加者の皆様においても議論収束に関しては多少の時間的余裕をもって参加していただきたいと思います。全ての作業終了に1ヶ月前後を目安にしたいと考えております。

なお本議論は既に提起され、コメント依頼に依頼済みです。混乱した前回の議論の反省を踏まえ、また、より多くの参加者の意見を募る観点から、参加者の意見が収束するまでは当該項の大幅な編集等はお控え下さい。ただし、誤字脱字やスペルミス、リンク等の追記・修正や、議論内で必要とされる場合で、議論中に申し出などがあって参加者に許諾されたテスト編集に関してはこの限りではありません。

以上、皆様の本議論への積極的参加をお待ちしております。--CB750 2011年7月25日 (月) 08:25 (UTC)(2011年7月25日 (月) 09:08 (UTC)コメント依頼提出報告および微修正)


コメントまず、「仕切り直し」を決断なさったCB750さんに敬意を表します。私も、記事「井上成美」の改善のため、微力ながら参加させて頂きます。至らない点があればご指摘下さい。
呼び水として、私の意見を述べます。
まず「前提」としまして、
(A) 記事「井上成美」(96千バイト)の情報量は、同様に「事績が詳しく記録されている、著名な海軍軍人」である「米内光政」(85千バイト)や「山本五十六」(103千バイト)と比較すれば、「過大」とは言えない。
(B) ただし、記事「井上成美」が読み難く、改善を要するのは明らかである。その主因は、
  • CB750さんが「(1)目次整理の必要性と、それに応じた記載の簡略化の必要性」で述べていること。これは、これからの議論で整理して行かねばなりません。
  • 出典不明の冗長な記述が多い。
  • 他者(千早正隆など)の「批判」や「説」が、「井上成美の事績」と混淆している。
にあると考えます。
(C) 現在、記事「井上成美」には、戦史叢書をはじめ、多数の「参考文献」が列挙されています。果たして、現在の記事「井上成美」が、かかる多数の参考文献を利用して書かれたのかというと、「否」と考えます。
現在の記事の出典は、ほぼ全てが「伝記刊行会『井上成美』」と「阿川弘之『井上成美』」であると思われます。これは、私がこの提案の前に現状の記事を編集してみて感じたことです。以下、「刊行会本」と「阿川本」と略します。
(D) 「刊行会本」と「阿川本」を読み比べると、
  • 「阿川本」は、「刊行会本」を基本資料とし、阿川が独自に存命の関係者(昭和40年代~50年代には、海軍将官・佐官で、海軍時代の井上成美と接した人がまだ多く存命だった。戦後の井上に接した人も多く健在だった)に聞いたこと、及び、作家・元海軍士官としての阿川の意見を交えて書いてある。
  • 阿川の独自取材の部分は「阿川本」に『**によると』と明記されている。阿川の意見については、普通に読めば分かる。
  • 阿川が、「刊行会本」から間違って引用し、それが、「阿川本」を出典として、ウィキペディア「井上成美」にそのままで記載されている部分が一箇所ありました。探せば他にもあるでしょう。
(E) 今回の提案によって、記事「井上成美」が整理された後は、ほぼ全ての記述に、「刊行会本 **頁」「阿川本 **頁」と注がつくだろうから、実体のない「参考文献」は除くべき。
次いで、CB750さんの提案理由に即した形で意見を述べます。
(1) 目次整理の必要性と、それに応じた記載の簡略化の必要性 ← 異議ありません。最も重要な部分です。
(2)過度な引用や、本筋にさほど影響しない人物記載等の防止
『引用』
CB750さんが例示なさっている2例で言いますと、
  • 「槇智雄への語りかけ」← 刊行会本を参照すれば分かりますが「井上と槇の対話が談話会形式で記録されていた」訳ではなく、「井上の『槇さんにこんな話をした』という談話」が出典です。要約して記事「井上成美」に記せば十分でしょう。
  • 「遺書」← これは、井上の書き残した原文の写真とテキストが刊行会本に収録されており、「全文引用」して差し支えないと思います。井上の人柄が、文面によく表れています。なお、刊行会本収録の遺書原文には、現在では「個人情報」とみなされる情報があり、その部分はカットすべきですが、現状の引用では「何の注記もなく、個人情報部分をカットしている」ので、不自然な感じになっています。また、井上の文字遣いが直されていて、「井上の息遣い」が感じ取れなくなっています。
「遺書」については、「刊行会本のテキストを忠実に転記する。個人情報をカットするのは当然だが、カットした事実、カットした部分の要旨を示す」のが良いと考えます。記事「井上成美」の中で「井上の肉声」が聞けるのはこの部分くらいであり、容易に読める「阿川本」には収録されていず、字数も過大にならないので許容されると考えますが、如何でしょう。
『過剰な人物記載の防止』
これはCB750さんの言われる通りです。例えば、私が既に編集した部分で、「井上が軍務局一課長の時、軍務局長に『海軍を辞めます』と言って井上が家に帰った後、次官が差し向けた使者」の名前を省いております。
(3)出典が明確になっていない記載の排除
「出典が不明な記載」は、現在の記事の大部分を占めています。これを排除すると、多くの記述が消えてしまいます。そこから新たにテキストを書き起こすのは大変ですし、その過程でまた現在のような「出典不明&混沌」とした記事に戻ってしまうのが目に見えています。
ですので、
  1. 「いったん、現在の記事『井上成美』に、『刊行会本』と『阿川本』を参照して出典をつける。刊行会本と阿川本の双方に記載がなく、他の出典が示されていない記載は排除する」
  2. 「全ての記載の出典が明確化されるので、(1)で再構築した目次に従って並べ替える」
という手順を踏むのが良いと考えます。
「いったん、現在の記事『井上成美』に、『刊行会本』と『阿川本』を参照して出典をつける。刊行会本と阿川本の双方に記載がなく、他の出典が示されていない記載は排除する」作業は、私がやる用意があります。なお、編集作業は私のパソコン上で行い、作業が済んだら、この「ノート:井上成美」に貼り付けて皆さんに公開すると言う形を取り、現在の記事「井上成美」には手をつけないよう留意します。
(4)脚注記載の簡略化
井上成美の兄弟の中で、詳細な情報と注がついている井上秀二井上達三については、私がWikipediaに立項しました。ですので、この両名についての記載は
井上秀二(土木技術者)
井上達三(陸軍中将)
のみで足りることとなり、CB750さんが懸念なさる問題はあらかた消えるでしょう。他については、ケースバイケースで。
(5)出典記載の工夫 ← 既述のように、「刊行会本」「阿川本」などと略するのは良策です。
(6)<項目追加>批判・説の排除。出典の明瞭な「事実」のみを記載する。
例えば千早正隆の井上についての批判は、記事「千早正隆」に、「千早の井上成美についての批判」を立項して記載する。
例えば「珊瑚海海戦」や「井上と高木の終戦工作」については、多くの説が公刊書籍(検証可能な出典)で述べられているが、それらは、記事「珊瑚海海戦」や記事「井上成美と高木惣吉の終戦工作」(未立項)に記載すべき。
この点については、今回の提案が実行された後、冒頭に「本記事では、井上成美に係る、出典の明らかな『事実』のみを記載した。他者の批判や説は意識的に排除している。」といった趣旨の注意書きを置いて、後日の「記事の再肥大化」を抑止するべきでしょう。
以上、呼び水として意見を述べました。他の皆さんもよろしくお願いします。--Pooh456 2011年7月25日 (月) 11:06 (UTC) 【加筆】--Pooh456 2011年7月25日 (月) 11:34 (UTC) 【微修正】:--Pooh456 2011年7月25日 (月) 11:51 (UTC)
CB750さんのご提案に賛成します。ただ私は加筆も考えているため念のためひとつ質問させてください。運用基準により編集が始まった(または編集が終了した)のち、加筆する場合の手続きのようなものは必要になりますか?他の記事を加筆する場合のスタンスに編集基準に沿っていればOKという理解で宜しいでしょうか?Pooh456さんのご提案にも賛成です。出典を付与したのちの削除ですが、出典を探す期間が必要かと思いますので、阿川本、伝記刊行会本から出典が見つからない記事に要出典を付与することをお願いできますでしょうか?私からの提案ですが、
(1)軍務局長時代の節を設ける(2)語録の節を設け記事本文から分離でき、かつ必要なものをまとめる(3)出典と注釈を分離する(4)実際に出典とした本を参考文献とし、他のものは新たに関連文献とする (5)画像を何枚か追加する(例えば比叡や二・二六事件陸戦隊、珊瑚海海戦など)--Stingfield 2011年7月25日 (月) 13:46 (UTC)
意見表明、ありがとうございます。合わせて、お二人に当方の見解を申しあげます。
2点だけ申し上げたいと思います。
まずご提案の(A)の件ですが、現状では他の項との記事サイズ比較は考えない方がいいと思います。お示しになった2項にも結構排除した方がいいという記載もありますし。ですので、本項の議論後の編集においては大きさはまず考えずに記載を整理することに主眼をおきましょう。サイズが大きい記事が小さい記事よりすばらしいって訳では必ずしも無いでしょうし。
次に(C)~(E)の「出典」に関する事ですが、Wikipediaでは「検証可能性」が重視されますので、誰もが確認が取れる可能性が高い出版部数の多い書籍にに出典が偏るのはweb上にあるという特性上、ある程度止むを得ないと思います。貴重な書籍を出典とした記述は非常に貴重なものではありますが、あまりに発行数少なくて現物でしか確認が取れない、あるいはwebから確認が取れないような資料を出典とすると検証可能性の観点から好ましくない記載と看做されかねません。ですので、記載に関しては「出典があるから」にプラスして「閲覧者が検証可能か」も加味した方がよりいいと思います。
今現在、記載が無い事に関しては出典が明確でさえあれば新しい内容を追記する事は全く否定されないと思います。本提案の「隠れ命題」は「記載を整理してより良い記事にしていく」でしょうし、今まで無かった記載を追記するのはその趣旨に資するものでしょう。
ただ、現状では削減を優先事項として提案しておりますので、追記する場合は本議論の収束後に削減編集がある程度まとまってからの方がいいとは思います。そうなると結果的に記載をお待たせする事にはなるかと思いますが、一旦削減方針に沿っての編集の結果どのような文章になるかを確認してから追記する方がいいと思います。一気にやろうとすると揉める元でしょうから、段階踏んだ方がいいと個人的には思います。議論終了後の追記は、過剰記載時の削減基準等を参考にして記載した方がいいかもしれません、せっかく書いても削除基準に抵触するともったいないと思いますよ。追記に関しての手続等も個人的には必要無いと思います。
お2人の意見表明に感謝します。コメント依頼も出しておりますので、他の方の意見もあるかと思いますので、ややお待ちいただく期間が長いとは思いますが、闊達の議論と合意形成のため、今しばらく我慢していただきたいと思います。よろしくお願いします。--CB750 2011年7月25日 (月) 14:42 (UTC)
CB750さん、了解しました。私自身は削除編集が終了後に加筆するつもりです。Pooh456さん、スイマセンご提案の(6)<項目追加>批判・説の排除。出典の明瞭な「事実」のみを記載する。以下については保留とさせてください。井上に対する批判的な見解(説)を一切排除ということでしょうか?節度は必要ですが、その場合は反対です。海軍関係者などの批判的見解は必要と考えます。なお千早正隆は井上について批判だけでなく、かなり好意的な評価もしています。--Stingfield 2011年7月25日 (月) 15:42 (UTC)
(6)に関しては私の提案ではなくPooh456さんの提案だと思いますので、Pooh456さんに確認を取ってください。--CB750 2011年7月25日 (月) 16:58 (UTC)
Stingfieldさんのご質問にお答えします。(6)<項目追加>批判・説の排除。出典の明瞭な「事実」のみを記載する。というのは、後段の出典の明瞭な「事実」のみを記載する。という方にウェイトがあります。「批判や説」は、新史料が発掘されたりしなくても、例えばこれから執筆・公刊される戦史本でいくらでも新しいものが出て来ますので、その気になれば「Aは珊瑚海海戦での井上について***と述べている。出典 A『珊瑚海海戦の真実』**社、2012年、**頁」などという、検証可能な出典を備えた記載をどんどん加筆出来てしまいます。
記載対象を「出典の明瞭な『事実』」に限定すれば、今後、「井上成美についての新たな史実」が発掘されない限り記載は増えません。
「井上に対する批判的な見解(説)」を排除するのではなく「見解(説)は一律に排除し、事実のみを掲載する」という趣旨なのですが、如何でしょうか?--Pooh456 2011年7月26日 (火) 00:11 (UTC)
上記を例示すると、下記のようになります。
  • 許容する記述「軍令部総長の伏見宮博恭王の後任人事について、及川古志郎 海軍大臣が、航空本部長 兼 海軍次官代理であった井上に意見を求めた。井上は「最先任の永野修身大将を持って来たら良いでしょう」と述べ、その通りに永野が軍令部総長に就任した。戦後に井上は開戦の責任問題について「吉田、及川、嶋田の三人の大臣の責任です。ただ、永野修身 軍令部総長については(人事権者である及川海相に、永野を推薦した)私に責任があります」と語っている。(刊行会本468頁)」
  • 排除する記述「Aは井上を次のように批判している。『一般に、井上は軍政家としての評価が高いが、永野修身を軍令部総長に推薦して開戦への道を開く失策を犯しており、肝心な時に役に立たなかった。臨機応変の才に欠けていた』(A「開戦責任を考える」**社、****年、**頁)」
なお、いずれの記述も、例示のために私が作ったものであり、現在の記事「井上成美にはありません。--Pooh456 2011年7月26日 (火) 00:57 (UTC)

(インデント戻します)仰る懸念は理解できます。論・説を長々と書くのは避けるべきですが、論・説が肥大化した場合は改めて整理を考えれば宜しいのではないかと。現時点で将来的な編纂を規制する場合、有意な加筆がなされなくなることを恐れます。事実を書く部分と論・説を書く節を分けることはしても良いと思いますが。ご提示いただいた例示の場合、私なら2通りの対応を考えます。記事全体がある程度まとまっているのであれば(1)を、雑多である場合は(2)を選択。

(1)「しかし、及川は既に伏見宮から総長後任に永野の指名を受けており、野村實は井上は責任を感ずる必要は無いとしている(野村實『山本五十六再考』中公文庫)」と追記する。(この場合、読点までは事実であり、残りは説になります。)
(2)ノートに「Aの説は事実誤認があるので削除したいと考えますが如何でしょうか?」として意見を求め反対が無ければ削除。

Wikipediaの記述原則に則って行動する編纂者の自由な裁量部分を規制する必要はないと考えます。どうしても論・説の排除が必要だというのであれば別途にローカルルールの制定が必要になるのではないでしょうか?--Stingfield 2011年7月26日 (火) 03:59 (UTC)


『本記事では、検証可能な出典を有する事実のみを記載している』と、記述削減後の記事の冒頭に書くのは、特に「Wikipediaの記述原則に則って行動する編纂者の自由な裁量部分を規制する」「将来的な編纂を規制し、有意な加筆がなされなくなる」ものではないと考えます。何故かというと、そのような記述は、「大胆な編集」、もしくはノートでの議論で容易に除去され得るからです。『本記事では、検証可能な出典を有する事実のみを記載している』という文言には、特に拘束力はありません。


私の例示について、Stingfieldさんが指摘なさったことですが、下記のように反映してはどうでしょう?「事実のみを書く」という範囲で、必要な情報「永野が軍令部総長になり、開戦が促進されたのは井上のせいではなかった可能性が高い」を盛り込めると思います。


軍令部総長の伏見宮博恭王の後任人事について、及川古志郎 海軍大臣が、航空本部長 兼 海軍次官代理であった井上に意見を求めた。井上は「最先任の永野修身大将を持って来たら良いでしょう」と述べ、その通りに永野が軍令部総長に就任した。戦後に井上は開戦の責任問題について「吉田、及川、嶋田の三人の大臣の責任です。ただ、永野修身 軍令部総長については(人事権者である及川海相に、永野を推薦した)私に責任があります」と語っている。[1][注釈 1]
== 出典 ==
  1. ^ 刊行会本、468頁。
  2. == 注釈 ==
    1. ^ 1940年(昭和15年)4月8日に、主治医に「過労」と診断されて辞意を固めた伏見宮軍令部総長は、直ちに及川海相を呼んで辞意を伝え、自分の後任に永野を指名した。野村實『山本五十六再考』中公文庫、1996年(平成8年)、211頁。
    2. --Pooh456 2011年7月26日 (火) 06:19 (UTC) 【微修正】--Pooh456 2011年7月26日 (火) 09:14 (UTC)
      拘束力がないということには安堵しました。しかしそれならば"後日の肥大化防止のため冒頭に「本記事では、井上成美に係る、出典の明らかな『事実』のみを記載した。他者の批判や説は意識的に排除している。」と記述する"必要は無いのではありませんか?東條英機なり、山本五十六なり米内光政でも評価、批判、説などは記述されているわけで、それなりにまとまっていると考えますが、井上成美でも雑多な記述ではなく、かつ出典を伴えば記述しても宜しいのではないでしょうか?でもまぁ考えてみれば現在は「内容過剰タグ」をの貼り付け可否(2週間)の期間中でしたね。もし否決された場合この論点については無駄になってしまうかもしれませんので、運用基準の制定の時期に第三者のご意見もいただいて、改めてということで宜しいでしょうか?ご提示いただいている例示については、その内容を書くのであれば私なら注釈部分は本文に組み入れます。ただ現実にAの批判的記述があるわけではなく、編纂者の裁量に任せられる部分なのでこの辺で。--Stingfield 2011年7月26日 (火) 11:01 (UTC)


      2011年7月25日 (月) 08:25 (UTC)に,CB750さんが,「「過剰な内容の整理」タグ貼り付け&内容削減検討提案(再)」をなさってから既に2週間が経過しました。その間,特に反対する意見は出ていませんので,

      「内容過剰タグ」をの貼り付け可否(2週間)-(可決)

      と看做して「内容過剰タグ」を貼り付け,次のステップである 運用基準の制定(2週間~) に進むべきかと考えますが如何でしょうか?--Pooh456 2011年8月11日 (木) 03:20 (UTC)


      2011年8月11日 (木) 03:20 (UTC)に上記の提案をして約1ヶ月経ちましたが、どなたからも反応がありません。また、提案者であるCB750さんは、CB750さんの投稿記録を参照しますと、8月4日に1件投稿した後、8月29日に2件の投稿をしておられるにも関わらず、本件については何ら反応しておられません。

      CB750さんによる本提案は、提案者自身に汗をかいて頂かなければ実現不可能です。

      Wikipedia:過剰な内容の整理#タグの貼付「タグを貼付した利用者は、「解決方法」に沿った記事の整理までを責任を持って行ってください」と示されております。

      提案者のCB750さんが、この提案への関心を失ってしまったと見受けられる状況ですので、遺憾ではありますが、「この提案のクローズ(終了)」と「井上成美からの、『このページのノートに、このページに関する議論があります。/議論の要約:記載内容削減提案(再)』タグの除去を提案します。異議のある方は、ご発言をお願いします。--Pooh456 2011年9月8日 (木) 04:43 (UTC)


      2011年9月8日 (木) 04:43 (UTC)に上記の提案を行いましたが、1週間経過しても誰からも異議が出ませんので、本提案をクローズし、本文「井上成美」からの、『このページのノートに、このページに関する議論があります。/議論の要約:記載内容削減提案(再)』タグを除去します。--Pooh456 2011年9月15日 (木) 05:50 (UTC)

      IPユーザーによる編集のコメントアウトについて[編集]

      IPユーザー 122.21.244.171 による 2011年11月25日 (金) 00:20 ならびに 2011年11月25日 (金) 00:34 の編集で、「第四艦隊司令長官の職を更迭され左遷される」という節が新設され、

      (井上は)作戦での度重なる数々の失態により、更迭、左遷され海軍兵学校長となる。同じように部隊を壊滅させるなど失態により左遷された例としては、陸軍では牟田口廉也が有名である。

      なる記述がなされました。

      (井上は)作戦での度重なる数々の失態により、更迭、左遷されについての出典表示が欠けており、Wikipedia:独自研究は載せないに抵触すると解されます。当該部分を除くと、本記述が井上成美に存在する理由が消滅しますので、IPユーザーが新設した節「第四艦隊司令長官の職を更迭され左遷される」全体についてコメントアウトを行いました。--Pooh456/2011年11月25日 (金) 04:33 (UTC) 微修正--Pooh456 2011年11月25日 (金) 04:36 (UTC)/微修正--Pooh456 2011年11月25日 (金) 05:18 (UTC)

      一週間が経過しましたが、IPユーザーから反応がなく、他の方からご意見が出ませんので、コメントアウトした部分を削除します。--Pooh456 2011年12月2日 (金) 00:37 (UTC)

      過剰な注釈の整理について[編集]

      一部注釈を除去[1]したことについて、私の会話ページでコメントいただいたのでお答えします。

      1. 一般的に「いのうえしげよし」と読むのであれば出典はいりません。奉職履歴に限らず、多くの出典で「いのうえしげよし」とされているのではないのですか?
      2. 「せいび」の読みについて、引用は不要です。訳を書いているので。
      3. 「成美」の由来は本文に組み込みました。略歴の最初に出生について書いてもいいかもしれません。
      4. 海大専修学生について。まずあの形式だと注釈の中身の出典になってしまうので、本文に出典をつけてください。注釈内容については一人物記事で細々説明する内容ではありません。必要なら別記事を参照する形で。
      5. 「字」の意味について。文脈からすんなり解釈できるので特に問題となることはないだろうと思います。注釈なしかごくシンプルに。あの程度であれば独自研究だ出典だと言われることはないでしょう。読者が文の意味を読み取りやすくするのがあの注釈の目的です。それと比較して、現状はあまりにも過剰な引用、しかも非常に独自研究くさくなっているのでやめましょう。
      6. 小林万一郎についての注釈。注釈をつけた本文の内容と彼の死は関係がなく、ここで書く内容ではありません。手に入りにくい書籍だからという理由で書くのはもっての他です。

      --NNMM (会話) 2012年3月1日 (木) 14:11 (UTC)


      上記については、「利用者‐会話:NNMM#「井上成美」のNNMMさんの編集について」で説明しておりますので、このノートをご覧の方は、まずそちらをご覧下さい。追加でコメントします。
      「一般的に「いのうえしげよし」と読むのであれば出典はいりません」
      Wikipediaで記述する以上は、出典表示が必要です。「Wikipedia:検証可能性」で明示されていることです。海軍士官の姓名のヨミについて「海軍省人事局が保管していた奉職履歴」という確かな史料が存在し、井上の奉職履歴が『伝記』に掲載されており、それを出典として表示しているのに、その出典表示を除去すべき、というNNMMさんのお考えは理解できません。
      「せいび」の読みについて、引用は不要です。訳を書いているので。
      英語の文献を用いている以上、該当する原文も明示するのが、「閲覧者に対する親切」であり、「検証可能性」の点でも実益があると思いますが?
      「成美」の由来は本文に組み込みました。略歴の最初に出生について書いてもいいかもしれません。
      「名前の由来」が井上の人間性に直接関連する訳ではないので、注釈で記述する方が適当と考えます。
      海大専修学生について
      井上について直接関連することは「井上の専門が航海科で、航海屋である」ことですから、本文に「海大専修学生卒業。専門は航海科」という旨を書き、注釈で「海大専修学生、それに先行する海大乙種学生」について記述する現状の形が妥当と考えています。なお、「注釈内容については一人物記事で細々説明する内容ではありません。必要なら別記事を参照する形で」とのご意見ですが、「海軍大学校」の情報量はごく僅かで、井上が青年士官の頃に存在した「乙種学生」や「専修学生」についての記載はなく、「参照する別記事」がありません。
      「字」の意味について。文脈からすんなり解釈できるので特に問題となることはないだろうと思います。
      「広辞苑(第5版)」に載っていないことについて、閲覧者が「文脈からすんなり解釈できる」と期待するのは無理があるでしょう。よって「出典を付して説明」する必要ありと考えます。現状よりも、簡素に、「出典を付して説明」出来るのであれば、ぜひ編集して下さい。ただし、NNMMさんの編集結果 単語」の意。では、Wikipediaの記載基準を全く満たしません。「Wikipedia:検証可能性」で明示されていることです。
      小林万一郎についての注釈
      利用者‐会話:NNMM#「井上成美」のNNMMさんの編集について」で説明したように、小林については「兵37期のクラスヘッドなのに(誤り)、歴史に名が出て来ない人物。理由は不明」と捉えられている事実、正しい情報は私が知る範囲で『伝記』にしか記載されていない事実が存在します。「Wikipedia:特筆性」により「小林万一郎」という記事は作成できませんので、記事「井上成美」で「兵37期において、兵学校卒業時の首席であった小林万一郎は、1922年(大正11年)、少佐の時に病没した(出典)。」と注釈で書くのは、記述量という観点でも問題なく、閲覧者にとっての実益があると考えます。--Pooh456 (会話) 2012年3月1日 (木) 15:13 (UTC)
      1. 「いのうえしげよし」の読みについては、確かに出典の一つなので除去する必要もありませんか。しかし私はWikipedia:検証可能性によって軍人やその他人名にまで出典が求められている、とは解釈しません。そこに論争があるといった場合でなければ、井上成美が「いのうえしげよし」であることを、Wikipedia編集者が奉職履歴に基づいて確定・閣員する必要はないでしょう。
      2. 「いのうえせいび」の読みの引用について。いいえ、検証可能性とは閲覧者が出典を参照できるかどうかです。引用の必要性=原文と記事の記述をWikipediaで比較確認する必要性はありません。ところで、「済美会」は「せいびと読んでいた」ことの注釈にはそぐわないように思います。名前を「せいびとも読める」から「済美会」にしたのかもしれません。
      3. 「成美」の由来について。名前の由来というのは人間性といいますか、その人物を語る上でそれなりに大きいものだと思いますが。出身地と同様です。ただ冒頭に書くには多少そぐわない感もありますし、略歴の頭に「いつ、どこで生まれた。名前は何に由来して付けられた」など出生について書けばより自然に納まりますが、そうしましょうか?
      4. 海大専修学生について。でしたら海軍大学校に書いてください。あれだと海軍大学校の制度の話になっています。
      5. 小林万一郎について。たかが「歴史に名が出て来ない人物」のしかも本文に全く関連しない死亡について、なぜここで解説しなければならないのですか? これ以外にも、その人物について本文に関わりない過剰な内容を注釈や()で書いているものが多くあり気になります。--NNMM会話2012年3月6日 (火) 14:46 (UTC)

      NNMMさんの今回の編集、NNMMさんとのやり取りから「『過剰な注釈の整理』の理由を一生懸命探している」ように見えます。

      利用者‐会話:NNMM#「井上成美」のNNMMさんの編集について」でNNMMさんが「『Wikipedia:ページの編集は大胆に』があったり」と書いておられますが、同ガイドラインで「大胆な編集」と定義されているのは

      「その記事の構成がレイアウトの指針から逸脱していれば、レイアウトを整えましょう。見出しの付け方がよくなければ、適切な見出しに変えましょう。ある節(セクション)が冗長な長文になっていれば、余分な箇所を割愛し、要点を整理し直し、より適切な見出しに変え、節の構成を再編してみましょう。また、必要と思われる記述を思い切って加筆してみましょう。」

      ということであり、利用者‐会話:NNMM#「井上成美」のNNMMさんの編集について」でNNMMさんが言っておられる「注釈・本文ともざくざく落としていく」ことではありません。

      現在、記事「井上成美」では、「海軍次官と終戦工作」節が、「ある節(セクション)が冗長な長文になって」おり、出典表示もほとんどなく、正に「Wikipedia:ページの編集は大胆に」の適用が求められている状態です。そちらにエネルギーをお使いになる方が、記事の改善に資すると思います。--Pooh456 (会話) 2012年3月2日 (金) 00:10 (UTC)

      Wikipedia:ページの編集は大胆には除去理由ではなく、編集するべきと考える根拠としてだしたものです。除去する理由はそれが過剰である(と判断した)からであり、「ざくざく落としていく」と言ったのは過剰な記述が色々と目についたからです。もちろんその中には編集対応するものもありますが、おおむね全部または一部を整理していくことになるでしょう。
      #海軍次官と終戦工作は多少冗長だとは思うのですが、他の節も似たようなものじゃないでしょうか。現状は明らかに過剰・不要なものから手を付けています。文量が文量なのでいつか全体的に整理し読みやすくできるといいのですが。他の軍人記事と比べて異様に言葉の引用が多く、伝記本を読んでいるような印象はあります。--NNMM会話2012年3月6日 (火) 14:46 (UTC)
      #海軍次官と終戦工作は多少冗長だとは思うのですが、他の節も似たようなものじゃないでしょうか。』
      #海軍次官と終戦工作」節には出典表示がほぼ皆無であり、他の節には出典表示を「Wikipedia:出典を明記する」に則って行なっている、という点で全く違います。
      「文量が文量なのでいつか全体的に整理し読みやすくできるといいのですが」とNNMMさんが考えるなら、「Wikipedia:過剰な内容の整理」というガイドラインが整備されていますので、それに従ってください。--Pooh456会話2012年3月7日 (水) 03:21 (UTC)

      (上から転記)

      1. 「いのうえしげよし」の読みについては、確かに出典の一つなので除去する必要もありませんか。しかし私はWikipedia:検証可能性によって軍人やその他人名にまで出典が求められている、とは解釈しません。そこに論争があるといった場合でなければ、井上成美が「いのうえしげよし」であることを、Wikipedia編集者が奉職履歴に基づいて確定・閣員する必要はないでしょう。
      2. 「いのうえせいび」の読みの引用について。いいえ、検証可能性とは閲覧者が出典を参照できるかどうかです。引用の必要性=原文と記事の記述をWikipediaで比較確認する必要性はありません。ところで、「済美会」は「せいびと読んでいた」ことの注釈にはそぐわないように思います。名前を「せいびとも読める」から「済美会」にしたのかもしれません。
      3. 「成美」の由来について。名前の由来というのは人間性といいますか、その人物を語る上でそれなりに大きいものだと思いますが。出身地と同様です。ただ冒頭に書くには多少そぐわない感もありますし、略歴の頭に「いつ、どこで生まれた。名前は何に由来して付けられた」など出生について書けばより自然に納まりますが、そうしましょうか?
      4. 海大専修学生について。でしたら海軍大学校に書いてください。あれだと海軍大学校の制度の話になっています。
      5. 小林万一郎について。たかが「歴史に名が出て来ない人物」のしかも本文に全く関連しない死亡について、なぜここで解説しなければならないのですか? これ以外にも、その人物について本文に関わりない過剰な内容を注釈や()で書いているものが多くあり気になります。--NNMM会話2012年3月6日 (火) 14:46 (UTC)
      『「成美」の由来について。名前の由来というのは人間性といいますか、その人物を語る上でそれなりに大きいものだと思いますが。出身地と同様です。ただ冒頭に書くには多少そぐわない感もありますし、略歴の頭に「いつ、どこで生まれた。名前は何に由来して付けられた」など出生について書けばより自然に納まりますが、そうしましょうか?』
      は、「記述の改善」ということで、うまく纏まるように編集を試みて下さい。こちらについては、これ以上ノートで議論しないでよいと思います。
      他については、上で書いた
      『「文量が文量なのでいつか全体的に整理し読みやすくできるといいのですが」とNNMMさんが考えるなら、「Wikipedia:過剰な内容の整理」というガイドラインが整備されていますので、それに従ってください。--Pooh456会話2012年3月7日 (水) 03:21 (UTC)
      が答になります。ご検討下さい。なお、昨年の7月にCB750さんがこの手続きを始めたものの、すぐに投げ出してしまった前例があります。--Pooh456会話2012年3月7日 (水) 04:41 (UTC)
      返答が削除されてしまっている部分があるのはミスかと思います。そちらも合わせて応答します。インデントについては、Pooh456さんのコメントが2つの話題で別インデントになっていたため、各々に返答したものです。その整理のためであれば、私のコメントはコピーなさらずとも移動してかまいません。文量が増えるだけですから。
      1. 引用について。Wikipedia:検証可能性Wikipedia:出典を明記するWikipedia:引用のガイドラインによって、引用の必要性がないと判断していたのですが、Wikipedia:原典のコピーはしない#検証可能性との関係に明記されてますね。
      2. 済美会は井上成美に由来することは確認しましたが、実際の読みに由来したとはいえないので除去します。
      3. 海大関連について。でしたらあちらに書く必要はないですが、こちらでは必要な内容だけを。海大の制度ではなく、乙種学生、専修学生が何なのかだけ書きましょう。
      4. 小林万一郎について。除去理由は文献に書いてないからではありません。ここは井上を説明するための記事で、注釈は井上を説明するために付けるものです。一般的な話をすれば、その人物の説明が本文に関係しているものももちろんあり、それらを除去するつもりはありません。それと、私はPooh456さんに教えていただいた情報とその出典は確認していませんが、それを疑う理由はありません。その上での判断です。
      5. 全体的な話。Pooh456さんは出典があるものは載せてよいと考えているようですが、それだけでは危険です。ここ最近の大きな編集はこれまで以上に、出典から文章、主に会話・発言を引っ張ってきているがために百科事典の体裁としてそぐわないものになっています。あまりにひどすぎますので、どうかおやめください。ここは伝記本ではなく百科事典です。今後、修正していきたいとは思いますが、この文量に手を付けるのは重労働過ぎるのでどうなるか。内容については詳しくないので手をつけにくい部分も多く、当分は明らかに直せるだろうというものをやっていきます(これについては記述ごとに判断・修正していく形になりますので、Wikipedia:過剰な内容の整理はノートで全体的な議論をした上で手を付けるべきときに使います。あるいはこの節のような議論でよいならタグを貼っても構いませんが)。Pooh456さんも今後はどうか内容をシェイプアップしていってください。--NNMM会話2012年3月8日 (木) 17:12 (UTC)

      (インデント戻し) 「議論活性化のためのコメント依頼」を提出しましたので、よろしくお願いします。--Pooh456会話2012年3月9日 (金) 01:41 (UTC)


      NNMMさんは、「他の軍人記事と比べて異様に言葉の引用が多く、伝記本を読んでいるような印象はあります。--NNMM会話) 2012年3月6日 (火) 14:46 (UTC)」「ここは伝記本ではなく百科事典です。NNMM会話2012年3月8日 (木) 17:12 (UTC)」ということを述べ、自らの意図する編集の根拠としておられます。
      一方、関連しそうな過去の議論に「Wikipedia‐ノート:削除の方針/2010年#『百科事典的でない』とは何か」があります。その議論では、
      「一般概念として何が百科事典的であるかということは人により判断が分かれやすく、私自身も百科事典的である・無いの不毛な押し問答に巻き込まれた体験があります。その時、Wikipediaにおいてはどのようなものが百科事典的であるかが定義されていない事に気がつきました。」
      「定義として固定されたものではありませんが、「Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#内容」が比較的参考になると思います。」
      という問答がなされております。
      Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#内容」には、「ここは伝記本ではなく百科事典です。NNMM」といった主張の根拠になり得る記述は存在しないようです。
      NNMMさんにお聞きしますが、「ここは伝記本ではなく百科事典です。NNMM会話) 2012年3月8日 (木) 17:12 (UTC)」といったご主張は、何を根拠にしておられるのでしょう?--Pooh456会話2012年3月11日 (日) 05:23 (UTC)
      私個人の判断です。伝記本においては、詳細な解説をつけたり発言を載せることはよくあるでしょう。しかしWikipediaにおいて同様にすると、詳細すぎて冗長になりがちです。もちろんそれは場合によりますし、個人の判断にもよりますが。Pooh456さんが方針を重視しているのは分かりますが、かといって形式的に「方針文書に記述があるから・ないから」と判断できることばかりではありません。現にPooh456さんの主張も多くが個人的判断によっています。--NNMM会話2012年3月11日 (日) 10:11 (UTC)
      ここの議論によって明らかに不要と思われる部分を除去しました[2]。要約で書き忘れていましたが、「いのうえせいび」の読みについての引用も取り除きました。
      議論活性化のためのコメント依頼で書かれているような、全体的な話はまだしていないのですが……その方向性でこの場で話をするのはちょっと困ります。この間のコメントの繰り返しになりますが、記事は内容過剰でだが当分は明らかであろう部分に手を付ける、この節の議論に対してWikipedia:過剰な内容の整理を適用してもよい(違いはタグを貼るかどうかだけで、議論内容に変わりはないので)、と考えています。--NNMM会話2012年3月11日 (日) 10:46 (UTC)
      NNMMさんが今回なさった編集[3]を拝見しました。私としては、このNNMMさんの編集について、特に異議はございません。ただ、誤字が一つあったので直しておきました。
      NNMMさんが今回なさった編集のような形で、NNMMさんが、記事「井上成美」を、順次、ブラッシュアップして行かれるのでしたら、「事前にノートで合意を形成する」必要はないと思います。この議論をクローズして、「議論活性化のためのコメント依頼」も取り下げる、ということで差し支えなさそうですが、NNMMさんはどのようにお考えでしょう?--Pooh456会話2012年3月11日 (日) 14:10 (UTC)
      その編集のように、修正することも除去することもありますがよろしいですか? この節で議論している中では今のところ、「字」の意味・小林万一郎の注釈は除去すべきと考えています。この2つは除去せず修正することはちょっとできないので、もし残すべきと考えるのであればこの議論をクローズせずに話した方がよいと思いますけども。コメント依頼は、私としては議論は停滞してないと感じているので、取り下げるかはお任せします。--NNMM会話2012年3月12日 (月) 11:12 (UTC)
      宙ぶらりんになってしまうので応答願えますか?--NNMM会話2012年3月20日 (火) 12:39 (UTC)

      (インデント戻し)

      NNMMさんが返答しておられたことに気づかず、放置していた状態になっていました。失礼しました。

      「字」の意味について
      既述のように、一般に日本語の基準とされる「広辞苑」に、井上が用いた意味での「字」の語義が示されていない事実が存在します。
      一方で、井上が用いたのと同じ意味で「字」を使っている、Wikipediaの検証可能性基準を満たす出典があるのだから、それを示すのに問題があるというNNMMさんの意見は理解できません。
      「井上が用いた『字』の意味を、Wikipediaの検証可能性基準を満たす出典によって、より簡素に説明する編集を行う」のには特に反対しませんが、「この2つは除去せず修正することはちょっとできない」とのことで、それは無理なようですね。
      小林万一郎の注釈
      「兵37期の兵学校卒業時に首席であった小林万一郎は、1922年(大正11年)、少佐の時に病没した(出典)」という注釈は、「海兵37期を首席で卒業した小林万一郎という人は、その後どうなったのか」という情報を閲覧者に提供する意味で有用です。記述量から見ても排除する理由はありません。
      なお、注釈というのは、「注釈のみで、文章として成り立っている」必要があります。NNMMさんの編集(差分)で
      1922年(大正11年)、少佐の時に病没した(出典)」
      と既述が削られていましたが、主語を消しては文章として成り立ちません。不用意な編集は止めて下さい。
      NNMMさんの、上記2件についてのご意見について
      記事「井上成美」の文字数を減らす、以外の意味がないように思えます。--Pooh456会話2012年3月21日 (水) 04:37 (UTC)
      「字」の意味について
      引用文を読んで理解できるようになるから引用したのではなく、あなたが引用文における「字」の意味も理解できたのと同様に、井上の言葉における「字」の意味を理解できたからこそ、ああして引用できたのではないですか? 井上の言葉で文脈から「字」の意味が理解できない人には引用文でも同様に理解できませんし、逆もまたしかりです。
      書くべきは「誰々が「字」を使った、だからこういう意味である」ではなくて「「字」はこういう意味だ」という注釈と出典です。Pooh456さんは現状の引用文を残そうとするのではなく、そういった出典をお探しください。「語という意味であること」は文脈から読み取れる妥当なものだと思いますので書いておきましょう。そこにまで出典を求めるほどWikipediaは硬直したものではないと思います。
      小林万一郎の注釈
      また聞きますが、小林万一郎の最終階級と没年は、井上についての記事や注釈がつけられている文において、どのような意味があるのですか? トリビアではありませんか?(これは小林に限った話ではないので、他とまとめて話した方がいいのかとも思いつつ)
      主語については確かに。書く場合、文は重複を排除して「小林万一郎は1922年(大正11年)、少佐の時に病没した(出典)」でいいでしょう。
      除去について
      文字数を減らすためというのが一つ意図するところです。記述量が少ないから・出典にあるからと書くよりは、意味のない記述は減らしてシンプルにすべきです。--NNMM会話2012年3月23日 (金) 15:58 (UTC)


      NNMMさんの発言)「書くべきは「誰々が「字」を使った、だからこういう意味である」ではなくて「「字」はこういう意味だ」という注釈と出典です。Pooh456さんは現状の引用文を残そうとするのではなく、そういった出典をお探しください。「語という意味であること」は文脈から読み取れる妥当なものだと思いますので書いておきましょう。そこにまで出典を求めるほどWikipediaは硬直したものではないと思います。」
      既に、「既述のように、一般に日本語の基準とされる「広辞苑」に、井上が用いた意味での「字」の語義が示されていない事実が存在します。一方で、井上が用いたのと同じ意味で「字」を使っている、Wikipediaの検証可能性基準を満たす出典があるのだから、それを示すのに問題があるというNNMMさんの意見は理解できません。「井上が用いた『字』の意味を、Wikipediaの検証可能性基準を満たす出典によって、より簡素に説明する編集を行う」のには特に反対しませんが、「この2つは除去せず修正することはちょっとできない」とのことで、それは無理なようですね。」と2012年3月21日 (水) 04:37 (UTC)にお答えしています。議論をループさせるのは止めて下さい。
      なお、私が、井上の発言を見て「字」を「単語」の意味で使っていると分ったのは、個人的に、井上とそれほど年が変らず、外国語について話すときに「字」を「単語」の意味で使う方を知っていたからです。現在、普通の人が井上の発言「いえ、その上にラディカルという字が入ります」を読んだら、「字」は「文字列」の略かと判断するのではないでしょうか。NNMMさんが「字」について問題提起しているのも、私の書いた注釈を読んだからではないですか?
      NNMMさんの発言)「また聞きますが、小林万一郎の最終階級と没年は、井上についての記事や注釈がつけられている文において、どのような意味があるのですか? トリビアではありませんか?(これは小林に限った話ではないので、他とまとめて話した方がいいのかとも思いつつ)」
      既に「「兵37期の兵学校卒業時に首席であった小林万一郎は、1922年(大正11年)、少佐の時に病没した(出典)」という注釈は、「海兵37期を首席で卒業した小林万一郎という人は、その後どうなったのか」という情報を閲覧者に提供する意味で有用です。」と 2012年3月21日 (水) 04:37 (UTC)にお答えしています。議論をループさせるのは止めて下さい。
      NNMMさんの発言)「文字数を減らすためというのが一つ意図するところです。記述量が少ないから・出典にあるからと書くよりは、意味のない記述は減らしてシンプルにすべきです。」
      だいぶ前に「Wikipedia:過剰な内容の整理」というガイドラインが整備されていますので、それに従ってください。--Pooh456会話2012年3月7日 (水) 03:21 (UTC)」とお答えしています。
      NNMMさんがこの節で発言なさっていることは、いずれも同じことの繰り返しになっているようですが。--Pooh456会話2012年3月24日 (土) 03:13 (UTC)
      「字」の意味について
      >NNMMさんが「字」について問題提起しているのも、私の書いた注釈を読んだからではないですか?
      いえ、違います。文字列と単語は非常に近しいものです。リベラリストという単語の上にラディカルのいう文字列を入れると「ラディカルリベラリスト」となりますが、これは何でしょうか。井上の発言のように会話であれば語と解釈しますし、会話の内容によっては文字列と解釈するかもしれません。一般的な人はごく自然にできることだと思いますし、少なくとも「単語という意味である」という注釈があったりラディカル・リベラリストという語を知っていれば文脈から判断し納得できるでしょう。広辞苑に基づいて「字」を文字列とだけ解釈するのは硬直しすぎていると言う他ありません。
      逆に言えばPooh456さんの言う「それができない普通の人」は、井上の言葉・引用文どちらを読んでも、「字」の意味が単語であるかどうか判断できません。同じ例をいくら挙げても、それどころか単語という意味でない例を挙げてさえ、正しいのか間違っているのか判断できません。なぜなら検証可能なのは引用文の出典が何かであって、「字」が「単語」という意味ではないからです。
      なんというか、「字を並び替えて言葉を作りましょう」と言われて「いや、文字を並べても文字列なんだから言葉にはならないでしょ?」とか、「今年を一文字で表すと絆だよ」と言われて「いや、今年が漢字一字なわけがない」とか、そんなことを言っているように感じます。「字」の意味より引用文の古い言葉遣いの方がよほど難しいと思いますけど。
      小林万一郎の注釈
      私は「井上についての記事や注釈がつけられている文において」と言いました。小林は「1922年(大正11年)、少佐の時に病没した」ことは「井上について」どのように関係しますか? ハンモックナンバーに移動されましたが、そちらについてはどうですか? 海兵37期メンバーの情報提供場ではないのですよ。--NNMM会話2012年3月29日 (木) 11:57 (UTC)


      まず、小林万一郎の件は、既にこのノートで論じる理由がないので省きます。

      『「字」の意味について』 ですが、再三申し上げていますように「日本語の指針とされている広辞苑に載っていない意味で 『字』 が使われている以上は、注釈は必要である」と考えます。

      井上が仮に現代人であれば、引用された問答で「いえ、その(リベラリズムの)上にラディカルという単語(あるいは 『語』 または 『言葉』 )が入ります」と言ったであろう、と考えます。

      なお、出典文献である 『阿川』 には、『字』 について何も言及はありませんが、インタビューを行った東大教授(1966年当時)の安藤良雄、エピソードを引用した阿川弘之、いずれも戦前に高等教育を受けた世代であり、『字』 が 『単語』 の意味で使われることを認識していたからと解します。

      さて、現状の本記事においては、「字」が「単語」の意味で使われている「用例」を出典を明らかにして示し、「明治以降、西洋文化が日本に輸入される中で、「単語」と言う意味で「字」を用いた。」という記述の出典(説明)としています。引用文の中に「訳 『字』 」なる、明らかに「字」が「単語」の意味で使われていると分かる用例がある訳ですから、これは出典(説明)の役割を果たしていると考えます。「Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料」で示されている「専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説」に該当するものと解します。

      NNMMさんが、「現状の注釈は不適当である」とお考えなのでしたら、このノートで同じ議論を繰返すのではなく、 「『字』 が、かつて 『単語』 という意味で使われたことを、より簡潔に示している出典文献(例えば国語辞典)を探し、記述を改善する」 方向にエネルギーをお使い下さい。既に、2012年3月1日 (木) 15:13 (UTC)に申し上げていることです。--Pooh456会話2012年3月30日 (金) 22:37 (UTC)

      「明治以降、西洋文化が日本に輸入される中で」は明らかに独自研究です。「字」が単語の意味で使われていたと言う必要もありません。シンプルに「字」が単語という意味であるという点について考えましょう。これが広辞苑には載っていないけれども「専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説」であるのは、井上の言葉・引用文どちらに対しても同じです。文脈から正しさを読み取っているという点で、引用文は井上の言葉と同程度の重さしかありません。井上の言葉(これも引用文です)も出典の役割を果たしていますから、refタグ内で引用しなくても大丈夫ですよ。--NNMM会話2012年4月2日 (月) 10:00 (UTC)
      『「明治以降、西洋文化が日本に輸入される中で」は明らかに独自研究です。』はご指摘の通りですね。
      なお、現在の引用文の前には『しかし、ここで「修身」と訳出されている語も、元々は[moral science]であり、慶応義塾福沢諭吉、小幡篤次郎らが訳出したものとされる。福沢の「緒言」にこう記されている。訳語が成立する様子をまざまざと我々に見せてくれる。』という福田眞人氏による地の文があり、引用文の中の「訳字」という熟語が「訳語」のことだということ、「字」が「語」の意味で使われていたことが分かります(pdfファイルの10頁)。ですので、この引用文は、「井上の言葉」より「重さ」があります。
      戦前の国語辞典「大言海」で「字」がどう定義されているか確認する予定ですので、しばらくお待ち下さい。——以上の署名の無いコメントは、Pooh456 ノート履歴)さんが 2012年4月2日 (月) 13:25‎ (UTC) に投稿したものです(Bellis会話)による付記)。
      井上がどういった意図で「字」という言葉を使ったのか、については読み手自身に解釈を任せて構わない程度の話のようです。全く関連性のない用例をひっぱりだしたり、辞書からの引用をするのはやりすぎだと思います。--Bellis会話2012年4月2日 (月) 15:38 (UTC)
      そうですね。「字」についての注釈については「注釈自体が独自研究なので、全て除去」ということで、本議論は終わりにしましょう。--Pooh456会話2012年4月3日 (火) 04:09 (UTC)

      先任順位について(「井上成美#海兵37期の先任順位について」)[編集]

      1. 「先任順位」と「卒業席次」を混同しているように見えます。「先任順位」とは言葉の通りであれば「勤続年数」のことです。ハンモックナンバーとは卒業席次、卒業時の成績のことです。同期の場合、勤続年数は同じですから、「先任順位」は同じです。本来異なる意味の言葉が同じように扱われているため、どう扱えばよいかわからない文章になっています。
      2. 一方、ハンモックナンバーの記述によれば(出典が不明瞭な記事なのであれですが・・・)、「抜擢人事は大佐までで将官は先任序列に従う」とあります。少尉に任官する時期と卒業席次にははっきりとした関係性がないようです。この節で井上の少尉任官が早いほうだったことの理由付けは特になく、遅れたものがいる理由の裏付けしかとれていません。伊地知の意見書にある「任官を半年遅らせる」がそうです。
      3. 小林万一郎は優秀だったかもしれませんが、病欠をしました。つまり、考課期間として考慮する勤続期間はその分短いと考えても不自然ではありません。小林がいつ、どの程度の期間病欠だったかは不明ですが、短期とは言えない印象なので、あながち的外れの推測とはいえないように思えます。前述のように成績不良者は任官を遅らせる話とは(明確な関連性が指摘されていない限りは)分けて考える必要性がありそうです。

      以上、整合性のとれない箇所は、改めるか除去することになります。私の見解では除去する部分がかなりあると見受けます。意見を求めます。--Bellis会話2012年3月11日 (日) 12:17 (UTC)


      「先任」という概念は、
      「同じ階級であれば、先にその階級に任じられた方が先任」
      「同じ階級に同日付で任じられた者の間にも『先任順位』がある」
      と言った概念です。


      『ある海軍中佐一家の家計簿』 光人社NF文庫、102頁 で
      「クラスとはいえハンモックナンバーにより先任後任は厳然として存在し・・・」
      と、「クラスメートの中での先任順位」が、具体的にどのようなものだったかが示されております。簡単に読める本ですのでご確認下さい。


      『同期の場合、勤続年数は同じですから、「先任順位」は同じです』
      この理解は誤りです。これは、上記の本の該当ページを見て頂ければ、直ちにお分かりになるでしょう。井上の属する兵37期を除いて、「兵学校の各期は、同時に少尉任官した」のですが、それでも「先任後任は厳然として存在」するのです。失礼ですが、その点を誤解しておられるため、以下が全て誤解になっているようです。


      『「先任順位」と「卒業席次」を混同しているように見えます』
      「兵学校の卒業席次」は「少尉候補生を命じられる際の先任順位」と「完全にイコール」です。具体的にどうなるかというと、兵学校の卒業式で「上位から何人かは恩賜品を拝受する」「先任順位の順番に名前を呼ばれ、卒業証書を授与される」となります。
      基本的には、「兵学校の卒業席次」が、「少尉任官時の兵学校同期生の間での先任後任の順(先任順位)」を決めます。井上の属する兵37期は、唯一の例外(出典: 『伝記』)です。


      そして、私の知る範囲では、海軍では
      『(小林は)病欠をしました。つまり、考課期間として考慮する勤続期間はその分短いと考えても不自然ではありません』
      という発想はなかったようです。


      例えば、山本五十六は、日本海海戦で重傷を負って長期間療養しました。田中宏巳 『山本五十六』 吉川弘文館人物叢書、2010年、31頁と巻末年表によりますと、「明治38年5月30日に佐世保海軍病院に入院(療養開始)。8月31日付で少尉任官(兵32期の同期生と同時)、同時に横須賀鎮守府附を命じられる。12月22日付で、山本の健康を案じた上司の計らいで横須賀海兵団附を命じられる。明治39年2月24日付で軍艦 『須磨』 乗組を命じられる」となっており、「軍艦 『日進』 乗組の少尉候補生のままで療養」「療養中に、海兵同期生と同時に少尉任官」「負傷から9ヶ月経った時点で傷が癒えたのか、『須磨』 乗組を命じられて通常の勤務に戻っている」と分ります。
      Wikipediaの出典には出来ませんが、「海兵32期」を見ると、32期は、負傷で長期間療養した山本を含め、「明38(1905). 8.31 少尉」「明40(1907). 9.28 中尉」「明42(1909).10.11 大尉」と一律進級したことが分ります。これは、「山本の負傷は、名誉の負傷だから、進級に影響しなかったのだろう」と説明できなくはないですが。


      さらに、山本は、海大甲種学生を終えて、少佐で2F参謀に補された大正5年12月に腸チフス、次いで盲腸炎となり、7ヶ月の療養をしております(田中 『山本五十六』37-38頁)。最初の6ヶ月は待命、後1ヶ月は休職となっています。同書には「待命は給与が満額出るが、休職は減額になるので、周囲が気を使ってくれたのだろう」とのみ書いてあります。6ヶ月の待命、1ヶ月の休職については、山本の奉職履歴が、新人物往来社編『追悼山本五十六』 新人物文庫、2010年 に収録されていますので、文献で確認できます。
      7ヶ月、病気で休んだ結果、山本の先任順位が一気に下がったかというと、32期の席次11番の山本は、32期クラスヘッドの堀悌吉と同じく「大 8(1919).12. 1 海軍中佐」です。要するに、計7ヶ月の待命・休職は、山本の先任順位を(進級に影響するほどには)変えておりません。ちなみに、山本と堀は、「大 12(1923).12. 1 海軍大佐」も同時です。少将・中将には、それぞれ堀が1年早く進級しており、ここでようやく差がついています。


      上記の山本五十六の例から「兵37期の兵学校卒業時に最先任の小林が、少尉任官の前後に、仮に病気で療養したとしても、それが理由で少尉任官が遅れることはなかったろう」とお分かりになるでしょう。
      『伝記』 には、「なぜ小林が 『任官3ヶ月遅れ組』 に入ったのか」は記載がなく、私の知る範囲では「不明」です。


      上記で私が書いたことは、
      1) 小泉昌義 『ある海軍中佐一家の家計簿』 光人社NF文庫
      2) 田中宏巳 『山本五十六』 吉川弘文館人物叢書、2010年
      3) 新人物往来社編『追悼山本五十六』 新人物文庫、2010年
      4) 宮野澄 『海軍の逸材 堀悌吉―海軍良識派提督の生涯』、光人社NF文庫、1996年 (ハードカバー版は、光人社、1990年)
      の4つの文献にて検証可能ですので、ご確認下さい。--Pooh456会話) 2012年3月11日 (日) 13:57 (UTC) / 修正 --Pooh456会話2012年3月11日 (日) 14:32 (UTC)
      コメント詳細な説明ありがとうございます。この節(海兵37期の先任順位について)で伝えたいこと、Pooh456さんの認識はこのようなものであるという理解でよいですか
      1. 井上は37期で最も早く少尉任官された内の一人となった。(慣例では全員同時であったが、37期では唯一の例外が発生した)
      2. 同時に任官された場合であっても上下の区別があった。だから、昇進組みで成績最上位である井上が実質最先任である。
      3. 理由は不明だが、小林は少尉任官されなかったのだから先任後任の比較対象にはならない。
      --Bellis会話) 2012年3月11日 (日) 15:00 (UTC) 誤字訂正 --Bellis会話2012年3月11日 (日) 16:01 (UTC)


      はい、概ね、Bellisさんがコメントなさった通りです。
      1点だけ訂正させて頂きますと
      『同時に任官された場合であっても上下の区別があった。だから、昇進組みで成績最上位である井上が実質最先任である。』
      ではなく
      『同時に任官された場合であっても上下の区別があった。だから、昇進組みで成績最上位である井上が最先任となった』
      です。
      先のコメントでは言及しませんでしたが、太平洋戦争が始まるまでは、海軍では士官の進級は毎年1度、年度切替の11月中旬から12月上旬で( 『海軍アドミラル軍制物語』 22頁)、それを反映して、毎年、「現役海軍士官名簿」が発行されました(同書 34頁)。兵37期が少尉任官した年度の「現役海軍士官名簿」では、一番最後に、兵37期の少尉が並んでいますが、その先頭にクラスヘッド(最先任者)の井上の名前があった訳です( 『伝記』 50頁)。
      「実質最先任」ではなく、「兵37期で、先に少尉任官した137名について、『現役海軍士官名簿』で、井上がその中で1番、以下、137番までの『先任順位』が明示されていた」となります。
      「現役海軍士官名簿」については、アジ歴で、「昭和一七年度現役海軍士官名簿の件送付」という文書(送り状)が閲覧できます。【 レファレンスコード 】C04014916800
      「現役海軍士官名簿」の前身の「海軍高等武官名簿 明治27年」は、海軍高等武官名簿 明治27年で、若干ですが、画像が見れます。--Pooh456会話2012年3月11日 (日) 15:47 (UTC)
      ありがとうございます。この節で Pooh456 さんが伝えたい事項は概ねわかったように思います。構成についてはもう少し考えます。--Bellis会話2012年3月11日 (日) 16:03 (UTC)

      (インデント戻します) Bellisさん、ご返答有難うございました。 ただ、

      『『伝記』 には、「なぜ小林が 『任官3ヶ月遅れ組』 に入ったのか」は記載がなく、私の知る範囲では「不明」です。』

      と、「Pooh456会話) 2012年3月11日 (日) 13:57 (UTC) / 修正 --Pooh456で(会話2012年3月11日 (日) 14:32 (UTC)」で書いたのですが、説明が不正確でした。改めて 『伝記』 の記載に即してご説明します。なお、本件については、井上成美、あるいは帝国海軍に関する他の文献で情報に接した記憶がなく、情報ソースは 『伝記』 のみです。

      『伝記』 49-50頁には、下記の記載があります。『伝記』 から、そのまま引用します。

      「(明治43年)12月15日、いよいよ待望の少尉任官の日がきた」
      「このクラスに限って、同期生が揃って任官できず、席次下位の者(総員の約4分の1)が任官に洩れたのである。日本海軍史上では、あとにもさきにも例のない措置であった」
      「表面的には 『国家予算の都合により』 ということであった」
      「3ヶ月ほどの遅れで、席次下位の者も総員少尉に任官はしたものの(さらに中尉になるとき、みな一斉に進級して三か月の遅れは解消した)お互いに辛い思いをしたという」
      <この間に「練習艦隊司令官の伊地知彦次郎少将が海軍省に提出した文書が2点指摘される」についての記述が入る>
      「井上は、さきに任官した137名中の最先任者であった。クラスヘッドの小林万一郎が病気のため、三か月遅れのグループに入ったからである。爾来、井上は同期生のトップとして海軍生活を送ることになる」

      上記のように、「小林は、病気のため、三か月遅れのグループに入った」と、唐突に出てきます。山本五十六の事例で説明したように、この 『伝記』 の説明には釈然としない点があるのですが、独自研究はWikipediaに書けません。よって、本記事においては、

      兵学校卒業席次が1番であった小林万一郎は病気のため「任官3ヶ月遅れ組」に入った。

      と記載している次第です。--Pooh456会話2012年3月12日 (月) 02:00 (UTC)


      お二人の話からはちょっとずれるかもしれませんが……件の節を修正してみました[4]。差し戻してもらっても構いません。(1)クラスの1/4が任官遅れ組となったこと、(2)小林が病気で任官遅れ組に入ったこと、(3)小林と井上の成績評価を切り分けるようにしました。ただし(3)は出典の『伝記』でも任期遅れの背景とされてはいないので取り除きました。どうでしょうか?

      さらに余談となりますが……37期の先任順位は、井上を含めた37期生にとっては重要だったのでしょうが、井上の記事においては重要ではありません(記事では37期生全体について言及されていないため、不自然な取り上げ方に)。そういう意味では(1)ではなく(2)(3)の方が井上に直接関係するので重要でしょう。いずれにしても独立節として上の方で書くほどのことでもないので、修正した方がいいなと思っています。--NNMM会話2012年3月12日 (月) 11:56 (UTC)

      Pooh456さんがほぼ元の文に戻されました。自分の文案にこだわるわけではないのですが、上記内容について、Pooh456さんの記述では(1)(2)(3)を混ぜて一つの内容にしてしまっていることに問題を感じます。検討していただけませんか?--NNMM会話2012年3月20日 (火) 12:39 (UTC)
      コメントNNMMさんの編集から後退したと、私も思います。--Bellis会話2012年3月20日 (火) 13:10 (UTC)


      コメントこの節があえて単独で存在する意味について。「ハンモックナンバー」が兵学校卒業から大将になるまで任官中の時期全てに関わるために、わざわざ分けて書かれたのだろうと、ようやく意図が推測できるようになりました。で、ここの要点をまとめると、すでに略歴に書かれていることで足りているように思います。この節は消しちゃいましょう。37期全体の話はハンモックナンバーあるいは兵学校の記事にでも書くことを提案します。卒業主席の小林に関しては、他記事にもっていくにも情報が少なすぎるので、脚注レベルで略歴に反映する程度ですます程度で収めるのはいかがでしょうか。--Bellis会話2012年3月20日 (火) 14:20 (UTC)
      (1)
      井上成美が兵学校卒業席次2番、少尉任官後は兵37期クラスヘッドになったことは、井上が何度も海外勤務を経験し、「軍務局一課長」「比叡艦長」「横鎮参謀長」「4F司令長官」「海軍次官」などになり、37期で唯一の海軍大将になったこと、全てに関わってきます。それぞれの職について前任者を調べてもらうと分るのですが、概ね「36期の1番手」か「35期の2番手」、軍務局長については4年先任で後に大将になった豊田副武が前任者です。仮に井上が37期クラスヘッドでなければ、井上が史実の時期に史実のポストに配されることがなく、いろいろと歴史が変ったことでしょう。兵学校長については、井上より後任であるの草鹿任一の後に補されたので、変則人事となります。
      ただし、それについては、「略歴」節の
      1910年(明治43年)12月15日に「海兵37期 137名 の最先任者」で海軍少尉に任官した。以後、井上は海兵37期のクラスヘッド(最先任者)として海軍生活を送った。(『伝記』 49頁-50頁。)「兵37期の先任順位について」を参照。」
      で、説明されている、というBellisさんが言われることにも理があります。
      ただ、この記述を、例えば「ハンモックナンバー」に移すとなると、どうしても「情報の重複」が記事と記事の間で生じてしまうようです。自分の編集に固執する訳ではないですが、現状、記事「ハンモックナンバー」に、注釈の形で「井上成美#海兵37期の先任順位について」を参照」と書いていますので、とりあえず収まりが良いかと思いますが如何でしょう。
      (2)
      「Pooh456さんの記述では(1)(2)(3)を混ぜて一つの内容にしてしまっている」という件ですが、この「海軍史上、他に例のない特異例」が生じた原因について、より出典文献である 『伝記』 の記載に忠実に書くとああなる、ということです。そもそも、以前にBellisさんの質問にお答えしたように、「小林万一郎が、少尉任官の前に病気で療養したとしても、例えば山本五十六の事例を見る限り、少尉任官を遅らせる理由になるとは考えにくい」のです。ちなみに、本文には記載していませんが、井上は少尉から中尉に上がる少し前に2ヶ月ほど病気療養をしており、そのために水雷学校普通科の卒業が他のクラスメートより遅れています。本来、砲術学校普通科と水雷学校普通科は、クラスメート全員が同時に入校し、卒業するものでした。ですが、それは井上の進級にも先任順位にも影響しておりません。
      『伝記』 の記述を読むと、「小林は病気のために任官3か月遅れ組に入った」と「唐突に」出てくるのですが、上記の通り腑に落ちません。「小林の病気」というのは海軍でいう「メイキング」(阿川弘之の、海軍に関する本を読むと良く出てきます)で、本当は「小林が、海軍を辞めされられても仕方ないような不祥事を起こした。検討の結果、海軍には残すものの、『中将進級が約束されると言って良いクラスヘッドの地位を剥奪し、席次を大幅に引き下げる。138番以下となり、海軍での出世は期待できなくなる』 という処置を行ったのではないか?37期の席次下位1/4の者は、たまたま伊地知少将の意見書もあったことで、そのトバッチリを食らう結果になったのではないか?結果として、3か月分だけ少尉と少尉候補生の給与の差額を節約でき、『国家財政上の理由』も達成できた」と考えると辻褄が合うのですが、むろん、完全な独自研究になるので書けません。さらに、「37期の分割少尉任官、小林が3か月遅れ組に入った」件については、『伝記』 以外の井上に関する本、海軍に関する本には全く書いていないので、他に判断材料はありません。
      そうなりますと、「 『伝記』 に書いてあることを、なるべく忠実に書く」のが適当になると考える次第です。
      ちなみに、NNMMさんの編集では
      「実際は、練習艦隊司令官の伊地知彦次郎少将が斎藤実海軍大臣に、「37期の候補生の後半は、練習航海中の勤務・成績共に不良。彼らの反省を促すため、37期候補生の後半の任官を半年遅らすべし」という意見書を提出したためであった。」
      となっていますが、『伝記』 の記述は、そのような断定にはなっておりません。
      話が若干ズレますが、「阿川弘之全集」の月報で、阿川が 『伝記』 と 『阿川』 の関係について述べたものがあり、『伝記』 の編纂の段階から、阿川と新潮社の編集者が関与しており、その代わりに、「 『伝記』 が刊行されるまで、阿川は井上の伝記を書かない」という合意が成立していた、といった裏話が披露されています。これは、『阿川』 には一言も書いていない「楽屋話」です。
      私は、阿川の、自著「井上成美」に関する講演を聴いたことがあるのですが、「細かいことは省きますが、井上は兵学校の卒業席次は2番でしたが、その後クラスヘッドになりました」という言及がありました。「37期の分割少尉任官、小林が3か月遅れ組に入った」件が 『阿川』 に一言も書かれていないのに、です。「自分で聞いた講演の内容」はWikipediaの出典に出来ないので記事には書けませんが、不自然なことですね。これは、このノートを書いていて思い当たったことです。
      『伝記』 の編纂に関与した阿川は「37期の分割少尉任官、小林が3か月遅れ組に入った」について、 『伝記』 で伏せられた「真相」を知っていたのかもしれませんが、阿川は90歳を超えて既に文筆活動を止めていますし、『伝記』 の編纂時に、今は故人となった海軍関係者と「真相は墓場まで持って行く」という約束をしたのでしょうから、『伝記』 に書いてある以上の情報が、阿川を介して世に出る可能性はないでしょう。--Pooh456会話2012年3月20日 (火) 18:40 (UTC)
      コメント
      > 記事「ハンモックナンバー」に、注釈の形で「井上成美#海兵37期の先任順位について」を参照」と書いています
      この対処ではハンモックナンバー井上成美循環参照の関係になってしまいます。循環参照は読み手からすると、読み進めるのに手間がかかる文章構造です。それを避けたいのでどこかの記事に集約しませんかという趣旨で記述を移すことを提案しています。冗長性を避けるために情報をあちこちに散らしていく考えは理解できます。しかし手法がまずいと記事のわかりやすさが犠牲になってしまいます。--Bellis会話2012年3月24日 (土) 04:01 (UTC)
      Bellisさんの「循環参照は避けるべき」というご意見を反映して、「井上成美」から「ハンモックナンバー」に「兵37期の先任順位について」節を移動し、記載を調整してみました。如何でしょう。--Pooh456会話2012年3月24日 (土) 04:51 (UTC)
      ざっくりと転記されたようなので、まず懸念を伝えます。Wikipedia:ページの分割と統合#項目一部転記の手続きにしたがっていないように思います。編集時に要約欄に情報を残す必要があったのです。元々の記述は大半がPooh456さんによるものだったようなイメージがありますが、他の方も編集に参加しており、Pooh456さんが編集履歴を気にすることなく編集するのは、やはりまずかったように思います。--Bellis会話2012年3月24日 (土) 14:15 (UTC)
      そのようなルールが存在したのですね。結果として、Wikipediaのルールを無視してしまったことになりますので、反省しております。ただ、これから編集を差し戻してWikipedia:ページの分割と統合#項目一部転記の手続きに従っての手続きをやり直す、というのもどうかと思われます。既に「ハンモックナンバー」の編集が他のユーザーによっても行われており「内容の編集を伴わない編集を行い、要約欄に「「井上成美」から一部転記」と記しても、何のことだか分りませんし。
      実のところ、前に、別記事について同じような「節の移動」を行った際に(移動元)・(移動先)、(ノートでの告知)、(コメント依頼)などを行ったのですが、特にどなたからも指摘がなかったので、「節の移動」について軽く考えておりました。
      今回、Bellisさんにご指摘いただいたことを肝に銘じ、今後は同様のことを行う場合はWikipedia:ページの分割と統合#項目一部転記の手続きに従います。--Pooh456会話2012年3月25日 (日) 03:16 (UTC)
      今回の件もPooh456さんが表明した件についても私は判断をしません。ある記事から他方の記事へ転記した自覚がPooh456さんにあるのであれば、削除依頼にかけてください。--Bellis会話2012年3月25日 (日) 05:29 (UTC)
      ものすごく気がすすみませんが、Pooh456さんが自主的に問題の解決に動かないので、コメント依頼かなにかで他の方の意見を集めようと思います。--Bellis会話2012年3月30日 (金) 23:23 (UTC)
      私としては「済んだことを今さらやり直す実益がない」と考えております。ですが、WikipediaのルールがBellisさんのご指摘のように存在するのは確かですし、Bellisさんが「コメント依頼かなにかで他の方の意見を集めようと思います」とお考えになり、実行なさるのは正当だと思いますし、その結果として形成された合意には従います。
      ただ、Bellisさんが先におっしゃった「今回の件もPooh456さんが表明した件についても私は判断をしません」との整合が取れなくなるとは感じますが。--Pooh456会話2012年3月31日 (土) 00:00 (UTC)