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ノート:夫余

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出典の明示について

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トムル氏の出典の要求基準がわからない。多くの歴史事件が列挙してる中でなぜ特定の事件にだけ出典を、しかも原書の抜粋文まで要求するのか? --114.48.5.131 2012年6月6日 (水) 19:05 (UTC)[返信]

ウィキペディアを執筆するに当たって、出典の明記はすべての編集者に義務付けられています(Wikipedia:出典を明記する)。よって全ての文章に出典の明記が求められます。特に信憑性のない文章(「~とされている」「~と考えられている」「~という」「最近の研究の結果によって」など)には情報源が求められます。情報源がないと、その記事を管理しているユーザーたちが査読できなくなり、検証可能性(Wikipedia:検証可能性)がないと判断されます。そうなれば、削除あつかいとなります。さて、今回私が提示した出典明記部分ですが、「『三国史記』や『三国遺事』などには…」のところはとても素晴らしいです。しかし、私が指していた部分は「本項で述べる夫余は前者であり、後者は夫余の分流の一つと考えられている。」の部分です。「~と考えられている」なので、見た人はとても怪しんでしまいます。私はこの抜粋文がほしいと申したわけです。もし、私の言い方に問題があれば、謝ります。また、「滅亡をまぬがれる有様だった。」という表現もとても怪しい表現です。まるで自分で考えたように見えますので、修正および、出典の明記をしてください。もし、他の文章であなたが「この部分出典がない」と思ったら、[要出典]を貼り付けてください。--トムル会話2012年6月8日 (金) 13:52 (UTC)[返信]

東明伝説

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建国神話の節ですが、扶余の東明伝説と、高句麗の東明聖王朱蒙伝説との関連を「扶余」の記事に書くべきではなかったかもしれません。東明伝説として記事を分割したほうが良いのではないか?とも考えております。--田英 2006年11月8日 (水) 13:10 (UTC)[返信]

要約欄にも書きましたが、東明伝説にかかる記述を東明聖王(朱蒙)の記事に移しました。東明伝説単体での記述だけではなく、高句麗の始祖伝説の変容を書くにあたって、同じ記事内に合ったほうが好ましいと考えたためです。同じ内容をこちらの扶余の記事にも残し、東明聖王の記事にも書いてもよかったか、と思わなくもないですが、後々の修正加筆で内容にズレが出てしまうことを恐れ、片方への記述とした次第です。--田英 2006年11月13日 (月) 23:41 (UTC)[返信]

朝鮮の歴史 Template

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I added the "朝鮮の歴史" Template to this article, but was ridiculously reverted back. 扶余 is a predecessor of 高句麗, which is one of the Three Kingdoms of Korea. Undoubtly it is part of Korean History. This template is placed in this articles in all other language versions. Elknz 2008年12月18日 (木) 04:29 (UTC)[返信]

I also want to point out adding this template has nothing to do with any controversy. A History of Manchuria template can also be added in addition to the 朝鮮の歴史 Template. It is just wrong to prevent adding these template. Why the hell this article is protected? Elknz 2008年12月18日 (木) 15:00 (UTC)[返信]
(ja)Elknzさんのおっしゃる趣旨は、「一律に朝鮮の歴史テンプレ貼付を規制するのではなく、満州の歴史等のテンプレ貼付を許容する代わりに朝鮮の歴史テンプレ貼付も認められるべき」ということで宜しいでしょうか?
(en)Is the outline that Mr./Ms. Elknz says good in "Don't restrict 朝鮮の歴史 Template adding. It is necessary to admit 朝鮮の歴史 Template adding instead of allowing 満州の歴史 Template adding."?--ろう(Law soma) D C 2008年12月19日 (金) 02:41 (UTC)[返信]

I don't know Japanese. But there is no reason not to add a template that contains the name of the artitle. Elknz 2008年12月19日 (金) 03:37 (UTC)[返信]

(ja)王朝の前身を当該国家の歴史に入れていては、英国の歴史にノルマン人の歴史を追加するようにおかしなことになりませんか?
(en)When the predecessor of the dynasty is put in the history of a nation, you feel strange situation as Norman's history is added to the British history, don't you? --ろう(Law soma) D C 2008年12月19日 (金) 03:48 (UTC)[返信]

The situation here is different. 扶余, 濊貉,高句丽,沃沮,东濊 belong to the same ethnic group. They are also native people, not invaders. Elknz 2008年12月21日 (日) 02:34 (UTC)[返信]

この問題はノートでの議論が必要ですが、Elknz氏は日本語が出来ないと開き直っております。日本語版で英語でノート議論を行うことは現在認められているのでしょうか?少なくとも日本語を理解することが日本語版の編集の基本条件と認識していましたもので、この辺も明確にsておかないと延々と英文による議論が続くことになります。--Yonoemon 2008年12月19日 (金) 06:39 (UTC)[返信]
(ja)確かに。Wikipedia:ノートページでの慣習的な決まりには「ウィキペディア日本語版のノートページでは日本語を使うのが望ましいです。(中略)日本語訳を要求されても自分では出来ない場合には、翻訳をしてくれる第三者を探すのはあなたの責任です。翻訳を手伝ってくれる人はWikipedia:大使館でみつかるかもしれません。」と書かれています。Elknzさんへ、日本語版でのルールに関して議論するのは日本語を勉強されてからにしてください。
(en)Certainly. In Talk page guidelines, there is "it is preferred that you use Japanese on Japanese Wikipedia talk pages. (omission) If you are requested to do so and cannot, it is your responsibility to either find a third party to translate or to contact a translator through the Wikipedia:Embassy.". To Mr./Ms. Elknz, please join the discussion concerning the rule in Japanese Wikipedia after you will have study Japanese. --ろう(Law soma) D C 2008年12月19日 (金) 07:35 (UTC)[返信]

There is no History of Manchuria template doesn't justify that History of Korea can't be placed here. As long as 渤海 (国) is related with Korean History. It justifies to add the template here. Other language of this article have this template. There is no reason the Japanese one can't have one. Elknz 2008年12月19日 (金) 14:25 (UTC)[返信]

Don't you understand why did I revert your edition do you? You edit Bohai and Choseon (Lee Dinasty) without any discussion and some wekipedian object to your edditional stance. I affraid you are not clear to rule of Wikipedia, so reject your all edditions. If you understand Wikipedia rule and make a reasonable edition, I will not to reject your editions.
And I request to 'discuss in here by Japanese. This is also important rule in Japanese Wikipedia.--Yonoemon 2008年12月20日 (土) 01:44 (UTC)[返信]

Wikipedia is an editable encyclopedia. Everyone can edit. What I did is just adding a template, which appears on all other language of this article. You are too ridiculous. Elknz 2008年12月20日 (土) 01:50 (UTC)[返信]

I found your knowlage is not enough in Bohai's page. Wikipedia is an editable encyclopedia, everyone can edit, However if you edit wrong contents, we have right to reject it. You must study history before edit. --Yonoemon 2008年12月20日 (土) 02:18 (UTC)[返信]
You got to be open-minded. This world is not just Chinese and Russian. Koreans do consider Bohai as their history. So there is nothing wrong to add the template. Elknz 2008年12月20日 (土) 02:25 (UTC)[返信]
I understand Korean do consider Bohai as Korean History. However there is other history theory in China, Rusia and Japanese. Why do you strick to Korean view and add the template? Your view point is not neutrality.--Yonoemon 2008年12月20日 (土) 02:39 (UTC)[返信]

The traditional Chinese view do think 扶余 as one of the Korean ancestors. 高句丽 and 百济 are 扶余 kingdoms. These two are part of the three kingdoms of Korean. This view is accepted world wide. The template is even on the Chinese article. You're too biased. Elknz 2008年12月20日 (土) 02:47 (UTC)[返信]

You don't understand my opinion. I never object to the template, just aggainst your stance of edition. You edit Choseon (Lee Dynasty) and Bohai without any consents, this is prohabited by rule in Japanese Wikipedia. If you keep a rule, I will not reject your suggestion add the template.--Yonoemon 2008年12月20日 (土) 03:01 (UTC)[返信]

反対 英文を書いている時間がありませんのでひとまずテンプレ添付に反対の意思表示のみしておきます。--Himetv 2008年12月21日 (日) 00:08 (UTC)[返信]

反対 確かに意思表示が先ですね。私も反対を表明しておきます。--Yonoemon 2008年12月21日 (日) 02:42 (UTC)[返信]

混乱した議論にもとづくこの反対を疑問におもいます。議論を整理するための最初の質問はつぎのとおりです。この反対は合意形成の過程で性急な編集に反対するでなく、templateの追加への反対ですか? --女衒 2008年12月25日 (木) 13:05 (UTC)[返信]

後者の場合なら、Yonoemon 2008年12月20日 (土) 03:01 (UTC) はこの反対と無関係です。ありがとうございます。--女衒 2008年12月27日 (土) 01:36 (UTC)[返信]

つぎは議論の前提を確認します。

  • 韓国は夫余を朝鮮の歴史の一部とみなす
  • Template「朝鮮の歴史」は韓国の視点をあらわす
  • 中国とロシアが韓国とことなる視点をもつ

これらの事実に反対しないですね。--女衒 2008年12月27日 (土) 01:55 (UTC)[返信]

朝鮮史テンプレはあくまでも半島史観でのテンプレですので、扶余を記載するか否かはここで議論する問題ではありません。ここではテンプレを使用するか否かの問題です。--Yonoemon 2008年12月27日 (土) 02:40 (UTC)[返信]
わたしの理解では、この議論はTemplate「朝鮮の歴史」に夫余をのこすかでなく、この記事にTemplate「朝鮮の歴史」をのこすかをあつかいます。ちがいますか?
--女衒 2008年12月27日 (土) 03:28 (UTC)[返信]

重要でない前提を整理します。

  • 全世界が韓国の視点をみとめている。これは議論の余地があります。
  • ウィキペディアのほかの言語がこのtemplateをもっている。ほかの言語は参考になるけど、日本語版がどうするかに決定的でないです。
  • 夫余が高句麗などと同じ民族だった。これは議論の余地があります。また、韓国が夫余を朝鮮の歴史の一部とみなすことを支持しても、templateをのこすかに直接的に関係ないとかんがえます。

--女衒 2008年12月27日 (土) 11:11 (UTC)[返信]

この記事にTemplate「朝鮮の歴史」をのこすかを議論します。

  • 二つの前提、「韓国が夫余を朝鮮の歴史の一部とみなす」ことと、「Template「朝鮮の歴史」が韓国の視点をあらわす」ことは「この記事にTemplate「朝鮮の歴史」をのこす」ことを支持します。問題は「中国とロシアが韓国とことなる視点をもつ」ことをどのように対処するかです。
  • Yonoemon 2008年12月20日 (土) 02:39 (UTC) は無効です。それはNPOVの典型的な誤解です。「記事は偏りのない「客観的な」観点に基づいてのみ書くことができる、と誤解されることもありますが、そうではありません。」(Wikipedia:中立的な観点) 「われわれの多くは、ある記述が偏った見方から書かれているという事実だけでは、その記述を即削除してしまう理由としては不十分だと考えます。もしもその記述が完全に妥当な情報を含んでいるなら、それを活かすべく編集されるべきで、削除されるべきではありません。」(Wikipedia:中立的な観点)

--女衒 2008年12月28日 (日) 04:05 (UTC)[返信]

ありえる二つの疑問を検討します。

  • Template「朝鮮の歴史」が「意見を表明」していなくて、「意見を誰かの意見として提示」しているか? 「Template「朝鮮の歴史」が韓国の視点をあらわす」ことは明白であるとわたしはかんがえます。そうでないならば、ひとつの解決策はこの条件をみたすようにTemplate「朝鮮の歴史」を修正することです。つまりTemplate「朝鮮の歴史」に韓国の視点をあらわすことを明記することです。
  • 「論争での全ての観点を公正に考慮」しているか? この条件をみたすための妥当な解決策はことなる視点を記述することです。つまりほかのtemplateを導入することです。

--女衒 2008年12月28日 (日) 06:07 (UTC)[返信]

改名提案

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記事の改名を提案します。わたしがしるかぎり、すべての学術論文がこの国家を夫余あるいは夫餘としるしています。扶余は中国と韓国の地名に使います。 --女衒 2008年12月24日 (水) 14:03 (UTC)[返信]

  • 反対 「餘」の常用漢字体は「余」であり、記事名の付け方で常用漢字の使用が優先されております。まずは日本語版のルールの熟読をお願いします。また改名提案に際しては「全ての学術論文」のような漠然とした記述でなく、具体的な例示が必要です。この点にご留意いただければ幸いです。--Yonoemon 2008年12月25日 (木) 05:49 (UTC)[返信]
    • あなたの反対は誤解にもとづいています。記事の名前として扶余か夫余を選択することは、「餘」の常用漢字体が「余」であることと無関係です。学術論文の調査はたとえばhttp://www.gcscholar.com/ をつかえます。扶餘と扶余を検索結果してください。全論文で現代の地名をさしています。--女衒 2008年12月25日 (木) 09:12 (UTC)[返信]
  • 反対 「夫」のほうでしたか…勘違いしていました。でしたら最初からそのように指摘してください。韓国では国立扶余文化財研究所という研究所もあり、そこで発表される年報に「扶余」も採用されていますのでまさか「夫」のこととは思いませんでした。いずれにせよ全ての学術論文で「夫」が採用されいない以上改名の必要がないと考えます。--Yonoemon 2008年12月25日 (木) 14:30 (UTC)[返信]
    • 依然あなたの反対は誤解にもとづいています。扶余は現代の地名、つまり吉林省の扶余と韓国の扶余をさします。この国家は夫余です。--女衒 2008年12月27日 (土) 01:30 (UTC)[返信]
      • 扶余は国家でなく民族としての記事名です。国家という用語を不用意に使用するのは歴史学に対する基礎知識の欠落と見做されかねません。それはそれとして具体的に扶余を民族名(国家名)としない出典を示してください。--2008年12月27日 (土) 02:33 (UTC)
        • あなたの反対は誤解にもとづいていることを理解したかがわからないです。さきにそれをこたえてください。夫余が国家か民族かはこの改名提案と無関係です (わたしの理解では、「国家」でなく「民族」が議論の余地がある用語です)。--女衒 2008年12月27日 (土) 03:24 (UTC)[返信]
          • 私の日本語は理解できていますか?扶余を民族名(国家名)としない出典は示せないという認識でよろしいですね???だとすれば根拠の無い改名提案は無効となります。これ以上の議論を行う場合は日本語版のルールを熟読してください。根拠を示すことなく改名提案を続けることはコミュニティーをいたずらに消耗させる行為と見做されます。--Yonoemon 2008年12月27日 (土) 05:01 (UTC)[返信]
            • あなたは誤解して、それをごまかすようです。うえで説明したように、扶餘と扶余の検索結果で、全論文が現代の地名をさします。夫余の検索結果はこの歴史上の国家です。この単純な事実を理解することが困難でしょうか? --女衒 2008年12月27日 (土) 11:03 (UTC)[返信]
              • 具体的な根拠は示せないということですね。残念ですがこちらの「方針文書の要熟読」に報告させていただきました。中共史観と韓国民族史観が鋭く対立する内容に関しては編集合戦回避すべく具体的な根拠提示の必要性があることをご理解下さい。その前に公開アカウントの疑惑もありますので、ご自身のノートでの回答もお待ちしております。--Yonoemon 2008年12月27日 (土) 14:42 (UTC)[返信]
    • 結局この反対は無効です。「全ての学術論文で「夫」が採用されいない」という誤解にもとづいているからです。Yonoemon氏はそれを理解できないようです。この議論は生産的でないから、ほかの人々の意見を歓迎します。--女衒 2008年12月28日 (日) 06:12 (UTC)[返信]
  • 反対 扶余が学術的に「国・民族」として使われないという証明ができていませんし、検索してみても十分に扶余として使われています[1]ので問題ないと考えます。--Dondokken 2008年12月28日 (日) 14:13 (UTC)[返信]
  • 反対 韓国の高等学校国史教科書(7次教育課程用)を調べてみましたが、現在の中国にある歴史上の地名も扶余となっていました。--hyolee2/H.L.LEE 2008年12月29日 (月) 08:04 (UTC)[返信]
  • 反対 東京創元社『東洋史辞典』(1990年)によれば、国・民族名について扶余・夫余両方の記述があるとされている。現状の記事名及び表記関連の説明で問題はない。--Himetv 2008年12月30日 (火) 15:12 (UTC)[返信]
  • 反対 変更する必要はないと思います--Piasu9 2008年12月30日 (火) 16:59 (UTC)[返信]
1.searchinaの単語一つがソースになるのは疑問. 学術資料ではなくて検証できなくて
2.高句麗,夫餘,百済の言語らが互いに通じているという事実だが,それが彼らの言語がツングース言語になるという証拠にならない。
3./学習院大学文学部 諏訪春雄教授/ < この教授の読者研究であるような疑問. 上記ソースにはなぜツングース系統に該当するのかに対する説明が全く出てこない。 単に過ぎ行く内容で説明. またその教授の文章どこにも満洲族と高句麗族を連結する内容はない。
4. 高句麗, 夫餘がツングース言語系統に入るのか仮設は確認されることもせず,定説で確立されていなくて,このカテゴリーに入れるのは無理がある。(学者ごとに意見も違う。) 高句麗言語に対することはこちらで [2]W450by11 2010年1月15日 (金) 17:55 (UTC)[返信]

私としては「できれば夫余にしたい」ところです。その理由としては

  1. 最初の呼び名が「夫余」であるため。
  2. 夫余国として存在したのが南北朝時代までであり、その当時までの史書には「夫余」とあるため。また、「扶余」と表記されるのが五代十国時代以降であるため。
  3. 韓国の「扶余郡」、中国の「扶余県」と混同してしまう恐れがあるため。
  4. 「夫余」の語も一般的であるため。

これらはあくまで「できれば」なので、結局はどちらでもよいと思います。実際、私が見る限りでは「夫余」も「扶余」も半々な気がします。--トムル 2010年10月19日 (火) 07:31 (UTC)[返信]

失礼。どちらでもいいわけではなさそうです。現在「扶余」で検索すれば、そのほとんどが韓国の扶余(プヨ)に関するものが出てしまいます。また、今私の手元にあるわずかな資料においても、古代の夫余は「夫余」と表記されているのが多く、山川出版社の『世界史用語集』のみに「夫余(扶余)」とあるだけなので、一般的には「扶余」よりは「夫余」が使われているように思われます。--トムル 2010年10月19日 (火) 09:55 (UTC)[返信]

再提案

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「扶余」→「夫余」の改名提案の再提案をしたいと思いますが、その前に以前の議論をまとめたいと思います。

  • 賛成 - ほとんどの学術論文で「夫余(夫餘)」が採用されているから。一般的に「扶余」は現代の地名(韓国の扶余郡および中国の扶余県)に使われるから。(女衒氏)
  • 反対 - 韓国の国立扶余文化財研究所で発表される年報に「扶余」も採用されているから。(Yonoemon氏)
  • 反対 - 韓国の高等学校国史教科書(7次教育課程用)に「扶余」とあるから。(hyolee2/H.L.LEE氏)
  • 反対 - 東京創元社『東洋史辞典』(1990年)に「扶余」・「夫余」両方の記述があるから。(Himetv氏)

前回の議論はこの状態で停止してしまいましたが、それは賛成側の改名しうる証拠が不十分であったためだと思います。なので、反対した3名も現状維持という判断を下したのだと思います。ここで私は女衒氏の提案に補足する形で「扶余」→「夫余」への改名再提案をさせていただきます。

まず、「夫余(夫餘)」という語は中国史書の『三国志』~『北史』や高句麗の『広開土王碑』などで使用された用語であり、時代的には中国の漢代唐代にかけて使用された用語となります。一方の「扶余(扶餘)」という語は『旧唐書』、『新唐書』、『旧五代史』、『宋史』、『三国史記』といった五代十国時代(10世紀)以降の史書で使われるようになった用語です。これら2つの用語はほぼ同じもの(夫余国)を指しますが、実際に夫余国として存在した時期(1世紀 - 494年)の名称は「夫余(夫餘)」と言えます。

次に、現在の「夫余」・「扶余」の使われ方ですが、数々の書籍において「夫余」は主に中国東北部に存在したいわゆる夫余国を指す場合に使われ、「扶余」は朝鮮半島における夫余人の国家(南扶余すなわち百済)およびそれに基づいた地名(扶余)に使われる傾向にあります。さらに現在では「扶余」といえば韓国の扶余郡(プヨ)を指すのが一般的であり、「扶余」を検索すればそのほとんどが韓国の扶余郡に関するものがでてきます。

よって、この記事は夫余国に関する記事なので、記事名としては「夫余」が妥当であり、「扶余」であれば混乱を招く恐れがあるので、「扶余」→「夫余」への改名の再提案をしたいと思います。--トムル 2010年11月15日 (月) 18:08 (UTC)[返信]

補足として現在の書籍における「夫余」・「扶余」の使われ方を挙げます。

【夫余】…もちろん中国東北部の夫余国に関するものが中心。

  • 三上次男『古代東北アジア史研究』(1977年、吉川弘文館)
  • 京大東洋史辞典編纂会『東洋史辞典』(1991年、東京創元社)
  • 三上次男、神田信夫『東北アジアの民族と歴史』(1996年、山川出版社)
  • 大貫静夫『東北アジアの考古学』(1998年、同成社)
  • 王建新『東北アジアの青銅器文化』(1999年、同成社)
  • 秋山進午『東北アジア民族文化研究』(2000年、同朋舎)
  • 村上恭通『東夷世界の考古学』(2000年、青木書店)
  • 武田幸男『朝鮮史』(2000年、山川出版社)

【扶余】…ほとんどが朝鮮半島における扶余(百済)なので、夫余国に該当しないのが多い。該当してもそれは『三国史記』に依ったものなので夫余国に関したことではない。

  • 朝鮮民主主義人民共和国社会科学院考古学研究所(訳:呂南吉吉、金江圭)『高句麗の文化』(1982年、同朋舎出版)
  • 今西龍『百済史研究』(1970年、国書刊行会)
  • 金基雄『百済の古墳』(1976年、学生社)
  • 世界史小辞典編纂委員会『山川世界史小辞典』(2007年、山川出版社)

【夫余、扶余】…『韓国の古代遺跡2 百済・伽耶篇』は中国東北部におけるものを「夫余」、朝鮮半島におけるものを「扶余」と使い分けている。用語集関連は高校レベルなのでどっちでもよいという感じ。

  • 東湖、田中俊明『韓国の古代遺跡2 百済・伽耶篇』(1989年、中央公論社)
  • 『広辞苑 第6版』
  • 『世界史B用語集』(山川出版社)「夫余(扶余)」
  • 『必修世界史B用語集』(旺文社)「夫余(扶余)」
  • 『必修世界史用語』(実教出版)「扶余(夫余)」

--トムル 2010年11月20日 (土) 11:21 (UTC)[返信]

1週間が経ち、特に反対意見も無いようですので、改名します。--トムル 2010年11月25日 (木) 16:51 (UTC)[返信]

言語に関して

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高句麗, 夫餘言語がツングース系列だと主張する人はとても一部の日本人学者(河野六郞),仮設であるだけであり定説で立証された事実でない。また,満洲族と高句麗, 夫餘族を連結する内容もない。 問題になっている韓国側の論文はただ1編で,ここで間違って引用されている. "李基文"の論文にも高句麗が新羅言語と違うという一つの仮設を主張したが,その論文には高句麗が朝鮮族の先祖ではないとの内容はなくて, その論文ですら,44% 中世朝鮮語と対応されることで叙述している。 すなわち高句麗と新羅御駕完全に関連がないということは偽. "李基文"の論文はすでに反論論文が数えきれない程出ていてその人の"仮設"が定説で確立されたことはない。W450by11 2010年1月15日 (金) 17:58 (UTC)[返信]

「学説で立証された」とは本文のどこにも書かれていない。何がツングースか?完全に立証されているわけではない。出典の出ているものを個人の感情から隠蔽し、消し去ろうとすることはお止めください。またできれば日本語を完全にマスターしてから参加していただきたい。あなたは大変に以前に無期ブロックされた方と酷似しています。~--220.147.7.2 2010年2月3日 (水) 16:39 (UTC)[返信]
新羅語及び中世国語 ・日本語, 満洲及びツングース諸語と比べると, 高句麗語の系統的位置をどの位推正することができるのに, 第一, 高句麗語は新羅語(または中世国語)と違う言語だったことが現われるがお互いに近い継き柄にあったし, 第二, 高句麗語は新羅語より日本語にもっと近い継き柄にあったことが確かに現われて, 第三, 高句麗語は満洲ツングース制御とも確かに継き柄にあったことが現われるが, これは上で言った関係たちよりちょっと遠いことで感じられる. したがって高句麗語は新羅語, すなわち今日の国語と日本語, 国語とアルタイ制御との関係を受け継ぐ橋梁的役目をすると見られる.[3] ソースは百科事典です W450by11 2010年2月3日 (水) 20:54 (UTC)[返信]

韓国の工作員が湧いてるな。思いっきり韓国よりな編集を行って不都合な箇所は片っ端から削除していく。W450by11 さん。あなたの投稿記録を見ると韓国に不都合な箇所を片っ端から削除されているので韓国人なんでしょうが、もう少し日本語を勉強して書き込んでください。あなたの書き込みは意味不明です。どんなに工作しても高句麗人は満州族の母体。高句麗人と現代の韓国人は民族的関連が弱く、高句麗は扶余人で東胡の一部で、高句麗の血統を受け継いだのは現在の満州族。

広辞苑より

【扶余】前一世紀から五世紀まで、中国東北地方北部に活動した民族。また、その建てた国。ツングース族の一。

【高句麗】紀元前後、ツングース族の扶余の朱蒙(東明王)の建国という。

【渤海】八~一〇世紀、中国東北地方の東部および朝鮮半島北部のあたりに起った国。靺鞨族の首長大祚栄が建国。

【靺鞨】ツングース族の一。粟末靺鞨の首長大祚栄は渤海国を起し、また黒水靺鞨は後に女真と称した。

高句麗の支配層の扶余族はツングース系民族(鳥越憲三郎『古代朝鮮と倭族』中公新書、金達寿『朝鮮』岩波新書 )、そして靺鞨もツングース系民族で、現在の満州族の母体。 「高句麗の主要民族は満州族の一種 (略) 高句麗人と共に渤海建国の民族である靺鞨はツングース系で、現在の中国の少数民族の一つ、満州族の祖先である。 (略) 渤海は、唐の高宗の代に高句麗が唐・新羅の連合軍に討滅された後、唐の玄宗から渤海郡王に封ぜられた大祚栄氏がつくったツングース系の国であった。(黄文雄『満州国は日本の植民地ではなかった』 )」--125.203.198.208 2010年2月9日 (火) 06:22 (UTC)[返信]


日本の学界では高句麗人や渤海人及び渤海人を構成した靺鞨人はツングース民族と考えられている。

濱田耕策「夫余、高句麗、沃沮を構成したツングース系の諸族(Yahoo!百科事典)」「高句麗族はツングース系の扶余族の別種(木村誠 趙景達 吉田光男 馬淵貞利編『朝鮮人物事典』)」、諏訪春雄「朝鮮で高句麗や百済を建国した夫余族はツングース系の遊牧民族(学習院大学教授 諏訪春雄通信)」、Searchina三国史記によれば、高句麗の始祖は朱蒙。ツングース系の一部族である扶余族(2008年2月24日serchina)」、黄文雄遼東や北満の地は、かつて高句麗人、渤海人などの(略)ツングース系諸民族が活躍した地である(黄文雄著『韓国は日本人がつくった』)」、鳥越憲三郎「高句麗は紀元前1世紀末、ツングース系の族によって建国(鳥越憲三郎著『古代朝鮮と倭族』)」、山川出版社『世界史用語集』「【高句麗】中国東北地方東部のツングース系貊族の夫余族の国」(夫余とは、村山正雄「古代中国の東北地方に割拠していたツングース系と思われる民族(Yahoo!百科事典)」、佐々木史郎「夫余と靺鞨はツングース系の民族ではないかと考えられている(Yahoo!百科事典)」、山川出版社『世界史用語集』「【夫余】同じツングース系の勿吉に滅ぶ。百済の王は夫余族と言う」)、護雅夫「高句麗は東北アジア、満州にいたツングース系民族であり、4世紀から6世紀の初めにかけての最盛期には朝鮮半島の大半と南満州とを勢力圏に収めた(Yahoo!百科事典)」、宮脇淳子「高句麗人は、南満州で半農半牧の生活をしていた貊人の一種である(宮脇淳子著『世界史のなかの満洲帝国』)」(貊とは、山川出版社『世界史用語集』「【貊族】紀元前7世紀~紀元前6世紀以降河北省長城地帯から中国東北地方にいたツングース系民族で、漢族・モンゴルに系に圧迫されて東方に移り、のちの夫余・高句麗を建国」)、山川出版社『世界史用語集』「【靺鞨人】中国東北部に東部にツングース系諸族。6世紀半ば勿吉の崩壊後の部族の総称」、菊池俊彦「【靺鞨】6世紀後半から中国東北の松花江流域を中心に、北は黒竜江中・下流域、東はウスリー川流域、南は朝鮮半島北部に勢力を振るったツングース系諸族の一派(Yahoo!百科事典)」、森安孝夫「【渤海】現在の中国東北地方、ロシア連邦の沿海州、北朝鮮の北部にまたがる広い範囲を領有して栄えた満州ツングース系の民族国家(Yahoo!百科事典)」、藤本和貴夫「7~10世紀には極東地方から満州、朝鮮北部にツングース系の渤海国が建てられた(Yahoo!百科事典)」、広辞苑「【高句麗】紀元前後、ツングース族の扶余の朱蒙の建国という」「【靺鞨】ツングース族の一。粟末靺鞨の首長大祚栄は渤海国を起し、また黒水靺鞨は後に女真と称した」、大辞泉「【高句麗】紀元前後にツングース系の扶余族の朱蒙が建国」「【渤海】698年、ツングース系靺鞨族の首長大祚栄が建国」「【靺鞨】中国、隋・唐の時代に、中国東北部から朝鮮半島北部に住んでいたツングース系諸族の中国側からの呼び名。七部に分かれ、その一部である粟末部は、渤海国を建国。黒水部はその支配下に入らず、のちに女真と称された」、大辞林「【高句麗】中国東北部にいた扶余族の一支族が建国」「【靺鞨】中国、隋唐時代に東北地方から朝鮮半島北部に居住したツングース系諸族の総称。勿吉崩壊後、有力な七部に分立、粟末部を中心に渤海を建てたが、黒水部は対立してのちに女真族となった」、日本大百科全書「高句麗は夫余族の一派で、鴨緑江中流域を中心にして紀元前後に王国をつくった」--114.189.206.198 2010年5月8日 (土) 16:12 (UTC)[返信]

(お知らせ)改名提案の投票部分と紛らわしいため、別に節を分けさせていただきました。--Himetv 2010年2月3日 (水) 21:11 (UTC)[返信]

扶余族=ワイ族=現代朝鮮人の図式で記載されているが、これって韓国でやってる起源主張のひとつでは?フヨ族=今の満州族だったのを無理やり朝鮮人起源にするために韓国で言われ始めたことでしょ。日本国内で発言してる人もよくよく調べると在日朝鮮人だったりそれに近しい人だったり、中立性の観点から安易に韓国の教科書と似通った意見に迎合するのは避けるべきだと思います。2010年9月15日 (水) 22:13 (UTC)—以上の署名の無いコメントは、203.175.88.60ノート/Whois)さんが[平成22年9月15日 (水) 17:08 (UTC)]に投稿したものです(ろう(Law soma) D Cによる付記)。

別におっしゃるような文脈にはなっていないうえに、扶余=満州族との誤った見方となり百済の文章が前と繋がらなくなるので一旦戻しました。そもそも韓国でやってる起源主張を否定するように冒頭で「ツングース」と記載してあります。--ろう(Law soma) D C 2010年9月16日 (木) 05:39 (UTC)[返信]

合意なき移動とその後処置について

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2010年10月19日 (火) 04:03 トムル (会話 | 投稿記録) M (17,889バイト) (「扶余」をこのページあてのリダイレクト「夫余」へ移動: 曖昧さ回避のため) という移動がなされていますが、この移動内容は2008年にこのノートで一度提案され、反対多数で行われなかったものと同じ内容です。合意が行われた形跡も確認できないため、一旦 2010年10月16日 (土) 04:08時点における版に差し戻し、移動前の扶余に記事名を戻したうえで、再度このノートページで改名に関する議論を行うべきだと考えます。--Himetv 2010年10月19日 (火) 05:58 (UTC)また、これに伴い跡地に立てられた曖昧さ回避記事は扶余 (曖昧さ回避)に移動すべきだと考えます。--Himetv 2010年10月19日 (火) 06:26 (UTC)[返信]

合意無視の移動であるため扶余に移動の上、曖昧さ回避記事は扶余 (曖昧さ回避)に移動すべき。手続き不備であるため即時移動の上、再議論が適当かと思われる。--Yonoemon 2010年10月19日 (火) 06:54 (UTC)[返信]
そもそもOtheruseslistが貼られているので曖昧さ回避記事も不要。単純に元に戻すだけでよい。--ろう(Law soma) D C 2010年10月19日 (火) 07:06 (UTC)[返信]
すいません。横着してしまいました。差し戻してくれても構いません。--トムル 2010年10月19日 (火) 07:31 (UTC)[返信]
横着した結果が単純に差し戻せない状況を生み出しています。ご自身により管理者に各種依頼をかけて改名前の構造に変更することをお願いしたいと思います。--Yonoemon 2010年10月19日 (火) 08:19 (UTC)[返信]
大変申し訳ありませんでした。とりあえず移動依頼に出しときました。しかし、戻った後は再び議論の上、夫余への改名提案をさせていただきたいと考えております。--トムル 2010年10月19日 (火) 09:09 (UTC)[返信]
再提案は問題ありませんが、以前の議論も参考にしてください。--ろう(Law soma) D C 2010年10月20日 (水) 00:11 (UTC)[返信]
報告 Wikipedia:移動依頼での依頼に基づき、夫余から扶余へ移動しました。--Penn Station 2010年11月15日 (月) 11:59 (UTC)[返信]

以前の議論は十分に拝見しましたが、参考になるかと言えば参考になりません。なぜなら、最初の3分の2は女衒さんとYonoemonさんの噛みあわない会話で占められており、続いてようやくhyolee2/H.L.LEEさんとHimetvさんによるまともな反対票が2票、そして最後にW450by11さんの別件の反対票(おそらく書くところを間違った)が1票あります。整理してみれば、賛成票が女衒さんの1票、反対票がhyolee2/H.L.LEEさんとHimetvさんの2票(YonoemonさんとDondokkenさんの票を入れれば4票)となります。しかし、合意がなされていませんし、全体的に議論が薄いと思うので、私としてはあまり参考になりません。--トムル 2010年10月20日 (水) 09:42 (UTC)[返信]

議論が薄いという主観で以前の議論を無視するという宣言はどんなもんでしょ?また私の反対票を「まともでない」と断定したり、合意がなされていないと断定する姿勢…改名提案以前に以前の合意内容をじっくりと読み直すことを推奨します。--Yonoemon=

言語系統に関して

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218.217.122.101へ、何故に言語系統は不明としつつ民族はツングースと断定する、意味不明な編集を行ったのか釈明よろし--112.138.46.198 2011年8月29日 (月) 11:07 (UTC)[返信]
出典のまま記載したのみ。世間では扶余はツングース系であるとする多数の見解がある。そのまま記載しているのみ。言語系統についても色々な説が存在している事実を残すため、誰かが書いた「不明」をそのままにしているのみ。なんなら、言語系統に関しては「不明」から「いくつかの説がある」に変えるだけなら異論はない。勝手にアナタが出典を消したり、解説するなということです。--218.217.122.101 2011年8月29日 (月) 11:15 (UTC)[返信]
世間は出典に出来ないよwしかも何の民族に属すかは不明でも、ツングース系ではない点は確定してる。研究史として過去にそういう誤った仮説があった、と載せればそれで十分。--112.138.46.198 2011年8月29日 (月) 11:56 (UTC)[返信]
あのね。多数派・主流な見解を「世間一般」と言ってるのですよ。多くの資料に「ツングース系」であることが書かれており、それを示す多くの出典が提供されているのです。それを隠す行為は許されません。強引に隠蔽しようとしても無駄なことです。--218.217.122.101 2011年8月29日 (月) 13:18 (UTC)[返信]
話題を変えるのなら項目を新設してください。ノート:高句麗での議論が終わっていないにもかかわらず、挹婁夫余で編集合戦はやめていただきたい。議論が終了するまでツングース系云々の論争は「両論併記」、「断定しない」にしておいてください。218.217.122.101氏の言うように、夫余・高句麗=ツングース系とする書籍はいまだ存在します。なので完全に否定されたわけではありません(少なくとも日本では)。112.138.46.198氏の言うように「夫余・高句麗=ツングース系説は否定された」のであれば、それなりの情報源を持ってきてください。また、ツングース系を言う場合、民族系統ではなく、言語系統にしてください。夫余の民族系統は濊系ですので。--トムル 2011年8月29日 (月) 15:12 (UTC)[返信]
出典数を減らすことには反対です。いかに多くの場で研究者に「扶余がツングースであると言われているのか」(主流派)を示すものですので、出典数を減らすことには反対です。また、研究者も「民族」としています[4]ので、間違いではありませんし、出典のまま「そう言われている事実」を示すものです。--218.217.122.101 2011年8月29日 (月) 15:51 (UTC)[返信]
挹婁のノートへ列挙した情報に対して何ら反論をしていない状態で、更に情報源を持って来いとはどういう了見ですかねトムルさん。 218.217.122.101はウィキペディアの方針を読もうね、刊行物は2次情報、ネット情報や事典は3次情報、ぶつかった場合にどちらを優先するか。--112.138.46.198 2011年8月29日 (月) 17:09 (UTC)[返信]
ネット情報が3次情報とは初耳ですね。オンラインだろうが紙媒体だろうが、信頼できるものかどうか、がポイントのはずですが?また、出典として2次資料が推奨はされますが3次資料(事典)を使用してはならないルールもありません。著名なオンラインサイトで、しかも専門家の名前入りならば、信頼できると言えます。また他のところでも聞きましたが、刊行物も出典として挙げられている中で、それも除去している理由はなんなのでしょうか?主張と行為が矛盾しています。--218.217.122.101 2011年8月29日 (月) 17:38 (UTC)[返信]
3次情報の使用はご自由に、2次情報を理由に削除されても文句言わなければ。218.217.122.101のように。と方針が書かれてるよ 「刊行物も出典として挙げられている中で、それも除去している」具体的にはどのページの何処か?子供の言い訳のような理由にならない理由に対処するのも疲れたんだけど--112.138.46.198 2011年8月29日 (月) 17:55 (UTC)[返信]
3次資料が禁止されている方針はありません。ガイドライン案にて、2次資料が推奨されているということのみです。さて、2次資料の刊行物を除去した理由はなんなのでしょうか?2次資料の出典も除去している証拠はコチラにしっかりございます。「疲れた」で誤魔化さず、しっかりとした説明をお願いします。--218.217.122.101 2011年8月29日 (月) 18:01 (UTC)[返信]
数多くの出典とそれに基づく記述が合意なく強引に消され、保護されてしまいました[5]。保護解除に復活させたいと思います。--218.217.122.101 2011年8月30日 (火) 11:40 (UTC)[返信]
  • 218.217.122.101氏へ。[6]で私が脚注の出典を削除したのは(減らしたわけではありません)、出典の書き方を著者名『書籍名』(発行年、発行所名)ページ数「抜粋文(例:○○はツングースとされている)(なぜされているかがわかれば、なお良い)《出典(情報源)》」にしてほしかっただけなので、別に悪気があってしたことでないのであしからず。
  • 112.138.46.198氏へ。ノート:ユウ婁の列挙物には反論ありません。また、私が言う「情報源」とは日本の出版物であり、かつ「○○によって濊系=ツングース系説は否定され、粛慎系=ツングース系説が確定された」あるいは「濊系=ツングース系は過去のものであり、現在は粛慎系=ツングース系説が有力となっている」といった文章が書いてあるもの。です。それとひとつお願いですが、ノート:ツングース系民族#歴史上ツングースに関する書籍リストにあなたの持っているものを書き足してください(体裁は合わせてください)。--トムル 2011年8月30日 (火) 12:20 (UTC)[返信]
私が理解している「情報源」とは対象に関する出版物などであって、なにゆえ他国の出来事であり日本国内の研究が低調な事柄に関して殊更に日本の出版物を要求するのか、納得いく説明が欲しい。以前あなたは書籍よりも史書を重視すると言ったが、参考文献の史書は邦訳版の刊行が無く日本の出版物ではなかった、二重基準でしょ。--112.138.46.198 2011年8月30日 (火) 14:48 (UTC)[返信]
wikipediaでは「情報源はほかの編集者が確認する際にも利用可能ですか?」「わたしたちは読者のために情報源を提供しているのですから、原則としてそれらの情報源は入手できなければなりません。そうでない場合、その情報をウィキペディアに記載することはおそらく適切ではありません。ただし、それらの資料がオンラインである必要はなく、図書館で利用できれば十分です。」としています。読者が検証しやすい資料を提供することが重要なのです。入手しにくいアナタの出典はこの原則にいささか反します。そして定説ならば日本の研究者も述べているはずですが、あなたの主張している内容は見当たりません。--218.217.122.101 2011年8月30日 (火) 19:25 (UTC)[返信]
↑こういうことです。112.138.46.198氏はWikipedia:検証可能性を読みましたか?そこには「ウィキペディア日本語版では、可能な限り日本語による情報源を示すべきであり、常に日本語による情報源を日本語以外の言語による情報源より優先して使用するべきです。これは、情報源の資料が正しく使用されたことを、日本語版の読者が容易に検証できるようにするためです。」と書いています。ここはまず、「ウィキペディア日本語版」であることを前提にしてください。ただし、「可能な限り」ですので、外国の出版物を出典にしてはいけないこともないですが、私が知りたいのは112.138.46.198氏の持っている本に「○○によって濊系=ツングース系説は否定され、粛慎系=ツングース系説が確定された」あるいは「濊系=ツングース系は過去のものであり、現在は粛慎系=ツングース系説が有力となっている」といった文章が書いてあるかどうか。つまり、本当に「濊系=ツングース系説」が否定されたのかということです。また、史書と出版物は違います。史書はゆるぎない前提です。しかもネット上で閲覧できます(=検証可能です)。もう一度言いますが、私が112.138.46.198氏に求めることは、本当に「濊系=ツングース系説」が否定されたのかということです。それがはっきりとわかる抜粋文がない限り、両論併記かつ「以前は、夫余や高句麗をツングース系と見做し」といった文章を書かないこと。難しいことではありません。抜粋文を提示するだけです。--トムル 2011年8月31日 (水) 13:49 (UTC)[返信]
  • トムルWikipedia:検証可能性を読みましたか?「常に日本語による情報源を日本語以外の言語による情報源より優先して使用するべき」というのは自分の好みの部分だけを抜き出したに過ぎず「(同じ品質と信頼性だと仮定しています)」という点を意図的に除外している。複数の発掘調査に基づく研究成果と大昔の手掛かりも少ない時代の仮説では品質も信頼性も大きな差がある、そもそも三上なんちゃらが古アジア系の習俗として挙げている半地下式住居は女真時代の層からも見つかっている。「例えば、相当する記事が日本語の新聞にないような場合以外は、外国語の新聞を情報源として使ってはいけません。」相当する日本の研究は今の所1つも挙がっていない。「しかし外国語の情報源は、検証可能性や、日本語の情報源と同じ基準に従うという観点では受け入れられます。」『通古斯族系的興起』も『阿尔泰語系 語言文化比較研究』もAmazonで買えば1週間もあれば届きます。
  • 「本当に濊系=ツングース系説が否定されたのかということです」あなたは以前、濊系=ツングース系説が粛慎系≠ツングース系を前提としている事実を認めていたにも拘らず何故急に翻したのか。何度も何度も書いている様に、濊系=ツングース系仮説は粛慎系≠ツングース系を前提として明記している。加えて史書はゆるぎない前提です、濊系と粛慎系の言語は異なります。粛慎系=ツングース系は各種研究から確定、これはあなたも認めていたと思いますが違いますか?--112.138.46.198 2011年9月1日 (木) 16:08 (UTC)[返信]
  • 他の所でも何度か書いてる筈ですが。 高凱軍は「ツングースの概念は~中略~前秦時代の粛慎、漢晋時代の挹婁、南北朝時代の勿吉、隋唐時代り靺鞨、遼~元時代の女真、明末以降の満州族、オウンク族、ハテツ族などの各時代の部族集団及び民族を含むものである。」といった文章を書いている。日本語でね。 ハスパトルは「挹婁来源于粛慎、是粛慎的新称。 粛慎、稷慎等的原来称呼是jusen、、它同jurcin基本相同」といった文章を書いている。--112.138.46.198 2011年9月1日 (木) 16:08 (UTC)[返信]
「粛慎系≠ツングース系は各種研究から確定」ならば、それが定説となっていることを示す証拠を出してくださいな。wikipediaでは「少数の人々が支持する観点が、あたかも非常に広く受け入れられている観点と同じだけ注目に値するかのような書き方をするべきではありません。Wikipedia:中立的な観点)」となっております。アナタの主張が定説ならば、それが定説(多数派・主流)の見解であるという証拠を出してください。意味不明な中国の書物のみ出されても、その内容を「事実」「定説」「多数派」のものとして記載することはできません。定説ならば日本の学界でも語られているはずです。現在の状況では一つの見解があるという書き方しかできません。--218.217.22.160 2011年9月1日 (木) 16:57 (UTC)[返信]
トムル氏へ。本文の大半は史書の要約抜粋であるし「史書はゆるぎない前提」(なのは同感です)と言いながら歴代史書が粛慎→挹婁→勿吉→靺鞨→女真と記述している事実を無視するのは何故か。日本語の書籍が優先されるのは当然としても、濊系=ツングース系仮説の記載有りとして挙げられた書籍には粛慎系濊系に対して参考文献が無くまた内容量も数行しか言及しておらず、10数ページ・数十ページに渡り記述している上記2つの書籍とは「同じ程度の品質や信頼性ではない」。ついでにip、歴代の史書には粛慎→挹婁→勿吉→靺鞨→女真と記されてるよ--112.138.46.198 2011年9月2日 (金) 09:38 (UTC)[返信]

一旦、議論の場所を一か所にしませんか?ノート:高句麗で。--トムル 2011年9月2日 (金) 09:57 (UTC)[返信]

定説・多数派とする根拠の提示が未だにないことを確認しました。--218.217.115.116 2011年9月2日 (金) 15:09 (UTC)[返信]

「扶余はツングース系である」と記されている事実を隠蔽する編集

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この編集[7]により、専門家等によって「扶余がツングースである」とする多くの論がある事実が隠蔽除去されてしまいました。「粛慎系=ツングース」とする中国の出典を持って「扶余はツングース系ではない」と勝手に連想し、「扶余がツングースである」という定説を破壊しています。この行為は許されません。ここに、「扶余はツングース」とされている事実を残しておきます。

  •  『日本大百科全書』(小学館)「(濊貊は)夫余、高句麗、沃沮を構成したツングース系の諸族《濱田耕策》」
  • 『朝鮮人物事典』木村誠 趙景達 吉田光男 馬淵貞利編「高句麗族はツングース系の扶余族の別種」
  • 諏訪春雄「朝鮮で高句麗や百済を建国した夫余族はツングース系の遊牧民《学習院大学教授 諏訪春雄通信》」
  • Searchina』「三国史記によれば、高句麗の始祖は朱蒙。ツングース系の一部族である扶余族《2008年2月24日serchina》」
  • 黄文雄遼東や北満の地は、かつて高句麗人、渤海人などの(中略)ツングース系諸民族が活躍した地である(黄文雄『韓国は日本人がつくった』)」「高句麗の主要民族は満州族の一種(中略)高句麗人と共に渤海建国の民族である靺鞨はツングース系で、現在の中国の少数民族の一つ、満州族の祖先である(黄文雄『満州国は日本の植民地ではなかった』)」
  • 鳥越憲三郎「高句麗は紀元前1世紀末、ツングース系の族によって建国(鳥越憲三郎『古代朝鮮と倭族』)」
  • 山川出版社『世界史用語集』「【高句麗】中国東北地方東部のツングース系貊族の夫余族の国」
  • 村山正雄「夫余は古代中国の東北地方に割拠していたツングース系と思われる民族(Yahoo!百科事典)」
  • 佐々木史郎「夫余と靺鞨はツングース系の民族ではないかと考えられている(Yahoo!百科事典)」
  • 山川出版社『世界史用語集』「【夫余】同じツングース系の勿吉に滅ぶ。百済の王は夫余族と言う」
  • 護雅夫「高句麗は東北アジア、満州にいたツングース系民族であり、4世紀から6世紀の初めにかけての最盛期には朝鮮半島の大半と南満州とを勢力圏に収めた(Yahoo!百科事典)」
  • 宮脇淳子「高句麗人は、南満州で半農半牧の生活をしていた貊人の一種である(宮脇淳子『世界史のなかの満洲帝国』)」
(貊とは、山川出版社『世界史用語集』「【貊族】紀元前7世紀~紀元前6世紀以降河北省長城地帯から中国東北地方にいたツングース系民族で、漢族・モンゴルに系に圧迫されて東方に移り、のちの夫余・高句麗を建国」)
  • 菊池俊彦「【靺鞨】6世紀後半から中国東北の松花江流域を中心に、北は黒竜江中・下流域、東はウスリー川流域、南は朝鮮半島北部に勢力を振るったツングース系諸族の一派(Yahoo!百科事典)」
  • 森安孝夫「【渤海】現在の中国東北地方、ロシア連邦の沿海州、北朝鮮の北部にまたがる広い範囲を領有して栄えた満州ツングース系の民族国家(Yahoo!百科事典)」
  • 藤本和貴夫「7~10世紀には極東地方から満州、朝鮮北部にツングース系の渤海国が建てられた(Yahoo!百科事典)」
  • 室谷克実「(中国の史書には)高句麗などのツングース系民族と韓族との間には、比較の記述がない。(民族が)違うことが大前提であり、わざわざ違うとは書いていない(室谷克実『日韓がタブーにする半島の歴史』)」
  • 広辞苑「【高句麗】紀元前後、ツングース族の扶余の朱蒙の建国という」「【靺鞨】ツングース族の一。粟末靺鞨の首長大祚栄は渤海国を起し、また黒水靺鞨は後に女真と称した」
  • 大辞泉「【高句麗】紀元前後にツングース系の扶余族の朱蒙が建国」「【渤海】698年、ツングース系靺鞨族の首長大祚栄が建国」「【靺鞨】中国、隋・唐の時代に、中国東北部から朝鮮半島北部に住んでいたツングース系諸族の中国側からの呼び名。七部に分かれ、その一部である粟末部は、渤海国を建国。黒水部はその支配下に入らず、のちに女真と称された」、
  • 大辞林「【靺鞨】中国、隋唐時代に東北地方から朝鮮半島北部に居住したツングース系諸族の総称。勿吉崩壊後、有力な七部に分立、粟末部を中心に渤海を建てたが、黒水部は対立してのちに女真族となった」

言語系統の書き方案

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一旦ここでまとめてから、本文に反映させますので、以下に書いたものに足りないものがあれば書き足してください。--トムル 2011年9月24日 (土) 12:39 (UTC)[返信]

==言語系統==
中国の史書によると、夫余の言語は高句麗と同じとされ[1]沃沮もほぼ同じとされる[2]。一方、東の挹婁は独特の言語を使っていたとされ、夫余の言語と異なる[3]と記される。ここで2つの言語系統が存在することがわかるが、夫余語が現在のどの系統に属すのかについては古くから論争があり、現在に至ってもよく解っていない。

  • ツングース系説…日本の学説や事典では、粛慎系の靺鞨や勿吉とともに夫余もツングース系であるとされており[4]、現在の日本でポピュラーな説となっている。
  • ツングース系+モンゴル系説…比較言語学的研究により、穢貊系(濊系、扶余系)の語彙[5]の多くがツングース系の語彙と共通し、かつモンゴル系の語彙も含むことから、夫余・高句麗語はツングース系をベースとしたモンゴル系との混成語であるとする説[6]。これに対し、粛慎系の言語はモンゴル系などが混じっていない「純ツングース系」とされる。
  • 夫余語系説…比較言語学的研究により、『三国史記』所載の高句麗地名から抽出した高句麗語語彙が、ツングース系語彙よりも日本語や中期朝鮮語語彙に多く共通するとして、アルタイ祖語は夫余・日本・朝鮮・韓共通語とテュルク・モンゴル・ツングース共通語の二つに分離し、前者が原始韓語と原始夫余語とに分かれ、ついで原始夫余語が高句麗語と原始日本語とに分かれたとする説[7]。しかし、村山七郎や清瀬義三郎則府は、高句麗語と朝鮮語は遠いことを示すと共に、日本語と近縁の言語とし[8]、そもそも高句麗語の存在や不正確さも指摘している[9]
  • 古シベリア(古アジア)系説…中国史書の記述(上記)から粛慎系の言語系統と濊系の言語系統が異なると判断し、粛慎系をツングース系と仮定すれば、濊系は古アジア系となる説[10]

==脚注==

  1. ^ 『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝 高句麗「東夷舊語以為夫餘別種,言語諸事,多與夫餘同」、『後漢書』東夷列伝 高句驪「東夷相傳以為夫餘別種,故言語法則多同」
  2. ^ 『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝 東沃沮「其言語與句麗大同,時時小異。」濊「言語法俗大抵與句麗同,衣服有異。」、『後漢書』東夷列伝 東沃沮「言語、食飲、居處、衣服有似句驪。」濊「耆舊自謂與句驪同種,言語法俗大抵相類。」
  3. ^ 『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝 挹婁「其人形似夫餘,言語不與夫餘、句麗同」、『後漢書』東夷列伝 挹婁「人形似夫餘,而言語各異」
  4. ^
    • シロコゴロフ著、川久保悌郎・田中克巳訳『シロコゴロフ 北方ツングースの社會構成』(1942年、岩波書店)p285-p287「鳥居龍蔵氏は彼らを北朝鮮の強国、夫余及び高句麗の建設者と見做し、彼等をツングースであろうと考えている。」
    • 『白鳥庫吉全集 第4巻』(1970年、岩波書店)P536「『穢貊は果たして何民族と見做すべきか』穢貊の言語には多量のTunguse語に少量の蒙古語を混入していることが認められる。想うにこの民族は今日のSolon人の如く、Tunguse種を骨子とし、之に蒙古種を加味した雑種であろう。」
    • 井上秀雄、他訳注『東アジア民族史1-正史東夷伝』(1974年、平凡社)p103「(高句麗、夫余の)両族は、ともにツングース系と考えられている。両族が同系であることは始祖神話(東明・朱蒙伝説)の類同によっても推測できよう。」
    • 加藤九祚『北東アジア民族学史の研究』(1986年、恒文社)p156「高句麗は北扶余から発したとされるが、その北扶余がツングース・満州語族に属することは定説となっている」
    • 三上次男・神田信夫編『民族の世界史3 東北アジアの民族と歴史』(1989年、山川出版社)p161「Ⅱ(夫余、高句麗、濊、東沃沮)の言語はツングース・満州語の一派か、またはそれに近い言語と思われるが、むしろ朝鮮語と近い親縁関係にあるか、詳しく調べてみなければわからない。」
    • 鳥越憲三郎著『古代朝鮮と倭族』(1992年、中央公論社)「高句麗は紀元前1世紀末、ツングース系の濊族によって建国」
    • 『Yahoo!百科事典』「【濊貊】前3世紀ごろモンゴル系民族に押されて朝鮮半島北東部に南下し、夫余(ふよ),高句麗(こうくり),沃沮(よくそ)を構成したツングース系の諸族を含むのである《浜田耕策》。【夫余】古代中国の東北地方に割拠していたツングース系と思われる民族が建てた国名《村山正雄》」
    • 諏訪春雄「高句麗や百済を建国した夫余族はツングース系の遊牧民族(学習院大学教授 諏訪春雄通信)」
    • 南出喜久治「私の見解では、高句麗は、建国の始祖である朱蒙がツングース系(満州族)であり、韓民族を被支配者とした満州族による征服王朝であつて、韓民族の民族国家ではないと考へている。(いはゆる「保守論壇」に問ふ ‹其の五›日韓の宿痾と本能論)」
  5. ^ 中国史書にわずかに見える漢文語彙。
  6. ^ 白鳥庫吉「穢貊は果たして何民族と見做すべきか」(『白鳥庫吉全集 第4巻』1970年、岩波書店)「穢貊の言語には多量のTunguse語に少量の蒙古語を混入していることが認められる。想うにこの民族は今日のSolon人の如く、Tunguse種を骨子とし、之に蒙古種を加味した雑種であろう。」
  7. ^ 三上次男・神田信夫編『民族の世界史3 東北アジアの民族と歴史』(1989年、山川出版社)p169「彼(李基文)によると、アルタイ諸語と朝鮮語の間に動名詞語尾と若干の曲用語尾について一致が見られるという。また、語彙の比較においては、かなりの一致が朝鮮語とアルタイ諸語に共通して見出され、そのうち、朝鮮語とツングース諸語の間に語彙の一致がもっとも多く、ついでモンゴル諸語との間にも興味深い一致が見出され、チュルク語との間には一致するものが非常に少ないという。(中略)こうした状況のなかで、李基文は『三国史記』所載の高句麗地名からかなりの語彙を抽出し「高句麗語」としてとらえ、朝鮮語、日本語、ツングース語との比較を試みた(1966年)。そして、高句麗語が、朝鮮語(新羅、中世語)と著しい語彙の一致をみせ、日本語とも多くの共通語をもち、ツングース語とも若干の一致例をみせるとし、アルタイ祖語が原始夫餘・原始韓共通語とチュルク、モンゴル、ツングース共通語の二つに分離し、前者が原始韓語と原始夫餘語とに分かれ、ついで原始夫餘語が高句麗語と原始日本語とに分かれたとして、高句麗語は日本語と朝鮮語との親縁関係をつなぐミッシング・リングの位置を占めると主張した。《梅田博之》《李基文「韓国語形成史」(『韓国文化史大系Ⅴ.言語・文化史』)ソウル1967 p21-122、李基文「高句麗の言語とその特徴」(『白山学報』4号)1968(中村完訳、『韓』第10号 東京韓国研究院 1972;池田次郎・大野晋編『論集 日本文化の起源5 日本人種論・言語学』平凡社 1973 p594-627)》」
  8. ^ 清瀬義三郎則府『日本語学とアルタイ語学』(明治書院、1991年)
  9. ^ 金東昭(訳:栗田英二)『韓国語変遷史』(明石書店、2003年)、金芳漢『韓国語の系統』(三一書房、1985年)
  10. ^ 朱国忱・魏国忠(訳:佐伯有清・浜田耕策)『渤海史』(1996年、東方書店)
  • ツングースとされていることが主流派であり、それが示されていないこと、及び、それ(主流)を示している多くの出典が消えていること等、これまでの私の主張が完全に除外されており、反対いたします。また、「言語が異なる」と言い切る書き方ではなく、「史書には「言語が異なる」と書かれている」という書き方とし、「言語が異なる」とされる夫余や高句麗も、日本の学説や事典ではツングース系とされることがある、と両系統(粛慎系、濊系)ともツングース系の可能性があることも追記して欲しい。加えて、韓系説なるものを載せるならば、高句麗のノートでも書きましたが、それを否定している論(高句麗語の不確かさや日本語と韓国語は遠い論)がいくつかあることも載せることを希望します。--218.226.121.140 2011年10月1日 (土) 11:34 (UTC)[返信]

私も同じく、北部の濊系と南部の韓系の言語が異なると史書に記録されてる以上は、夫余語韓系説を載せないか日本語同系説も同時に載せるのが筋と思う。アルタイ語が専門の言語学者は手掛かりが無いからか、広くツングース諸語や朝鮮諸語まで網羅しても濊系・夫余諸語には全く言及してくれないのが何とも。--59.85.37.143 2011年10月2日 (日) 09:17 (UTC)[返信]

これだとどうでしょうか?--トムル 2011年10月6日 (木) 15:49 (UTC)[返信]
同意します。--218.226.121.140 2011年10月8日 (土) 08:25 (UTC)[返信]
では、濊系民族の言語系統の書き方はこのように決定いたします。--トムル 2011年10月8日 (土) 13:52 (UTC)[返信]
トムル氏の書き方には、高句麗での合意やノート扶余でのやり取りから、意図的に抜け落とされている部分が見られるため、修正しました。--112.139.54.203 2011年10月9日 (日) 16:54 (UTC)[返信]

2017年2月18日

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ABCEditerが加筆した川崎真治[8]澤田洋太郎[9]の記述は、川崎真治氏の項目によると、「研究機関には所属していない在野の研究者」「学会で発表されたり、他の考古学者等から支持を得たりすることは少ない」、と学会トンデモ本に著作が度々引用されているとのことです。また、澤田洋太郎氏は、『超能力と超常現象のからくり』などを出版している大学や研究機関に所属していない在野のアマチュア愛好家。扶余という学術的な項目に一般的に疑似科学と目されている人物を取り上げるのはどうなんだろう?あたかもアポロ計画の項目にと学会の日本トンデモ本大賞を受賞した副島隆彦氏の『人類の月面着陸は無かったろう論』を取り上げているようなもの。アポロ計画に対する疑似科学的な意見は別項アポロ計画陰謀論に分割されており、扶余に関する疑似科学と目されている人物の意見は別項分割すべき。はっきり言って学術的な項目にと学会のトンデモ本の類の疑似科学を一緒にするのは迷惑だし、何も知らない人が見たら勘違いする。書きたいんだったら学術的な出典を持ってくるべき。Wikipedia:中立的な観点には、多数説は多数説として記載しろとあり、騎馬民族征服王朝説は学界では否定的な意見が圧倒的多数であり、また該当項目には「仮説」とあるため、現在の「扶余諸語が日本語と同系であるとする説に関連して、夫余の王族が日本に渡来し大和朝廷の前身になったとする説も存在する」から「夫余の王族が日本に渡来し大和朝廷の前身になったとする仮説を江上波夫が提唱したが、今日ではほとんど否定されているともされる」に修正してNPOVします。また上述の通り、澤田洋太郎氏はプロの研究者ではなく、そもそも騎馬民族征服王朝説のオリジナルは江上波夫氏であるため、出典を澤田洋太郎氏から江上波夫氏に変更します。--オルドネス5世会話2017年2月17日 (金) 16:37 (UTC)[返信]

494年滅亡の出典は?

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私は韓国人で「国史」を勉強していますが、韓国の説明だけを見るのは偏向的である可能性があるので日本のWikipediaも参考しています。韓国版ではふよの王が494年に高句麗に降伏したとなっていますが、日本版では494年にもっきつに滅ばされたとなっています。韓国版にも出典はなかったんですが、多分「三国史記」だろうとおもって調べてみたら、やはり高句麗の文咨王の部分に「三年, 春正月, 遣使入魏朝貢. 二月,扶餘王及妻孥, 以國來降.」があって、それが494年になります。私は漢文をよく知らないので、これは韓国のサイトからとったものですが、そのサイトの解析だと、ふよはすでにこうえんに滅亡されていたのでその記録は疑わしいそうです。つまり、494年のずっと前に滅びたのでその年度は疑わしいと言う意味だとおもいます。日本版には高句麗に降伏したという話は無いのに、なぜ年度の494年だけが一致しているのか不思議です。日本版のその部分はどの史書に根拠しているんですか?

『三国史記』には扶餘王が「以國來降」した経緯が書かれていないが、『北史』には正始年間以前に「今夫餘爲勿吉所逐」という事件が起きたことが書かれています([10]の「正始中~實兩賊之爲。」)。そして、『北史』の「夫余が勿吉に放逐された」事件と『三国史記』の「夫余が高句麗に降伏した」事件が同じ年に起きたとする説が存在します。池内宏氏はそれらの『三国史記』『北史』の記述などから、「太和18年(494年)に夫餘の国の分家が勿吉の攻撃を受け、高句麗を頼って来降し、夫餘の国は滅亡した(大意)」という説を立てました。(詳細は『満鮮史研究』上世編に収録されている「夫餘考」「勿吉考」に書かれています)山川出版社の新版世界各国史シリーズの『朝鮮史』などの、近年刊行された日本の本でも「494年に夫余は勿吉によって滅ぼされ、高句麗に降伏した」と書かれているものもあるが、「夫余は勿吉に滅ぼされた」「夫余は高句麗に降伏した」としか書かれていない本もあります。日本語版の編集者が「勿吉に滅ぼされた」としか書かれていない本や「史書」だけを、韓国語版の編集者が「夫余は高句麗に降伏した」としか書かれていない本や「史書」だけを元にして編集を行っていたので、そうした現象が起きたのではないかと思います。--Usaminian会話2024年1月21日 (日) 14:49 (UTC)[返信]