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ノート:弥生時代/過去ログ1

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過去ログ1 過去ログ2

いたずらと思われる書き込みについて

先ほど気が付いたのですが、いたずらと思われる記述(意味不明な記述で元記事をメチャクチャにしている)が多数見受けられますね。私では修正しきれないので、どなたかわかる方修正をお願い致します。--おが 2005年4月25日 (月) 05:18 (UTC)

渡来系弥生人について

渡来系弥生人のルーツについての研究「日本人はるかな旅展」 があるので、リンクを追加しました。のぶしょう 2005年12月31日 (土) 02:43 (UTC)

リバートについて

2006年4月21日 (金) 00:00 (UTC) に行ったリバートについて、要約欄には「everted edit of 219.96.230.139, changed back to last version by 219.96.230.139」と記しましたが、「Reverted edit of 219.96.230.139, changed back to last version by 202.228.203.34」の誤りです。申し訳ありません。Tomika 2006年4月21日 (金) 00:12 (UTC)

いくつか気になったことを・・・

 冒頭で弥生の地域性に言及がありますが、その下部で詳細に論じられているように、北海道とともに南島も地域範囲から除外した方がよいかと思います。  「概要」部ですが、定住は縄文時代中期までにはすでに確立していますので、水稲農耕の採用による生産性の増大と定住を関連させる記述は適切ではないかと思います。貧富の差の出現と拡大については、むしろ生産物である「米」が蓄積可能な富として機能したことによるとの理解が一般的ではないでしょうか。  「時代区分」部ですが、前期の前に「早期」をおくことが最近の通説となっています。土器は刻目突帯文と総称されるもので、従来は縄文時代晩期後半に位置づけられていましたが、水稲農耕の採用や環濠集落の出現などがすでにこの時点で北部九州を中心とする西日本一帯に確認されることから、この段階を弥生時代の範囲に含めるという変更が定義され、近年では西日本の多くの弥生時代研究者に受け入れられている状況です。  「人々の生活」項ですが、木製農具の実用性については低湿地帯において十分に立証されています。祭祀用という考えは一般的ではないと思います。  貯蔵形態ですが、高床式倉庫は確かに弥生時代早期から存在しますが一部の集落に限られ、一般的ではありません。むしろ袋状貯蔵穴と呼ばれるフラスコ状の形態をした貯蔵用の竪穴が前期から中期前半までを通じて一般的であり、中期後半以降これが高床式倉庫へと移行します。  弥生土器は確かに一般的に装飾が少ないと言われますが、北部九州を除く地域では器壁の装飾は縄文時代とかわらないほど展開する時期もあり、なかなか難しいところです。これについては積極的に修正をお願いする程の意見ではありませんが、若干気になったもので・・・。 「環濠集落と高地性集落」の項で取り上げられた、15本の石鏃が胸部付近から発見された例ですが、これらの石鏃は胸部付近に副葬されたものだとか、祭祀的行為で射込んだものだとかいう異論も多く、難しいところです。実際、15本もの石鏃が通常の先頭でひとりの人物の胸部に集中して突き刺さるとは考えがたく、戦いの犠牲者とするには難しいようにも思います。そのほか、石鏃や石剣の切先が墓から出土する例は北部九州を中心に数多くみられますが、これが切先副葬という埋葬行為の一環と考える学者も多く、定説化してはいません。ただし、人骨に切先が突き刺さったり受傷した人骨は縄文時代よりはずっとも多くみられ、このことから縄文時代よりも頻繁な戦いの存在をみることは十分可能でしょう。このあたりの状況を盛り込んでもらえればより正確な記述になるかもしれません。  高地性集落の機能については昨今集中的に学会が開催されており、戦闘よりもむしろ交易や生業の一環といった方向でとらえ直されつつあるようです。ただし、未だ十分に定説化している状況ではなく、現状では本文のような記載でも十分かもしれません。 「中国との通交」項にある渡来系弥生人の出自については、確かにDNAの分析によって戦国時代以前の中国北東部(山東半島付近)との類似性が言われるようになりましたが、朝鮮半島南部の弥生時代後期併行期(原三国時代)の人骨との類似性はそれより以前より主張されています。土器や石器など渡来人がもたらした文物に直接的に中国大陸との関連性をみることは出来ず、直接の渡来元は朝鮮半島南部であったのは疑いないところです。山東半島の人骨との類似性は、より大きな集団の動きの流れの中でとらえ(春秋戦国期の戦乱などを主因として朝鮮半島方面へと流出するなど)、その一部として日本列島への渡来人が朝鮮半島南部からという理解が正当と考えられます。

 以上やや細かい点に終始しましたが、寛容な心で検討いただければ幸いです。

以上の署名のないコメントは、 2006年7月31日 (月) 11:08 おじゃ (ノート | 投稿記録) 氏によって付記されたものです。--yamato 2006年8月1日 (火) 09:28 (UTC)

おじゃさんの非常に建設的な書き込みを大変嬉しく思います。正直申し上げますと、ウィキペディア日本語版はいまだ発展途上にありまして、おじゃさん以上に弥生時代に関して知識を有しているウィキペディアンは皆無と言っても過言ではなかろうかと拝察しておるところでございます。
自分はウィキペディア日本語版を読み続けて2年を超えているのですが、おそらくおじゃさんほど弥生時代に関して高い見識を持ったウィキペディアンはまずおられないのではないか、と感じております。ですので、おじゃさん自ら本項目弥生時代をご編集なさるのが最も良いのではないかと愚考する次第です。ウィキペディアの良いところは、誰でも編集できるという点です。おじゃさんのご執筆・ご編集でしたら自分は大歓迎です(悲しいかな、自分は弥生時代に疎いのでおじゃさんのご指摘にかなうような修正を施すことができません。)。きっと他のウィキペディアンの方々も思いは同じであろうと思います。ぜひとも、おじゃさん御自らご修正頂けますでしょうか。欲を申しますと、他の弥生時代関連の項目につきましてもご加筆・ご執筆頂ければ大変嬉しいです。よろしくご検討をお願いいたします。--shimoxx 2006年8月1日 (火) 12:45 (UTC)
御返事がありませんねえ。自分の思うことだけ書いて、御返事がないというのは礼儀に反すると思うのですが、どうでしょうか?--yamato 2006年8月6日 (日) 12:04 (UTC)
いえいえ、ここwikipediaは自分の意思で自主的・主体的に編集していく場ですから、自分としては礼儀に反することだとはとても思えません。要は百科事典としてのwikipediaを充実していくことが大切な訳ですから、礼儀ウンヌンなんて二の次以下のことであって、おじゃさんのご指摘を如何に項目本文に反映するかが、現時点で最も重要なことだと拝察いたします。一番良いのはおじゃさん自らご執筆なさることですが、それが望めないのであればその他の有志のウィキペディアンが勉強して、おじゃさんのご指摘にかなう編集をすればよいだけのことですよね?てなわけで--shimoxx 2006年8月6日 (日) 12:48 (UTC)
初心者の飛び入りに対しとても暖かく迎えていただいたにもかかわらず、忙しさにかまけてその後の再訪問もせず、書き散らしたままとなっておりました無礼を深くお詫びいたします。編集等については札付きの初心者ですからまずは編集する上での方法論や方針、マナー等の学習から入らねばと思うと敷居がますます高くなってしまい、怖じ気づいているようなところもありますが、少しずつではあれ参加させていただこうと考えております。長い目で見守っていただければ幸いです。--おじゃ 2006年8月17日 (木) 15:27 (UTC)
試しに若干の変更を行ってみました。ルール違反等お気づきの点ありましたらご指摘ください。今後とも宜しくお願いいたします。--おじゃ 2006年8月17日 (木) 15:50 (UTC)

歴博の修正年代について

歴博が最近提出した炭素14年代測定法についてですが、九大、北大などの研究者から同じくC14年代法を利用した批判がいくつか提出されています。これまでの土器の一形式の時間幅の問題(北部九州の甕棺が中期以降は一形式が30年程度の時間幅があると考えられることから(副葬された漢式鏡から、中期後半以降はほぼ確実に甕棺の土器編年と歴年代の整合性がとれるため、それを根拠にして早~前期甕棺の一形式の時間幅を想定する)といった検証の難しい批判とはまた異なるアプローチであり、歴博の年代が早く出ることについての理由等の想定もなされていること(例えば海洋リザベーション効果など)から、一聴に値する批判と思われます。ウィキにおいては諸学説から中立であることが重要とあり、この点から、冒頭の記載(歴博の修正年代の立場に立つとの記載)については現段階ではペンディングする方がいいのではとの思いを持っています。この項目に関心を持っておられるみなさんはいかがお考えでしょうか。ご意見を伺いたく存じます。 --おじゃ 2006年8月18日 (金) 13:19 (UTC)

歴博とC14年代法とにリンクを張り、30は半角文字にしてみました。他の人の文章に手を入れることは、意見の改竄と受け取られる場合が多く、ブロック対象とされることが多いのですが。--Asuka 2006年8月19日 (土) 01:03 (UTC)
おじゃさんの言われる「冒頭の記載(歴博の修正年代の立場に立つとの記載)」とは表(項目)の「以下の記事では、………論を述べる。」を指すのでしょうか?そうだとすれば、私も、誰もが自由に編集出来る百科事典なので、必ずしもある一定の立場で編集されるとは限りませんので、このような肩の張った文は要らないと考えます。--Asuka 2006年8月19日 (土) 02:03 (UTC)
修正・ご意見ありがとうございます。まだ十分に編集規則を理解していないためにご迷惑をお掛け致しました。よりよい投稿ができるよう今後も努力致しますので、間違い・ルール違反等有ればご指摘頂きますよう今後ともよろしくお願い致します。歴博の炭素14年代測定法を利用した新しい年代観の問題について、「時代区分」の項に少し書き足しを行いました。先日の提案ともリンクする部分があると考えますので、さらに皆さんのご意見を賜りたく存じます。よろしくお願いいたします。--おじゃ 2006年8月20日 (日) 06:40 (UTC)
お返事ありがとうございます。編集の仕方はそう気になさらなくともその内に憶えると思います。ただ、利用者名と日時を書き換えるのは、私もはっきりしないのですが、ルール違反(GFDL違反)になる可能性があります。そういう場合は、消去しない(書き換えない)で削除線、サンプルサンプル、を使うのがよいと思います。--Asuka 2006年8月21日 (月) 01:02 (UTC)
歴博の新たな見解の件、対応していただきありがとうございます。他になかなかご意見をいただけないのでどうしたものかと思っておりました。以下の文章中にある年代に関する記述も徐々に見直していこうと思っております。--おじゃ 2006年9月5日 (火) 12:28 (UTC)
おじゃさんのご指摘のとおり、歴博の年代には異論がかなりあると思います。今の記述だと、それがちょっとわかりにくいのではないでしょうか。もう少し具代的に、どんな異論があるか、明確にかいたほうがよいかと思います。たとえば、鉄器の使用開始年代が中国と同じ位になってしまう、といったことが発表当初、批判としていわれていた記憶がありますが。--たろう

(2018-01-08現在) 注15で参照された歴博「弥生時代の開始年代 - AMS年代測定法の現状と可能性」はリンク切れになっています。注12で参照されている文献も同じものでしょう。注2で参照されている藤尾ほか(2005)の文献にそれに相当する内容があるようなので、そちらを参照するように書きかえればよいと思います。ただし記述の詳しいところを文献にあわせて修正する必要があるかもしれません。残念ながらわたしがその作業をすることは約束できません。--Masudako会話2018年1月7日 (日) 17:03 (UTC)

国立歴史民族博物館は、2014年の論文で炭素年代測定法で弥生時代の年代が500年遡ったのは土器に付着した海産物(塩分のための)による海洋リザーバーのためであり、あやまりであったことを認めています。

あたかも博物館の意見がわが国の考古学を代表しているかのような弥生時代の書き込みは訂正の必要がある。博物館の意見に従うと、わが国の弥生遺跡に出土した鉄器が中国より先行することになってしまいます。


遺跡の土器に付着した炭化物を測定する場合、その土器が食品の調理や貯蔵に用いられた際に海水に由来する塩分を使用された場合、浸透した海産物の影響で年代が古く推定されることがわかっており、海洋リザーバー効果と呼ばれている。

以下を参照ください。[1]。--Nakagawa会話2018年5月28日 (日) 17:03 (UTC)

脚注

  1. ^ 弥生移行期における土器 使用状況からみた生業 - 国立歴史民俗博物館 国立歴史民俗博物館研究報告 第185集 2014年2月 p283-347

政治-環濠集落と高地性集落-について

最近の学界の論調をもとに若干書き換えをしてみました。おかしいところがあれば訂正・加筆等お願いいたします。なお、ログイン期間を越えて自動ログアウトしている(らしい)のに気づかず投稿しましたが、投稿者は「おじゃ」です。失礼しました。--おじゃ 2006年9月2日 (土) 12:22 (UTC)

名称について

以前時期の混乱ではないかということで一度削除された部分ですが、実際に最近の学会では、弥生という名称のもととなった一群の土器が現在の土器編年上は実は古墳時代初頭(布留式併行)に位置するのではないかという意見が多数派を占めるようになっているようですので、以前の文章をもとに若干表記を変えて再録しました。短い文で正確に表現するのは難しく、いい表現にはなってないですから、どなたか書き足していただければうれしいです。--おじゃ 2006年9月5日 (火) 12:28 (UTC)

高地性集落の学説部分について

yoshinoさんから、高地性集落の項について学説が多いのではという指摘がありました。確かに、この部分は1970年代の学説史から記述をしています。ただ、倭国大乱と高地性集落の関係をいまだに直結させようとする一般の方ののHPがすごく多いような気がして、この誤解は正す必要があるのではと考えてあえてこのような記述を行ってみた次第です。辞書には学説史は必要ない(あるいは少なくとも多く記述すべきではない)という考え方もあると思います。また、もう中期の高地性集落と倭国大乱を結びつける人はいない(少ない)から、このような記述は必要ないという見方もあるかと思います。そうであれば、学説史の部分については削除した方がよければその方向で検討したいと思いますが、yoshino様、皆様、いかがお考えでしょうか。ご意見をお聞かせください。--おじゃ 2006年9月25日 (月) 12:42 (UTC)

稲作について

紀元前約3500年前から → 約3500年前から

修正お願いします。

--125.215.110.93 2008年7月22日 (火) 19:08 (UTC)

併せて「弥生時代は、水稲耕作による稲作の技術をもつ集団が列島外から北部九州に移住することによって始まった」という記述の仕方は、昭和教科書的な歴史描写で、弥生人が稲作の手法を日本列島へ持ち込んだものである、九州へ持ち込まれたものである、という前提と先入観を持たせる描き方と考えます。発掘されているものから、このような記述はすでにふさわしくないと考えます。-218.110.114.138 2010年2月13日 (土) 11:06 (UTC)

Richeaglenobleによるコピペ

Richeaglenobleさん:まず編集合戦はどうかやめてください。ここでも英語版でも、あなたは編集内容要約でコミュニケーションをとろうとしているようですが、これはウィキペディアであまり好まれていないので、付け加えようとした内容が取り消されたときはノートページで話し合うようにしましょう。

(ここにあった著作権侵害の疑われる記載を除去 --eien20会話2017年9月15日 (金) 23:22 (UTC))

あなたは要約でこれを「引用」とお呼びになりましたが、記事で引用であることを明記していませんでした。(私から頼まれてからも明記しませんでした。)出典からそのままコピペしたもの以外、出典で検証できない独自研究もの(「ミトコンドリアDNA塩基配列が一致する」が「DNAが一致する」になったなど)と、格助詞を少し変えたり削除ミス(取大学、作農業)をしたり動詞を受身形に変更したりした数ヶ所しかありません。あなたが投稿した文章で、記事からコピペされなかった言葉がほとんどなく、その上、記事からコピペしてここに転載しなかった記事の内容もほとんどありません。上に引用した「明らかになったもの。」と「今回の発見で」の間の文だけですが、これはなぜ"引用"しなかったかというとたぶんあなたが載せたかった独自研究と食い違っているからです。

あなたに、著作権について調べて(特にWP:COPYVIO#引用の扱いをよく読んで)、今までのことが悪かったことを認めてから編集活動を進めることをお勧めします。私はここで(英語版と違って)あなたの投稿をもう一度取り消すことができるのですが、代わりにご自信で取り消させてみます。数日経ってもご返事がなければWikipedia:著作権問題にて報告いたします。

Hijiri88会話2017年9月15日 (金) 13:10 (UTC)

著作権なんか全然侵害してないし、あなたが中国系の外国人なんですから日本語がうまくないだけですよ。誤解はもうやめてほしいっすね。Richeaglenoble会話2017年9月15日 (金) 18:10 (UTC)
私が英語版ウィキペディアで何度もあなたに教えたとおり、中国系でなくて、カトリック系のアイルランド人(ゲール民族)二人の間に生まれたアイルランド人で、中国とは何の関係もありません。あなたの投稿は明らかに著作権を侵害しているので、そろそろ報告しましょう。 Hijiri88会話2017年9月15日 (金) 20:52 (UTC)

韓国との通交について

何度も無言で差し戻しをされるのでノートに書きますが、‎Kamiya1さんはこの出典のどこに「韓国とも通交があった」旨書かれているか、説明してもらえませんか。わたしが読む限りこの記事は遺伝、混血具合を研究したもので、「韓国との通交」については書かれていません。このような意味合いで、要約欄に記入した上で編集を取り消しましたが、‎Kamiya1さんは無言でこれらを差し戻し続けています。

また、利用者‐会話:Kamiya1も参照してください。‎Kamiya1さんの編集は半保護を破る目的で作られたと断言できるアカウントであり、それはこの上記の節における、Richeaglenobleさんが取った方法と酷似しています(即ち、4日ほどアカウントを寝かしたあと、会話ページで10回ほど無意味な編集を繰り返すもの)。--Aoioui. 2018年2月13日 (火) 13:06 (UTC)

大量渡来説と炭素年代法

埴原は、人口学の推計によれば弥生時代から古墳時代にかけて一般の農耕社会の人口増加率では説明できない急激な人口増加が起きていることから、この間、100万人規模の渡来人の流入があったはずだとする大量渡来説も提唱していた。

とありますが、この説は1991年であり、その後、1996年頃より、炭素年代法で、弥生時代は大幅に開始年代が早くなっています。これを明瞭に記載する必要があると考えています。植原の計算の骨格が崩れてしまっているからです。

この点をきちんと説明する必要があります。

新たに追加する必要があるのは、次です。

しかし、1996年頃より、炭素年代法と、年輪年代法により、弥生時代の開始時期が大幅に、早くなった。古い弥生時代の開始時期よりも数百年弥生時代の開始時期が早くなっているため、植原の仮説、計算は根拠を失っている。

以上です。 --240F:73:24B3:1:E88F:8E81:27B8:F807 2020年10月12日 (月) 16:19 (UTC)

文献の追加です。、大量にありますが。 手短には、例えば、 春成秀爾 見直しがすすむ弥生時代  「科 学」 Jan. 2008 岩波書店 https://www.iwanami.co.jp/kagaku/harunari0801.pdf --240F:73:24B3:1:E88F:8E81:27B8:F807 2020年10月12日 (月) 17:21 (

半保護が良く分かりません

以下を追加したい。私が弥生土器に書き込んだものです。 弥生時代の位置付けには、書き加える価値はあると考えています。 一応、項目だけを書き加えておきます。内容は、しばらくしてから書きます。 問題があるなら、消去してください。

朝鮮半島での弥生土器の大量出土と交易の確立

縄文土器と同様、弥生土器も朝鮮半島南部で発掘されている。初期には、金海地域を中心に出土し、交易がおこなわれていた事が解る。

前期後半から増え、特に中期、朝鮮半島、勒島では大量の弥生土器が見いだされ倭人が交易に出かけた様子がうかがえる。これは、勒島と壱岐の原ノ辻との間に集約され確立された交易ルートである。原の辻では、無文土器も出土している。弥生時代後期、勒島の弥生土器は減り、金海地区との交易に移った。[1][2]--列島会話2021年4月19日 (月) 21:27 (UTC)

なお、この時期、弁韓の鉄鉱山の発掘現場からも弥生土器が発見され、倭人が弁韓の鉄を採ると言う魏志倭人伝の記述が検証された。この鉄鉱石採掘場は、周りが周囲から閉鎖された場所であり、その中から弥生土器が発見された。必要があれば、倭人は朝鮮半島の内陸部にまで出かけて鉱山開発に直接携わっていた事が解る。

稲作遺伝子の割合 ノートの記述は明確に誤り

https://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000116_all.html 稲のたどってきた道 静岡大学農学部助教授  佐藤 洋一郎 氏 これで、遺伝子の割合が解ります。 朝鮮半島に無く、日本にあるイネの遺伝子は、大陸では、6割に達します。 記述が誤っています。 著書では、他の遺伝子の割合もあります。日本の2大遺伝子の内、大陸の遺伝子の序列は、やはり1,2位を占めています。 ページの説明は明確に誤りです。

参考 佐藤洋一郎の著書  稲の来た道--列島会話2021年4月19日 (月) 22:20 (UTC)

脚注

  1. ^ 勒島貿易と原の辻貿易 -粘土帯土器・三韓土器・楽浪土器からみた弥生時代の交易-白井克也 http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2001a.html
  2. ^ 石丸あゆみ朝鮮半島出土弥生系土器から復元する日韓交渉file:///C:/Users/user/Downloads/kouko2503%20(3).pdf

弥生時代 編集中ですので、書き込み、修正に問題があるのは理解しています。

以下は、弥生時代の修正で、ある方から、指摘(正当な指摘)があり、私、列島の返答です。何らかの時、助けになるかと考え、私の解答だけを、こちらにもコピーしました。

本文

もう少し、待ってください。 ご指摘のカ所は、以前の版に明らかな間違いがあったので、取りあえず修正しました。

稲の伝来は、過半が大陸から直接来たとしても、考古学の多くの資料は、半島由来を示しています。しかし、この大量の考古学の資料も、問題があります。

どう扱ってい良いか解りません。その為、抉り入り片刃石斧を、反論できない証拠として、稲のDNAと対比させる形で出しました。

あまり論じると独自研究になりますし、苦慮しています。

ただ、私の前の版には、要出典や要ページ数を貼り付けられておられない。ちょっと疑問です。

とにかくもう少しお待ちください。 お願いします。

集落とか、欠けがあり問題です。--列島会話2021年4月20日 (火) 23:57 (UTC)


注 指摘された事に対する、私の回答(上)への返信があり、それへの私のさらなる回答が以下です。

コメントありがとうございます。了解しました。つっけんどんで突っかかって申し訳ありません。
私が弥生時代に手を入れ出したのは、基本は次の2点です。
1.稲の遺伝子についての記載が明確に誤りである。
2.項目が分かれていず、時代区分から、いきなり炭素年代法が出て来るなど、混乱し、読む気が起きない。
この2点です。
私は、史料は過去に読みましたが、現在は大量の書物の山に埋もれ、探す事が出来ません。従って、本来手を出してはいけないのですが、少しは読みやすくできるかと考えて修正を行っておりました。
改良される方がおられれば、私の出る幕は無く、これで、基本終わりにします。
後は、お任せしたいと考えております。
無責任なようですが、私が独自に書いた部分はあまりなく、その関連は、責任があります。本をひっくり返すのも面倒(いい加減)なので、コロナが収束するワクチン接種があらかた終わる、秋に図書館に行き、該当箇所にページを書き加えます。予定、いい加減で申し訳ありません。
墓制や集落の構造や、環濠集落の構造など、改良点は多くある、まだまだよくなるとは思っております。
しかし、一応これで手を引きます。****さんの、さんづけですみません、改良を期待しております。
どうもいい加減な性格で、すみません。
ご指摘の方法で、ある程度まとまってから、書き込むようにいたします。まあ、1年位先でしょうが。年寄で、その時にまだ生きているか、
丁寧なご指摘、ありがとうございました。
失礼いたします。--列島会話2021年4月21日 (水) 09:02 (UTC)

--列島会話) 2021年4月21日 (水) 23:37 (UTC) --列島会話2021年4月21日 (水) 23:45 (UTC)

利用者サンドボックスは登録利用者用の拡張機能の一つです。ページ上部の個人用ツールバーの「下書き」からリンクされています。登録利用者一人に一つ、専用サンドボックスが用意されており、利用者ページと同様、比較的自由に使うことができます。--列島会話2021年4月22日 (木) 17:03 (UTC)

文献もなく不完全ですが、一応書き込みます。自由に消去、編集してください。

数日して書き込みます。これと、墓制について書き込めば終わりです。 縄文時代、詳しく書き込み、編成されていますので、それを期待しております。 断片的に追加しましたが、私も一定の構想があり、これを完結させます。

環濠集落と社会

弥生後期から、特に弥生中期大規模な環濠集落が発展した。 以下、環濠集落のあり様を、小規模を含め見て見る。

環濠集落の構造

大きさとあり様

発掘遺跡の住居跡の戸数が数十戸と多くても、同時代での生活を共にする戸数は少なく、2~3戸であたり10戸に満たない事が多い。 水田の近くに、住居跡がみられるのが普通で、静岡の登呂遺跡では、水田のそばの土手に、水田に平行に住居が並んで建てられていた。これらも環濠集落として構成され、周りに溝と土手が設けられた。[要出典]

クニの首都としての環濠集落

これは小規模な例だが、大規模な環濠集落も多くあった。特に前期末から特に中期以後、大規模な構造を持ち、地域の中心と見られる環濠集落が発展した。それは、小さいながらも、次第に発展していくクニの首都の役割を果たしていた。[要出典]

大規模環濠集落の構造と階層の分化

集会所か、宗教儀礼所の役割を果たす、大きな建物が、環濠集落の中心にあり、また、金属器や石器や玉類の手工業者の作業跡が集まる場所も環濠集落内にあった。この様な環濠集落が、北九州では見つかっている。そこでの墓所には、大量の鏡や玉類が見つかる例があり、そこには、王に相当する地位にある者が埋葬されていた。[要出典]

女性首長

この埋葬物から、ネックレスなどの装飾品が多くある場合、この墓制の主は女性であると推定されている。

同一社会からか首長の支配へ

この様に階層分化が進んでいた。そして、やがてふたつの大きな変化が尾と付れる。 首長の館の出現と、墓が大きな塚となり、一般の覇かとは別の場所に移る事である。これが古墳、特に前方後円墳の前兆となる。[要出典]

首長の館も環濠集落を出て、周りに溝を巡らし、柵を設けて、独立して行った。--列島会話2021年4月22日 (木) 19:20 (UTC)


墓についての追加

外部施設 支石墓など

縄文時代の支石墓

支石墓は朝鮮半島の墓制で、弥生の開始の前に、九州の北西にまず出現している。この支石墓の主は、漁撈者か、畑作を行う人々と考えられている。

この時代よりさらに遡って、漁業は、朝鮮半島中南部から九州を中心とした西日本にかけて大型の魚を取る漁具が共通して見られている。この様に、大型魚の漁業は縄文時代から発達していた。

この漁具は、縄文時代の初期に、日本の中部地方で発見されているが、それ以後見つからず、やがて朝鮮半島で多く見いだされ、それに続いて九州にも多く出現するようになった。

いずれにせよ、朝鮮半島から西日本からなる、漁業圏があったか、漁業の技術の交流があったとされている。この漁業者が、支石墓を取り入れたと推定されている。その理由は、朝鮮半島に由来する支石墓だが、その内部に縄文時代の特徴的に甕棺が収められていたからである。[要出典]

弥生時代の支石墓の広がり --列島会話2021年4月23日 (金) 06:45 (UTC)非常に不十分だが、これ以上追加するか不明です。

要出典もなくいきなり消された 聖今上氏の行為

聖今上氏の書き込み履歴を見ましたが、文献の一方的な解釈が多い様です。

特に、要出典もなく、いきなり消すなどの行為は目に余ります。

この聖今上氏は、5月から書きだし、ブロックされた人のなり替わりかと判断しています。 私はこれ以上、調べられません。調べられる能力のある方がこれを見られたら、申し訳ありませんが、調べていただ事を願います。

書き込みの詳細は、別の機会に行います。

出典を明記し、一方的に消されたものを復元し、さらに文献に基づき、追加しました。 --列島会話2021年5月15日 (土) 06:05 (UTC)


お手数ですが、出来れば、調べていただきたい。 書換の一覧(1週間か2週間後)を待っていただいてからでも、もちろん、かまいません。

聖今上氏(テコンドー?聖なる今は上?氏)のノートにも書き込む予定です。

語句を、修正しました。--列島会話2021年5月15日 (土) 06:12 (UTC)

縄文土器は朝鮮半島では一つも発掘されていない 聖今上氏  無茶苦茶、何とかして

聖今上 会話 投稿記録‎ 99,668バイト −411‎ 縄文土器は発掘されていない。また出典がない内容は削除。


  • 聖今上氏の書き込み
稲の品種が日本の稲の40%を占め、朝鮮半島由来は60%を占めていた。佐藤洋一郎は少なくとも稲の40%は中国南部由来じゃないかと主張している[1][2]。しかし、佐藤洋一郎によって中国中南部に由来する稲は確認されたがその稲の収穫に必要な中国式道具は全く発掘されていない。発見されたのは半島式の磨製石斧だけである。


  • 知らずに、調べもせずに書くのか、
1.抉入片刃石斧、だけが、朝鮮半島固有で、他は、大陸と朝鮮半島で、同じであり、区別できず、共通している。両方ある。山東半島から農具、水田技術が朝鮮半島に伝わったのだから、朝鮮半島と、山東半島で、共通します。当然でしょう。
推定ですが、聖今上氏は、何も知らず、読まず、抉入片刃石斧をここ、もしくは弥生土器で知り、すべての農具が朝鮮半島と主張した、しかし、朝鮮半島固有は、抉入片刃石斧だけです。元文献を読んでいない。読んでいれば、農具のすべてが朝鮮半島から来たと断言できない事が解ります。


調べもせずに書くのか。


農具が、朝鮮半島由来とできる理由はどこにもないのです。山東半島、朝鮮半島、どちらから日本に来たか解らない。(抉入片刃石斧だけは、朝鮮半島由来と確定できる。)


2.40%は朝鮮半島には無い稲です。残りの稲は、山東半島に存在し、それが朝鮮半島に渡った。従って、60%が、朝鮮半島由来とする理由は皆無です。残り60%は山東半島、朝鮮半島のどちらの可能性もある、当然の話です。これを、聖今上氏は、すべて朝鮮半島由来と主張する。あり得ません。


  • 以上から解る事。
  • 聖今上氏は、文献を読んでいない
1.縄文土器が朝鮮半島で発見される例は、多くの文献にある。数え切れない。しかし、記憶でしか無いので、ネット上で見られる例を最後の部分に挙げました。
2.こう言う、無茶苦茶なあり得ない事を、書く(独自解釈)のに対応するのは、時間の無駄です。
1.稲の遺伝子の60%は朝鮮半島から来た(40%は大陸にしかない。他は大陸と朝鮮半島に共通であるのに)山東半島から直接日本に来た可能性もあります、2.農具の由来(すべて朝鮮半島と主張、しかし、朝鮮半島独自は、抉入片刃石斧だけです。他は、すべて山東半島から朝鮮半島に伝わるか、北回りで朝鮮半島に伝わっています。朝鮮半島独自とする根拠は、どこにも無いのです。山東半島から日本に直接来た可能性もある)、3.縄文土器が朝鮮半島で一切出土していない。(東三洞遺跡では、縄文時代各期の縄文土器が出土します)


文献の例  韓国系の雑誌社での講演会の報道    東洋経済新報社 (創刊以来、在日社会の発展を目指しています。) <韓国文化>古代朝鮮と日本との交流 ――西谷正・九州大学教授  (朝鮮奨学会「古代史シンポジウム」から)[3]

対馬の縄文時代遺跡の出土遺物を見ると、その中にごく微量ながら櫛目文土器が含まれていたり、対馬には生息せず朝鮮に生息していたキバノロの牙製装身具が出土したりする。

 一方、朝鮮東南部の櫛目文土器文化の代表的遺跡として知られる釜山市の東三洞遺跡では、縄文時代各期の縄文土器が出土するばかりか、西北九州産の黒曜石およびその製品である石鏃(やじり)などが共伴している。また、朝鮮の南海岸地域にあたる欲知島では、縄文時代早期末の九州の轟式土器のほか、朝鮮で初めて縄文時代によく見る石匙(さじ)が出土している。

 これらの諸事実は、両地域の人々の間で何らかの交流が行われていたことを物語ってくれる。

ただし、その後、西谷は、考古学的には、弥生時代の稲作は、朝鮮半島由来と述べている。

  •  こう言う聖今上氏の書き込みに対応するのはかなわない。何とかしてほしい。

--列島会話2021年5月15日 (土) 08:05 (UTC)

脚注

  1. ^ 佐藤洋一郎 稲の来た道  日本古代史つれづれブログhttps://aomatsu123.blog.fc2.com/blog-entry-208.html
  2. ^ 佐藤洋一郎 稲の来た道  日本古代史つれづれブログhttps://aomatsu123.blog.fc2.com/blog-entry-208.html
  3. ^ http://www.toyo-keizai.co.jp/news/culture/2000/post_3605.php

ネット索引を追加--列島会話2021年5月15日 (土) 08:28 (UTC)

聖今上氏 無茶苦茶、5月から開始、なりすましと考えられます。こんな事を書いて、追放されないわけがない。そう考えています。

追放されたとしても、

追放後、再度書くのに、私は反対しません。きちんとルール通りにすれば。--列島会話) 2021年5月15日 (土) 08:28 (UTC)修正 再度修正--列島会話2021年5月15日 (土) 11:02 (UTC)


鉄の朝鮮半島と日本での開始に差はない

聖今上氏にあまりの偏向ぶりに、ちょっと書き過ぎた点があります。上がその一例です。

1.鉄の朝鮮半島と日本での開始に差はない

韓国の学者が、書いているのですから、現状では、正しいのでしょうが。

2.在日社会の発展を目指していますも、韓国系の雑誌ですから、あえて、挙げたのです。

事実を曲げていると思われては、編集合戦になりますから。あえて、在日の発展を目指す、書き込みました。

チョット精神的に耐えられない。事実になぜ向き合えない。

議論は歓迎だが、事実を曲げる、耐えられません。


--列島会話) 2021年5月15日 (土) 11:15 (UTC) --列島会話2021年5月15日 (土) 11:17 (UTC)修正


分析の必要は無いでしょう、以後、説明なく修正します。説明していては、何倍も手間がかかります。他の部分への書きこもも同様にします

この遺伝子解析で、中国中南部に由来する稲の品種が日本の稲の40%を占め、朝鮮半島由来は60%を占めていた。佐藤洋一郎は少なくとも稲の40%は中国南部由来じゃないかと主張している[1][2]。しかし、佐藤洋一郎によって中国中南部に由来する稲は確認されたがその稲の収穫に必要な中国式道具は全く発掘されていない。発見されたのは半島式の磨製石斧だけである。


編集合戦になった場合、その時考えます。

--列島会話2021年5月15日 (土) 11:27 (UTC)

脚注

  1. ^ 佐藤洋一郎 稲の来た道  日本古代史つれづれブログhttps://aomatsu123.blog.fc2.com/blog-entry-208.html
  2. ^ 佐藤洋一郎 稲の来た道  日本古代史つれづれブログhttps://aomatsu123.blog.fc2.com/blog-entry-208.html

稲の伝来は、書き過ぎか、あまりの書き様に、筆が滑ったかもしれません。

少し間をあけて、冷静が戻ったら、文献を含め、書き直します。

とにかく話にならない。--列島会話2021年5月15日 (土) 13:09 (UTC)


ウィキペディアは宣伝の場ではない。

聖今上氏の記述


無文土器に影響を受けた土器は日本各地に発掘されているが弥生土器も朝鮮半島南部で発掘されている。


交易を示唆する、無文土器は、対馬などでごく少数、発掘されている。これが事実である。これだけ、

要は、交易に伴う土器の移動が問題で、また、それに伴う、土器の形をまねた土器の出土だけが問題になる。先の聖今上氏の、記述は、交易に関わる土器には何の関係もない。全国に朝鮮半島の人間が交易に出かけて来たのか。そのような文献は無い。皆無、


聖今上氏の記述は、単なる宣伝としか言いようが無い、先に述べたような、誤解を招く記述は尋常ではない。文献に根拠を持たない独自研究だろう。



--列島会話2021年5月15日 (土) 13:31 (UTC)

修正--列島会話2021年5月15日 (土) 13:34 (UTC)


文献を調べて、内容を曲げずに、書かれよ。

私も、少し、書き過ぎか、しかし、すべて文献を基礎にしている。 しかし、書き直す必要がある。 今までも、書きすぎを自覚しつつ書き、その後、修正した。

メモ帳で、十分練るべきだったが、あまりの曲げように、アドバイスを忘れていました。 アドバイスを頂いた方には、申し訳ない。 失礼します。

--列島会話2021年5月15日 (土) 13:41 (UTC)


太字を増やした。 --列島会話2021年5月15日 (土) 17:59 (UTC)

私はブロックされた人ではありませんが、あなたは多重アカウントの不正使用していませんか?在日社会とか青鬼なんとかさんが良く言ってましたけど。私が要請するのでお互い調査してもらいましょう。むしろ出典はない、見たいものだけみる、事実を曲げているのはあなたではないですか。--聖今上会話2021年5月15日 (土) 21:07 (UTC)


 努力が一切ない、文献を一切調べない、具体的な指摘とその基礎となる文献が一切ない、あるのは独断だけ   あり得ない、ウィキペヂアに参加の資格があるのか 

とにかく、具体的に指摘をし、それを基に、議論を進める。それが無い。

私の書き込みの、1/20でしょう、あり得ません。


文献も調べず、勝手な憶測をする、中国南東部と朝鮮半島が共通するものを、すべて朝鮮半島だけにする。信じられん。

文献も多く上げ、ページ数を示しました。問題あるなら、まず、当該箇所に、要出典とつけるのが筋です。

そう言う努力、手続きが一切ない。私がどれだけ時間を割いたか、文献を調べたか。

ありえません。


議論できないと言う事です。自分の願望だけで、社会を動かすのか。きちんと自分の手で調べ、文献に書いてあることを、尊重し(両方解釈できるときは、それを書く、当然の義務です)、読者にそれを示す。

それが無ければ、単なるプロパガンダです。


要は、信頼に足らない。もし自分は信頼に足る人間なら、それを示したいなら、きちんと文献を自ら調べ、その文献を必要なだけ読み、妥当な(反対の立場でも認める)判断をして、そして行動する。

それがあなたには無い。そう言う点が、あなたには、認められない。いちいち指摘しています。大変な手間です。そう言う手間をかけさせるなど、あり得ない。


私は、あなたに何を言っても無駄と判断しています。

もし、言う価値があるなら、それなりの努力の跡が見られるはずです。あなたは、非難だけ、憶測だけ、願望だけ、それ以外の論拠は無い。


とにかく、なぜ問題か、問題点を指摘し、その基礎となる文献も指摘して、さらに要出典とする、それが一切ない。

読んでいると、ほとんど歴史学の、考古学上の知識がない、そう思わざるを得ない。その点は、指摘しました。


基本となる筋書きの文献は私は示しました。一つだけ、後で書くとしましたが、重要な論点ではなかったはずです。記憶にすぎませんンが、

私は、過去にウィキペヂアで、その文献を指摘しています。だから後で捕捉すると書いたのです。


とにかく、一切努力の跡が無い。



仮にも、一般の人の目にさらされるものです。それを調べもせず、自分の願望を描くのか(具体的に指摘しています)。あり得ない行為です。


どうしてそう言う行為をするのか。信じられない。


そう言う行為は、自分の願望で人を自分の好きにする行為です。その人を、基礎の無い世界に追い込む。追い込むほうは気持ちがいいかもしれない。 しかし、許されるのか。許されはしません。

きちんとした基礎があれば、人を動かすのは構わない。しかし、基礎無く自分の願望で、人を動かすのは許されない。

なぜこれが理解できないのか。


ーーーー


在日は、経済新報社の書いたものをそのまま引用しました。まずかったかもしれません。

経済新報社は、韓国北朝鮮系と書き込みを見て思った。それで、韓国の学者の書いたものと同時に、その根拠としました。

それでも、まずかったのかもしれません。しかし、あくまで、韓国の学者などと同様、立脚点を示しただけです。それでも問題だったかもしれません。


ーーーー


いずれにしろ、具体的な点をひとつづつ詰めて行くしかない。

具体的に指摘してください。


そして、根拠なく、私の書いたものを消去されたのですから、ページを元に戻してください。文献が不足なら、要文献を貼って下さい。

それが、ウィキペヂアに参加する、義務です。自分の願望の場では、ウィキペディアはありません。その点をお忘れなく。


私がこれだけ努力しているのだから、あなたも努力してください

努力できないなら、書き込んだり、消去するのはやめて、参加を取りやめてください。

あり得ません。


自分の願望で、人を動かさないでください。


どれだけ迷惑しているか。


--列島会話2021年5月15日 (土) 22:43 (UTC)

私を侮辱してますよね?あなたが言った文献を読みましたが中国南東の内容は乗っていません。ブログにも書かれておりません。--聖今上会話2021年5月15日 (土) 23:27 (UTC)
報告 ご連絡をいただいたので、私の会話ページの方で返信いたしました。議論の流れを追えるよう、一応こちらでもご報告しておきます。--Jutha DDA会話2021年5月16日 (日) 01:56 (UTC)


3ヶ月経っても、修正が無い、他の人に修正を依頼したが、意図的な誤記は放置されたまま

私が修正を依頼した人は修正していただけない様です。 3ヶ月経ちました、仕方が無いので、修正しました。 なぜ放置するのか、理解できません。

--列島会話2021年8月8日 (日) 02:02 (UTC)

書き込みの場所が、時間順序と違っていたので、移動。--列島会話2021年8月8日 (日) 02:07 (UTC)

 交易と鉄の項目の詳細を復活と消去 文献が挙げられているのに消す根拠が無い 

1.文献が挙げられているのに消す根拠が無い

2.消去  *交易と鉄の項目で、弥生土器の成立を書くのは、宣伝にしか過ぎない。従って、消去する。

朝鮮半島を起源とした突帯文土器は九州から西日本に発掘されている。[58][59]朝鮮の土器が北部九州など西日本で盛んに見いだされていて、弥生土器の成立にあたって,朝鮮半島の無文土器からの影響が認められている。[60]

3.高地性集落が交易と言う根拠となる文献は多数あるが、1例を挙げ、元に戻す。   寺沢薫 王権誕生 --列島会話2021年8月8日 (日) 10:02 (UTC)

この人物については、弥生土器のノートに書いております。参照していただきたい

1.誰かのなりすましと考えられます。

  そう考える根拠も書きました。

2.ウィキペディアを自分の願望、宣伝の場と考えています。

3.文献を挙げても、自分の主張に合わなければ消す。

4.異なる事を一緒くたにして、印象操作する。断定の文様に変える。

などです。

3ヵ月、様子を見ましたが、指摘の改善(何人かに頼みました)はありませんでした。仕方がありません。

--列島会話2021年8月8日 (日) 11:52 (UTC)

中断した加筆の再開

一気に完全には書けません。ある見解を書き、次にその逆の見解を書く、こうして、百科事典的な記事にしていきます。

このやり方は、前にも書きました。(縄文土器などで、また、この弥生時代でも)

人に影響されず自分のやり方で書く、それしかありません。

無茶苦茶をやる、人もいるのか、そう思いました。 --列島会話2021年8月9日 (月) 12:30 (UTC)

その後の変更の概要

  • 最新前 2021年5月6日 (木) 15:18‎ 聖今上 会話 投稿記録‎ 99,668バイト −411‎ 縄文土器は発掘されていない。また出典がない内容は削除。 取り消し感謝 タグ: ビジュアルエディター
  1. なお、この時期、弁韓の鉄鉱山の発掘現場からも弥生土器が発見され、倭人が弁韓の鉄を採ると言う魏志倭人伝の記述が検証された。この鉄鉱石採掘場は、周りが周囲から閉鎖された場所であり、その中から弥生土器が発見された。必要があれば、倭人は朝鮮半島の内陸部にまで出かけて鉱山開発に直接携わっていた事が解る。→完全消去
  2. 縄文土器と同様、弥生土器も朝鮮半島南部で発掘されている。初期には、金海地域を中心に出土し、交易がおこなわれていた事が解る。→無文土器に影響を受けた土器は日本各地に発掘されているが弥生土器も朝鮮半島南部で発掘されている。初期には、金海地域を中心に出土し、交易がおこなわれていた事が解る。交易に関係しない土器についての記述は宣伝、プロパガンダ
  3. 中国との通交は渡来系弥生人に遡ることができる。近年、DNAの研究が進み、渡来系弥生人の多くは中国大陸の長江流域、江南地方から来たと言われている[1]。更に遡ると現在の中国の青海省付近にまで遡ることができるという調査結果がある[2]。→渡来系弥生人の一部は中国大陸の長江流域、江南地方から来たと言われている
  4. 縄文人とは違った人間が朝鮮半島を経由してやってきて、縄文人と混血して弥生人になったと考えた[3]。→、縄文人とは違った人間が朝鮮半島からやってきて、縄文人と混血して弥生人になったと考えた[4]この人物の願望に基づく、文献の改竄、限りが無い。文献皆無、文献を挙げても、気に入らないと完全削除

脚注

  1. ^ 中国江南・江淮の古人骨-渡来系弥生人の原郷をたずねる-山口 敏・中嶋孝博 2007年
  2. ^ 日本人のルーツと Iron Road の接点を求めて
  3. ^ 金関の渡来説”. 九州大学総合研究博物館. 2013年4月19日閲覧。
  4. ^ 金関の渡来説”. 九州大学総合研究博物館. 2013年4月19日閲覧。

まだあります。--列島会話2021年8月11日 (水) 04:43 (UTC)

  • 独自研究と誹謗、差別主義の発言はやめてください。偏った情報で日本と中国だけの影響を誇張して、ある特定の国を嫌う行為はご遠慮ください。他の利用者も検討可能な出典をお願いします。ネットのブログは個人の意見も書いており、出典に適当ではないと思います。--聖今上会話2021年8月30日 (月) 14:15 (UTC)
    論文や書籍には個人の意見が書かれていないのでしょうか?--真田 悠希会話2022年12月15日 (木) 13:14 (UTC)

「稲作文化の発生と展開」の項目について

「水稲稲作の伝来」と、「朝鮮半島経由説(考古学)と大陸から直接由来した説(文化人類学、農学)」は言及対象がほぼ同じであるため、項目の統合を行いたいのですがいかが思われますか。--真田 悠希会話2022年11月23日 (水) 13:07 (UTC)

統合しました。--真田 悠希会話2022年12月4日 (日) 10:03 (UTC)

日本列島における水稲の広まりの項目について

読んでいて思ったのですが、これは少し細かく分け過ぎではないでしょうか。

というのも、稲作の西日本、東日本への波及という項目のもとにある西日本への波及東日本への波及と東北地方東北地方などはここまで細かく項目として分けて書かなくとも、接続語で表せばそれで済む話です。

また、同様の理由から却って読みにくくなっているように感じます。

よって、これらの項目を一つの項目へと統合するべきであると提案します。

加えて、これらの項目だけにとどまらず、本校全体で「分けすぎ」の傾向があるように感じます。

記事の改善のため今後それらの議論も行いたいと考えています。--真田 悠希会話2022年12月4日 (日) 10:02 (UTC)

とりあえず、稲作関連の項目を整理しました。--真田 悠希会話2022年12月8日 (木) 03:31 (UTC)
記事全体を整理しました。
だいぶ読みやすくなったのではないでしょうか。--真田 悠希会話2022年12月15日 (木) 13:09 (UTC)

新川和江の「私を束ねないで」

"新川和江の「私を束ねないで」と言うの一節に「秋 大地が胸を焦がす 見渡すかぎりのの稲穂」[1]とあるが、長らく日本人の想像するイネとは水田に植えられた一面の温帯ジャポニカであった。"

と書いてありますが、の一節は考古学科とまったく関係がありません。もともと存在していた出典には全く書かれていないあなたの独自研究内容を追加するのはやめましょう。検証可能性のない出典と独自研究はやめろって言っています。--Acaunto会話2023年1月29日 (日) 05:03 (UTC)

書名に出版社、本によってはISBNまで書いてるのに検証できませんか。--真田 悠希会話2023年1月29日 (日) 13:50 (UTC)
あと弥生時代の研究が考古学によってのみなされているというのも問題だし、そもそも間違った記述かどうかはwikipediaに書くかどうかの基準ではないし、あなたは本の検証をしてないし、一切の議論も許さず勝手に他の人も巻き込んでずいぶんと前の版に無理やり戻すのも身勝手極まりないし、命令形だし、あなたの読解はずいぶんと恣意的だし、こちらの繰り返しの忠告や提言にも耳を傾けず常に自らの意見のみが正しいと思い込んでるし、あなたは一体全体どれから改善していってくれるんですか?--真田 悠希会話2023年1月29日 (日) 13:59 (UTC)
「長らく日本人の想像するイネとは」の「長らく」がいつであるかにもよると思います。それが弥生時代より後の日本人のことなら、この記事に書いてもしょうがないのではないでしょうか。これは(後の時代の)日本人についての記事ではないので。尚、「読者は弥生時代というと……と想像するかもしれない」というように、ただ言い換えても解決にはならないと思います。「弥生時代についての一般的イメージ」というような内容を、多数の文献に依拠して書くことはできるかもしれません(これは該当するようなイメージを描写している文学作品を多数例示するということではなく、文学研究者が一連の作品にそのようなイメージが読み取れると言っている文献が適切です)。 --2001:240:242A:79AB:4537:EA7E:A92F:60D4 2023年2月11日 (土) 07:34 (UTC)
いえ、問題の記述は、一般的に日本人が「弥生時代の農業の様子として、一面に水稲耕作のための水田が一面に広がっている」と思いこんでいた、ということを示した記述です。
ここに言う日本人は、一般人だけでなく、研究者をも含めています。
彼らさえもその先入観にとらわれていたため、正しい弥生時代の歴史を説明できていなかった、というのが「稲の日本史」の主張であり、「食生活の歴史」も似たようなことを述べています。
大半の読者は、未だ「弥生時代の農業の様子として、一面に水稲耕作のための水田が一面に広がっている」と考えています。ですから、「実は、カクカクシカジカだと考えられていたのですが」と先に述べておくことで、読者の理解を促進することができます。--真田 悠希会話2023年2月12日 (日) 09:43 (UTC)
予断ですがこのような現代人の先入観による誤解は他にもあります。
古代日本の交易の範囲についてです。
実は、現在の中部で産出された鉱石が現ロシアのアムール川付近で出土しています。
これはたった一例に過ぎませんが、色々実例を調べて検証してみると、古代人は我々現代人が想像するより凄まじく広大な範囲を移動していたことがわかります。
これもそのうち記述できたらと思います。--真田 悠希会話2023年2月13日 (月) 00:52 (UTC)
現代人の想像について記載しようとすることは結構ですが、そのために使う資料が新川和江の「私を束ねないで」と河合敦、フリーハンドの『マンガでわかる日本史』だけでは不十分ではないかということです。新川氏の作品を出典として新川氏の作品を紹介することは一次資料そのものですし、河合氏の当該マンガ作品は百科事典で参考文献に載せるものとしては率直に言って不適だと思います。「弥生時代」という主題については、多くの資料が存在します。その中で個々の記述に対して最良の出典を探そうとするべきです。初心者に分かりやすい啓蒙書を挙げるにしても、権威や普及度の点でもっとよいものがあるのではないでしょうか。文学研究者の考察を探してみてはどうか、というのも、上記2点を置き換える、または補充する資料となると考えられるからです。よい出典が見つからなければ、見つかるまで書かないという選択肢もあります。 --106.154.156.145 2023年2月21日 (火) 01:39 (UTC)

歴博の研究成果に基づく弥生時代開始年代遡及の記述の可否について

たしかに、歴博による発表は非常に衝撃的で、これまでの学説を一変させるものでありました。

しかし、こういった発見を幾度も繰り返して発展していくのが学問であり、真実であると思います。

ですから、弥生時代#炭素同位体法による年代の革新は科学史として記述するべき、すなわち弥生時代#認識と定義の変遷に移動するべきだと思います。--真田 悠希会話2023年2月8日 (水) 13:34 (UTC)

  1. ^ 新川和江『わたしを束ねないで』童話屋、1997年9月23日。ISBN 978-4924684959