ノート:日本語の誤用/過去ログ01

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>真逆が定着してしまったもの。 真逆?

慇懃無礼[編集]

「慇懃無礼」の節はこの項目に合いません。文字通り慇懃無礼なだけで、誤用とは違います。慇懃無礼な日本語という項目を作って移動すべきだと考えます。ただ、その場合でもどこからが慇懃無礼かは主観なので中立的な記述を目指すウィキペディアとしては非常に難しい項目になりそうです。--モノノハズミ 2006年12月25日 (月) 21:49 (UTC)[返信]

いつの間にか慇懃無礼な日本語の項目が作られていましたね。とりあえず誤用とは違うので修正しました。--モノノハズミ 2006年12月31日 (日) 00:01 (UTC)[返信]
と言っている間にこの項目へのリダイレクトになりましたね。やはり難しい項目のようです。とはいっても、やはり慇懃無礼であることと誤用は別問題なので、どうしましょうか? --モノノハズミ 2006年12月31日 (日) 12:21 (UTC)[返信]

正誤記法[編集]

現行の表記法(×A→B)ではAとBのどちらが誤用なのかわかりません。書式からは正用法から誤用が発生した筋道をあらわしているようにも読めます。どちらが間違っているか明らかな例ばかりならそもそも誤用が発生しません。ですので矢印の向きの趣味やそもそも矢印の使用が相応しいのかなどの議論は先送りにしても、せめて正用法に○をつけて(×A→○B)にしてください。LR 2006年10月27日 (金) 08:32 (UTC)[返信]

視野に入れる[編集]

『×視野に入れる→○視野に入る、視界に入れる 視野は自発的に目に入れようとするものではなく、自ずと目に入ってくるもの。』 とありますが、『視野に入れる』は本当に誤用でしょうか?

私も誤用ではないと思います。早とちりをした方は恐らく光学機器に縁遠いのでしょう。LR 2006年11月17日 (金) 10:12 (UTC)[返信]
国語辞典上では、視野と視界の違いは殆どないようですが、例文に「視界に入れる」と「視野に入る」とあります。(Yahoo辞書です)やはり、誤用とされた時期があるか、以前は使われなかったと考えることもできるのではないでしょうか。--by らあご 2006年11月25日 (土) 15:21 (UTC)[返信]
おや、説明が必要ですか? 視界は「良かったり悪かったり」するもので、これは透視度の一般的表現です。一方視野は「広かったり狭かったり」するものです。つまり、見るべき対象があったりなかったりした場合、それを「入ったり外れたり」「入れたり外したり」するのは「視野」からで、「視界」からではないんです。視界という語は「~に突然現れた」とか「~から消えた」という風に使うんですよ。また「視野」や「視野角」とその対義語「死角」は光学の専門用語として厳密な定義が示せますが、「視界」のほうはいささか情緒的なあいまい表現しか出てこないわけです。で、「視野に入れる」は顕微鏡乃至望遠鏡の操作から来ている表現で、「視界に入れる」は根拠がありません。「視界」ではせいぜい許せて「入る」まででして、むしろこちらが誤用です。LR 2006年11月27日 (月) 04:00 (UTC)[返信]
自己訂正。「視界」は気象用語に用いられることを思い出し、検索してみました。表す物理量は上で紹介した通り透視度で、単位は距離のものが使われます。つまり霧や吹雪でどのくらい先の目標が視認できるかを視界500mだの10mだのと表すわけです。また「有視界戦闘」などの専門用語があり、良し悪しのほかに有無でも表現できるようですね。逆にこれではっきりしたことは、視界はあくまでも受動的なもので支配できず、能動的に変えられる視野とは明らかに違うということです。これで「×視界に入れる→○視野に入れる」であることが確実といえましょう。以上。LR 2006年11月27日 (月) 05:09 (UTC)[返信]
視界を、「考えの範囲」ととらえると、「視界に入れる」も誤用ではなくなります。同様に、視野も同じといえます。もともと誤用とした人がどういう考えかがはっきりしませんが、視野は幅方向、視界は距離方向とみるといいんですか?--by らあご 2006年11月27日 (月) 15:24 (UTC)と…「確実」といわれるなら、修正もおねがいします。--by らあご 2006年11月27日 (月) 15:28 (UTC)[返信]
視界を「考えの範囲」と捉えようとするならそれ自体誤用です。意図的に区切れるものではありませんから。可能なのは「気づいた範囲」ですね。「視界に入らなかった」というのは「(責めるのも可哀相な)そこまで考えてなかった」じゃなく「(責められて当然の)見落としをしていた」という意味になります。
また、視野は幅と高さ、つまり面積あるいは立体角、視界は奥行きです。「視野に入れる」は「第二以下の目標として(←これ大事)観察対象とする(ことにする)」ですから「倍率を下げる=広範囲を展望する」もしくは「やや着眼点を中間点にシフトする」と同義ということになります。記事訂正については、逆にするのではなく全削除でいいでしょう。「視界に入れる」が特筆するほど頻出する誤用だとは思えませんので。逆に「視野に入れる」を挙げたくなった動機は正用法なので当然頻出するのを誤用と誤認した結果捨て置けない一大事に見えたからですよね。LR 2006年11月28日 (火) 01:10 (UTC)[返信]
どこから誤用が一般化したものかが問題ですが、「視界に入っていない」となると、「考えの範囲がそこまでいかない」とはできますよね……。視野、視界を思考に当てはめたとき、幅がどうなるか、奥行きがどうなるかというのは、判りづらいですが「考えの幅」というと視覚では面積になるかと思います。それから、「気付いた範囲」ならば、正誤が逆ではないでしょうか?「気づいた範囲に(は)入らなかった」ということは、責められて当然なんでしょうか?「考えの範囲」とすること自体がまだ一般化してない「誤用」なのかもしれませんね…
なるほど。筆者が某新聞記者がさる新聞のコラムで「やっぱり"立ち上げる"はおかしい」という表題にて視野に入れるというのはおかしいと書いていたので鵜呑みにしていたかもしれません。氏は別に国語学者でもなければ、僕も何様でもないのですから。
それは私も読みました。事業などに使う用法に文句いってから電算機に思い当たるという噴飯ものの文章でしたよね? やや雑談になりますが、新聞記者が国語学者である必要はありませんが、「自分がよく知らない分野の専門用語の成立には自分が知らない経緯があったのでは」と思わなかったところがジャーナリストとしてどうなのよ、感じました。また、日本語は、というか日本人は「専門家」に大変敬意を払う文化を持っていて、昔から「粋」とか「通」とかいわれたくて高度な専門用語を日常に使いたがる(断じて逆ではない)んですよ。その点も考慮していなかったように記憶します。実際、武道・工芸・料理・芸能・宗教などの専門分野に由来する語や言い回しをそれとは知らずに我々は沢山使っており、原義を知らないもんだから思いつきで合理的と思う方向に「訂正」して誤用を増やしています。LR 2006年11月29日 (水) 15:11 (UTC)[返信]

この項目「日本語の誤用」は必要か[編集]

この項目では、どなたかが誤用と考える表現の例を羅列しているようですが、ウィキペディアにこういう項目があった方が良いと考えてのことなのでしょうか。

検証可能な情報源が示されていないとか、整理が不十分で事例の羅列に見出しを付け加えただけになっているという問題がありますが、それ以前の問題として、この項目の目的と思われる「日本語の誤用の代表的事例の列挙」が百科事典にそぐわないように思います。

削除以外の方法を考えるとしたら、今よりずっと事例の数を減らした上で、正しいとする立場と誤りとする立場の両方の意見を情報源付きで書くことになるでしょうか。

余計なことかもしれませんが、「古き良き日本語」が失われつつあることを危惧するかたが、自分の論を展開する場として安易にウィキペディアを選んでいるように見えて仕方ありません。

このような疑問が呈されるということは、そこに二つの問題があるのでしょう。ひとつは日本語の乱れとの住み分けに失敗している記事内容の問題。実際の問題解決はこちらに集約されますので、移動したほうがよいと思われる項目をピックアップして実行する事で解決しましょう。
しかし、そもそもこのような疑問が提出される真の原因は、この無記名の提案者が何が誤用かわかってない、そして執筆者にもそういう人がいる、ということですね。「間違いとは言い切れない」などと結ばれる例なら誤用ではないのですが、この判定を頻度でやってる人がいるんじゃないか。それが間違いの元だと思います。
誤用という強く否定的な評価を下さねばならない語法は、つまり、故事来歴からの逸脱と字義や論理との矛盾、次いで発音間違い、不適切な音便、語幹の切り間違いでしょう。つまり「独壇場」「汚名挽回」「超豪華八大付録」「とんでもございません」「ジャンバー」などは変化した日本語として受容されようが永遠に誤用であり、この記事はそういうものを集めたものである、ということで、基準は標準語などではないと私は考えています。LR 2007年1月2日 (火) 10:19 (UTC)[返信]
無記名の提案者です。僕が「何が誤用かわかってない」というのはまったくその通りで否定しようがありません。でも、それは僕の提案には無関係です。この項目はLRさんの私見を述べる場ではないということをご理解ください。日本語の正しい用法について、僕はLRさんの意見に全面的に賛成するわけではありませんが、ある程度近い立場にいると考えています。でも、それをウィキペディアの項目とすることには反対です。
多くの人に受け入れられている言葉は、多くの人に受け入れられているがゆえに正しい、という意見がありますが、記事ではこの意見を完全に無視しています。だから、この記事の内容は中立的ではありません。なお、僕はこの意見には基本的に反対の立場です。でも、反対しているからといって、その意見があるということを否定したりはしませんし、ウィキペディアの場でその意見に対抗しようなどとも考えません。「ウィキペディアは演説場所ではない」(Wikipedia:ウィキペディアは何でないか)からです。
検証可能性はウィキペディアの三大方針の一つです。「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」が重要です。ウィキペディアは「独自の調査を発表」する場ではありません。LRさんや他のかたが「真実」だと考える意見を書いてくれても困るのです。本記事で挙げている「誤用」の各々について、信頼できる情報源を示すことができるなら、示してください。
本項目は情報源の記載のない記述のオンパレードです。そのような記述のうち、 2.1 項「勘違いで全く違う意味に使われてしまう言葉」の中で、僕が真実かどうか疑わしいと思っているものだけでも、次のようにいろいろあります。
  1. 「奇特」が本来とは違う意味で使われているが、これは皮肉として使われていたものが定着したものと考えられる。
  2. 「邪険」を「邪推」の意味で使うという日本語の誤用は、代表的である。
  3. 「鳥肌が立つ」を「感銘を受ける」の意味で使うのは、勘違いからである。
さらに、重要なことは、僕が(あるいは別の誰かが)真実だと思うか思わないかに関係なく、ウィキペディアの記述は検証可能でなければならないということです。その点、今の本項目の記述はほぼ全滅です。
検証可能な情報源を挙げることができれば、別の立場からの見解を誰かが書き足すことができるかもしれません。そうなったとき、ようやくこの記事は中立的になるのです。でも、それは難しいだろうと思ったから、削除あるいは事例を大幅に減らすべきではないかと提案したのです。
Wikipedia:ウィキペディアは何でないかには、ウィキペディアは「単なる情報やデータを無差別に収集する場所ではありません」とも書いてあります。LRさんのいう、「そういうものを集めたもの」は、記事の萌芽にはなっても、記事にはなりません。
また、項目「日本語の乱れ」その他関連項目として挙げられているいくつかの項目も、僕は本項目と同じ理由からウィキペディアの項目としては不適切だと思っています。
「基準は標準語などではない」は意味がわかりませんでした。本記事先頭には「日本語の誤用とは、規範的な日本語(標準語)(共通語)と異なる日本語の表現である」とありますが、これに反対しているということでしょうか。ただ、念のため再び書いておくと、僕は多くの人が使う表現が常に正しいとは限らないと思っています。
(追記) 上で「日本語の正しい用法について、僕はLRさんの意見に…ある程度近い立場にいると考えています」と書きましたが、考え直しました。やっぱり僕の意見はLRさんとはだいぶ異なります。
僕は日本語の規範は状況や時代によって変化すると考えています。「超」を「著しく」という意味で使うのはフォーマルな文章では誤りだと思っていますが、「超豪華八大付録」という言葉が現在の雑誌の表紙に書かれているのを見ても誤りだとは感じません(品がないとは感じますが)。フォーマルな文章と雑誌の表紙では規範が少し異なるということです。
これが僕の意見ですが、それを唯一の正しい意見だとは考えません。
(皮肉を書くなら、百科事典の記述にもまた、ある種の独自の言語的規範があるというのが僕の意見です。先頭の段落で「また、誤読または誤用が定着した言葉については日本語の変化をご参照いただきたい」という敬意表現が使われていますが、この表現は百科事典の記述という場では(些細な)誤りだと考えます。)

確かにこの記事は検証可能性に問題点があるといえます。汚名挽回 について反対説を出典、資料つきでくわえ、テンプレートをはって おきます。 --KyoKawasumi 2007年7月14日 (土) 12:59 (UTC)[返信]

ノートページの改ざんに注意[編集]

[1][2]など、210.155.225.210による他人発言の編集に注意下さい。--fromm 2007年1月23日 (火) 09:08 (UTC)--fromm 2007年1月23日 (火) 09:20 (UTC)修正[返信]

言い訳がましいですが・・・[編集]

こんにちは、210.155.225.210です。自分が使用しているPCは公共物であるためログインできないので、利用者コードで失礼します。なんか大変なことになってしまったようで、収拾のつかぬ事態に発展してしまったような危機感を覚え、ご説明に伺いました。

自分が作ったこのページ「日本語の誤用」は、ラジカルなタイトルがついていますが、要は最近とみに日本語を見直そうという機運が高まっており、自分も独自調査や新聞の解説の請け売りでに当たる記事をつらつらと載せてしまったのですが、このページはあくまで規範的な誤用というより、知らず知らずのうちに混用したり誤用したりしている言葉について記述しているつもりです。乱れと誤用は異なるというのは十分に理解していますし、ウィキペディアは風刺の場ではないので、細かいことをいちいち取り上げたりするのはやめ、気をつけたいと思います。

その上で、いくつか質問したいことがあります。今後の執筆の参考にもしたいので、誰か教えてください。

  1. お母さん方に多いと存じていますが、「駅まで10分で行くわよ」というのは変じゃないでしょうか。ここでは10分で行くことが出来るという意味であれば、正しくは「10分で行ける」であると思います。

210.155.225.210 2007年1月25日(木)

210.155.225.210さんはウィキペディアにお慣れでないようですね。悪気はないのだろうと思いますが、誤解を招いているようなのでふたつ守っていただきたいことがあります。
  • 上でfrommさんがおっしゃっている「他人発言の編集」は、議論の最中に他人の発言を偽造されたりすると収拾がつかなくなるので、重大なマナー違反とされています。決してしないでください。あなたの場合は停滞した話題を「不要」と考えて削除したようですので議論の白熱している最中の発言の捏造などよりはまだマシですが、それでも駄目です。ノートでは原則として消してはいけません。本文では場合によっては消してもよいですが、その場合でも慎重にお願いします。
  • ノートでの発言は下へ下へと書き加えてください(本文ではこのかぎりではありません)。上であなたは(未完)として、「駅まで10分で行くわよ」以外の例を思い付いたときに「10分で行くわよ」のすぐ下の行に書き加えるおつもりのようですが、そういう書き方は混乱するので良くありません。他の例を思い付いたら、後ろに付け加えた下さい。後ろというのは「10分で行くわよ」の後ろという意味ではなく、その話題での他人を含めた全ての発言の後ろです。例えば今思いつかれたら、いま私が書いているこの書き込みより下に、「もうひとつ思い付きましたが、××というのも変じゃないでしょうか」などと書いてください。もちろんその前に210.155.225.210さんと私以外の誰かが何か発言していたら、さらにその後ろです。
以上、よろしくお願いします。
話題を戻して、「10分で行くわよ」というのは別に変ではないと思います。10分で行くことが出来るという意味であれば確かに変ですが、10分で行くという意味ならば何も変ではありません。なぜ「10分で行くことが出来るという意味だ」という仮定をなさるのですか? どんな言葉でも他の意味だと仮定すれば変に決まっています。
--モノノハズミ 2007年1月25日 (木) 09:29 (UTC)[返信]
(くどいですが、お返事はこの行より下にお願いします↓。210.155.225.210さんが発言なさる以前に他の方が発言なさっていたら、さらにその下へ)
上で「この項目~は必要か」の節を始めた者です。「駅まで10分で行くわよ」について。ノートで何が正しい日本語かを議論して、その結果を項目に書くのはやめてもらえませんか。ウィキペディアの重要な方針である検証可能性の意味をよく考えてください。ウィキペディアのノートは信頼できる情報源ではなく、ノートでの議論の結果を記述するのは不適切です。
ちょっとでも聞き慣れない表現がなんでもかんでも誤用に思える人のようなので、考え方を変えてもらおうと思って理屈での説得を試みました。初めからあまり頭ごなしにやるとかえって頑なになってしまうかと思いまして。これで納得してもらえなければ検証可能性を持ち出せばよろしいかと。あと、61.124.230.80さん、署名をお願いしますね。--モノノハズミ 2007年1月28日 (日) 08:35 (UTC)[返信]

投稿者の日本語能力と、百科事典的でない点について[編集]

正しい用法の理解は、誤用を指摘する大前提です。投稿者の日本語能力が疑わしい。 日本語の誤用を指摘する割りには本文中での間違いが散見されます。具体的には、「十把一絡」、「ないまぜ」、「規範的な誤用(?)」などです。 私論が多く編集対応で直るとは思えません。そもそも百科事典にふさわしくない項目でもあります。Wikipedia:珍項目。--fromm 2007年1月26日 (金) 07:33 (UTC)[返信]

文章に私論が多いのはともかくとして、Template:私論を貼り付けるのは間違いです。このテンプレートはWikipedia名前空間内の、Wikipediaの公式方針やガイドラインでない私論の文書に貼り付けるものであり、標準名前空間の記事に貼り付けるものではありません。そういった場合はTemplate:私論を貼り付けるのではなく、削除依頼に出すか、もしくは査読依頼修正依頼に出すのが適当です。--春野秋葉 2007年1月26日 (金) 08:26 (UTC)[返信]
了解です。テンプレート除去をありがとうございます。Wikipedia内ルールのテンプレートだったのですね。--fromm 2007年1月26日 (金) 08:41 (UTC)[返信]
テンプレートの件は決着したようなので、話を戻します。ちなみにこの項目に関しては私はノートでは多く発言していますが、本文にはあまり手をつけていません。
本文は確かに問題のある内容だとは思います。しかし、箇条書きで構成されているので編集対応で直すのは容易だと考えます。問題のある箇所を訂正・削除しても他の箇所へ影響を与えることがほとんどありませんので。編集対応での修正が非常にしやすい形式の項目ですから、まずは編集対応を試みるべきはないでしょうか。
FrommさんはWikipedia:珍項目へのリンクをお示しですが、この項目を珍項目に推薦なさるという意味ですか? Wikipedia:珍項目の冒頭文を読めば分かるように、珍項目というのはどちらかといえば褒め言葉ですよ。私はこの項目の削除には反対ですが、かといって珍項目への推薦に価するほどの記事だとも思いません。
モノノハズミ 2007年1月26日 (金) 10:42 (UTC)[返信]
上で「この項目~は必要か」の節を始めた者です。モノノハズミさんは「編集対応で直すのは容易だと考えます」とおっしゃいますが、 12 月 31 日の段階で僕はこの項目のウィキペディアにおける存在意義に強く疑問を呈し、削除が妥当だと思うけれど、編集で対応するならというつもりで、具体的に「検証可能な情報源を付ける」「そのためには事例を減らす」ということを提案しており、その後どうしてそれをするべきかを詳細に説明したのに、これらのことは一向に実行されませんでした。
べつに他の方法でもかまいませんが、とにかく今のままではウィキペディアの方針と無関係に単に存在しているだけの項目になっています。
それでも編集での対応が容易だとお考えですか。「まずは編集対応を試みるべき」って、いつまで試みているんですか。
「珍項目」というページが何か知りませんが、僕はこの項目は現在、信頼性とは無関係に雑談のネタを欲している人と、ウィキペディアを馬鹿にしたい人の役にしか立たない存在だと思います。
そうですね。なかなか直してくれませんね。形式面からは直しやすそうな項目なのに不思議なことです。私からもお願いします。執筆者の方々は早く編集してください。 --モノノハズミ 2007年1月28日 (日) 09:14 (UTC)[返信]

本当に書きたいのは「日本語の誤用」ではないのでは?[編集]

上で「この項目~は必要か」の節を始めた者です。ログインして書くことにしました。

言い訳がましいですが・・・」の節で 210.155.225.210 のかたが書かれている言葉にヒントを得て考えた結果、本項目および「日本語の乱れ」「日本語の変化」等関連項目を執筆しているかたが本当に書きたいのは日本語の誤用・乱れ・変化についてではなく、「日本語を見直そうという機運」についてではないかと思うに至りました。そう思った経緯を文章にしたので、本項目や関連項目の修正あるいは削除に興味のあるかたはぜひ読んでもらえればと思います。 「本当に書きたいのは「日本語の誤用」ではないのでは?」 --fcp 2007年1月28日 (日) 18:49 (UTC)[返信]

「日本語を見直そうという気運」への変更について[編集]

貴重なご意見ありがとうございます。確かに、僕も他に適切な言葉が見当たらず「日本語の誤用」なんて大仰なタイトルを付けてしまったことは先日の釈明でもご承知のことと思います。別項「若者言葉」でいまどきの若者の言葉の乱れを論ってはみたものの、中高年層より、むしろ僕を含め30~40代の方がそれ以下の若い世代の言葉遣いに異論を唱えているようですし、くどいようですがウィキペディアは風刺の場ではないことを充分理解していきたいと思います。

話を本題に進めますが、その意味ではページ名の変更に僕も賛成です。タイトルがチト長すぎるので、どなたか良いアイデアがあればご提案いただきたいです。

それと、ご質問をいくつか申し上げていますが、こんなことは小学生でも分かることじゃないかといわれるかも知れませんが、frommさんのご指摘にもあるとおり、本当にしつこいですが、ただ単に「×日本語を喋ろ」と本来の意味での檄を飛ばしたりとか、ただの風刺に成り下がってしまって、このページ、ならびに「日本語の乱れ」の品位を下げてしまっているのだとしたら、猛省しないといけないですね。いずれにせよ、正しい日本語を見直そうという傾向を単なるブームに終わらせてしまうのはあまりに勿体無いですし、ウィキペディアにそうしたページがあれば、言葉の文化を紐解くうえで有意義じゃないかなと思ったのですよ。

210.155.225.210 2007年1月29日(月)16:53

私は移動に反対です。ぜんぜんそんなつもりで参加していませんので。そういう記事が書きたい方が別途記事立てして下さることはまったく構いませんが。
私の興味は誤用の列記と分類と語源(誤源?)の解明で、そこから日本人による日本語のエラー生成パターンが見えてくるのではないか、ということです。それによって言葉が元に戻ることはないでしょうし、まったく期待もしていません(一時定着が危惧された「ごようたつ」が駆逐されたような例もなくはないですが)。
というわけで、私は初めからこの記事を「誤用が定着した日本語の一覧」あるいは「誤用が定着した日本語の発生原因による分類」のつもりで執筆しています、誰か別人の立てた項目名に則って。LR 2007年1月29日 (月) 08:30 (UTC)[返信]
210.155.225.210 のかたへ: 僕の「利用者:Fcp/本当に書きたいのは「日本語の誤用」ではないのでは?」での書き方がわかりにくくて誤解されてしまったようなので補足します。僕は同文章において項目名の変更は提案していません。僕の主張はあくまでも、「『日本語を見直そうという気運』について書きたいなら別の項目を作ってはどうか」ということです。しかし、そのような項目を書くなら、その中で、いわゆる“正しい日本語”に関する昨今のブームの中でよく指摘される“日本語に関する誤り”その他のトピックの例として (この二重引用符の使い方に僕の嫌悪感が表れています)、現在の本項目や関連項目に述べられているような事例が役に立つと思います。だから、それらの事例を適切な形に変えて利用 (同文章の中では移動と書きましたがコピーでもいいです) すればどうか、という意味で書きました。同文章中の「項目を立て直す」という表現が「項目名を変更する」という意味だと誤解を与えてしまったのかと思います。すみません。
そのようなわけで、 210.155.225.210 のかたが項目名の変更を別途提案していただく分には自由ですが、「ページ名の変更に僕賛成です」と書かれると、僕は困ってしまいます。
また、「それと、ご質問をいくつか申し上げていますが」で始まる段落の内容をよく理解しておらず、同段落の言葉が僕に向けられたものかもわかりませんが、少なくとも僕はウィキペディアの項目の「品位」をこれまで問題にしていません。検証可能性中立的な観点を最大の問題にしています。
LR さんへ: 「日本語の誤用」という項目の存続は不可能とまでは言いませんが困難です。誰かがものすごく頑張らないといけません。
上の「この項目~は必要か」の節でお返事をいただいていませんが、以下で述べることの多くは同節で述べたことの繰り返しあるいは言い換えです。ただ、多少読みやすくなればと思って書いています。
ウィキペディアの項目はあなたや他の執筆者の私見を書く場ではありません。一つの用法が誤用かどうかは、いろいろな人がいろいろな根拠をもとに正しいだの間違いだのと意見を述べていることが多いです。ウィキペディアの項目に書く以上、「事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くな」という方針を尊重してください。
また、検証可能でないことを書かないでください。つまり、検証可能でないことは削除し、検証可能な内容は適切な情報源を付けてください。現在の項目のように、なんら情報源を提示しないまま事例を羅列することは、ウィキペディアの項目には不適切です。
ある用法が誤りであるとして、その用法の発生原因には僕も興味があります。それが信頼できる情報源に記載されているのなら情報源を明記してください。推測であっても、ある程度受け入れられている推測であることが検証できるなら、「○○であると推測されている」という事実は記載の価値があると思うので、情報源をなるべく明記の上で記載してください。 LR さんや他の執筆者のかたの推測ならウィキペディアの項目には不適切だと思います。 --fcp 2007年1月29日 (月) 18:07 (UTC)[返信]

「検証可能でないことを書かない」、「出典の明記」についてですが、以前「視野に入れる」について議論があったように新聞のコラムや週刊誌からの転載は百科事典的でないことが多いためやめた方が良いようですね。それと「国語辞典(広辞苑、大辞泉など)によると…」を必ず明記しなければならないというのでは、却って記事を煩雑にしてしまいますからどうかと思いますが。他のカテゴリ、たとえば自動車関係の記事に、自動車雑誌・メーカーカタログからの出典を明記しなさいといわれても困りますよね。おそらくご指摘にあったのは「いい加減なこと、ガセネタを書くな」ということなんでしょうけれども、そのあたり、なかなか微妙で・・・。

それから「勘違い」「とんでもない」などについて。ウィキペディアではなくウィクショナリーに記事を立ち上げようと思ったのですが、やめといた方が良いでしょうか。僕は「英語の"feel"は動詞で、『○○フィール』というのは絶対納得がいかない」というスタンスです。なので和製英語と別に記事を立ち上げ、その中で「日本語の誤用」で書いてしまった「"人間ドック"か"人間ドッグ"か」といった記述をNHK放送文化研究所の見解を織り込み、書いておこうと思っていたのですが、書きっ放しになっていたので、立ち上げた僕からも、和製英語への統合に同意します。

2007年1月30日(火)13:34 210.155.225.210

何度でも言いますが、Wikipedia:検証可能性を読んでください。僕が情報源の明示をお願いする理由は、いい加減なことを書くことを未然に防ぐためです。「いい加減なことを書くな」とは僕は言っていません。そもそもあなたに「いい加減なこと」と「そうでないこと」の区別を求めるのは無理です。べつにあなただけではなく、僕だって、誰だってそうです。検証可能なことだけを書く理由の一つは、それをしなければ誰だって間違えるからです。
国語辞典を情報源にしたとき、情報源である国語辞典の書名等を明示しなくて良いと思う理由がわかりません。「記事を煩雑にする」とは、具体的には何を問題にしているのですか。記事が読みにくくなるという意味なら、そんな些事は正しい記事ができてから考えればよいことだと思います。記事を書く手間が増えるという意味なら、その手間をかけたくない人がウィキペディアで記事を書こうとしないでください。
「それから『勘違い』『とんでもない』などについて」で始まる段落は意味がほとんどわかりませんので、もし僕に向かって書いているのであればもう少しわかりやすく書いてください。文章を書いた後ご自分で読み返すことをお勧めします。一つの文を書いている間に考えが発散してしまうなら、文を短くするのも一つの手です。 --fcp 2007年2月2日 (金) 22:51 (UTC)[返信]
読み落としていましたが、210.155.225.210さん、新聞のコラムや週刊誌からの転載は「やめたほうが良いようですね」ではなく、絶対に駄目ですよ。著作権の侵害になります。なにか文面からは過去に新聞のコラムや週刊誌から転載をされたように読めますが、もしそうだとしたら過去の版に遡って削除しなくてはなりません。--モノノハズミ 2007年2月3日 (土) 08:59 (UTC)[返信]
(追記)念のため言っておきますが、新聞のコラムや週間誌だから駄目だというわけではなく、国語辞典からだろうがウェブサイトからだろうが言語学者の論文からだろうが転載をしてはいけません。とにかく自分自身が考えたのでない文章の投稿は不可です。--モノノハズミ 2007年2月4日 (日) 09:56 (UTC)[返信]
言葉が足りないばかりに誤解されてしまったようですが、正しくは「転載」ではなく「出典の明記」です。すべての項目に1つ1つ、国語辞典や雑誌、新聞などからの出典に関しても明記しなければならないのかということでご質問にあがったんですが、未発表のものでなければならないと言うのと、出典を記載しなさいと言うのとでは相反しているような気がしまして…。こんな簡単なことが分からない自分が間抜けなのですが。まだ分からないことばかりですので、ご鞭撻よろしくお願いします。
それと、尾ビレ背ビレがつきすぎて読み辛かったことと思いますので再掲します。「勘違い」「とんでもない」というのはウィキペディアに辞書的な記事を増やさないようにということでしたので、ウィクショナリーに載せた方が良いのかな、と言うことです。これでご納得いただけたでしょうか。

210.155.225.210 2007年2月5日(月) 13:36

210.155.225.210 のかたの第 2 段落の「これでご納得いただけたでしょうか」はおそらく僕に向けられた言葉かと思うので、まずそこから返事をいたします。
  • 僕が本項目の現状がウィキペディアにふさわしくないと考える理由は、字引的だからではなく、次の通りです。 (1) 信頼できる情報源に基づかない私見である。 (2) 中立的な観点を欠く。 (3) 単なる事例の列挙になっており百科事典的でない。中でも (1)(2) が重要な理由であり、 (3) は副次的な理由です。
  • ウィクショナリーに何らかの記述をするべきかどうかについて、僕はウィクショナリーの方針を知らないのでわかりません。
次に第 1 段落について。おそらく 210.155.225.210 のかたは、「転載は著作権侵害であり駄目」というのと、「信頼できる情報源に基づいて記述しなければならない」という二つが矛盾していると感じているのだと思います。その疑問はもっともだと思う一方で、その疑問を「簡単なこと」「こんなこともわからないのは間抜け」などと軽視する姿勢にはある種の疑念を抱かざるを得ません。 (なお、「未発表でなければならない」というのは語弊があります。その言葉は状況によっていろいろな意味を指しますが、「転載であってはならない」よりも強い条件を指すことが普通です。)
僕は法の専門家ではないので、「転載は駄目」と「情報源に基づけ」の二つが矛盾しているかどうか明確に答えることはできませんが、もし矛盾しているなら、そもそもウィキペディアというプロジェクトは失敗しているのでしょう。そうではないと信じています。
著作権について、建前としては、以下の通りだと思います。僕は法の専門家ではないので鵜呑みにしないでください。あくまでも以下は参考です。自分で調べたり考えたりしてください。
  • 文献 A を参照し、 A の記述をそのままコピーしてきたら、転載であり、著作権の侵害であり、駄目です。少しだけ改変して載せても同様に著作権の侵害であり、駄目です。
  • A の記述を理解し、自分の言葉で述べ直せば、著作権の侵害にはなりません (ただしその場合、ウィキペディアでは、情報源である A を明確にすることが求められています。これはウィキペディアの方針であり、著作権法の遵守と直接の関係はありません)。
「そのままコピーする」と「自分の言葉で述べ直す」の間にはグレーゾーンがあると思います。それについて例えば「文献 A の記述とどの程度違えば『自分の言葉で述べ直した』ことになるのか」等の質問があるかもしれませんが、それについて先回りして返事を書いておきます: 僕にはその質問に答えるだけの知識がありませんし、おそらく「転載」と「自分の言葉で述べ直す」の間に明快に線引きをすることは不可能だと思います。 --fcp 2007年2月6日 (火) 16:38 (UTC)[返信]
なるほど。著作権を侵害する可能性のある転載はご法度ですから、自分の言葉で書き直して、その上で参考文献を明記せよということですね。
「簡単なこと」「こんなことも分からないのは間抜け」というのは、わたくし210.155.225.210のIPアドレスから投稿している者の自嘲です。「登校」を「投稿」と直さないで投稿してしまうこと自体に僕の頭の中身が問われてしまいそうですが、ここはそういうページではありませんでしたね。

210.155.225.210 2007年2月7日(水)16:03 

210.155.225.210 のかたへ。
「著作権を侵害する可能性のある転載はご法度ですから、自分の言葉で書き直して、その上で参考文献を明記せよということですね」…はい、僕はそう思います。上でも述べましたが、僕の言うことを鵜呑みにしないでください。僕はウィキペディアや著作権に関して何の権威でもありません。
と、ここまではいいとして、「簡単なこと」等については、もはや本項目「日本語の誤用」とはほとんど無関係になるので、会話ページに書きました。できればそちらもお読みください。 --fcp 2007年2月7日 (水) 16:51 (UTC)[返信]

良さそう[編集]

「良さそう」は誤用で「良そう」が正しいという趣旨の書込みが本文になされました。すでにコメントアウトしましたが、最後には「情報源を示せ」に逃げてしまったので、不掲載の理由としては充分でも、掲載されたIPさんに納得してもらえない虞があります。納得していただかなければ今後も誤用といえない例の掲載が続きそうなので、改めて説明いたします。

  • 古めの文学作品にも「良さそう」や「よさそう」は出現します。対して「良そう」には該当がありませんし、「よそう」で該当するのは「そうよ、そうよ」の一部や「やめよう」という意味の「よそう」ばかりです。IPさんのおっしゃる「誤用」のほうが古めの文学作品では一般的で、「正しい」形は使われていないわけです。
  • 古い文学作品から離れて現代のウェブ全般を検索しても、出てくるのは「予想」や「いそう(居そう)」の誤変換ばかりです。IPさんのおっしゃる「正しい」形は昔使われていなかっただけでなく、現代でも使われていないようです。
  • 確かに「悲しい・悲しそう」「嬉しい・嬉しそう」などの例から規則的に類推すると、「良い」に対しては「良そう」という形が立ちそうではあります。しかし、上記のとおり、その規則から外れた形のほうが過去も現在もむしろ一般的で、規則に合致する形はほとんど使われていないわけです。規則から外れているからといって古くから一般的に流通している形を「誤用」として、規則に合致しているというだけで実際にはほとんど使われていない形を「正しい」とする態度は、日本語を人為的に改変しようとするもののように感じます。「できない」「落ちない」など他の動詞の活用からの類推では「来ない(こない)」という形も規則から外れていますが、これも誤用なのでしょうか。
  • ワープロ登場以前からあるので少なくともワープロの誤変換に起源を求めるのは無理です。そもそもワープロ登場以前に「良さそう」という形がなかったとしたら、「よさそう」では変換できないはずです。規則から外れる「良さそう」がワープロで変換できるのは、ワープロが登場した時点で「良さそう」という形が一般的だった証拠です。
  • 「良さそう」が誤用だという主張をここ以外で聞いたことがありません。

モノノハズミ 2007年1月31日 (水) 19:11 (UTC)[返信]

ご指摘ありがとうございます。「良さそう」については、またしてもガセネタをつかまされていたのを鵜呑みにして書き込んでしまったみたいですね。何事にも例外というのは存在するわけで、モノノハズミさんや他の方からもいろいろ言われているように、僕の拙い日本語能力を基準にしているわけじゃないのですが、でも「とんでもない」はそれ自体で一語として成立するのであり、「とんでもないです」は乱れとして議論する余地があるでしょうが、「とんでもありません(ございません)」や「とんでもなく(なかった)」はおろか、「トンでもない」や「とんでも○○」は誤用かどうかを議論する以前の問題なので、削除しましたが。

みなさんからのご意見を汲んで、わたくし210.155.225.210から『日本語の乱れ』も含めていくつか変更・分割・移動を提案したいと思います。何の予告もなしにドラスティックに変えてしまうと混乱を招きますから。※「超」の誤用ですが、あれはキーの操作ミスで消してしまったもので、意図的に消去したわけではありませんので、悪しからず。

  1. 敬語表現の誤りに関しては『敬語』に移動。
  2. 若者に多い事例は『若者言葉』に移動したほうが良いかと。
  3. 感情的な表現は削除して構わないでしょう(とはいっても、ほとんど僕が書いたのですが)。
  4. 『日本語の乱れ』の中の「バイト敬語」と重複する部分はどういたしましょうか。

2007年2月1日(木)13:42 210.155.225.210

納得していただけたようで幸いですが、敬語表現の誤りに関する記述を敬語の項目に移すのには反対です。ただでさえ日本語の乱れ日本語の誤用など違いの明確でない項目が乱立しているのに、これ以上分散させてどうするのですか。--モノノハズミ 2007年2月1日 (木) 13:06 (UTC)[返信]

とんでもない[編集]

いろいろアドバイスありがとうございます。

  • 表記「とんでもない」ですが、ウィキペディアには字引的であるためふさわしくありませんし、ウィクショナリーにも不適当かと思いまして、「誤用しやすい言葉」として本ページに載せることにしました。出典は国語辞典なのですが、どこに明記すれば良いでしょうか。「とんでもないです」ですが、以前「平成教育委員会」で誤りを正しなさいとの設問があったのを記憶していますし(正解は「とんでもないことです」)、サザエさんのタラちゃんみたいで稚拙だという向きもいると思うのですが。


このページ『日本語の誤用』の各項に関してですが、
  • 「焼きを入れる」というのは誤りだとは言っていません。『本来の意味が忘れられてそれが定着してしまった言葉』と言いたかったのですが、言葉が足りないばかりに十分に伝えきれていなかったようで、誤解を与えてしまったようですね。
  • 『日本語の乱れ』との区別がつかないというご指摘に関して僕なりのカテゴライズのしかたを述べておきます。今後はそれに従って適材適所に移動したいと思います。
  • 『日本語の乱れ』- (1)表現の“ゆれ”。(2)正しいとは言えないけれども、誤用と決め付けることは難しい、しかし場合によっては「おかしい」という意見が出される用法。
  • 『日本語の誤用』- (1)規範誤用。(2)混用・乱用しやすい言葉。(3)異なる言葉との混交。(4)誤った敬語表現。

210.155.225.210 2007年2月6日(火) 11:46 

210.155.225.210 のかたの論で僕がおかしいと感じるところを以下に指摘いたします。
  • 結局「日本語の誤用」とは何ですか。これを明確にしないことには、本項目に何が書いてあるのかすら不明瞭です。以下 3 点補足します。
    1. 項目「日本語の誤用」によれば、

      日本語の誤用(にほんごのごよう)とは、規範的な日本語(標準語)(共通語)と異なる日本語の表現である。

      だそうですが、これと「規範誤用」だの「規範的な誤用」だのとはどういう関係にあるのでしょうか。僕には「誤用」の明確な定義もよくわからない上に、「規範誤用」とか「規範的な誤用」とかはますます理解できないのですが、既にこの段階で本項目の論理は破綻しているように見えます。
    2. 日本語の乱れ」によれば、

      日本語の乱れ(にほんごのみだれ)とは、規範とされる日本語(標準語)(国語)と現実の日本語の食い違いを否定的に捉えた語である。

      だそうで、僕にはこれらの項目で定義されている「日本語の誤用」と「日本語の乱れ」は同じ現象を表している (価値判断が異なるだけ) というように読めます。意味のある分類だとは思えません。
    3. 本ノートの記述中、上の「カテゴライズ」のリストが2月5日にいったん書かれた後2月6日に修正されていることからも、 210.155.225.210 のかたの中で「日本語の誤用」と「日本語の乱れ」がそれぞれ何であるかが明確になっていないことが想像されます。
  • 「焼きを入れる」が誤りだと言っていないのであれば、なぜ「日本語の誤用」という項目の中で事例として挙げているのでしょうか。
  • 「とんでもないです」に限らず、形容詞終止形+「です」が正しいかどうかについては両論あります。
なお、情報源を明示する方法については、「Wikipedia:出典を明記する」と「Wikipedia:脚注」を参照してください。自分で調べる努力もしていただけるとよろしいかと思います。 --fcp 2007年2月6日 (火) 16:00 (UTC)[返信]
(追記) しばらく様子を見ていましたが、相変わらずの調子で編集を続けられているようなので、僕は本項目の改善を諦めます。僕に何かご意見があれば僕の会話ページへどうぞ。
これだけ改善の提案を無視し続けたのだから、将来僕か別の誰かが削除依頼を出したとしても怒らないでくださいね。 --fcp 2007年2月21日 (水) 16:18 (UTC)[返信]

「基本的(には)」→「基本」[編集]

通常は210.155.225.210から投稿している者です。接尾辞「的」の誤用に関して書いたのですが、「基本的には」「気持ち的には」の「的」を取り除いたに過ぎない表現が芸能人の間で使われているのに対して批判した記事を削除されていました。たしかに誤用とか乱れとは意味が違いますし、別項「若者言葉」の中で取り扱うべきでしょうね。僕はあまり好きではないのですが、わたくしの感情だけで投稿を重ねている部分がありますので…。

それと、「中立的な観点」という意味を完全に取り違えて理解しておりました。若者ばかりを批判するのではなく、中高年層の言葉や批判的見地に関しても「おかしいよ」ときちんと言ってきたのですが、若者だからとか高齢者だからとか、男性だから、女性だからというのでもなく、いかなる私的感情に基づく批判もしてはならないということですね。—以上の署名の無いコメントは、203.140.211.24会話/whois)さんが[2007年3月7日 (水) 06:01]に投稿したものです。

一姫二太郎[編集]

コメントアウト部を転記。manjushage(talk) 2007年5月1日 (火) 11:36 (UTC)[返信]

一姫二太郎
  • 最初の子供が女児、次の子供が男児であること。→×娘一人と息子二人。

<!--(語源を 辿りたい どなたか 解る人宜敷お願いします)-->

    • 元々は、最初の子が女であると、比較的おとなしく育てやすく、子育てに慣れてから男の子を育てると楽に行くため、女の次に男の子が生まれるのが理想的だという意味である。

<!--確かに現代ならそうでしょうね しかし この言葉 どうも 江戸時代から有ったみたいですよ 家の跡継ぎの問題で 死亡が多く男一人では 心許ないし 最悪の場合 娘なら 婿養子との考えだったと 確かな語源がはっきりすれば おのずから 解るのですが--><!--この手の話はノートでするべきかと思いますし、現代でなくても、女の子は大人しい場合が多かったということではないでしょうか。農作業中とかにやや手がかかりにくいのも事実だとおもいます。-->

毒婦[編集]

毒婦について、疑問が投げかけられていますが、これはスラングなのではないかと思います。一般的に使われた言葉ではなく誤用として取り上げるものではないのでは。--Tiyoringo 2007年8月31日 (金) 09:00 (UTC)[返信]

憮然[編集]

憮然について、この言葉は疑問です。この言葉をさすがに「正しい意味」とやらで使っている事はほとんどないでしょう。日本語の変化の項目に移してもいいと思います。--バオール 2007年9月20日 (木) 23:29 (UTC)[返信]

統合報告[編集]

気になる日本語を統合したことを報告します。末尾にコメントアウトしてあります。独自研究的な記載もありますが、本記事へ生かす形で組み込める内容もあるかもしれません。--fromm 2007年9月22日 (土) 19:13 (UTC)[返信]

中立的な観点[編集]

この記事は、中立的な観点に基づく疑問が提出されています」とありますが、このノートを見てもどこ疑問が提出されているのかが分かりません。とりあえず、剥がすか議論をするかどちらかに絞りたいのですが、どうしましょうか?manjushage 2007年11月6日 (火) 15:24 (UTC)[返信]

はがして議論を募るでいいんじゃないでしょうか?本当に問題があるならすぐに再貼付け&論点提起があると思います。Fuji 3 2007年11月28日 (水) 04:11 (UTC)[返信]

分野ごとの誤用例(教育方面)[編集]

本文に書くほどではないですが、思いついたのを幾つか。

義務教育
二つの誤解がある。現行日本法では、保護者や社会に対する義務であり、子どもに対する義務ではないが、子どもが登校する義務であると思っている人も多い。義務教育は小中学校教育と同義ではないが、小中学校に通っていれば外国人だろうと学齢超過者だろうと義務教育と呼んでしまう人も多い。
中等教育・高等教育
中等教育は中学・高校レベルの教育であり、高等教育は大学レベルの教育だが、高等教育を高校の教育と認識している人も多い。
中学浪人・高校浪人
誤用というより定義のぶれであるが、中学卒業・高校入学の際の浪人を、中学浪人という人と高校浪人という人がいる。そしてそれを中学浪人という人でも、高校卒業・大学入学の際の浪人のことは大学浪人という例がある(実際、ある教育辞典ではそうなっている)。
○卒
新聞などでも「高卒の人」を「大卒でない人」の意味に使う例がある。本来は大卒でも高卒の中に含まれる。
最高学府
東京大学の意味に限定して使われる場合が結構ある。本来は大学全体を指す言葉だが、現在は大学院を指すのが適切か?

むしろここより教育にまつわる誤解のような記事があればふさわしいと思うのですが、スタブになるのも気が引けるので。--Tourist 2007年12月23日 (日) 18:05 (UTC)[返信]

規範的な日本語について[編集]

この記事の多くを執筆・編集なさったかたがたはもうご覧にならないかもしれませんが、あえて質問させてください。この記事の冒頭で、日本語の誤用の定義の中にある「規範的な日本語」というものは、どこにあるのでしょうか。この場合のどこというのは、具体的に「規範的な日本語」が示されている場所のことをさしています。私は寡聞にして規範的な日本語というものを今まで眼にしたことがなかったものですから、ぜひ一度拝見したいと思ってご質問させていただきました。なにしろこの記事を編集したいと思っても、規範的な日本語が何かわからないと、私には無理ですので、恥をしのんでうかがうことにしました。よろしくお願いいたします。--春秋君 2008年4月20日 (日) 07:19 (UTC)[返信]

「ぢー」と「でぃー」[編集]

ShikiHでございます。ヂーと書いてディーと読ませることもかつてあったとは、知りませんでした。文字資料はたくさん残っているのに、音声資料が少ないことが原因とは思いますが、それであっても私の不勉強でございます。これからもご指導ください。--ShikiH 2008年8月24日 (日) 03:52 (UTC)[返信]

「べし」の連体形と終止形[編集]

ShikiHでございます。ネコバットさんにお伝えします。確かに誤字があります。他社は他者じゃなくてはなりません。他にもございますか? これが理由だとすると、ここさえ直せばよろしいでしょうか?(追記)誤字がちょっとあったからって削除するのはちょっと大げさじゃありませんか? あなたは今でもそうしてきたかも知れませんが、ひるがえってネコバットさんはちょっと誤字があるからと言って何十行も削除されて気にしないんですか?

ShikiHさん、こちらこそよろしくお願いします。
なにかShikiHさんとネコバットさんとで編集合戦になりそうなので、仲裁というわけではありませんがちょっと発言させてもらいます。
「耳障り」の本来の意味については、ShikiHさんの版のほうが辞書に載っているものに近いようです。単にうるさいこととまで定義を簡略化してしまうと、耳障りという語の意味を知らない読者には、他人の発言の内容が耳障りなのではなく、単に声量が大きすぎてうるさいという意味に取れてしまいます。ネコバットさんは耳障りの意味など常識だから詳しく書く必要はないと判断されたのかもしれませんが、耳障りという語の意味を知らない読者の存在は決して無視できません。むしろ、そういう読者がいるからこそ、この記事の存在価値があるのです。
ただ、「『べき』は連体形である。言い切るなら『べし』」というのはいかがなものでしょうか。確かに古文の文法としてはそのとおりですが、それを言い出すとShikiHさんがいみじくも当の編集要約で「連体形で『ある』」と書いておられるのも連体形であり、昔なら終止形では「あり」としなくてはならないところですよ。 現代文では「あり」の終止形は「ある」が当たり前になっているくらいですから、「べき」でも「べし」でもどちらでもよいと思います。お二人ともどちらかに拘る必要はないかと。
変換ミスについては、ネコバットさん、どの変換ミスのことですか?
モノノハズミ 2008年8月24日 (日) 05:37 (UTC)[返信]

Mononohazumiさんにお伝えします。終止形、連体形については現代の辞書に従いたいと思います。とりあえずはネットのgoo辞書が手軽なのでこれをみます。

あ・る 1 【有る/在る】 (動ラ五)[文]ラ変 あ・り   [二](補助動詞)

名詞に断定の助動詞「だ」の連用形「で」を添えたものに付いて、指定の意を表す。 (1)ある物事と他の物事とが等しい関係にあることを表す。 「彼は学生で―・る」「一足す二は三で―・る」 (2)ある物事が何らかの類に属することを表す。 「トラはネコ科の動物で―・る」「吾輩は猫で―・る」 (3)ある状態、ある事態にあることを表す。

「あたりは一面の銀世界で―・る」「彼はもう退職したはずで―・る

蛇足とは思いますが、(動ラ五)とは動詞ラ行五段活用ですから、言い切りの形は「ある」。次は「べし」と「べき」についてみてみます。

べし 現代語でも、やや文語的な言い方として、一部の用法がなお行われている。

[一]現代語の場合。未然形「べから」、連用形「べく」、終止形「べし」、連体形「べき」が用いられる。(2)(「べきだ」「べきである」「べからざる」などの形で)義務づける意味を表す。 「この際、あまり無責任な批判はなす〈べき〉ではない」「人権はおかす〈べから〉ざるものだ」 (3)(終止形「べし」を文末に用いて)命令の意を表す。
べき 〔助動詞「べし」の連体形〕推量の助動詞「べし」の残存形として、現代語でも次のように用いられる。 (1)当然のなりゆき、あるいは、そうなるはずの事柄を述べる。 「いま満開のこの花もやがては散る〈べき〉運命にある」「最近における少年犯罪の増加は恐る〈べき〉ことだ」 (2)〔「べきだ」「べきである」などの形で〕義務づける意味を表す。 「この件についての責任はすべて幹部がとる〈べき〉だ」「無責任な批判はなす〈べき〉ではない」

わずかな例文しか載っていないのですが、「べき」で言い切るのは載っていません。現代では誤用とすべきでしょう。

拗音の消失にについては項目名を変更なさったようですが、賢明と思います。ティーに拗音なんてないですよね。

編集合戦を心配していらっしゃるようですが、編集合戦にはしません。どうぞ「べき」で言い切る文のままになさってください。--ShikiH 2008年8月24日 (日) 11:59 (UTC)[返信]

あくまで個人的な感覚ですが、「べき」で言い切られるとShikiHさんと同じく、なんだか落ち着かない気分になります。「べし」がやや古風であるとしても、ここはせめて「べきだ」「べきである」など終助詞を補って欲しいし、そのほうが百科事典の文体としては相応しく感じます。--死郎 2008年8月24日 (日) 13:25 (UTC)[返信]
ShikiHでございます。賛同くださってありがとうございます。ただし、「べきだ」は助動詞+助動詞、「べきである」は助動詞+助動詞+補助動詞です。(他の考え方もあるかもしれませんが、上の辞書ではそうなってます。)
私はネコバットさんとShikiHさんが「べき」と「べし」とで編集合戦になりかけているようだったので、「べき」でも「べし」でもどちらでもいいじゃないか、そこまで拘ることではないと言っているのですよ。私も個人的な好みとしては死郎さんに近いですが、かといって、ネコバットさんが「べき」に拘っていらっしゃる様子なのを無理に「べし」に直すべきだとまでは思いません。--モノノハズミ 2008年8月24日 (日) 13:44 (UTC)[返信]


ShikiHでございます。わたしは「べき」で言い切るのは誤用だと考えています。もし何かの真面目な文法論議であれば、ゆずりません。ただしウィキペディアではこの程度の間違いはいくらでもあるので、放っておくことにするだけです。誤字が一文字あったからrvするような人には、私が正しいという説を十積んでも、百積んでも聞き入れてはもらえませんから。ところでMononohazumiさんは、もし編集合戦にならないとしたら、どちらに賛成なんですか? ラ変の「あり」の終止形は「ある」に変ったのだから、「べし」の終止形も{べき」に変ったとお考えですか? 確かに国語の活用形は連体形が次第に優勢になり、終止形に取って代わる傾向があります。しかし「べし」は未だその段階ではないと考えます。上の辞書もその見解です。これだけ大勢の方々が、べきで言い切る形を認めていると言うことであれば、そろそろ現代語としての助動詞「べし」の活用形を考え直す時期なのかも知れません。どうかご高説を賜りたいと存じます。--ShikiH 2008年8月24日 (日) 17:08 (UTC)[返信]

編集合戦にならないとした場合の私の本音は、2008年8月24日 (日) 13:44 (UTC)に書いたとおり、死郎さんに近いです。--モノノハズミ 2008年8月25日 (月) 12:18 (UTC)[返信]

ShikiHでございます。今日、友人(と言ってはちょっと失礼か先輩に)このことをきいてみました。質問がいい加減でうっかりしてたのですが「べきで文を言い切ることがありますか?」と聞いてしまいました。答えは「いくらでもある。」でした。すなわち係結びです。しまったと思ったけれど、すでに手遅れ。「係り結びでない場合もべきはあるでしょうか?」とたずねたところ、お答えはいただけませんでした。勉強し直してこい、そんなの高校生でも知ってるぞ、という意味でしょう。つまり係り結びではない「べき」の言い切りはないというのが、そのかたの意見です。個人的な話題ですが、一応ここに記します。--ShikiH 2008年8月25日 (月) 17:03 (UTC)[返信]