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ノート:新世界訳聖書/過去ログ2

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新世界訳聖書の日本語版について

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編集の報告:日本語、細かい点、三位一体論争 20100210

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  • 日本語が不自然なところや細かい点を修正しています。三位一体の論争については項目を分割し、外部リンクを参照しなくてもある程度内容が判るようにしました。あともうすこし言葉の使い方を修正する予定です。複数IPでややこしいですがよろしくお願いいたします。--58.89.94.74 2010年2月10日 (水) 11:30 (UTC)

資料等

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編集のための資料(これまでの編集内容についての書き溜め)です

  • 発行元はものみの塔聖書冊子協会か[1]
    • 基本的にものみの塔聖書冊子協会ですが、他の法人からも出ているようなので、「発行元はものみの塔聖書冊子協会」と書くとまずそうです。--宮原崇 2010年2月14日 (日) 10:31 (UTC)
  • ルカ10:42についてのエホバの証人の公式見解[2]
    • Wikipediaに掲載された内容は以下の通りでしたが
      • ものみの塔誌上で自身の翻訳の手落ちが一つ指摘されていた。ルカ伝10章42節、1960年代のボドメル・パピルスの読みを参照できなかったので最新の翻訳ではなく1881年版の翻訳である事実を注意されているが最古の読みは「必要なのは一つだけ」と言うキリストの言葉を翻訳出来なかったそうである。
    • 該当する記述はものみの塔1990年5月1日号にあります。テキストは二通りあってそのどちらかが正しいとしても云々、というのが見解でした。また、新世界訳聖書では一方を訳文に採用し、もう一方は脚注に載せたとも述べています。これを手落ちと言うことは難しいでしょう。--宮原崇 2010年2月14日 (日) 10:31 (UTC)
  • エホバの証人とその新世界訳聖書はキリストの神性を否定しているか[3]
    • 「エホバの証人は三位一体論を否定するが、それでもキリストの神性を否定することまではしていない」というのが厳密な表現です。--宮原崇 2010年2月14日 (日) 11:05 (UTC)
      • とはいえ、ここでの難点は、キリストの神性とは何であるかを厳密に定義することはWikipediaの仕事ではない、ということでしょう。神性については、Wikipediaとしての定まった見解を述べるようなことは避け、両論併記という形にして済ませてしまうのが無難なのでしょう。[4] --宮原崇 2010年2月17日 (水) 11:15 (UTC)

新世界訳聖書はエホバの証人による翻訳か

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  • 新世界訳聖書はエホバの証人による翻訳か[5]
    • 新世界訳聖書がエホバの証人による翻訳であることは周知の事実ですが、これを「証明困難であるから云々」という意見がノートに提出されています。
    • これについては、「“エホバの証人”による翻訳である」と「エホバの証人による“翻訳”である」という2点に分けたうえで、証明となる事実のみを指摘します。
      • 新世界訳聖書が“エホバの証人による”翻訳であること。
        • ものみの塔聖書冊子協会によって、翻訳者はすべてエホバの証人であるがその名は公表しないとされていますが、さすがにこれを秘匿しておくことは困難であり、ある程度そのメンバーが知られています。特に重要な資料は、レイモンド・フランズという、一時エホバの証人の統治体のメンバーであったが棄教し批評家に転じた方が著した「良心の危機」という手記で、これに、翻訳にあたったメンバーの名前が列挙されています。この事実は批評家たちにもほぼ全面的に受け入れられており、日本においても、例えば中澤啓介氏など著名な批評家によって多数言及されています。これについて疑問の声はありません。
        • 和文新世界訳聖書についてもほぼ同様で、翻訳者の名前が挙がっており、やはり棄教して批評家に転じた金沢司氏がその著書、通称「金沢文庫」でなにげに暴露していたりします。これについても異論はありません。
      • 新世界訳聖書がエホバの証人による“翻訳”であること。これは新世界訳聖書が第二言語で記述されていることからしても自明ですが、ノートの発言により明確な根拠が求められる事態となっています。
        • 1つめの根拠として、ものみの塔聖書冊子協会によって初版の訳稿の写真が公表されていることを挙げることができます。この写真はたとえば「2001エホバの証人のカレンダー」で見ることができます。これを見ると、聖書原典のテキストをタイプ打ちしたものの下に訳文が記載されていることがわかります。これは翻訳が実際に行われた強力な根拠であると言うことができるでしょう。
        • 2つめの根拠として、新世界訳聖書の初版を挙げることができます。これには豊富に脚注がつけられており、例えば「この訳語訳文はこのように訳すこともできた」というような、翻訳に伴ってつけられた注記が大量に掲載されています。この注記には新世界訳聖書のオリジナリティが強く出ており、翻訳の作業が確かに行われたことの根拠であると言うことができるでしょう。
        • 3つめの根拠として、王国行間逐語訳聖書の存在を挙げることができます。これは上述の新世界訳聖書の訳稿を本にして出版したもので、聖書原典のテキストの単語の一つ一つに訳語がつけられていますので、新世界訳聖書が確かに翻訳されたものであるということだけでなく、訳業がかなり丁寧になされているということ、できあがった訳本が原典に対してかなり逐語的であるということの根拠ともなります。

--宮原崇 2010年9月26日 (日) 15:12 (UTC)

翻訳について

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編集合戦のため主ページは2010-09-02に1カ月間の全保護となりました(特別:差分/33799728)。次節《#2010年9月の編集合戦に伴う保護》も参照。--Yumoriy会話

エホバの証人による「翻訳」は彼らが単に「翻訳」と称しているに過ぎない可能性は本文でも再三指摘されています。
そちらを削除せずに、「『翻訳』と称する」という部分のみをリバートされるIPユーザー氏の意図がわかりかねます。
くわえて言えば、なぜ本聖書をフロッピー版で出版したという画像まで差し戻されるのかも理解不能であります。

上記の趣旨による私の編集を「悪意」「偏見」「中立的観点にもとる」といったエホバの証人にあるまじき邪気に満ちた表現で差し戻されるのは闘争精神というほかありません。 件のIPユーザー氏からの返答なき場合は、私の編集内容が基準となると考えます --ZIPs 2010年9月2日 (木) 05:21 (UTC)

全保護されてしまいました…。とりあえず私の編集箇所の問題点についての意見を承ります --ZIPs 2010年9月2日 (木) 05:42 (UTC)
コメント ZIPsさんの編集を差し戻していたIPは全てOpenProxyとしてブロックされています。--125.197.131.237 2010年9月2日 (木) 07:19 (UTC)

2010年9月の編集合戦に伴う保護

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今回の保護は、ZIPsによる同一内容の編集とその差し戻しが繰り返されたことによるものです。

履歴はこちら[6]
編集内容とその差し戻しの比較はこちら[7]

この件についてはすでにZIPs他による書き込みがありますが、これらは整理されて末尾のほうに移動していますのでご承知置きください。

今回の諸問題を解決するために主に判断を要する件は以下の通りとなります。この欄の末尾にて意見と投票をよろしくお願いいたします。

A1) 新世界訳聖書は「a)エホバの証人による翻訳」かそれとも「b)エホバの証人が翻訳したと“称する”翻訳」か。
これについては、事実が前者であることが明らかですので、おそらく、投票の必要はないでしょう。
A2) フロッピー版の写真の掲載は妥当か。
写真を載せるにあたってどうしてフロッピー版なんかを持ってくるのかという点が焦点になります。

さらに雑多な件は以下の通りとなります。

B1) 矛盾についてのZIPsの主張は真実であるか。
B2) 妥協が成立したとするZIPsの主張は真実であるか。
B3) ZIPsの編集は中立を装った偏見であるとの主張は真実であるか。

さらにこの事件に伴ってこのノートにて提起された件は以下の通りとなります。

C1) ZIPsの主張は真実であるか。『エホバの証人による「翻訳」は彼らが単に「翻訳」と称しているに過ぎない可能性は本文でも再三指摘されています。』
これについては、本文がそのようなことを全く扱っていないことは疑いようもない事実ですので、おそらく、投票の必要はないでしょう。
C2) 『「悪意」「偏見」「中立的観点にもとる」といった表現がエホバの証人にあるまじき邪気に満ちた表現である』とするZIPsの主張は真実であるか。
答えは明らかであるように思いますが……(それ以前の問題もあるようですので扱いに困ります。)

--91.143.81.170 2010年9月2日 (木) 12:19 (UTC)

以下はコメント欄です。--91.143.81.170 2010年9月2日 (木) 12:19 (UTC)

オープンプロクシから、順を無視した当ノートへの書き込みが続くため、時系列順への記載へ整え、また対話者を特定するため、半保護。--Los688 2010年9月2日 (木) 13:59 (UTC)

論点は二つですね。①「と称する」と挿入すべきか②フロッピー版の写真を掲載するか
①に関して、私はそれが「真実であるから前提」かという検証の困難な命題は問題にしておりません。 それが中立的であるかを問題にしております。彼らの「翻訳」が意訳どころか翻案を越えているという可能性は記事で大きく扱われており、十分に両論併記の対象となっております(例えば一部には…という声もある程度の記述でしたら「と称する」を挿入するのは不自然でしょう)。
②フロッピー版の写真は英語版でも掲載されております。私は特段それがFunnyなものだとは思いません。むしろ非常にuniqueだからこそ英語版などでも掲載されているのではないでしょうか。逆に英語版の冒頭に掲載されている製本されたものの表紙のほうが凡庸であり、そちらは掲載する必要を感じませんでした。
③その他 貴方を信者と決めつけた「邪気に満ちた」などの表現はあきらかに言いすぎでした。これについては謝罪し、撤回いたします --ZIPs 2010年9月2日 (木) 15:39 (UTC)

2013年3月の編集について

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2013年3月28日に主ページ冒頭へ〈Template:独自研究〉警告が設置されました(特別:差分/47006347)。また3月30日に「#外部リンク」節の個人ウェブサイトの除去が合意されました(特別:差分/47003985特別:差分/47043804)。次節《#2013年4月のコメント依頼について》も参照。--Yumoriy会話

これは荒らしではないかと思います。他の項目でも同様の編集を発見していますので見つけ次第リバートしています。 また編集者に対してはログインしたうえでこのノートにて発言するよう呼びかけています。

まず、「エホバの証人やその側を持つ一部の学者たちが新世界訳聖書を優れた字義訳の聖書であると高く評価する一方」、この文から「たち」を省いています。そのうえで、「伝統的諸教会からは、特に三位一体論にかかわる箇所においてエホバの証人の教理に沿った恣意的な訳文が見られるとの指摘が提出されており、「新世界訳聖書はエホバの証人の教理に合わせて改竄された偽物の聖書である」との声も強い。」を「伝統的諸教会からは、特に三位一体論にかかわる箇所においてエホバの証人の教理に沿った恣意的な訳文が見られ、「新世界訳聖書はエホバの証人の教理に合わせて改竄された偽物の聖書である」とされる。」とやや断定的に書き換えています。ここから、Wikipediaとしての許容の範囲内でエホバの証人にとって有意といえる記述をなるべく削減してしまおうとする意図が見られます。
さらに大きく削除された部分が2か所、リンクが1件削除されています。これは履歴をご覧ください。これらについても同様だと思われます。編集内容の要約欄にての「独自研究」という主張については、削除部分はこの項目分野における代表的知見であって出典も示されている、編集者は出典ごと記述を削除している、というのが答えになります。「個人の宣伝」との主張については、リンクされているサイトの趣旨と内容がリンクとして掲載するに妥当である、というのが答えになります。リンクの掲載についてはこのノート(移動したものも含む)の過去の議論を踏まえて以下のような点を承知してください。内容が不正確であったり、客観性のない一方的な内容のサイトは掲載に不適切、一方、正確で客観性がありこの分野において代表的なサイトであるなら掲載可能。

  • 正確さと客観性の観点から見て掲載にふさわしい内容の例 [8]

--宮原崇会話2013年3月28日 (木) 04:52 (UTC)

個人による研究サイトが外部リンクされていましたので整理、客観性のあるサイトへ差し替え。(投稿者のページに「新世界訳に自分の研究サイトをリンクとして追加」との記載あり)
--Biblenavi会話2013年3月28日 (木) 14:10 (UTC)

今回のあなたの編集内容と弁明を見て、私としては相当に悪意を感じます。とはいえ、今回はあえて憤慨を差し置いて冷静に説得したいと思います。 さて今回Biblenavi氏は以下のサイトを消去し……

……代わって「客観性のあるサイトへ差し替え」と称して以下のサイトを掲載しました。

そこで、二つのサイトについて、同一の項目を並べたいと思います。Biblenaviさんにはこれを一つ一つ比べていただいて、客観的かつ正確に情報を提供しているのはどちらか確認していただきたいと思います。 以下の全項目について個別に回答してください。このリストは、「ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書」を基準に、リストの前から、内容のややこしいものやあいまいなものは省いて順番に5つ上げたものです。 なお、Biblenaviさんがこの要請に誠実に応じられない場合には、それなりの処置があるものと思ってください。あなたはすでにこちら [9] にて、執拗な誹謗中傷を理由に最終警告を受けています。

以上が済みましたら、なぜあなたの編集が悪意あるものであるのか、あなた自身で説明していただけないでしょうか。そのうえで謝罪も必要かと思います。 あと、余裕がありましたら、ノートの過去の議論を読んでいただけないでしょうか。あなたのやった同じことは過去において既に問題になっています。

  • 以下のようなことが述べられています。新世界訳聖書を攻撃するために、たとえば聖書原典のある単語について「辞書を引いても新世界訳聖書の用いるような意味は載っていない」と言ったりするような、専門知識がある人がすこし調べれば簡単にうそと見抜けるが素人にはそれができないので効果的、という手法を繰り返し用いているサイトがあります。そのようなサイトはWikipediaから除外されるべきです。

--宮原崇会話2013年3月28日 (木) 16:02 (UTC)

再度差し戻しを受けましたので、テンプレートを付加いたしました。(編集合戦はお互いにいやでしょう)
「論争」の節を再度読みましたが、中立性の問題(エホバの証人側の意見のみ)ありますので、落ち着いた後に加筆いたします。
個人的に、新世界訳聖書にたいし、憎悪を持っているわけではございません。個人的には9割以上の完成度はあろうかと思っています(エホバの証人の方はもう少しこの完成度が低くはない聖書を読まれたほうがいいと思っています)。論争はその残りの1割以下の部分に対してなされるべきでありますが、当該節はその中間あたりのグレーなラインを狙っているようにも思えます。
さらに、それに対するリンクがご自身で作られたウェブページですのでいかがなものかと。
加筆の際は一般的に手に入る書籍を参照しながら編集できればと考えております。
--Biblenavi会話2013年3月28日 (木) 20:40 (UTC)
やむを得ないと判断し、Biblenaviのブロック申請を行いました。
以降は投稿ブロック依頼 2013年3月にてよろしくおねがいいたします。--宮原崇会話2013年3月29日 (金) 17:31 (UTC)

ブロック依頼提出後

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Biblenavi様へ。明らかにおかしいところを修正しました。「しばしば、新世界訳聖書の訳文の問題〜」に関しては争点がわからないのでそのままにしてあります。おかしいとする理由を御提示頂ければ、私の方で除去しておきます。--JapaneseA会話2013年3月30日 (土) 15:56 (UTC)

宮原崇様へ。Wikipediaは宗教学会ではありませんので、宗教的に正しいかどうかは重要ではありません。第3者が書いた2次出典とWikipediaのルールが全てです(もちろん法律も)。宗教談義はするつもりはございませんので、私の編集に御不満があれば、Wikipediaのルールや2次出典を御提示して御批判ください。--JapaneseA会話2013年3月30日 (土) 15:56 (UTC)

よろしくおねがいいたします。私のほうは、自分が頭を冷やすべき項目について頭を冷やすと宣言したところです。しかし一点だけ修正してみました。これでいいものかご意見をいただけないでしょうか。今回出典として乗せられているものはすべて以前の出典にて内容を確認できます。できましたらこれで問題がなおあるか確認していただけないでしょうか。
今から私が頭を冷やす一方で、私の側でないほうの問題は放置されるのではないかと危惧もしております。私のサイトのリンクを削除する件はとりあえず承知しました。宗教的に正しいかどうか、の意見については、あたりません。繰り返しになりますが、私が問題にしているのはこの種の正しさです。
  • 新世界訳聖書を攻撃するために、たとえば聖書原典のある単語について「辞書を引いても新世界訳聖書の用いるような意味は載っていない」と言ったりするような、専門知識がある人がすこし調べれば簡単にうそと見抜けるが素人にはそれができないので効果的、という手法を繰り返し用いているサイトがあります。そのようなサイトはWikipediaから除外されるべきです。
この点はどうかご承知おきください。--宮原崇会話2013年3月30日 (土) 16:43 (UTC)
編集を確認しましたが、(私は)問題ないと判断します(強いて申し上げれば出典は1つか2つで十分な事くらいでしょうか)。次に、仰っているWEBサイトは、ここでしょうか?という前提で話を進めます。宗教研究家との事ですが、ただ研究しているだけであれば、私も研究家を名乗れます。私がWEB検索で調べた限りは「正木弥」氏も「エホバの証人統一協会対策香川ネット」も2次出典が見つかりませんでした。よってBiblenavi様(もちろん他の方でもOKです)が、Wikipedia:信頼できる情報源に該当する理由を御提示されない限り、除去致します。--JapaneseA会話2013年3月30日 (土) 16:58 (UTC)
納得しました。--宮原崇会話2013年3月30日 (土) 17:07 (UTC)

JapaneseA様へ
外部リンクの件については、当方のミスであり、除去に異議はありません。今後、同種のサイト掲載はしないように留意いたします。 訳文の問題については慎重にならざるを得ないので、少しずつ編集しようと思います。日本語的におかしいところがあれば修正いただけると感謝です。

宮原崇様へ
削除依頼のところでありました質問についてですが、同一人物ではありません。履歴等を拝見しましたが同氏が編集された空飛ぶスパゲッティ・モンスター教など、初めて存在を知りました。 なお、「キリスト教の一派であると自称するエホバの証人によって翻訳されたと主張されている」と改変されたと主張されていますが、私なら、「唯一正当なキリスト教であると自称するエホバの証人によって翻訳された(聖書)」と書くでしょう(中立性の問題等から当然そのような編集は行いませんが)。「翻訳されたと主張」ではなく、自他共に認めているというのが当方見解であります。 話は変わりますが、参照として、ものみの塔出版物が多数ありますが(私の編集したものも含めて)、入手が一般的には難しい(書店等にない場合等)こともあるのが難点ですが、今後の課題ですね。 --Biblenavi会話2013年3月30日 (土) 17:38 (UTC)

2013年4月のコメント依頼について

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こちらはWikipedia:投稿ブロック依頼/Biblenavi の続きとなります。

私は引き続き意見を表明するのでもうすこしまっていただきたいということを述べていたのですが、ブロック依頼の対象となったご本人Biblenavi氏によってさっさと終了させられてしまいました。相変わらずBiblenavi氏は私の話を聞いていないという印象です。もっとも、意見のほうはSikemoku氏の提案通りコメント依頼のほうに移行するかたちで書く予定でした。

ブロック依頼では、みなさんに問題について検討していただくに際し、まず私の側にも問題があることを周知せねばならないと感じ、自らその旨申告させていただきました。その結果、私に対する忠告のコメントが大勢を占め、私が論点として示した部分はおおかた無視されてしまったように思います。みなさんが何度も言われたのは、ひとことで言うと「ルールを守りましょう」ということです。そこで私としては皆さんの指示通り、方針とガイドラインの熟読ということを行わせていただきました。各文書を印刷し、ペンで印をつけたり付箋を貼ったりしながら読ませていただきました。また、これについてすでに私の方針は決定しており、記事新世界訳聖書にもそれは反映されています。

というわけで、引き続き私が提起するのは、まだ解決していないほうの論点です。これについてはまずWikipedia:投稿ブロック依頼/Biblenavi とここノート:新世界訳聖書を参照ください。

今回私が不思議に思ったのは、皆さんが内容のほうを真剣に考慮してくれないということです。たとえば、私は検討すべき比較のリストというものを作ったのですが、だれもそれを検討してくれませんでした。そこで、Sikemoku氏に対しては内容の吟味を促す質問を書いてみたのですが、後回しにされたのか、返事がありません。JapaneseA氏の発言ですが、「被依頼者様には少なくともブロックされるような問題はありません」とのことでした。私の提示した内容を考慮していただいたのかもしれませんが、内容についての言及はありませんでした。

JapaneseA氏はこのあと新世界訳聖書の編集に加わりました。Biblenavi氏とほとんど変わらない編集を行ったうえ、Biblenavi氏に対して「私が代わりにやっておきましたのでよろしく」というようなことを述べています。それでどういう編集が行われたかというと、たとえばこんな具合です。

伝統的諸教会は一般的に、聖書がキリストの神性に言及している箇所について、「新世界訳聖書の訳文は改竄されており、キリストの神性を否定する異端的な内容に書き換えられている」との批評を述べる……(中略)……一方、エホバの証人側は新世界訳聖書にそのような問題はないと返答している。--新世界訳聖書,過去の版から--要約

JapaneseA氏はこの後半部分を削除してしまいました。私としては、それはないだろうと感じます。私の提起した問題を完全に無視した編集です。結局この問題については折り合いがつきましたが、意見はかみ合っていません。たとえばこんな具合です。

新世界訳聖書を攻撃するために、たとえば聖書原典のある単語について「辞書を引いても新世界訳聖書の用いるような意味は載っていない」と言ったりするような、専門知識がある人がすこし調べれば簡単にうそと見抜けるが素人にはそれができないので効果的、という手法を繰り返し用いているサイトがあります。そのようなサイトはWikipediaから除外されるべきです。--ノート:新世界訳聖書,私宮原崇の発言

私がWEB検索で調べた限りは……2次出典が見つかりませんでした。よって……Wikipedia:信頼できる情報源に該当する理由を御提示されない限り、除去致します。--ノート:新世界訳聖書,JapaneseA氏の発言--要約

私は内容を調べることを述べているのですが、それに対しJapaneseA氏はウィキペディアのルールの話をしています。私の個人的な感想なのかもしれませんが、今回の件はずっとこの調子で変だと強く感じます。最近のウィキペディアンはみなそういう考え方になっているのでしょうか。

私が述べた以下の発言について解説します。これについても、私は内容ということを考えるよう求めているのですが、誰も考慮してくれません。矢面に立たされたBiblenavi氏さえも、また介入を行っておられるJapaneseA氏も、まったくこれを無視しています。普通なら「それはどういうことか具体的に説明が必要ですね」という反応が返ってくるはずだと私は思うのですが。

現時点で再度新世界訳聖書の項目はBiblenavi氏によって編集されています。出典つきでうまく編集されているように見えますまが、その内容には間違い、正確に言うと嘘が混じっています。--Wikipedia:投稿ブロック依頼/Biblenavi ,私宮原崇の発言

誰も関心を示してくれませんが、説明します。編集された内容は以下の通りです。

ヨハネの福音書1:1「初めに言葉がおり,言葉は神と共におり,言葉は神であった。(新世界訳)」エホバの証人は「言葉は神とともにおり」の「神(テオス)」には冠詞があり、「言葉は神であった」の「神」には冠詞がないことを重視。後半部分を「ことば(イエス・キリスト)は神のように強力なものであった」と主張する。一方、伝統的諸教会は冠詞の有無によって区別されないとし、「言葉」はイエス・キリストを指し、このイエスキリストが神と呼ばれていると解釈する。なお、ヨハネの福音書において、1:6、1:18(前半)等16箇所においての「神(エホバ)」について、冠詞がない。--新世界訳聖書,Biblenavi氏の編集

これのどこが嘘になるかについては、とりあえずこちら[[20]]の「内田和彦氏による「キリストの神性と三位一体―「ものみの塔」の教えと聖書の教え」という本に……」以降を参照ください。簡単に要約するとこうなります。ヨハネ1章1節では“動詞に先行する叙述名詞”ということが問題になります。聖書のギリシャ語では動詞に先行する叙述名詞はしばしば冠詞を欠くため、“動詞に先行する叙述名詞が冠詞を欠いた場合”の意味について考えなければなりません。一般に(つまり、キリスト教諸教会もエホバの証人も)このような場合の叙述名刺は(ここは難しいので判りやすい言い方で言うと)形容詞的だ(厳密には、限定詞的だ)と考えます。ところが、ある人はこの論点についてこのようなことをします。まず“動詞に先行する叙述名詞”から“動詞に先行する叙述”を省きます。そのうえ、残った“名詞”がヨハネ1章1節の場合は「神」であることを理由に“神”に替えてしまいます。そうすると、論点は“冠詞なしの「神」”であるということになります。では検証を行ってみましょう。“冠詞なしの「神」”の例を聖書から集めると、エホバの証人の(実際にはキリスト教諸教会も)言うような形容詞的な用法など存在しないことが判明します。それはそうでしょう、これだけ論点のすり替えを行うとそういうことになってしまいます。

Biblenavi氏はウィキペディアの中立の方針を掲げながらこんな編集を行っています。そしてJapaneseA氏は同調し、具体的に問題を述べる私の発言はいまのことろ順調に無視されています。

ほかにもありますが、それは履歴を参照ください。私がWikipedia:投稿ブロック依頼/Biblenavi の冒頭で述べたとおり、ウィキペディアのルールの悪用ということが行われていると思います。また、これらの問題にかかわる対話にも支障があります。あえてひどい言い方をすれば、これはアンチによる記事の乗っ取りではないでしょうか。

なお、いくつかの点を注記したいと思います。私の側の問題点についは私は皆さんから頂いた指導を(私が無意味と考える点を含めて)極力受け入れております。外部リンクの問題については、Biblenavi氏がはぐらかしをやったのに対し、JapaneseA氏は対話に応じられたためとりあえず決着し、その後Biblenavi氏が間違いを認める旨の発言をしています。

これについてみなさんのコメントをよろしくお願いしたします。--宮原崇会話2013年4月7日 (日) 13:08 (UTC)

ブロック依頼を終了させたのは管理者(つまり別の方)です(もし被依頼者がブロック依頼を終了させたら大問題になります)。「JapaneseA氏はこの後半部分を削除してしまいました」との事ですが、後半部分の出典が個人サイトだったので削除したまでです。その後の貴方様の編集「 2013年3月30日 (土) 16:29‎ UTC」は、公式の1次出典を適切に使用していると判断し、そのままにしてあります(削除していません)。外部リンクについては、問題は解決していると思いますし、これに関しては貴方様を支持しています。話がかみ合っていないと感じているようですが、Wikipediaではルールと「信頼できる出典」が何よりも優先されます(もちろん法律も)。「信頼できる出典」に書いているのみ事が真実として扱われます。またWikipediaは学会ではありませんので、記事の真実を論議する事はありません。あくまで出典に合致しているか、出典が適切に使用されているか、などが論点になります。ルールを熟読されたのであれば、このような話は説明申し上げるまでも無い事なのですが。--JapaneseA会話2013年4月7日 (日) 13:42 (UTC)

現実世界が忙しいため、長々と書くつもりはございませんが、宮原崇へお伝えしたいのは、勘違いが多すぎはしませんか?と言うことです。

ブロック依頼の対象となったご本人Biblenavi氏によってさっさと終了させられてしまいました。

私は、終了してもいませんし、(あえて)終了に賛成する発言もしていません。

私は内容を調べることを述べているのですが、それに対しJapaneseA氏はウィキペディアのルールの話をしています

内容についての正確性は編集者自身によってなされるべきです。なぜ、貴殿が記載した記事についての裏づけを他者がする必要があるのでしょうか。私が記載したサイトでは正確性の担保としては不十分であることを認めたため、サイトの削除に同意しただけです。

その内容には間違い、正確に言うと嘘が混じっています。

私の日本語力が足りないのであれば申し訳ないのですが、私の理解での「嘘をつく」とは、「真実を知っているにもかかわらず、諸事情により真実でないことをそうと知りつつ発言すること」と言うことです。少なくともこの件に関しては私はそう感じていません。なお、ヨハネ1:1の説明については舌足らずなこともあるでしょう。実際にこのことだけで一冊の本が書けそうな話題ですから。それをあえて要約しているのですから。私としては、どちらの主張が正しいというのではなく、両サイドの意見を記述しているだけです。追記することにより、よりよい記事になるのであればぜひ協力してください。

あえてひどい言い方をすれば、これはアンチによる記事の乗っ取りではないでしょうか。

貴殿が言う「アンチ」とは私のことでしょうか? 私は新世界訳聖書に対しては、そこまでアンチではありません。重訳聖書だから悪いと思っている立場のものでもありません。

貴殿から見て気に入らないことを「嘘」・「アンチ」・「はぐらかし」・「すり替え」・「ミスリード」といった言葉で片付けるのはあまりにも思慮が足りず不適切だと感じます。さらに、貴殿の質問についての回答(以前の編集者との同一人物疑惑の件)をしたにもかかわらず無視をする。これも対話を拒否することではないですか? 貴殿が対話に参加しない限り、相互理解もできない状態が続くと思料いたします。--Biblenavi会話2013年4月8日 (月) 13:33 (UTC)

ブロック依頼の終了については事実関係を承知しました。しかし、そうすると今回ウィキペディアの管理の仕方にいくらか問題があると思います。記事の真実性についてですが、この件は、ウィキペディアでは事実のすり替えやあるいは事実であっても読者のミスリードを狙った書き方は認められていないという種類の問題なのでウィキペディアのルールの範囲内の話のはずです。私の見解ではBiblenaviさんとJapaneseAさんは相変わらずウィキペディアのルールを悪用しています。両者がアンチであるとの見解にも変わりありません。今回、ようやく、多少は私の述べる「内容」のほうに注意が向いてきたと思いますが、不十分だと思います。私が具体的に話を持ち出したヨハネ1:1についてですが、エホバの証人はこれこれを主張しているというような項目は内容のすり替えのない事実を書くか、それができない場合は提案されている中立的な書式で書くべきですが、現状は事実がすり替えられていています。これは言葉足らずということでは決してありません。何度も述べていますが、あいかわらずBiblenaviさんは話をすり替えておられます。しまいには私が自分の趣味にこだわり対話を拒否していることにしてしまいました。他の編集内容もありますが、やはりルールの悪用、論点のすり替えだと思います。他の細かい件についてはとりあえず承知しました。
少し様子見をしていたのですが、コメント依頼の効果がないのは問題だと思います。--宮原崇会話2013年4月12日 (金) 11:25 (UTC)
「アンチ」とは何を指しているのでしょうか? 宗教戦争のように敵対している人間ですか? それとも「この宗教の言う事は100%正しい」と思わない人間ですか? 前者は滅多に居ないでしょうし、世界中のほとんどの人間は後者に当てはまるでしょう。なお、私は無宗教・無神論で「宗教はやりたい人達だけで、人に迷惑をかけずにやっていれば、否定も肯定もしないから好きなだけやってくれ」というスタンスです(貴方にも嫌いな音楽はあるでしょうが、それを無理矢理聞かされない限り、全否定して妨害しようとは思わないでしょう)。貴方の理屈で言えば、私が自分の経営している会社を、自サイトを出典にして「この会社は〜〜〜というデータがあり、世界一優れている」と書いても良い事になります(賭けても良いですが、それを私がやれば、数時間以内に記事は削除され、私はブロックされ、コミュニティから信を失うでしょう)。コメント依頼から人が来ないのは私も残念に思いますが、何百人来たところで、結果は同じですよ。貴方が、あくまでもWikipediaのルールより信教を優先させるのであれば、ここに居場所はありません。Wikipediaから引退して御自宅で信教に専念されるのが良いでしょう。--JapaneseA会話2013年4月14日 (日) 06:03 (UTC)

私としてはWikipediaのルールに敬意を払いながらも内容のある確かな編集を行う方針です。すでに見てきた内容からJapaneseA氏がアンチであるという認識に変わりはあません。JapaneseA氏によるアンチの定義についての極端な議論は退けます。たとえを出してまで蒸し返された点についてですが、すこし述べておきますと、すでに結論として私のサイトへのリンクは撤去と決まっています。しかし、これまでの掲載については、私が自分でリンクを置き、そのことがこの項目を扱うWikipedianたちによって認められる形になっていました。(この点についてはWikipediaの方針にも多少は例外を認めようという項目があります。) 私の微妙な立場ということはありますが、それよりも私が強調してきたのは私のサイトの内容です。こういったことは、Wikipediaの方針に敬意を払いつつも、やはり内容で決めるべきでしょう。Wikipediaの方針があるから内容は放置というのは論外です。

それにしても、あなたもまた私の言っていることを個人の宗教信条の問題にされるのですね。しばらく前から二人してそういう種類のことをバリエーション組みながら繰り返し述べていますが、これらの発言には私に対して牽制となること以外にどんな意義があるのでしょうか。私の答えは変わりません。つまり、「私は個人の宗教信条を持ち出してはいません」。こういうやりとりが繰り返されることは不適切でしょう。

内容ということについて追加して言いたいと思います。私の述べる内容ということと検証可能性についてです。 Wikipediaにおいてその方針や各種ルールを守るために必要な検証可能性は確保されるだけでなく「行使」もされるべきです。方針やルールとは、中立、(記事自身のほうの)検証可能性の確保、ミスリードの禁止、といったものです。そういった目的のためにWikipediaには各種の仕組みが用意されています。その代表がノートです。ノートでは、ノートにおいて求められている種類の検証可能性が行使されなければなりません。そのためのルールはやはりWikipediaによって定められており、意見の対立がある場合にはWikipediaの考えるところの建設的な議論を得てWikipedian同士の同意に達するよう各Wikipedianによる努力が払われなければなりません。

なぜ私が追加してそういうことを述べるかというと、いまだに私の言うところの「内容」の話が都合よく無視され放置されているからです。すでに何度も述べているように、私としては、JapaneseA氏はBiblenavi氏と一緒になってWidipediaのルールを悪用し、アンチな編集を行っていると認識しています。

Wikipediaのルールを守ると主張されるのなら、ノートで内容について論じ、同意に至るようにすればよいのではないでしょうか。実際、この状況ではあなたも私もそうする以外に選択肢はないはずなんですが。それなのに、同意に至るに必要な議論が私からのみ提出され、あたたたちは拒絶し、進展する気配すらないではありませんか。とりあえずですが、私が提起しているヨハネ1章1節の部分についてはどう思いますか?

そこで私が懸念するのは、お二人にこのような議論をするだけの専門性が備わっていない可能性です。つまり、この項目を担うだけの知識、見識、出典となる資料の持ち合わせとそれを用いる能力があなたたちには欠けていて、実は具体的な議論が上がってきても難しすぎて答えられないから、とりあえずWidipediaのルールを振りかざして威勢を張っておられるのではないかということです。しかもあなたたちは、これらの専門性を持ち合わせていることが明らかな私を追い払うようなことまで言っておられるのですから、もしこれが私の懸念する通りだとすれば、あなたたちはここでいったい何をしているのか、ということになるでしょう。私はすでに示している柔軟な態度に加えて、この点についても柔軟な態度を示すつもりです。--宮原崇会話2013年5月26日 (日) 23:22 (UTC)

回答します。「このような議論をするだけの専門性が備わっていない」とかいう以前のお話なのです。貴方の作成した個人サイトがどれほど素晴らしかろうが、Wikipediaでは「使用できない出典」です。使用できない出典を元に論議する事はありません。内容の話をしたいのであれば、Wikipediaで使用できる出典を用いて下さい。--JapaneseA会話2013年5月27日 (月) 12:44 (UTC)
遅くなりましたが、私も回答申し上げます。まず、知識・見識ですがこのノートや、貴殿のサイトでたびたび使われている「原典」と言う表現は、伝統的な解釈からすると使い方に誤りがあると言わざるを得ません。そのような貴殿に「専門性がない」と言われるのははなはだ遺憾であります。続けて、出典となる資料についてですが、確かにエホバの証人側の資料については貴殿のほうが入手が容易でしょう。ですので、使用できる出典を用いて記事を充実させてくださればよいと考えます。なぜ、使用できる出典を多数お持ちのはずの貴殿がそれを使われないのかはなはだ疑問に思います。続けて、一般的な聖書に関する資料でしたら当方にも多数あると自負しています。一般的な大学図書館(神学大学などではありません)にあるもの以上は所有しているつもりです。邦訳聖書についても6種類(リビングバイブルや、大阪弁訳、新約のみを除く)あり、ギリシャ語聖書もネストレ・アーラント28版を所有しています。その他関連資料、聖書注解書についても多数所有しております。ただ、以前も述べたとおり、私が数行で書いたことについても本気で記述すると本が一冊できるようなレベルのものです。それを言い方は悪いですが無理やりまとめないといけないのがWikipediaであると考えます。--Biblenavi会話2013年7月5日 (金) 22:45 (UTC)

JapaneseAさんにお願い

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宮原崇よりJapaneseA様にいくつかのお願いがあります。これまでの経緯を踏まえて、多少長くなりますが、よろしくお願いたします。

まず最初にお願いすることは、「個人の意見をとがめる際には、ぜひ、その取り扱いを丁寧にしてください」ということです。すこしたとえを用いたいと思います。私がAさんからある言葉を聞いてそれをあなたに伝えたとします。それで「Aさんは『これこれ』と言いました」と私は述べます。このような場合、『これこれ』は私の意見でしょうか。普通の場合、そうでないことは明白です。これは私の意見ではなくてAさんの意見です。しかし、私も間違えることがあります。もしかすると、私はAさんの言っていないことを言ったのだと思い込んだのかもしれません。そうすると、それはAさんの意見についての私の個人的見解にすぎないということになります。このような場合、他の人々から見れば、私の証言は取り上げるに不適切でしょう。しかし私はこれはAさんの言葉だなどと強く言い張るかもしれません。このような場合、あなたはどうすればよいでしょうか? 一つの方法として、あなたはAさんのところに会いに行って、それは本当にあなたの発言ですか、と尋ねることができます。Aさんが「違います」と言うなら、あなたはそのことを私に告げることができるでしょう。これは問題を正す適切な方法です。それに丁寧で親切な方法です。でも、もしあなたがこのような事実確認と説明の手順を踏まずに、ただ私に向かって「それはあなたの個人的見解ですよね」と言い、結論の部分だけを連呼するなら、どうでしょうか。私は納得しませんし、そのまま話は平行線になるでしょう。それで、JapaneseAさんには、今後、私に対しても、あるいはほかの人に対しても、そのような乱暴なことはしない、そして、個人の意見をとがめる場合には、その意見のどこがどのように問題なのか、まずは丁寧な説明を行うと約束していただきたいのです。私はこの件について「私に謝れ」とは言いません。もちろん、約束をするにあたって先に謝罪があったほうが良いには違いないのですが、今回、私は謝罪のほうは求めないことにしました。ただ約束してくださるだけで私は満足です。

そこで、練習問題だと思って、私の提示する次の課題にぜひ取り組んでください。私が提示するのは、すでにこのノートで私が繰り返し述べてきた、ヨハネ1章1節の問題です。まず、私がこの問題について何を述べているかを整理しましょう。その内容はこのようなものでした。1. 新世界訳聖書記事中「エホバの証人はこのように述べるが」の部分、ヨハネ1章1節についてのエホバの証人の意見が正しく記述されていない。2. 結果的にエホバの証人に対する一般キリスト教会の反論も正しく記述されていない。3. 記述では論点のすり替えが行われており、“動詞に先行する冠詞のない叙述名詞”が“冠詞のない神”に置き換えられている。では、まず1について、以下の点を考慮してください。a. これは宮原氏の個人的意見だろうか、宮原氏は自分が個人的に正しいと思い込んでいることを記事に書くべきだと主張しているのだろうか。もし、問いに対する答えが、あなたが繰り返し述べてきたようにYesであるなら、それについての別の正しい答えがあり、あなたはそれを提示できるはずです。提示するだけでなく、なぜ私の指摘が間違いであなたの提示が正しいのか、説明もできるはずです。今私が約束をお願いしていることは、このような場合に問題を丁寧に扱ってください、ということですから、ぜひ、丁寧な説明を試みてください。そうです、丁寧な説明もなしにただ結論を述べることはもうしないでください。続いて、b. 出典として示されている資料は適正だろうか。私がエホバの証人の見解を示す資料として提示しているのは、参照資料付き新世界訳聖書の付録にある論文です。これは、ヨハネ1章1節についてのエホバの証人の主張を示す、第一級の一次資料です。これは私個人の見解ではないはずですが、しかしもしかすると、私は提示する資料を間違えたかもしれません。もし間違えているなら、やはり、あなたはこの問題を丁寧に取り上げて説明することができます。それで、この点についても、私に対して丁寧に説明を行ってください。c. 論点のすり替えについての指摘はどうだろうか。これについても丁寧な説明をお願いいたします。実際問題、この練習問題をすることは必要です。なぜなら、ここはWikipediaであり、あなたはWikipedianだからです。Wikipedianにはこのような能力の持ち合わせがあることが求められています。いま記事中には私が問題であると指摘する記述があり、私は説明を怠らず、資料も提示しています。今度はあなたが役割を果たす番です。どうか、これまであなたが繰り返してきたようにやみくもに私の見解を否定することは、どうかもうおやめください。そして、課題に取り組んだあなたの結果をこのノートに書いて、それが私だけでなく、このノートを閲覧するすべてのWikipedianに理解できるようにしてください。それから、次の点についてもよろしくお願いいたします。d. ヨハネ1章1節についての宮原氏の個人的見解とはなんであるか。実は、あなたは、まだそれを述べていないんです。私に対して、「それはあなたの個人的見解である」と繰り返し述べていますが、それが何であるかを述べていません。ちなみにその答えは私自身によて私のウェブサイトに書かれています。こちら[[21]]です。ここで私はこう書いています。『ここで、ヨハネ 1:1についての私見を述べたいと思います。私はコルウェルの法則を全面的に支持していません。ですから、これまで私が書いてきた内容はここですべて白紙になります。』 そこに書かれているように、私は、ヨハネ1章1節については、エホバの証人の見解も、一般教会の見解も支持していません。私はこれらが間違っていて、正しい答えは別にあると信じています。一方、ここWikipediaにおいて私は、私の個人的見解ではなく、エホバの証人の見解を記事として書くよう繰り返し求めてきました。これはWikipedianとしては模範的な振る舞いではないでしょうか? しかしもしこれが私の不見識によることであり、私が思い込みで個人の見解を記事に書くよう求めていたのだとすれば、それを正す事実や論拠といったものがあるはすです。それで、あなたには、この点をきちんとそして解りやすく整理して提示していただきたいのです。

引き続いてさらにお願いがあります。「Wikipediaでは見識を持ち備えた人に敬意を払ってください」ということです。Wikipediaは百科事典と言うには異例に項目が多く、結果的にその項目の多くが専門分野として未成熟です。場合によっては未成熟とすら見なせないものもあるでしょう。そのような項目では、その分野の『権威』と言える人が単に「アマチュア程度」との評価を受けているにすぎないことがあります。そういう人はその分野についての知識をもってはいますが、社会的には権威ではなく、またWikipediaが信頼できるとするだけの評価も得ていません。しかしだからといって、このような人の持っている見識をWikipediaの編集から排除してしまうと、どうなるでしょうか。Wkipediaのその項目の質は落ちぶれてしまうことになります。せっかく専門知識を持っている人がいるのに、その人より知識の大幅に劣る素人の方々で記事を作ることになるからです。結局のところ、Wikipediaとしては、その項目の持つ専門分野性の規模に応じて、その規模が小さければそれなりに、アマチュア程度の方々に敬意を払う必要があります。そして、専門性のある人は、その分野についての知識がありますから、記事の内容を見て、「ああそこは違いますよこうですよ」という指摘を述べることがあります。そのような時、その指摘はWikipediaの求める基準からすれば、たとえば中立性に問題があるなどの理由で、不採用となることがあります。それは世間一般から見れば「その分野についての専門知識」にすぎないのに、Wikipediaでは不適正だということがあるのです。そのようなときに、そのような指摘を述べる人を徹底的に叩く人がいるなら、その人はうんざりしてWkipediaを去っていくでしょう。それはWikipediaにとって得ではありません。それで、ぜひ、私にと言わず誰に対しても、専門性を持っている方の意見をむやみに否定することはしないと約束していただきたいのです。これについても、私は謝罪を求めません。やはり約束の前に謝罪はあったほうがよいと思います。しかし、もしあなたが心の底から自分の行為を反省し、ここはぜひ反省したい、と自分から言うのでない限り、謝罪は必要ありません。その代わり、今私がお願いしていることを約束してください。

それから、さらにお願いがあります。それは、「自分の持つ専門性を正しく発揮してください」ということです。次のような場面を考えてください。ある人がある問題について人々と話し合っています。その人はそれほど専門性を持ち備えているわけではないですから、ある程度以上難しいことはよくわかりません。不思議なことに、この人はこのような態度をとります。まず、自分に解らないレベルのことについては、一方的に結論を述べ、それは確かであると自ら太鼓判を押し、その結論をひたすら連呼します。一方、自分で解る程度のことについては、そうしようとすればできるのに何も結論を下そうとしません。もしあなたがこのような人と話し合うことになったら、どう感じるでしょうか。この人は滅茶苦茶だ、もうこれ以上この人と話し合いはしたくない、と思うのではないでしょうか。そこで、だれに対しても、決して、決して、絶対に、絶対に、このような狂った振る舞いをしないと固く誓ってください。そして、あなたが結論を下すのはあなたの理解できる程度のことにとどめ、それ以上のことについては、専門性を持ち備えた他の方に道を譲ってやってください。普通の方はみなそのようにしています。これが逆であるというような人はどこにもいません。具体的にはこういうことです。だれかが資料を示したときには、「その資料を示したのはあなただからそれはあなたの独自研究ということになりWikipediaでは無効」などと言わないことです。資料自体は誰が示しても同じです。こういった態度は資料を示した人だけでなく資料そのものも軽視するものであり、特にWikipediaでは許容できません。

加えてさらにお願いがあります。それは「たくさんある世の中のルールに敬意を払ってください」ということです。Wikipediaのルールはよくできていますが、万能というわけではありません。Wikipedianの方々はみな、Wikipediaのルールを尊重しつつも、それを他のルールによって制御しています。それによってWikipedianとしての暴走を食い止めているのです。多くの方はそれを無意識に行っていますが、まれに、こういったことを明示的に行わなければならない人、あるいは場合があります。すこし考えてみましょう。世の中には数えきれないほどの多様なルールがあります。ところでここは新世界訳聖書のノートです。聖書にもたくさんのルールが書かれているではありませんか。聖書に書かれている言葉に次のようなものがあります。『あなたは真実でない報告を取り上げてはならない。邪悪な者に荷担して暴虐をたくらむ証人となってはいけない。よこしまな事柄のために群衆に従ってはならない。論争に関する証言に際し、群衆と共にそれて行って公正を曲げようとしてはならない。立場の低い者に関しては、その者の論争のさいに偏った好意を示してはならない。』(出エジプト記 23:1-3) そこで、あなたはこのように自問してみてください。「『あなたは真実でない報告を取り上げてはならない。』私はWikipediaのルールを偏った仕方で振りかざし、記事から真実を削除して嘘を書き加えただろうか?」、「『邪悪な者に荷担して暴虐をたくらむ証人となってはいけない。』私はエホバの証人に対してアンチである人に加担してエホバの証人に対して悪事を働いただろうか?」、「『よこしまな事柄のために群衆に従ってはならない。』世の中の大半の人がエホバの証人という宗教に対して冷淡であることをいいことにして、私はエホバの証人に対する偏見を促進しただろうか?」、「『論争に関する証言に際し、群衆と共にそれて行って公正を曲げようとしてはならない。』記事についての論争を扱う際、多数であることを振りかざして不公平な記事の編集を正当化しただろうか?」、「『立場の低い者に関しては、その者の論争のさいに偏った好意を示してはならない。』エホバの証人の社会的立場が低いことをいいことにして、私はエホバの証人に対して差別的な編集を行っていないだろうか?」。

読んでお気づきかと思いますが、以上のお願いは、これまで私があなたと対話して明らかになったあなたの諸問題に基づいています。あなたはあなたの思うところの便利な道具を振りかざしすぎたと私は思うのです。私の言うことは内容がどうであっても、あなたは常々一方的にそれを「あなたの勝手な個人的見解、独自研究」と呼ばわり、無視しようとしました。このお願いのひとつ前のところでは、「内容の話をしたいのであれば、Wikipediaで使用できる出典を用いて下さい。」とすら述べています。提示した資料まで独自研究呼ばわりされては甚だ困ります。これはやりすぎです。しかし、今回の私のお願いを聞き入れてあなたが約束を述べてくださるなら、そして練習問題に取り組んでくださるなら、問題の大半は解決されるでしょう。--宮原崇会話2013年7月5日 (金) 18:14 (UTC)

Wikipedia:検証可能性Wikipedia:信頼できる情報源は御覧になっていますよね? 残念ですがWikipediaでは、事実かどうかより、信頼できる情報源で検証可能かどうか、が全てです。それ以上申し上げる事はありません。御不満であればコメント依頼か井戸端でどうぞ。--JapaneseA会話2013年7月6日 (土) 08:48 (UTC)
まずはBiblenaviさんの(すこし上のほうにある2013年7月5日の)発言についてです。『知識・見識ですがこのノートや、貴殿のサイトでたびたび使われている「原典」と言う表現は、伝統的な解釈からすると使い方に誤りがあると言わざるを得ません。そのような貴殿に「専門性がない」と言われるのははなはだ遺憾であります。』と言われましたが、これは見るからにはぐらかしです。筋違いであり、言いがかりにしかなりません。たしかに、聖書研究の世界では「原典」という表現の用い方には幅があります。厳密でない用法があるということです。しかしそんなことで私の持つ専門性が測れるのでしょうか。この分野についての感覚が正常ならもっと別の根本的な要素を吟味するはずです。これについては、重箱の隅をつつくにしても程というものがあると思います。続いて、『確かにエホバの証人側の資料については貴殿のほうが入手が容易でしょう。ですので、使用できる出典を用いて記事を充実させてくださればよいと考えます。』とのことですが、これもはぐらかしです。あなたが発言すべきなのは、あなた自身が記事に書いた内容が事実と違っているという私の指摘に対する適正な答え、それから、あなたがアンチであり記事を荒らしているという私の指摘に対する答えです。記事の問題について私はすでに十分な資料を提示しています。それなのに「あなたはどうぞ資料を存分に用いてください」とはどういうことでしょうか。さらに続いて、『以前も述べたとおり、私が数行で書いたことについても本気で記述すると本が一冊できるようなレベルのものです。それを言い方は悪いですが無理やりまとめないといけないのがWikipediaであると考えます。』とのことですが、これはすでに私から回答済みです。すでに指摘しているように、この返事もはぐらかしです。あなたが記事に書いたのはエホバの証人に対する反対者による偏った主張のコピーであり、(すでに上のほうで私が指摘したように、Wikipediaとしては許容できない種類の)論点のすり替えがあります。これは「本一冊の内容を無理やりまとめたら不完全だけどWikipediaとしてはやむを得ない記述になりました」というものではありません。これらの「はぐらかし」ということは、Biblenaviさんについて私がこれまで繰り返し指摘してきた点です。先にJapaneseAさんに「お願い」を述べたということがあります。あなたも、私から繰り返し指摘されている問題を自分でよく吟味して、態度を改めていただきたいと思います。--宮原崇会話2013年8月3日 (土) 15:19 (UTC)
続いて、JapaneseAさんに対してです。私としてはWikipdiaの各方針やルールについては承知しております。承知したうえで、私はあなたに対して「お願い」を書きました。一方のあなたは、これまでずっとこのノートでしてきたように、今回も、自分の過去の主張を繰り返して述べるばかりです。そのため、あなたが今回書いたことに目新しいことは何もなく、それらに対する私からの返答はすでにこのノートにあるという状況です。特に、今回の「お願い」の精読に努めてください。そこにはきちんとした答えがあります。そして、あなたはこれまでの自分の発言に責任を持って、何が自分の問題であるかを自覚し、改めてください。そして、もうWikipediaのルールを悪用して論点をごまかすことはどうかおやめください。--宮原崇会話2013年8月3日 (土) 15:35 (UTC)
長々と書くのも意味がないと感じてきたので手短に済ませます。まず、「原典」とは、聖書を論じる上で非常に重要な意味を持つ言葉です。なぜなら、「原典」はすでに失われており、残っている写本よりいかに「原典」に近づけるのかと言う作業を行っているからです。(伝統的なキリスト教徒の信仰も聖書は「原典において」霊感された神の言葉と言う理解です) このことを、「はぐらかし」とか「重箱の隅」と言うレベルでしか理解されていないのは非常に残念です。貴殿は、エホバの証人に関する公式な書籍を多数お持ちではないのですか? 貴殿が用いているWikipediaでは使えない出典だけではなく、使える出典を多数お持ちのはずです。それらを存分に活用されて編集なさってくださいと言うことです。もちろん、私が存じ上げない使用できる出典を用いて中立的な観点も踏まえて私の記述を編集されるのであれば大歓迎です。私より貴殿のほうが詳しい「はず」なので。なぜそれらの資料を用いないのか疑問です。それでも、Wikipediaで使用可能な出典を使わないのであれば、ご自身の個人サイトの充実に努めてください。--Biblenavi会話2013年8月3日 (土) 22:41 (UTC)
宮原崇様へ。「Wikipdiaの各方針やルールについては承知して」いるのであれば、Biblenavi様の仰る通りにされるのが良いでしょう。同じ事を繰り返しても、こちらも同じ事を繰り返すだけです。私がルール悪用をしていると御考えであれば、利用者へのコメント依頼などを御利用ください(依頼者側に問題があれば、依頼者が叩かれますが)。--JapaneseA会話2013年8月4日 (日) 06:48 (UTC)

評価について

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主ページの新世界訳聖書への評価にかんする表現が2013年10月19日までに改訂されました(特別:差分/49250774/49468228)。また用語「字義訳」については同年10月31日に除去されました(特別:差分/49590523)。--Yumoriy会話

編集合戦となっているようですが、Biblenavi様を支持します。1次情報を元に「評価している」とするのは中立的観点から疑問が残ります。ただし「高く自己評価している」という書き方よりは、「ものみの塔聖書冊子協会によれば〜と主張している」という文の方が宜しいかと思います。--JapaneseA会話2013年10月9日 (水) 18:34 (UTC)

書き方は色々あるとは思います。ただし、現在あげられている評価する側の出典は全てエホバの証人側のものです。それ以外の出典があるのであれば、再考は可能でしょう。なお、詳しい人の見解も知りたいですが「字義訳」と言う言葉自体がエホバの証人側の用語であるように思います。(通常は、「直訳」「逐語訳」) --Biblenavi会話2013年10月10日 (木) 21:19 (UTC)
おおむね納得しております。私としては、もともと「エホバの証人の肩を持つ・・・」という表現など、始めから否定的な書き方になっている箇所が気になっていました。「高く自己評価」という表現に関しては今回の見直しでよろしいかと思っております。ただ、「エホバの証人の教理に沿った恣意的な訳文が見られるため」という一文は断定してしまうのは望ましくないと思います。双方の言い分がある箇所ですし、第三者の立場で「エホバの証人の教理に沿った恣意的な訳文であるとし」とするか、もしくはいっそ削除しても良いと思います。また、「新世界訳聖書」という単語が連発して出てくるので、省略してもよい箇所もあると思います。それだけです。--Memphis19会話2013年10月19日 (土) 14:56 (UTC)
Memphis19様が編集された「2013年10月19日 (土) 14:52 UTC」版で問題ないと思います。--JapaneseA会話2013年10月19日 (土) 22:10 (UTC)
「字義訳」という語に問題あるとのことなので「正確で読みやすい」訳に変更しました。なお、字義訳は逐語訳という意味ではありません(王国行間逐語訳と新世界訳本文は異なっています)。--1.115.194.156 2013年10月31日 (木) 05:33 (UTC)
「字義訳」を表す適切な言葉がないのであればそのままでもいいと考えます。なお、今回の編集とはまったく関係ありませんが、出されている出典からはエホバの証人サイドの主張は見えませんでした。別の出典が必要だと思いますがいかがでしょうか。また、エホバの証人は「正確で」との主張はなされていると思われますが、「読みやすい」と言う主張まではしていないのではないでしょうか。むしろ、「読みにくいところがあるけれども。。。」といった主張ではないでしょうか。--Biblenavi会話2013年10月31日 (木) 13:11 (UTC)
出典元の資料2行目に「『新世界訳聖書』は,正確で読みやすい翻訳聖書です」と書かれていますが…… また、2013年英語改訂版の説明文にも「現在の新世界訳聖書翻訳委員会は,現代の言葉の変化を聖書の文章に反映させ,特定の表現をより明確にし,一層読みやすく理解しやすいものにしました」とあるので、1985年版が「読みやすい」というのはエホバの証人側の主張です。
http://www.jw.org/ja/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9/%E9%80%9F%E5%A0%B1/?v=2552828400#mid702013141
--1.115.193.250 2013年11月3日 (日) 00:08 (UTC)
わたしの勘違いでしたね。ありがとうございました。--Biblenavi会話2013年11月3日 (日) 15:06 (UTC)