ノート:煉獄
ダンテの「神曲」の内、具体的のどこの箇所で、陰府=煉獄っていってるんでしょうか? 記憶にないのですが。--以上の署名のないコメントは、218.225.96.169(会話)さんが 2004年1月4日 (日) 10:07 (UTC) に投稿したものです(Lorettibarrend(会話) 2014年2月27日 (木) 10:20 (UTC)による付記)。
検証可能性
[編集]記事を詳しくして下さったLorettibarrendさんの編集に感謝致します。ただ、田中治郎氏は主に仏教のエッセイや解説書を書いている作家であり、カトリックやプロテスタントの聖職者でもなければ、キリスト教神学や哲学の研究者、教授、講師等でもありません。神学や哲学を専攻しているのか、その学位も確認できません。よって、この分野の専門家とは言えず、カトリック神学のこうした問題の典拠としては、Wikipedia:検証可能性が不十分と思われますので、、申し訳ないのですが、コメントアウトさせて頂きました。免罪符はプロテスタントの用語で、第二バチカン公会議後もカトリックでは贖宥状から表記の変更は行われておらず、いろんなところで、誤解、誤記があるように思われます。宗教改革当初、ルターは「私は煉獄があることを知っています」と認めており、その後否定に入りますが、宗教改革や免罪符の経緯からプロテスタントが煉獄を否定するという話も、この方の誤解ではないかと思われます。確かにルターは免罪符を問題視しましたが、それは煉獄の存在を疑ったからではなく、免罪符を教会が金銭で売りさばき、膨大な資産を作り上げていたからです(シモニア的な行為)。また、煉獄の否定を始めたのは、マカバイ書の否定によるところが大きいでしょう。こうしたところの説明を書いて下さるのも結構なのですが、なるべく、聖職者かキリスト教神学・哲学の研究者を典拠に持ってきて下さいますと、その専門性を確認しやすくなりますので、幸いに思います。--Michael tiara(会話) 2014年2月21日 (金) 00:44 (UTC)
- 本文を編集し、一部を元に戻しました。田中治郎氏の著書の検証可能性についてのご指摘はごもっともだと思いますが、除去するのもどうかと思いましたので。プロテスタントが煉獄を否定した経緯については、マルティン・ルター#論争・贖宥状問題の項を見れば、贖宥状(免償符)の是非は別としても、それを金銭で売買していたことが宗教改革のきっかけの一つとなったという説が書かれていることから、田中氏独自の誤記・誤解とまでは言えないのではないかと思います(私自身、世界史の授業でそのように習ったような記憶がありますし、おそらくプロテスタントの方たちはそのように認識しているのではないでしょうか)。ただ、よく言われる「免罪符」は誤訳であることを脚注に明記しておきました。それと現代の日本のカトリック教会では「贖宥」ではなく「免償」に表記が改められていますので、それも書いておきました。
また、聖書の引用は、 プロジェクト:キリスト教/キリスト教の記事名と用語表記のガイドライン#聖書の人名・書名で新共同訳聖書による表記を基本とするようになっているのを準用して(バルバロ訳などはだめということではないんですが、)申し訳ありませんが訳文を書き変えました。--Lorettibarrend(会話) 2014年2月27日 (木) 10:20 (UTC)- コメント、ご説明、そして編集に感謝致します。取り急ぎ、一点だけ指摘させて頂きます。煉獄に関してのみは、使用する訳はバルバロ訳の方がいいと思います。一応、フランシスコ会訳、新共同訳も参照したのですが、煉獄の根拠や傍証として語るには、一部に、しっくりこない箇所があります。それもそうで、後者二者は、主に現代の日本人研究者らによるギリシャ語、ヘブライ語からの直訳なのに対して、前者はカトリックが長らく伝統としてきたウルガタ訳からの重訳(原語はところどころ参考とはしたものの)になりますので、それを批判する研究者もいますが、反面、ローマ教会が二千年近くにわたって培ってきた先行研究が反映されやすいのです。カトリックにしかない教理の微妙な箇所を説明するには、カトリックの伝統をより反映している訳の聖書からの方が、向いています。Lorettibarrendさんはガイドラインをご指摘ですが、それが拘束する範囲は、記事名と用語(単語名)だけだと思います。聖書の聖句をピックアップする場合において、必ず新共同訳を用いなくてはいけない、ということはないでしょう。実際、地獄_(キリスト教)などは、新共同訳聖書ではない、口語訳聖書から引用されていますが、手は加えられていません。かかる理由から、煉獄に関してのみは、それがカトリックのみの教理であることもありますし、引用にあたってはバルバロ訳の使用を提案させて頂きたいです。--Michael tiara(会話) 2014年2月27日 (木) 13:21 (UTC)
- コメント 基本路線についてはLorettibarrendさんに共感するところが大きいのですが、煉獄の教義はカトリック教会のみのものであり、(記事名・用語についてのガイドラインですが、仮に準用するとすれば)超教派記事の指針ではなくプロジェクト:キリスト教/キリスト教の記事名と用語表記のガイドライン#カトリック教会が準用の参考になるかと思います。そうすると聖書引用・聖書に準拠する用語については、バルバロ訳で良い(3. カトリック教会の教役者による出版物)という事になるでしょう。--Kinno Angel(会話) 2014年2月27日 (木) 14:47 (UTC)
- コメント、ご説明、そして編集に感謝致します。取り急ぎ、一点だけ指摘させて頂きます。煉獄に関してのみは、使用する訳はバルバロ訳の方がいいと思います。一応、フランシスコ会訳、新共同訳も参照したのですが、煉獄の根拠や傍証として語るには、一部に、しっくりこない箇所があります。それもそうで、後者二者は、主に現代の日本人研究者らによるギリシャ語、ヘブライ語からの直訳なのに対して、前者はカトリックが長らく伝統としてきたウルガタ訳からの重訳(原語はところどころ参考とはしたものの)になりますので、それを批判する研究者もいますが、反面、ローマ教会が二千年近くにわたって培ってきた先行研究が反映されやすいのです。カトリックにしかない教理の微妙な箇所を説明するには、カトリックの伝統をより反映している訳の聖書からの方が、向いています。Lorettibarrendさんはガイドラインをご指摘ですが、それが拘束する範囲は、記事名と用語(単語名)だけだと思います。聖書の聖句をピックアップする場合において、必ず新共同訳を用いなくてはいけない、ということはないでしょう。実際、地獄_(キリスト教)などは、新共同訳聖書ではない、口語訳聖書から引用されていますが、手は加えられていません。かかる理由から、煉獄に関してのみは、それがカトリックのみの教理であることもありますし、引用にあたってはバルバロ訳の使用を提案させて頂きたいです。--Michael tiara(会話) 2014年2月27日 (木) 13:21 (UTC)
- 失礼しました。聖書翻訳を新共同訳に変えたのは正直迷ったあげくの編集だったのですが、理由は他にもあって、『カトリック教会のカテキズム』では新共同訳を引用していることと、Michael tiaraさんと逆の考えで、カトリック独自の教義でもあえてバルバロ訳やフランシスコ会訳ではなく新共同訳から引用することによって、カトリック以外の人が読んでも聖書に根拠があるというカトリック側の言い分をある程度理解できるのではないかと考えました。また、直訳と重訳の違いなどいろんな意味でもいちばん無難だと考えたからでした。しかし、お二方のご意見もごもっともだと思いますし、特にKinno Angelさんが指摘されたガイドラインの(3. カトリック教会の教役者による出版物)というのも納得です。私自身は新共同訳にこだわりはありませんので、元のバルバロ訳引用に戻すか、あるいは(それほどの行数でもないので)新共同訳とバルバロ訳の併記でもいいかなと思います。--Lorettibarrend(会話) 2014年2月28日 (金) 14:08 (UTC)
- Michael tiaraさんから御異議無ければ、Lorettibarrendさん御提案の「併記」でも宜しいかと存じます。--Kinno Angel(会話) 2014年2月28日 (金) 15:36 (UTC)
- ご意見下さり、ありがとうございます。聖句は両方あっても見づらいので、差し支えがないのでしたら、バルバロ訳単独記載の方が私には良さそうに思います。好意的なコメントに、感謝致します。--Michael tiara(会話) 2014年2月28日 (金) 21:49 (UTC)
- Michael tiaraさんから御異議無ければ、Lorettibarrendさん御提案の「併記」でも宜しいかと存じます。--Kinno Angel(会話) 2014年2月28日 (金) 15:36 (UTC)
(インテンド戻します)田中治郎の本は、著者が仏教系の作家であることから本記事に関しては、出典としての検証可能性を満たしていないものと思われます。件の記述を維持する為には、最低でも、別の典拠を参照のうえ、差し替える必要があるかと思います。また、ルターが宗教改革当初、煉獄の存在を肯定していたことは、里脇枢機卿の著書にも書いてあり、贖宥状への疑義が煉獄の否定に繋がったのは、整合が難しいと思われます。また、冒頭の定義は、わかりにくかったので、以前の形に戻しました。ここは、カテキズムの解説空間ではなく、まずは辞書です。したがって、AはBである、という簡潔明解な定義が、まず最初に載っていることがベターかと思われます。『カトリック教会のカテキズム』は、必ず辞書向きの形で説明されているとは限らず、そのまま引用されるのが、常に良いとは限りません。よって、記事増補のついでがてら、既存の説明を一部、修正させて頂きました。--Michael tiara(会話) 2014年3月9日 (日) 19:36 (UTC)
- たしかに『カトリック教会のカテキズム』にこだわる必要もないかもしれませんが、Michael Tiaraさんはなぜカトリック教会の公式要理書である『カテキズム』を用いた説明に否定的なのでしょうか?そのように言われるのは個人的に少し不愉快です。里脇枢機卿の著書にケチをつけるわけではありませんが、いまの冒頭文の編集内容では誤解を招きませんか?冒頭文の「天国には行けないが、地獄に墜ちるほどでもなかった死者」という記述は(説明不足なのか)、『カテキズム』で説明される「神の恵みと神との親しい交わりとを保ったまま死んで、永遠の救いは保証されているものの…」と厳密には意味が違ってくるような気がするのですが。カトリック教会の教義では、煉獄の霊魂は天国に行けないわけではなく、すぐには行けないが清めの期間の後に天国に行けるはずです。これは元に戻すか修正・補足の必要があるのではないかと思いますが。
それと、田中氏の著書の検証可能性についての疑問はわかりますが、プロテスタントが煉獄を否定する経緯・理由について贖宥状の売買が原因の一つというのは田中氏だけが唱える説ではなく、上にも書いたようにすべて除去してしまうのはよくないのではないでしょうか。繰り返しますが、マルティン・ルター#論争・贖宥状問題の記述と整合性がとれなくなってしまうと思うので、一部は復帰しました。Michael Tiaraさんの編集ではカトリックPOVと批判されるおそれはないでしょうか。--Lorettibarrend(会話) 2014年3月10日 (月) 09:08 (UTC)
- 長らく様子を見ていましたが、やはり誤解を招かないように、冒頭文の里脇枢機卿の著書からの引用部分を外すなど、いくつかの修正をしました。--Lorettibarrend(会話) 2014年12月7日 (日) 14:07 (UTC)
煉獄の入り口の挿絵について
[編集]ページ上部の「煉獄の入り口」とされるギュスターヴ・ドレの挿絵ですが、この挿絵は煉獄編24歌に登場する大木の挿絵であり(103行〜114行にその描写があります。)、煉獄の入り口を描いたものではないと考えます。 The World of Dante http://www.worldofdante.org/gallery_dore.html のページのギュスターヴ・ドレの挿絵Purgatoryの項においても「24.106 strange tree」と記されています。--Saniya.shintaro(会話) 2020年6月4日 (木) 07:14 (UTC)