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ノート:新世界訳聖書/過去ログ

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情報 当ページは〈Wikipedia:削除依頼/ものみの塔の出版物関連その1〉による2006年(平成18年)11月24日のページ削除以前の旧記事「新世界訳聖書」のノートページ《ノート:新世界訳聖書》の過去ログです。--Yumoriy会話2024年11月16日 (土) 13:54 (UTC)

用語について

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やはり、一般的には、「神の名」ではなく「神名」だとおもうのですが。--Allways Minority 13:17 2004年5月7日 (UTC)

私は自分のサイトでは「神名」を使っています。--宮原崇 06:06 2004年5月12日 (UTC)

反論サイトへの反論

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反論として以下のサイトが掲示してあった。

しかしこのサイトは以下の事実を無視している。 --以上の署名のないコメントは、61.22.157.95会話/Whois)さんが 2004-06-09 06:06:27 (UTC) に投稿したものです。

ヨハネの福音書8章58節にあるエゴ・エイミを I have been とするのは誤訳である。

  • いいえ。西暦4・5世紀のシリア語訳、5世紀のシリア語クレトニア写本、シリア語ペシタ訳、グルジア語訳、6世紀のエチオピア語訳なども同様に訳している。今日現存しているギリシャ語写本は、西暦1世紀のものと100%同一ではない。

--以上の署名のないコメントは、61.22.157.95会話/Whois)さんが 2004-06-09 06:46:43 (UTC) に投稿したものです。

あなた方が「父はわたしより偉大な方である」(ヨハネ14:28)をよく引用するのは、フイリピ2章6節から8節で述べられているイエスが、神と同等の立場ではなくなった時期について気付いていないからである。イエスが「父はわたしより偉大な方である」と言われたのは、自ら恥ずかしめられた状態におられた時である。そして、そうした卑しめられた状態は昇天の際に終ったのである。

  • イエスが昇天された後、使徒ペテロはイエスのことを「神の聖なる僕」と呼んでいる。(使徒3:26; 4:30)イエスによれば、「奴隷はその主人より偉くはない」。(ヨハネ13:16)
  • 使徒パウロも「キリストの頭は神である」とはっきり述べている。(1コリ11:3)前後の文脈から、男と女が同等の立場にいないのだから、キリストと神が同等の立場であるはずがない。
  • 「すべてのものが[キリスト]に服させられたその時には、み子自身も、すべてのものを自分に服させた方に服(する)のです。」(一コリ15:28)

--以上の署名のないコメントは、61.22.157.95会話/Whois)さんが 2004-06-09 06:14:52 (UTC) に投稿したものです。

ルカの福音書23章43節の「今日」のあとに読点(、)の位置をずらしている。[新世界]訳を除いて、ギリシャ語、ラテン語、ドイツ語、英語のいずれの聖書にもそのような例は当たらない。[エホバの証人]の「王国行間逐語訳」のギリシャ語にさえ、レゴ-(私は言います)の直後にコンマ(読点)がある。さらに、そこではあなた方も「今日あなたはわたしと共にパラダイスにいるでしょう」と訳している。

  • これはうそである。ロザハム・ラムサによる英訳、ラインハルトやW.ミヒャエーリスによるドイツ語訳、西暦5世紀のシリア語ペシタ訳なども「新世界訳」と同様に訳している。「王国行間逐語訳」にコンマを入れたのは、ギリシャ語公定文の著者ウェストコットとホートであって、ものみの塔協会ではない。1世紀のギリシャ語の原文には、コンマは用いられなかった。

--以上の署名のないコメントは、61.22.157.95会話/Whois)さんが 2004-06-09 06:46:43 (UTC) に投稿したものです。

記事名について

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2005-08-03に当記事は「新世界訳」⇒「新世界訳聖書」へ改名移動されました(特別:差分/2639074)。--Yumoriy会話

口語訳聖書文語訳聖書のこうもくには「聖書」とついているけど 新世界訳はつけなくっていいんでしょうか。--Allways Minority 2004年6月30日 (水) 06:32 (UTC)

つけた方が良さそうですね。--宮原崇 2004年7月6日 (火) 07:30 (UTC)

反論サイトの除去

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を関連サイトから除去しているIPの方がいますが、POVの観点からよろしくないのではないでしょうか。--Aphaia 2005年8月8日 (月) 22:51 (UTC)

関連サイトについて

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ここ数日、編集合戦が続いているようですので話し合いの場を持ちたいと思います。--宮原崇 2005年8月14日 (日) 16:19 (UTC)

エホバの証人に対する反対者の作成した新世界訳聖書を攻撃する文書が複数リンクされています。見たところ悪質な内容のものです。エホバの証人を攻撃するためには手段を選ばず嘘も平気であるという内容の文書を掲載するのはどうでしょうか。宗教に関する項目に反対者サイトのリンクをつけるときには、きちんとした批判を行っているサイトと、そうでないサイトとの区別をしたうえで、学術的に信頼できるものを選ぶべきでしょう。エホバの証人反対者の代表的なサイトについては各々についてある程度の評価が固まっています。Wikipediaとしては以下の要素に注目すべきだと思います。
  • そのサイトの運営者が正直者であるとの評価がある。
  • 自分の主張を述べるにあたって、相手(エホバの証人側)の考えや振る舞いを正しく公平に紹介している。
  • 次いで述べられる反対意見に学術的な価値がある。
  • 相手(エホバの証人)のことをよく知らない第三者に対して、執拗なまでに相手(エホバの証人)に対する誤解と偏見を植え込もうとしているなどの、嫌がらせの要素がない、純粋な批判論を展開している。
これらの諸条件にかなっているなら、掲載も許されるでしょう。--宮原崇 2005年8月14日 (日) 16:19 (UTC)
失礼ですが、宮原崇さんの編集はまだご自分の立場に都合のよいものをあげているように思います。エホバの証人自体を批判するサイト(これはこの記事にはあまりふさわしくないでしょう)を除き、とくに除去する理由は私にはみあたりませんでした。--Aphaia 2005年8月15日 (月) 10:59 (UTC)
ご意見ありがとうございます。私は自分の都合を優先させてはいません。私にとって都合が悪いものであっても、上記のような基準に照らして内容が正しく価値のあるものなら、Wikipediaにおいては取り上げてよいというのが私の意見です。私としてはいたって正常な基準を掲げたと思いますが、いかがでしょうか。上記4条件は私にとって都合がよくなるように調整された偏った基準なのでしょうか? --宮原崇 2005年8月15日 (月) 11:31 (UTC)
正直者であるとか悪意があるとか、嫌がらせとか、全部宮原氏の主観の問題でしょ。自分勝手な都合で編集しないでください。--以上の署名のないコメントは、221.171.125.73会話/Whois)さんが 2005-08-15 15:37:52 (UTC) に投稿したものです。
ご意見ありがとうございます。よろしければぜひお名前を記しください。私は主観と客観とをよくわきまえているつもりです。それは、私から見て間違っていることであっても、客観的に見れば一意見にすぎないものがあるということです。そういったものに対して私は異議を唱えませんから関連サイトとして掲載していただいてかまいません。先の繰り返しになりますが、私は自分の都合でものごとを進めようとしているのではありません。--宮原崇 2005年8月15日 (月) 16:59 (UTC)
IPの方、署名をお願いします。
正直であるとか悪意があるとかは主観の問題であるということに私も賛成です。そもそも解釈の問題であり、「正しい理解」ということをいうのは非常に困難であり、そこに悪意があるというような主観的なことをまじえるのは無理があります。
またいまの状態では「批判が非常に多い」という客観的な事実を隠蔽しようとしているようにも思います。
「上記のような基準」というのは、選別基準が宮原氏の考える「正直さ」などの一編集者の主観によるもので、Wikipediaにおける編集方針として妥当さを書くと考えました。ですので宮原さんが除去されたサイトをも含めて、復帰することを妥当だと考えます。--Aphaia 2005年8月17日 (水) 18:41 (UTC)
すいません、ID取得しました。
私もAphaia氏に賛成します。--Otsuka(仮) 2005年8月17日 (水) 18:55 (UTC)以上のコメントは、大塚(仮)会話投稿記録)さんが[2005-08-17 18:49:27 (UTC)]に投稿したものです。
ご意見ありがとうございます。私の考えでは、正直さに関することはだれかの主観を抜きに検討できることです。しかし、仮に私が主観においてなにかを間違いと決めつけ、他者がそう思わないのであれば、皆さんの反応はごもっともです。解釈の問題という指摘についても同様です。それで皆さんが、これは主観の問題であると指摘されるのでしたら、私はそれに従わなければなりません。私としては残念なことですが、私は自分が誠実な人間であるべきことを自負してきましたし、そうであれば、自分が正しいと確信している場合でも、異なる意見が多い時には譲ることが必要だと信じます。これについては自分のページの「メッセージ」に記入している通りですのでよろしければご参照ください。つきましては、この問題はAphaia氏の結論にゆだねるとして、数点、幾つかの誤解を解き、問題を防ぐために、私の弁明をこののちに記入することをお許しください。--宮原崇 2005年8月18日 (木) 05:32 (UTC)
正直さに関することは、語られる内容の正確さについて吟味を重ねることにより把握できます。たとえば、ここでのテーマである新世界訳聖書の場合、ある人が、聖書原典にある特定の語をないと主張したり、ない語をあると主張したり、一般的な訳語についてどの辞書にもそのような訳語は載っていないと主張したり、多くの聖書で採用されている訳文を新世界訳だけの特殊な訳文であると主張したりするなら、それは明らかに間違いです。私たちは聖書原典を参照したり辞書や聖書翻訳を幾つか調べたりすることによりその間違いを確認することができます。
こういった手法により、私たちは主観的な議論を避けながら物事を判断することができるようになります。私たちの社会には、そのような手法の最たるものとして司法制度が存在しています。司法とは、事実を扱うことを徹底することによって、主観的な議論を避けつつ、何が正しいかを判断する制度です。さらに、司法を補う裁判制度の存在によって、主観的な議論が提出されたときでも、その中から客観的な事実を選り抜いて、正しい判断を下すことができるようになっています。
司法や裁判の制度においては、正確な事実こそが議論の焦点となります。司法や裁判に携わる人は、ある主張が主観であるとか私的な意見であるとか利益誘導的であるというただそれだけの理由でそれを全面的に退けたりはしません。むしろ、その主張の正当性を吟味します。もし私が自分の勝手な都合に基づいて自分勝手な主張をしているように見えても、それを司法の手法で吟味して正当性が認められれば、それを認めるというのが司法のやり方です。
この世の中には、公平な議論を推し進めるためには主観的な議論や私的な意見を排除しなければならない、と考える人が多くいます。そういう人は利益誘導型の理論をひどく嫌うものです。その人は、そのような要素のあるあらゆる考えを退けてしまうことすらあります。これは情報を扱う一つの立派な手法ですが、未熟な手法でもあります。というのは、主観的な議論の中には主観であっても当然の認識であり、さらには正当であるものがあるからです。たとえてみましょう。もし私があなたに向かってつばを吐きかけ、馬鹿にされたとあなたが感じた場合、そう思うのはあなたの主観にほかなりません。では、そのような主張に正当性は全くないのでしょうか。そのような主張は検討するに値しないので無視すべきなのでしょうか。決してそうではありません。
さて、エホバの証人やその聖書を批判するサイトは多くあります。その中には、内容が正確であるサイトもあれば、ほとんどそうでないものもあります。そのようなサイトが多くあるのでしたら、私たちは積極的な考え方ができるのではないでしょうか。私たちはその中から信頼できるものを見つけ出すことができるでしょう。これをたとえてみましょう。インターネットには相対性理論に関するサイトが非常に多くあります。そして、相対性理論には反対論が多いことが知られています。さて、Wikipediaの相対性理論の項目に、相対論の支持者のサイトと反対サイトが多く掲載されているものの、どれも内容が間違いだらけのサイトであったら、どうでしょうか。そのリンクを掲載した編集者は相対性理論の素人であるに違いありません。その人は相対論についてのきちんとした知識を持っていないので、相対性理論を支持するもしくは批判するサイトをたくさん見ても、どれを掲載すべきかが分からず、とりあえず見た目が派手であるサイトを選んでしまいました。このような失態は、きっと、この分野についての充分な知識を持っている人から厳しく指摘され、修正されることでしょう。
このように、専門的な分野においては、その専門的な知識に通じていることが正しい判断に結びついていきます。たとえてみましょう。ロケットが上昇していくのがどのような原理によるのか正しく理解できていないという人は大勢います。その人は、両手で壁を押して体がのけぞるのとボールを投げて体がのけぞるのとは原理が違うということを、それが理解できるまで辛抱強く教わる必要があります。これが理解できない人は、この違いは観点の違いに過ぎないと思います。どちらも同じことを述べており、ただ説明が違うだけじゃないか、とその人は言うでしょう。
知識に通じていることは、主観を巡る議論の混乱から離れているための助けになります。しばしば、主観を巡る論争において議論をややこしくしているのは、相手が同じ議論でもって報いることです。それはあなたの主観でしょう、という指摘に対し、そういうあなたこそ主観でもの言っているではないか、と相手が応じると、議論はなかなかおさまらないものです。しかし、状況を把握し、事実を正しく認識するだけの知識があれば、その人はこのような混乱を避けることができます。そして、多くの場合、そのような人は、小学生のころから学校教育に熱心に応じてよい成績を修め、さらに大学教育のような高等な教育を受けて、専門的な分野に携わっている人です。そうでない人は、このような混乱から抜け出すことができないばかりか、その混乱の原因になるものです。--宮原崇 2005年8月25日 (木) 13:50 (UTC)
傍観しようと思いましたがいくつか。
  • 「批判が非常に多い」のか?
エホバの証人(ひどく広義で使っています。すみません)たちは、自らWebサイトを持って発信することは無い。なぜなら彼らはInternetが嘘や悪意、間違った情報が飛び交う場所であると教えられているし、だからこそ唯一としてのものみの塔聖書冊子教会のWebsiteのみをよりどころとしている。彼ら自身がInternetで発信しうる場所は公式ページだけであり、そのため反論のほうがInternet上では多くなる(なぜなら他のキリスト者、研究者は自由に発表するため)。
すなわち、Internet上で批判のほうが多いからといってそれは必ずしも現実を示すとは限らない。可能ならエホバの証人以外の立場にありながら、新世界訳を評価している(または批判しつつも「ココは評価できる」と言っている)サイトを併記すべきである(あれば、だが)。
  • 「そのサイトの運営者が正直者」であることは必要か。
Wikipediaは事実でないことは書いてはいけないし、またそのリンク先のサイトも(簡単かつ一部の誤謬やご認識を除いては)、事実が明記されたサイト、少なくとも意図的に曲解や嘘を載せたサイトでないことは必要とされるだろう。何が事実であるとするかについては、個別の問題なのでそのたびに論議すべきである。
  • 「参考サイトが偏っている」かどうか
参考サイトが一方の立場に偏っていることについては、問題が無い。Wikipedia:中立的な観点を参照されたい。可能な限り両論併記すべきだが、中立的な視点で見れば、私が前項で述べた『エホバの証人自身またはその擁護派がWeb上で発言をしない(公式サイトをのぞき)』が事実であるなら、参考サイトが偏るのは如何しようも無いことになる。
ここで事前情報の無い閲覧者が「ああ、否定するサイトは多いのに肯定するサイトは少ない。これは新世界訳が偽訳であるんだな」といった錯覚をさせてしまうことこそが、最も防ぐべき事態である。・・・この解決には、「エホバの証人側はあまりサイトを作り自説をInternet上に載せることが薦められていない」といった注釈を加えるだけでよいのではないだろうか?
注意(上記の「エホバの証人は、ネット上で発言するな、ネット上の意見は欺瞞に満ちていて、信頼しうるのは公式サイトのみである」というのは、実際に私の家にいらしたエホバの証人の方から聞いたことです。これがエホバの証人全体として中央から言われていることなのかについては、確信がもてません。ちなみに私の立場について明確にするなら、エホバの証人の方と何度かお会いし、彼の家に行き話をしたこともあり、彼にとって私は研究生であり、なおかつ私自身はエホバの証人にひどく懐疑的な立場であることも追記しておきます) --haco 2005年8月25日 (木) 17:39 (UTC)
「エホバの証人側はあまりサイトを作り自説をInternet上に載せることが薦められていない」といった注釈を加えるだけでよい
必要ないでしょう、Wikipediaは百科事典であって、エホバの証人を擁護するための宣伝機関ではありません。--以上の署名のないコメントは、168.12.253.66会話/Whois)さんが 2005-09-05 18:03:36 (UTC) に投稿したものです。

同意します。Hacoさんの意見はいかに「擁護するか」という観点からのものにみえます。なお、新世界訳の恣意的な訳あるいは訳の上での問題(わたしは一応ギリシア語も少しは読めます)について本文で記載が十分でない以上、リンク集は必須ともいえると思います。名詞の訳の選び方、冠詞や時制の恣意的な訳は、ギリシア語の訓練を多少なりとも受けた人間からすると論評しようもないくらいのレベルなので、批判が多いというのは当然だと思います。なおヘブライ語は知りませんので断定しませんが、押して知るべしとは思っています。なお、本文には「英語から他の訳に重訳すること」の問題も触れられていないので、その点でもいまの記述は問題があるとおもっています。--Aphaia 2005年9月5日 (月) 18:11 (UTC)

Aphaiaさんの言うように、無意識に、公平であろうとする一方でエホバの証人を擁護しかけていたかもしれません。留意します。新世界訳が聖書の訳として適当でなく、それゆえに批判が多いという状況に対し絶えがたい証人側が提供しうる最大限の主張は「自説の掲載が進められていない」と主張したのみです。私はギリシア語を読めませんし、また証人が底本にしたものが適当だったのか判断を下すことはできません。ただ、そもそもこれは外部リンクに対する論議だったのではないでしょうか?私は「リンクが一方に偏るのは問題は無い」と発言しているのですが(これは宮原氏が「エホバの証人を攻撃するため嘘を記載したサイトがリンクされている」とはまったく立場が違います)、それがいけないのでしょうか?重複して発言しますが、匿名で書かれた「証人を擁護するための~」の発言はもっともだと思います。その発言すべてで私は「擁護している」と見られたのでしょうか。
非常に単純に述べますね。私はリンクが現状維持で十分だと思います。理由は8/25の発言のとおりです。ついでにその発言の「証人側はあまりサイト上やInternetなどで~」の部分は、訂正させていただきます。--以上の署名のないコメントは、DirectHack会話投稿記録)さんが 2005-09-06 22:32:26 (UTC) に投稿したものです。
ご説明ありがとうございます。なおノートページには署名をみなさまお願いします。複数の方が匿名で議論に参加されていると、論旨が混乱します。--Aphaia 2005年9月7日 (水) 03:23 (UTC)
さて、リンクに話を戻しますと、私も現状のままでかまわないと思います(今後リンクが増えるかどうかはここでは考えない)。あからさまにでっちあげというものはないように思います。もちろんサイト作者の人が誤解している可能性はありますが、それはすべてのサイトにいえることです。現状で載っているサイトで削る必要があるものがあるとは、考えません。
批判色の強いものと、そうでないものを分けて乗せることはこれだけ多くあると有用かもしれませんが、それはまだいまの話題ではないですね。
Hacoさんが最初に提案された但し書きについては以下の点で不必要だと考えました。
  • 掲載時に存在しているサイトが載せられているということは当たり前のことで、「あるものをのせている」ことをわざわざ書くことは冗長である。
  • 現在作成中の免責事項では「リンクしている外部サイトをWikipediaが支持・保障しているわけではない」とあるので、それで十分である。
  • さらに、そうした記述をあえてすることで、読者に予断を与える可能性もある。擁護や宣伝サイトならともかく、ここに書くことは不要。エホバの証人のなかに、説明としてそういう節があることはかまわないが、ここの問題とは直接しない。
ですので、いまあるリストから削る必要はないと思います。再編成や追加は有用かと思いますが。--Aphaia 2005年9月7日 (水) 03:41 (UTC)

保護しました

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外部リンクについて編集合戦の様相をみせていますので、保護をしました。合意の形成をお願いします。--しるふぃおはなし|おもいで 2005年8月15日 (月) 04:44 (UTC)

一部記述の削除

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こうした批判が「エホバの証人の発行」というだけで行われている可能性もある

少なくても私が聞いた限りでは、「エホバの証人が発行しているというだけの理由」で批判されている例は存じません。

考古学的に「十字架」ではなく「杭」で良いのではないかとする意見がある

この議論に関しては、十字架苦しみの杭といった項目で行うのが適当と思います。以上の点について不適当と思いましたので差し戻しいたします。 --O^tsuka 2006年2月25日 (土) 15:04 (UTC)