ノート:還住 (青ヶ島)
この「還住 (青ヶ島)」は、下記のような選考・審査を経て良質な記事に選出されています。さらなる加筆と改善によって、秀逸な記事となるような編集を歓迎します。 |
日付 | 選考・審査 | 結果 | |
---|---|---|---|
1. | 2011年11月11日 | 良質な記事の選考 | 通過 |
たまたま手にとってみた「青ヶ島島史」の還住の経緯があまりにも面白かったので作成してみました。ただ青ヶ島島史は文章の推敲がかなり悪く、二次資料として不向きな面が多いです。何とか作成してみましたが今のところ他に良い資料はなさそうですし……誰か還住の詳細な経緯について研究しないかなあ。--のりまき 2010年10月24日 (日) 07:03 (UTC)
- 子供向けの本としては、三田村信行さんの「火の島に生きる―悲劇の島 青ヶ島の記録」(偕成社、1987年)があり、概説書としても十分使える内容だったと記憶しておりますが、現在ののりまきさんの記述を見た限りでは、参考になるのかどうか疑問です(私は子供時代にこの本で、青ヶ島と佐々木次郎太夫の話を知りました)。あと、「日本庶民生活史料集成 第1巻」(三一書房、1968年)には、「八丈島小島青ケ島年代記」という記事があるようですが、実物を見た訳ではないのでどの程度の内容のものなのかは確認する必要があると思います。あと、こちらのサイトに青ケ島関連の文献の一覧が掲載されているようなので、こちらを参考にしてみたらいかがでしょうか?--水野白楓 2010年10月24日 (日) 09:56 (UTC)
- 水野白楓さんどうもありがとうございます。私も「還住」について知らなかったわけではないのですが、青ヶ島島史を読み、猛烈なネズミの害に悩まされたこと、何度も失敗を重ねたこと、そして孤立無援の中、7年間も頑張った開拓者が挫折した理由の一つが「服」であったこと(これは南宋の末期、モンゴル帝国軍の包囲に約5年間耐えた襄陽の開城直前、最も困ったことの一つが確か「服」であったと記憶しており、妙に納得しました)、更には佐々木次郎太夫の青ヶ島-八丈島間を結ぶ船の運行についての指示内容など、実に興味深い内容が並んでいて、文章の推敲が十分でない点が本当に惜しまれます。水野白楓さんに教えていただいたサイト等を参考に、少し気長に記事の充実を図りたいと考えています(それにしても今、青ヶ島と八丈島へ行きたい病に罹ってしまっています…嗚呼)--のりまき 2010年10月24日 (日) 10:12 (UTC)
- とりあえず柳田國男の「青ヶ島還住記」は、ある程度参考になりそうです。少し気長に参考文献を探してみます。--のりまき 2010年10月26日 (火) 09:48 (UTC)
- 水野白楓さんどうもありがとうございます。私も「還住」について知らなかったわけではないのですが、青ヶ島島史を読み、猛烈なネズミの害に悩まされたこと、何度も失敗を重ねたこと、そして孤立無援の中、7年間も頑張った開拓者が挫折した理由の一つが「服」であったこと(これは南宋の末期、モンゴル帝国軍の包囲に約5年間耐えた襄陽の開城直前、最も困ったことの一つが確か「服」であったと記憶しており、妙に納得しました)、更には佐々木次郎太夫の青ヶ島-八丈島間を結ぶ船の運行についての指示内容など、実に興味深い内容が並んでいて、文章の推敲が十分でない点が本当に惜しまれます。水野白楓さんに教えていただいたサイト等を参考に、少し気長に記事の充実を図りたいと考えています(それにしても今、青ヶ島と八丈島へ行きたい病に罹ってしまっています…嗚呼)--のりまき 2010年10月24日 (日) 10:12 (UTC)
改名提案
[編集]本記事名を青ヶ島還住に改名することを提案いたします。
本記事冒頭にも一般的な定義が記されているように、本来「還住」とは、鎌倉時代から江戸時代にかけて用いられた「一度去った居住地に再居住する」という意味の語であり、青ヶ島の歴史に限定して用いられる言葉ではありません。コトバンク(デジタル大辞泉)に掲載されているのも一般的な定義です(『還住』 - コトバンク)。ウィキペディア内の検索結果でも、「還住」は、多くは青ヶ島と無関係な文脈で用いられています。またこうした用例から見ても、将来的に、一般的な歴史用語としての「還住」が別途記事化される可能性もあり得ると思われます。本記事は青ヶ島の子記事になっているわけではありませんが、WP:NC#ある記事の子記事を作る場合で例に挙がっているバスケットボールとその「望ましくない競技態度」、あるいは雑誌とその「分類法」にならい、記事名をより限定的に「青ヶ島還住」とすることで本記事の主題がいっそう明確になるものと考えます。--Ryota7906(会話) 2018年8月9日 (木) 00:28 (UTC)
- 真偽に関する十分な調査は行っておりませんが、民俗学者の柳田国男が月刊誌『嶋』に掲載した『青ヶ島還住記』が初出である旨の記述を見つけることが出来ました。記事名が独自研究(Wikipadia による命名)にならない様に配慮し、語源なども含め内容の充実をした上での改名であれば賛成致します。--X-enon147(会話) 2018年8月9日 (木) 04:24 (UTC)
申しわけありませんが、この場でいったんインデント戻します。私も青ヶ島の噴火災害の事例について「還住」の語を用いたのは柳田国男の『青ヶ島還住記』が初出であると思っていましたし、そのように記述されている文献が多数であることも承知しております。しかし柳田国男が参考資料とした近藤富蔵の「八丈実記」に、青ヶ島の事例に還住を用いているとの文献が出てきました。文献名は『井伏鱒二と柳田国男 「青ヶ島大概記」と「青ヶ島還住記」』、すばる4(9)1982年刊行です。該当部分を引用しますと、「<還住>という語そのものは『八丈実記』中にも使用されていて、『……男女共連々ニ相渡リ当時ハ一同ニ故郷還住仕候』とある」。です。文脈からもと居た故郷に還るという、還住の原義に沿った用法のようですが、今後、八丈実記の原本を確認してみようと思います。従って“民俗学者の柳田国男が月刊誌『嶋』に掲載した『青ヶ島還住記』が初出である”との断定も、慎重に取り扱った方が良さそうです。--のりまき(会話) 2018年8月25日 (土) 02:00 (UTC)
- 詳細なご調査どうもありがとうございます。そもそもの柳田「青ヶ島還住記」にも、「一四」の終わり近くのところで、古文書からとみられる少し長い引用があり、その中に、「今般起し返し働きの儀は、銘々先祖代々住み来たり候故郷へ還住の儀に候えば、名主は申すに及ばず、(以下略)」と書いてありました(ちくま文庫『柳田國男全集I』を参照したため仮名遣い等は現代風になっています)。この引用箇所は出典が明示されていませんが、明示しないままの引用ならおそらく『八丈実記』の可能性が高いものと思われ、やはりこの歴史事象を指すのに「還住」の語を初めて用いたのは、柳田ではなく『八丈実記』の近藤富蔵ということになるかもしれません。あるいはまた、同引用箇所は名主であった次郎太夫の言葉とされていますので、初出は佐々木次郎太夫にまで遡るものと考えてよい可能性もありそうです。ただし、柳田の「青ヶ島還住記」が、江戸後期の青ヶ島への帰還事業に関して、「還住」の語とともに広く認知される契機となったことは否定できないものと思われます。--Ryota7906(会話) 2018年8月25日 (土) 06:31 (UTC)
- 初版の作成者です。還住とは普通名詞ですので、確かに記事名について作成当初から「据わりが悪い」印象を持っていました。ただ、書籍等では「青ヶ島還住」という形で言及された例をほとんど見かけず、「還住」という名前で取り上げられる例が多いと思います。従って「青ヶ島還住」という記事名は私としてはどちらかというと否定的で、例えば還住 (青ヶ島)のような方が良いのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?--のりまき(会話) 2018年8月13日 (月) 09:30 (UTC)
- ネット検索では、東京都教育庁「東京の文化財第112号」(p.7)、NHKの『明るい農村』1978年5月1日放送回、散歩かふぇ ちゃらぽこの2013年3月の講座名に「青ヶ島還住」の語句が見つかりました。言うまでもありませんが柳田国男の『青ヶ島還住記』のほか、地元で伝承されている「青ヶ島還住太鼓」という伝統芸能もあり、記事名を「青ヶ島還住」とすることはこうした関連からもより意義のあることではないかなと個人的には思うのですが。--Ryota7906(会話) 2018年8月13日 (月) 14:37 (UTC)
- Ryota7906さん、どうもありがとうございます。「青ヶ島還住」という用例が見られること自体は私も承知していますが、記事を執筆するにあたって参考とした文献内では「還住」という記述が基本的であったと記憶しています。このところ忙しくてなかなか時間が取れませんが、もう少し文献について確認してみますね。--のりまき(会話) 2018年8月13日 (月) 21:36 (UTC)
- ネット検索では、東京都教育庁「東京の文化財第112号」(p.7)、NHKの『明るい農村』1978年5月1日放送回、散歩かふぇ ちゃらぽこの2013年3月の講座名に「青ヶ島還住」の語句が見つかりました。言うまでもありませんが柳田国男の『青ヶ島還住記』のほか、地元で伝承されている「青ヶ島還住太鼓」という伝統芸能もあり、記事名を「青ヶ島還住」とすることはこうした関連からもより意義のあることではないかなと個人的には思うのですが。--Ryota7906(会話) 2018年8月13日 (月) 14:37 (UTC)
- 初版の作成者です。還住とは普通名詞ですので、確かに記事名について作成当初から「据わりが悪い」印象を持っていました。ただ、書籍等では「青ヶ島還住」という形で言及された例をほとんど見かけず、「還住」という名前で取り上げられる例が多いと思います。従って「青ヶ島還住」という記事名は私としてはどちらかというと否定的で、例えば還住 (青ヶ島)のような方が良いのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?--のりまき(会話) 2018年8月13日 (月) 09:30 (UTC)
インデント戻します。とりあえず公的機関や公的な色彩が強い団体について、ネットで検索した段階ですがご報告したいと思います。まず青ヶ島村「青ヶ島について」では、「青ヶ島へ還住を果たした」という表現です。Ryota7906さんがご紹介された東京都教育部地域教育支援部管理課「東京の文化財第112号」には、「その後旧地再興を指導し、還住を果した」と、「青ヶ島還住を果した名名主」との表現があります。東京アイランドドットコム「青ヶ島」では、「それが“還住”といわれる青ヶ島復興の歴史です」と表記されています。そして東京都教育庁地域教育支援部の東京都文化財データベース「紙本着色佐々木次郎太夫伊信肖像并伝(近藤富蔵筆)」には、「幾多の苦難を乗り越えて還住を成功させたのが佐々木次郎太夫です」との表記です。公益財団法人日本離島センターの「季刊「しま」219号」の記事名は、「起こし返せよ、還住の島、東京都青ヶ島」となっています。全国町村会のページ「創業は難く守成も難し」には、「青ヶ島の島民全員が悲願の「還住」を果たした」とあり、公益財団法人東京市町村自治調査会のページ「青ヶ島村丸山」には「幾多の苦難を乗り越え、島民たちは帰島をすすめ、1835年には故郷の復興を成し遂げ「還住」を果たしました」と書かれています。公益財団法人東京都学校給食会「青ヶ島」は、「天保5年(1835年)還住を果たしました」です。引き続き論文等の表記について、確認を進めていきたいと思います。--のりまき(会話) 2018年8月14日 (火) 10:58 (UTC)東京アイランドドットコムのアドレス誤りを修正。--のりまき(会話) 2018年8月14日 (火) 11:04 (UTC)
- せっかく多数お調べいただいて大変恐縮なのですが、お挙げいただいた例はいずれも「青ヶ島」について言及していることの明確な、文脈がはっきりと限定された文章中における用例ですよね。そうであれば単に「還住」と記すだけで意味は伝わりますので、「還住」とだけ書いた用例が増えるのもむしろ当然でしょう。しかし、ここで問題にしているのは記事名をどうするか、つまり何らの文脈的前提のない状態で、どのような記事名を採用すれば記事の主題が明瞭に伝わるか、を考えることのはずです。この場合に参考にすべきなのは、「青ヶ島」についてそれまで言及のない時点で、この歴史事象をどう表現しているかの事例、ということになるでしょう。具体的には、書籍や文章のタイトルや見出し、講座名や番組名、あるいはこの歴史事象について紹介した文章のリード文や、書籍等の内容を紹介した文中の、この歴史事象へのもっとも早い言及箇所、といったものになるかと思います。今回お挙げいただいた例は、記事本文中で、青ヶ島の歴史について取り上げていることがすでに分かっている箇所以降において「還住」という語を用いることの正当性を補強する材料にはなるでしょうが、記事名についてはその性格上、また別の角度からの検討を加えなければならないのではないかと思います。--Ryota7906(会話) 2018年8月14日 (火) 13:15 (UTC)
- まだ文献の調査中ですので、もう少し多くの文献について調査を進める中でまた、私なりのご意見をお伝えしたいと思います。今のところの私の意見は「還住」という記事名が本当に適切かどうかは十分考慮すべき(もっと適切な記事名があるのではないか)と思っていますが、「青ヶ島還住」が最有力候補とは思えないというものです。より多くの方々のご意見を伺いたいと思いますので、議論活性化を目的としたコメント依頼を出したいと思います。--のりまき(会話) 2018年8月14日 (火) 21:22 (UTC)
青ヶ島を親記事とするなら青ヶ島の還住、還住を親記事とするなら還住 (青ヶ島)かなという印象です。青ヶ島還住に出典が存在することに疑義はないんですが、他の島の還住を解説した記事を立稿する際に前例に従って○○島還住という名前になって、その言い回しに出典がなく独自研究を生むリスクがあるかなと。他の島の還住では○○島の還住として独自研究を回避する策もあるでしょうが、そうするとウィキペディア全体での記事名の一貫性が行方不明です。--2405:6583:D6C0:1F00:EC9F:CEDA:703D:F568 2018年8月16日 (木) 11:15 (UTC)
- そもそも青ヶ島以外の島で、離島後に還住があった事例はあるのでしょうか。--Ryota7906(会話) 2018年8月16日 (木) 21:46 (UTC)
- 島じゃなくても奥羽の還住とかありますよねぇ。海外でも一度居住地を去った者がその土地に戻り再度居住することは別段珍しいことではなく、日本の青ヶ島が唯一の事例と想定するのは怪しいです。--2405:6583:D6C0:1F00:EC9F:CEDA:703D:F568 2018年8月17日 (金) 00:42 (UTC)
- 島では無い例。外部リンク:吉田正志、『加賀藩前期雇傭関係法の性格 (1)』、『福井県文書館研究紀要 第14号(藤井讓治、越前に出された秀吉の禁制)』、青ヶ島以外の島で離島後に還住があった事例は、「茗荷傑、『諏訪之瀬島の土地機能回復過程に関する考察』」(本文への記述ではないため書誌情報は省略致しました)などを見つけることが出来ます。--X-enon147(会話) 2018年8月17日 (金) 01:32 (UTC)
- 「還住」のウィキペディア内検索結果の形で先にも示しましたが、島でなければ「還住」の事例がいろいろとあることは承知していますし、そのことは今回の改名提案の理由の一つでもあります。
- 諏訪之瀬島の事例は「70年間は無人島となりました。明治期に入り、奄美大島出身の藤井富伝らが入植し開拓されました。」[1]とあるように、他島出身者の移住であって、青ヶ島のような同島出身者の帰島ではないので、「還住」の例には当たらないのではないかと思います。--Ryota7906(会話) 2018年8月17日 (金) 07:46 (UTC)
- 今更ではありますが、ご提示いただいた「茗荷傑『諏訪之瀬島の土地機能回復過程に関する考察』」の記事情報には、英語表示だけでなく日本語表示のものもありますね。日本語の抄録は英文Abstractと違って全く違和感のない文章でしかも倍以上の文量がありますが、ここから一部抜粋すると「以後70年間無人島となるのだが脱出した住民は誰一人島へ戻ることがなかった。この点が50年間帰島の執念を燃やし続け、還住と称える全島民の帰還を果たした青ヶ島とは大いに事情が異なっている。噴火後70年を経てやってきたのは奄美大島に住む藤井富伝の率いる開拓者たちであった。」とあり、やはり諏訪之瀬島の事例は「還住」でないことが分かります。--Ryota7906(会話) 2018年8月23日 (木) 13:55 (UTC)
- このところ少々体調がすぐれないこともあって文献調査が遅れています、どうもすいません。現在のところ調査した内容から、「しま 58(1)」2012年6月(日本離島広報センター広報課)『<ゲンジュウ>から<カンジュウ>へ:故郷へ還住するということ(菅田正昭著)』には、「奄美大島の島民による無人島化した諏訪之瀬島の再開発という点では“還住”に含めて良いと思う」。と、諏訪之瀬島の事例を評価しています。菅田氏は青ヶ島を始めとする島嶼の研究家として知られた方で、諏訪之瀬島の事例を還住に含めて良いのではないかとの評価をされていることを考えると、還住ではないとする断定は早計であると考えます。また同論文の中で、戦時中に強制疎開で全島民が離島した母島が1968年の日本復帰後に旧島民が戻った事例を「還住」の例として挙げています。
- また私の知る限り、何らかの理由で無人島化を余儀なくされ、その後再び人が住むようになった事例は、大きく分けて災害によるもの、そして戦争等によるものがあります。前者の災害については、前述の「しま 58(1)」の中で1986年の伊豆大島噴火、2000年の三宅島噴火後の全島避難、避難解除による帰島、そして福岡県西方沖地震による玄海島の例が挙げられています。その他、少々微妙な点もありますが硫黄鳥島、鳥島も噴火による無人島化と再住という経過があったと記憶しています。また戦争に関しては前述の小笠原諸島の母島の他、八重山諸島の波照間島など(戦争マラリアの記事が参考になると思います)、あと島原の乱後の湯島がそうであったと記憶しています。--のりまき(会話) 2018年8月25日 (土) 01:03 (UTC)
- 菅田正昭氏の論文は、「還住」の語を他にも適用したいあまりに定義を拡大してしまっているという、いささか本末転倒的な感もないでもないですが。近代の他の事例についても、多くの記事等では「還住」とは呼ばず、「帰還」「帰島」「再定住」などと称するのが一般的で、「還住」はあくまで江戸期以前に用いられた歴史的用語と解釈するのが妥当なのではないでしょうか。しかしいずれにせよ「還住」の事例が他にもあるのなら、記事名変更の後押しになるのは間違いないところでしょう。--Ryota7906(会話) 2018年8月25日 (土) 06:31 (UTC)
- 実は諏訪之瀬島の事例を「還住」とした例は菅田正昭氏の論文以外にもあります。「会計検査資料 平成24年8月号 563」(一般財団法人 建設物価調査会発行)『還住:長期避難先からの帰還 公共民の経営学・現場学77』長嶋俊介著です。原文を引用すると「元島民子孫が直接リーダーとして戻った『超世代Uターン型還住』青ヶ島との違いは、別の島からの人が還住をしたかの違いである」と、諏訪之瀬島の事例を紹介しています。用語の使い方としてどうも安定していないな……というのは私の印象としてもありますが、やはり青ヶ島の事例を中心として現代においても「還住」の語としての使用例はそれなりに確認できますので、「あくまで江戸期以前に用いられた歴史的用語と解釈」することは私としては納得できないものがあります。なお、私が集めた限り「青ヶ島還住」とした文献は1つ、「還住青ヶ島」とした文献は2つ、「還住」という表記が13でした。表題や章題として還住を用いた例や「還住」を括弧書きで表記した例も多く、青ヶ島の噴火災害については「還住」という表記が一般的であるとして良いと思います。ただし還住という言葉が即、青ヶ島の噴火災害というわけにはいかない(他の事例で還住を用いていることが複数確認できる)ので、改名必要性が高いことは了解できます。私としては改めて、青ヶ島還住という記事名には反対しますが、還住 (青ヶ島)が良いのではないかと判断します。--のりまき(会話) 2018年8月25日 (土) 07:34 (UTC)文章一部推敲--のりまき(会話) 2018年8月25日 (土) 07:48 (UTC)
- 諏訪之瀬島の事例について「還住」と称しているのが2例、しかもともに青ヶ島の事例からの類推ないし定義拡張であることがほぼ明らかであり、こうしたものだけでは根拠として少々弱いのではないかなと私などには思われます。
- 柳田の『青ヶ島還住記』というタイトルに「青ヶ島還住」の語が含まれていると考えれば、それを引用・参照した文献も必然的にカウントされることになりますので、「青ヶ島還住」の文献は1例程度では済まないことになるはずです(なお『青ヶ島還住記』本文中にも「青ヶ島還住」の語は登場します)。このほか宮本常一他監修『日本残酷物語 2 忘れられた土地』にも「青ガ島還住」というタイトルの文章が掲載されています(島名の表記が違いますが、同書中では、参照されている柳田の文章を含めすべての島名表記を「青ガ島」で統一しているため、機械的に「青ヶ島還住」と読み替えてよいものと思います)。
- いずれにせよこの「還住」の語は、純粋に歴史研究の文脈で出てきたものというよりも、柳田や宮本らの文章にヒントを得た青ヶ島住民やその他の方々が、おそらくは戦後になって郷土の偉人顕彰や離島振興の目的で多用し独自の発展を遂げた用法と思われ、辞書に掲載されているような本来の定義とはかなり異なったものになっていることは重々注意すべき点かと思います(意味だけでなく読みもそうですが)。
- そういうわけで私個人としては依然「青ヶ島還住」のほうがより妥当な記事名だろうと考えているのですが、正直、「還住 (青ヶ島)」に断固反対というほどでもありませんし、またあまり長々と議論するほどの大きな差があるようにも思えませんので、特に強い異論等が他になければのりまきさんのご提案に乗っかる形で還住 (青ヶ島)に改名しようかと思うのですが、のりまきさん以外の方もそれでよろしいでしょうか。--Ryota7906(会話) 2018年8月25日 (土) 15:20 (UTC)
- 実は諏訪之瀬島の事例を「還住」とした例は菅田正昭氏の論文以外にもあります。「会計検査資料 平成24年8月号 563」(一般財団法人 建設物価調査会発行)『還住:長期避難先からの帰還 公共民の経営学・現場学77』長嶋俊介著です。原文を引用すると「元島民子孫が直接リーダーとして戻った『超世代Uターン型還住』青ヶ島との違いは、別の島からの人が還住をしたかの違いである」と、諏訪之瀬島の事例を紹介しています。用語の使い方としてどうも安定していないな……というのは私の印象としてもありますが、やはり青ヶ島の事例を中心として現代においても「還住」の語としての使用例はそれなりに確認できますので、「あくまで江戸期以前に用いられた歴史的用語と解釈」することは私としては納得できないものがあります。なお、私が集めた限り「青ヶ島還住」とした文献は1つ、「還住青ヶ島」とした文献は2つ、「還住」という表記が13でした。表題や章題として還住を用いた例や「還住」を括弧書きで表記した例も多く、青ヶ島の噴火災害については「還住」という表記が一般的であるとして良いと思います。ただし還住という言葉が即、青ヶ島の噴火災害というわけにはいかない(他の事例で還住を用いていることが複数確認できる)ので、改名必要性が高いことは了解できます。私としては改めて、青ヶ島還住という記事名には反対しますが、還住 (青ヶ島)が良いのではないかと判断します。--のりまき(会話) 2018年8月25日 (土) 07:34 (UTC)文章一部推敲--のりまき(会話) 2018年8月25日 (土) 07:48 (UTC)
- 菅田正昭氏の論文は、「還住」の語を他にも適用したいあまりに定義を拡大してしまっているという、いささか本末転倒的な感もないでもないですが。近代の他の事例についても、多くの記事等では「還住」とは呼ばず、「帰還」「帰島」「再定住」などと称するのが一般的で、「還住」はあくまで江戸期以前に用いられた歴史的用語と解釈するのが妥当なのではないでしょうか。しかしいずれにせよ「還住」の事例が他にもあるのなら、記事名変更の後押しになるのは間違いないところでしょう。--Ryota7906(会話) 2018年8月25日 (土) 06:31 (UTC)
- 島では無い例。外部リンク:吉田正志、『加賀藩前期雇傭関係法の性格 (1)』、『福井県文書館研究紀要 第14号(藤井讓治、越前に出された秀吉の禁制)』、青ヶ島以外の島で離島後に還住があった事例は、「茗荷傑、『諏訪之瀬島の土地機能回復過程に関する考察』」(本文への記述ではないため書誌情報は省略致しました)などを見つけることが出来ます。--X-enon147(会話) 2018年8月17日 (金) 01:32 (UTC)
- 島じゃなくても奥羽の還住とかありますよねぇ。海外でも一度居住地を去った者がその土地に戻り再度居住することは別段珍しいことではなく、日本の青ヶ島が唯一の事例と想定するのは怪しいです。--2405:6583:D6C0:1F00:EC9F:CEDA:703D:F568 2018年8月17日 (金) 00:42 (UTC)
- 改名そのものには賛成なのですが、青ヶ島還住という記事名には反対します。理由としては青ヶ島還住という語の使用例が少なく、ウィキペディアによる造語とまでは言えないもののあまり一般的ではないためです。代案として還住 (青ヶ島)を推薦します。
それでは還住 (青ヶ島)に改名することにいたします。議論にご参加いただきました皆様どうもありがとうございました。
個人的には「還住」の初出が柳田国男『青ヶ島還住記』をさらに遡る可能性があることを知ったのは有意義でした(ただ、それを公に指摘した文献がわずかしかないことにも驚きました。『青ヶ島還住記』を丹念に読むだけでも推測できそうなことだと思うのですが)。--Ryota7906(会話) 2018年9月2日 (日) 09:04 (UTC)
MJ6feet6さんの編集について
[編集]今気づいたのですが、MJ6feet6さんによって記事の内容がかなり大きく変えられております。言い回しの他、旧暦と新暦の対応を日にちまで付けて記述していた部分も変えられてしまっています。差し戻そうかとも思いましたが、まずはノートでご意見を伺った上で対応しようと思います。皆様、ご意見よろしくお願いいたします。--のりまき(会話) 2023年10月10日 (火) 12:23 (UTC)