ノート:角山栄
国立民族学博物館でなく京都大学人文科学研究所
[編集]すみません、国立民族学博物館でなく、京都大学人文科学研究所でした。--以上の署名のないコメントは、222.226.220.200(会話/Whois)さんが 2012年12月21日 (金) 00:35 に投稿したものです(Wjp28y(会話)による付記)。
- 文献に関する注意を受けましたので、文献に基づくよう修正しました。次回以降、署名いたします。--以上の署名のないコメントは、222.226.220.200(会話/Whois)さんが 2012-12-24 03:14:15 (UTC) に投稿したものです。
独自研究タグを除去
[編集]独自研究という批判に答え、十分な文献を追加しました。ラベルは不要と判断し、消去しました。署名スミマセン。--以上の署名のないコメントは、222.226.220.200(会話/Whois)さんが 2013-07-09 04:15:38 (UTC) に投稿したものです。
- 文献の問題ではなく、その文献を並べ、論点を整理する手法が独自研究ではないかということです。ウィキペディアで許されるのは、何年に何大学教授になったという明らかに客観的な事実、および何を論じたか、どういう批判がありそれにどう答えたかといったことです。たとえば「世界に先駆けた民俗学と文化人類学の共同研究であった」という記述には、裏付けが必要ですし、これは大言壮語に当たります。また「大塚史学」への批判というのも、しかるべき文献によらねばなりません。また「角山らの研究はグローバルヒストリーという名前で呼ばれ、ウォーラスティンの世界システム論の先駆とされる」も、秋田茂が言っているだけでは、「される」という客観性を持たず、仮にそれが事実だとしたら、海外の研究者からもそう評されていることを示すべきで、これも大言壮語ぎみです。また「世界交易からの産業論は、次がある。ただし、ブローデルの地中海(1500年ころのヨーロッパ)の書は、これらに先立つ。」以降は、編集者自身の見解であり、独自研究になります。61.124.87.87 2013年7月9日 (火) 07:16 (UTC)
ご示唆、ありがとうございました。考えてみます。ただ、文献に書いてあることを、まとめただけであることを、ご確認ください。
- 「世界に先駆けた民俗学と文化人類学の共同研究であった」→文献にあります。
- 「角山らの研究はグローバルヒストリーという名前で呼ばれ、ウォーラスティンの世界システム論の先駆とされる」も、秋田茂が言っている、海外の研究者からもそう評されていることを示すべき
- →文献を沢山上げればいいのでしょうか、文献の半分以上が角山の業績を称賛していることを示せばいいのでしょうか。wikipediaの基準では、そんなことは要求されていません。
- ①事実です。②文献があります。
- wikipediaの基準にないことを、独自に付け加えるべきではないでしょう。
- →文献を沢山上げればいいのでしょうか、文献の半分以上が角山の業績を称賛していることを示せばいいのでしょうか。wikipediaの基準では、そんなことは要求されていません。
- あなたの基準に従えば、批判や肯定的な評価を書くにも、世の中の批判が、賛同以上になることを書かねばなりません。
例えば、私は大塚久雄を書きましたが、あなたの基準では独自研究になります。あなたは、自分の好みで次を主張されている。 ①適用対象を変えている。角山栄はダメだが、大塚久雄はいい。 ②wikippediaの基準をあなた独自のものに変えている。 大塚久雄の海外の評価が必要になりますね。お示しください。大塚久雄に関する批判も、海外の評価が必要になりますね。お示しください。
- 結局、あなたの言っていることは、真実は問題でなく、学問とは多数決で決まると言うことではないでしょうか。
自分の気に入らないことでも、事実は事実です。事実とは、wikipediaでは、文献があることです。世の中の半分以上がそれを認めているということを、証明する必要はありません。また証明など出来ません。
- あなたに言いたいことは、自分の好みで、すなわち、大塚久雄は好きだから、評価にあなた独自の基準は使わない、角山栄は嫌いだから、あなた独自の基準を使う、と言う恣意性のある行動基準を取っておられるのではないかということです。
私も少し冷静になる必要があると思います。あなたも、私の批判を考え、大塚久雄と角山栄への適応基準を考え直して見てください。
- 角山栄がやったことは、いかなることなのか。角山栄の対する評価がないのか。角山栄に対するwikipediaの規則を変えてもいいのか。
言いたいことは出尽くしたと思っていますので、反論は歓迎しますが、再反論は書かないつもりです。
追加、私の基準
書く上で、どうしても偏りがでます。私の知っている範囲で、よい点も悪い点も書きます。しかし、神でない以上、客観性はあり得ません。偏っていると解っていても、読める量に限りがありますから、私には避けることはできません。そのため、ノートで、偏りがあるから、別の見方をする文献がある場合、書いて欲しいと書いています。もうひとつ、人物の項目では、できるだけ肯定的に書くべきだと私は思っています。一般項目は別です。
- 角山栄に関しては、私は偏りがあるとは思っていません。
- ①角山の仕事は、書いたとおりです。②文献があります。
失礼があったのならば、お許し下さい。失礼します。何度も繰り返しますが、再反論は、書かないつもりです。もし、角山について、別の見方を示す文献があるなら、書き加えてください。--以上の署名のないコメントは、222.226.220.200(会話/Whois)さんが 2013-07-09 16:47:48 (UTC) に投稿したものです。
ご指摘に従い修正しました
[編集]ご指摘もっともであり、修正しました。不十分なら、また指摘してください。
- 当時、民俗学と文化人類学の共同研究は一般的ではなかった。[2][3]
- 角山らの研究はグローバルヒストリーという名前で呼ばれるもので、ウォーラスティンの世界システム論に数十年先立つ[14][15][16]
以上修正分です。
- 以下未修正です。
- 世界交易からの産業論は、次がある。ただし、ブローデルの地中海(1500年ころのヨーロッパ)の書は、これらに先立つ。
- 1949年-1960年、 角山栄、世界貿易から産業革命を見る研究
- 1974年、 ウォーラースティン『近代世界システム』(新大陸アメリカ、ヨーロッパ、アジアの資本主義三角交易)
- 1997年、 川勝平太『文明の海洋史観』
独自研究でしょうか。批判を列挙するのと、世界交易論からの産業論を列挙するのは、同じではないでしょうか。批判は、角山の業績を限定する行為です。産業論を列挙するのも、業績を限定します。ただし、この場合、評価の高くない角山には、業績の限定とともに、意義を与えるのは確かにそうでしょう。
- しかし、事実という核があり、私のやったことは、角山に関する事実を並べただけです。独自研究に見えるのは、実際には客観的記述です。
- 事実を並べられなければ、wikipediaには、何も書けなくなります。
- 要するに、同じ事実を並べた時、
- ①客観的な記述になる(正確には見える)のは、その人の業績がよく知られた時、
- ②客観的でなく主観的になる(独自研究に見える)のは、その人の業績が知られていない時
事実を述べる行為は、同じではないでしょうか。
私の主張が、wikipediaの基準に合っているか、判断がつきません。もう一度、調べなおしてみます。--以上の署名のないコメントは、222.226.220.200(会話/Whois)さんが 2013-07-10 01:38:19 (UTC) に投稿したものです。