ノート:山田顕義/過去ログ1

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「山田顯義」が正当であれば、移動が必要でしょうか。一応JIS X 0208内漢字のようですし。竹麦魚 2004年12月16日 (木) 06:30 (UTC)

「日本大学」:歴史的背景、より一時避難[編集]

日本の歴史背景[編集]

山田顕義肖像

松下村塾で学ぶ[編集]

山田顕義(市之允)は、父顕行から素読・書道の手ほどきを受け、13歳のとき藩校明倫館に入学しているが、14歳になった安政4年(1857年)頃、伯父山田亦介吉田松陰の武芸の師)の推薦により松下村塾に入門した。 松下村塾ではほとんどが個別教育で、国学を学ぶ者、歴史を学ぶ者、漢籍を読む者などさまざまであった。門弟たちは師松陰とともに米を搗き、薪を割り、水を汲みながら古今聖人の逸話を聴いたり、時事問題を論じるなど、村塾では個性尊重の教育に基づき、しかも協同・勤労精神を養った。 また、松陰は門弟たちを「諸友」と呼び、わが友・同志として接した。このような同志的結合のなかで、松陰の思想や信念が長州藩の若者たちを魅了し、松陰の死後も強い影響力を与えたのであった。 当時の村塾には高杉晋作久坂玄瑞伊藤博文品川弥二郎ら、幕末維新史を彩る志士たちがおり、顕義は同門の先輩たちとの親交を通して、後年大成する素地を養ったのである [1]

鳥羽伏見から北越へ[編集]

慶応3年(1867年)11月、山田顕義は、長州藩先鋒隊の総隊長として三田尻(現山口県防府市)を出発し、上洛。慶応4年1月、戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いが起こると、在京長州藩諸隊の指揮官として、1000余名の長州藩兵を率いることになった。長州藩勢は、伏見口にあって京を守り、約1万の幕府軍を退けた。その後、顕義と麾下の部隊は、大坂、京の守備にあたり、4月に三田尻に凱旋した。 その頃、江戸無血開城を果たし、上野の戦いで彰義隊を破った新政府軍は、会津藩を盟主とする奥羽越列藩同盟諸藩との戦いに入り、東北方面に先んじて、新潟方面で起こった越後戦争は、新たに北陸道鎮撫総督参謀となった山県狂介(有朋)が、奇兵隊を率いて、5月19日に長岡城を占拠した。しかし、ガトリング砲2門などの最新兵器を装備する、長岡藩兵を主力とする精鋭兵に手を焼き、新政府軍は守勢に立たされた。 その戦局を打開すべく、顕義は、前年にイギリスで竣工したばかりの長州藩の新鋭艦「丁卯丸」に乗組みを命じられ、5月、薩摩艦「乾行丸」・筑前艦「大鵬丸」も指揮下に入れて馬関(下関)を出航、越後海域に向かう。顕義は山県に協力し、同方面での戦闘を海軍力によって支援することになった。

新政府軍参謀山田市之允[編集]

柏崎に拠点を置いた新政府軍は、列藩同盟軍の海からの補給路を完全に遮断するためには、新潟港を手中に収める必要があり、山田顕義は、列藩同盟軍背後からの上陸による「衝背作戦」を発案し、実行に移す。柏崎に、この作戦のための兵員を乗せた輸送船が入港した慶応4年(1868年)7月21日、顕義は越後口海軍参謀を命じられ、25日、官軍は占拠した長岡城を列藩同盟軍に奪還されるが、同日、衝背部隊は阿賀野川口東に位置する松ヶ崎と大夫浜に上陸。同盟軍の退路を断つとともに新潟を占領し、29日には、再度長岡城を占拠した。 8月下旬、顕義は増援要請のため京に赴いたが、長州藩も余力がなく、増派はままなり、9月に会津藩が降伏し他の東北諸藩もこれに続いたため、戦略目標は変更となる。幕府海軍副総裁であった榎本武揚は、この間、指揮下の艦隊を率いて江戸を脱出、会津藩などの残存兵力を吸収して、10月には蝦夷地へ上陸、新政府の府箱館が置かれていた五稜郭を占拠した。 一方、再度北陸海域に向かった顕義は、佐渡を経由して土崎(秋田)に上陸したが、明治政府は、榎本軍の動きに対応するため青森に兵力を集結。顕義も弘前を経て同地へ向い、11月、青森口陸軍参謀に任ぜられた。 榎本たち旧幕臣と列藩同盟軍の生き残りは蝦夷島政府を樹立して、新政府からの独立を試みた。明治2年(1869年)4月、新政府軍箱館攻撃を開始。顕義は海軍参謀も兼ね、約1,500名が3隻の運送船に分乗して青森を出航、江差北方の乙部村に上陸した。顕義は部隊を4つに分けて五稜郭を目指し、自らは主力を率いて箱館に迫りた。榎本軍の抵抗は激しいものだが、海軍の支援も得て、新政府軍は5月上旬には、箱館周辺に集結した。11日から陸海共同しての総攻撃が開始され、18日、五稜郭は陥落し、戊辰戦争は終結したのであった。

岩倉使節団[編集]

明治4年(1871年)11月、山田顕義は岩倉使節団の兵部省理事官として欧米諸国歴訪に出発し、明治6年6月に帰国した。 当時の日本は近代国家として胎動し始めた時期であり、使節団の派遣は、いち早く諸外国の優れた制度を導入することが目的であった。そのため、使節団は稀に見る大規模な編成となり、岩倉具視特命全権大使を筆頭に、副使4人、理事官書記官・随行・男女留学生など総勢100人を超えた。関係者としては、初代校長の金子堅太郎も藩主黒田長知の随行員として派遣されている。 横浜を出航した使節団一行は、太平洋をわたり12月にサンフランシスコに上陸。その後、サクラメントソルトレークシカゴを経て翌5年1月21日にワシントンに到着した。岩倉大使一行は、条約改正交渉のため6月までワシントンに滞在するが、山田顕義ら兵部省関係者は2月17日にワシントンを出発し、ヨーロッパに向かう。フランスへ渡った顕義は、パリを拠点にロンドンベルリンペテルブルクなどの主要都市を歴訪して軍事制度の調査・研究にあたった。 この欧米視察では、顕義は同郷の先輩である木戸孝允と共に行動をする機会が多く、開明的な木戸の思想と欧米の先進技術・文化との接触は、山田顕義の後半生を大きく変えた [2]

軍人からの転身[編集]

幕末に結ばれた欧米諸国との不平等な条約を改正することは、明治政府の最重要課題であった。欧米と対等な交渉をするためにも、日本における近代法の整備が急務であると実感する。 山田顕義は岩倉使節団の一員として欧米視察から帰国の後、司法大輔(次官)の職に就き、以後日本の近代法整備に尽力する。 明治8年(1875年)には刑法編纂委員長となり、旧刑法明治13年公布)及び治罪法(明治13年公布、のちの刑事訴訟法)の編纂にあたった。明治16年内務卿から司法卿に転任して以降は、法典編纂事業を主導する立場となる。顕義がまず着手したことは、裁判官の資格制度を整理し判事登用規則を実現させることであった。これにより、無資格の縁故採用を廃止し、法学教育を受けた人材を採用する法制が具体化されることになった。

法典編纂と法典論争[編集]

明治18年(1885年)12月、内閣制度の発足に伴い、山田顕義は日本で最初の司法大臣に就任する。明治20年外務省に一時移っていた法律取調委員会が再び司法省に移管されると、顕義は法律取調委員長に就任する。民法はフランス人のボアソナードが、商法はドイツ人のロエスレルが原案の起草にあたった。法律取調委員会では、民法・商法・民事訴訟法裁判所構成法などの草案が審議され、顕義自身が議事を整理するほど事業に没頭する。金子堅太郎によると、委員会は公務を終えた午後4時以降から始まり、夕食後さらに会議が継続されることもよくあったというほどの繁忙ぶりであった。 顕義が全力を注いだ民法・商法・民事訴訟法は明治23年(1890年)に公布される。しかし、欧米と日本では習慣が異なり、とくに民法は日本の伝統・習慣をよく照らし合わせてから施行するべきだという、いわゆる法典論争が起こる。この論争は、制定法主義のフランス法派(断行派)と判例法主義のイギリス法派(延期派)との法理論の対立というだけでなく、薩長閥政治に対する議会の反発など当時の政治情勢上の問題も含まれていた。この論争は延期派が勝利を得ることとなり、明治25年、ついには議会の否決により民法・商法の施行は延期となった。 山田顕義が直接かかわった民法・商法が施行されなかったとはいえ、彼の法典の編纂に掛けた後半生は、決して徒労に終わったわけではない。顕義の死後、明治31年に新民法、明治32年に新商法が施行されたが、旧法というたたき台なくしては実現不可能であったことを考えると、日本の近代法成立における顕義の功績は大きいものとなった。

山田顕義の皇典講究所改革[編集]

金子堅太郎肖像
三崎町旧校舎

明治15年(1882年)、古典研究と神官を養成する機関として皇典講究所が設立される。政府首脳部の中でも神道や神社に対する尊崇の念が強かった山田顕義は、皇典講究所設立にも積極的に関わり、以後もその運営を賛助した。明治22年(1889年)、皇典講究所所長に就任した山田顕義は、皇典講究所の改革を推し進める。顕義の考える改革とは、日本の風俗慣習言語など国家成立の要因、すなわち国体を明らかにするというもので、顕義が司法大臣として進めていた法典整備に合わせて、その基礎となる国典の研究を推進することにあたる。この考えに沿って山田顕義は、国史国文国法研究する教育機関を皇典講究所に設置しようと計画した。この時期の法学教育は欧米法を教授することが主流であったが、大日本帝国憲法が発布され、諸法典の整備も進んできた明治22年頃には、現実に即した日本法学の研究が喫緊の課題となり、司法大臣山田顕義もまた、日本法律を教授する学校の設立を痛感したのであった。

日本法律学校設立計画[編集]

一方で、山田顕義とは別に日本法律を教授する学校の設立が計画されていた。この計画は帝国大学教授の宮崎道三郎を中心とする若手の法律学者らが進めていたもので、彼らの多くはドイツへの留学経験者であった。彼らは、当時ドイツで主流となりつつあった、法の歴史的研究を重視する歴史法学派の影響を受け、日本でも歴史文化伝統に立脚した日本の法律を学ぶ法律学校が必要であるという考えに達した。 山田顕義は、宮崎道三郎らが自分と同じ趣旨で日本法律の学校設立計画を進めていることを知り、彼らを全面的に支援することとなる。校舎は山田顕義が所長をしていた皇典講究所を借りることとなり、明治22年(1889年)10月4日、日本大学の前身である日本法律学校が誕生した。現在、日本大学では、創立に関与した宮崎道三郎や金子堅太郎などの若き法律学者など11名を創立者とし、彼らを全面的に支援した司法大臣山田顕義を学祖としている。

脚注[編集]

  1. ^ 山田顕義(市之允)が師吉田松陰から教えを受けたのは、安政4~5年にかけてのわずか1年余りであった。 安政5年(1858年)、幕府が違勅調印したことに憤慨した松陰は、同志と血盟して幕府老中間部詮勝の暗殺を企て、その案文を藩政府へ提出して支援を求めた。しかし、松陰の過激な言動を危惧した藩当局は、松陰をふたたび野山獄へ収容する。折りしも、幕府大老職に就いた井伊直弼安政の大獄を断行し、松陰も再び江戸に召喚され、江戸伝馬町の牢内で処刑された。 山田顕義が松下村塾に入門した時期というのは、まさに幕末へ向けて風雲急を告げる時期であった。 顕義は松陰の教えをまもりよく勉強したようで、国木田独歩が、かつて松下村塾で助教をしていた富永有隣を訪れたときの聞き書きをまとめているが、富永は「市イーは中々よく読む子であった」と山田市之允の勤勉振りを振り返っている。 そうした山田市之允が元服を迎えるにあたって、師松陰は「与山田生」と題した漢詩を扇面に揮毫して授け、立志の目標を示したのである。
  2. ^ 明治6年(1873年)5月1日に顕義は木戸とともにウィーンで開かれた万国博覧会の開会式に出席し、その後6月24日に横浜へ帰国した。顕義の欧米諸国の調査については、帰国後に太政官に提出した建白書(理事功程)によって、彼が何を感じ取ったのか窺い知ることができる。 顕義の建白書は各国の兵学・編制や徴兵制に関して論じられており、兵部省理事官の報告としてはかなり詳細なものとなっている。しかし、内容は必ずしも軍事に関することのみに留まらず、「敵兵よりも知識において優れた人民(兵卒)を育成する」ことが重要であると、教育の重要性を指摘している。 また、「国法を定め、欧米諸国の国法と我が人民慣習の法とを斟酌し国法の條目を審議」する必要があるとし、法律制定の重要性についても指摘している。 この建白書は明治6年に提出されたもので、顕義が司法大輔に就任するのは翌年の明治7年。欧米の軍事制度を見聞した山田顕義だが、日本の将来を考えたとき、兵制軍事よりも教育法律の整備こそが急務であると感じたものである。 後に法律の世界へ身を転じ、一方で本学の前身である日本法律学校の設立に深く関与した山田顕義の後半生には、この欧米歴訪という経験が重要な部分を占めているといっても過言ではない。