ノート:鎌倉幕府
鎌倉幕府の項に関して
[編集]61.117.196.137 様
- 鎌倉幕府の項に関して
はじめまして。 「源頼朝が挙兵前に召集をした家人について、疑義がございます。 私の手元にある史料では、「源家累代の家人」となっており、その顔ぶれは相模・伊豆・武蔵の武士や近江源氏などと記されております。 坂東平氏という記述を修正したく思いますがよろしいでしょうか?」
というご連絡をいただきました。頼朝挙兵に「源家累代の家人」として参加したのは、いずれも関東の平氏系の土着武士で、いずれも坂東平氏の流れを汲むものです。「近江源氏」もあるでしょうが、頼朝の家人の圧倒的多数は、坂東平氏系の北条、三浦、千葉、上総といった武士で、その意味では、坂東平氏という方が正確だろうと思います。源平合戦では、源氏と平氏は錯綜していて、源氏方の戦力を構成したのは必ずしも源氏ではなく、むしろ平氏であり、そういう錯綜した内実を説明することも重要だろうと思います。ただ、貴氏の疑問も考慮し、「坂東平氏」というところを、貴氏のいわれる「「相模・伊豆・武蔵の武士」という言葉と「坂東平氏」を一つにして「相模・伊豆・武蔵の坂東平氏系の武士」と変更しましたが、これではいかがでしょうか。Junger 2004年8月18日(水)
>Junger様
ご丁寧な対応、有難うございます。上記の文を見て、なるほどと感服いたしました。
これからも、私の知識の足らないところ、加筆、修正等宜しくお願いいたします。
ちなみにクッキーを削除してしまったので、ログインが出来ずころころIPが変わりますが、お気になさらずに。211.10.136.11 2004年8月19日 (木) 01:48 (UTC)
提案があります。本項中、「鎌倉幕府の成立」の記述が非常に多くなっていますが、成立後の各記述と比べてアンバランスな感が否めません。
「鎌倉幕府の成立」の箇所は、関東の一政権が中央政権に公認されていく(正当性を獲得していく)過程にポイントを絞って書き直すこととして、平氏政権を滅ぼす部分は源平合戦(若しくは治承寿永の乱)の記事へ移動すべきと考えますがいかがでしょうか?1ヶ月後まで特にご意見がなければ、ご承認を頂いたものとして上記作業に着手したいと思います。shimoxx 2004年10月6日 (水) 03:15 (UTC)
特にご意見もありませんでしたので、「鎌倉幕府の成立」を簡略化し、元の記事を多少改変して治承・寿永の乱へ移動いたしました。shimoxx 2004年12月27日 (月) 17:29 (UTC)
鎌倉幕府の始期とは?
[編集]『かつての通説によると、鎌倉幕府は、1192年(建久3年)に源頼朝が征夷大将軍(以下、将軍)に任官されて始まったとされていたが、頼朝の権力・統治機構はそれ以前から存続しており、現在ではこの説は支持されていない。』 との事ですが、現在の中高歴史教育ではどのように指導されているのでしょうか?良い国創ろう鎌倉幕府で覚えた古い世代が単純に思った疑問なのですが?--222.7.175.112 2008年7月3日 (木) 17:49 (UTC)
- 幕府とは武家政権のことであるそうですが、征夷大将軍を任命された政権が幕府と呼ばれています。定義があいまいだと平清盛や豊臣秀吉の政権も含まれる上に、江戸幕府の成立した年もあいまいになり関ヶ原合戦終了の1600年と考えることもできます。室町幕府の成立も建武式目の制定年と征夷大将軍の任命年とあいまいになってしまいます。あくまでも幕府は政権を形成した征夷大将軍(はっきりとした政権を形成していない坂上田村麻呂や文屋綿麻呂、護良親王、成良親王などは除く)の任命年を成立年と考え、政権としては鎌倉政権または鎌倉武家政権、室町(足利)政権または室町(足利)武家政権、江戸(徳川)政権または江戸(徳川)武家政権とし、幕府と政権で別に考えるのが妥当だと思います。最近の説(1185年)は幕府の成立ではなく政権の成立の一説と考え、時代については鎌倉時代は鎌倉幕府(征夷大将軍としての定義)の時代の源頼朝が征夷大将軍に任命された年(1192)~守邦親王の征夷大将軍職辞職年(1333)を基準とするのが良いと思うのですが。--Pikapika 2008年8月2日 (土) 09:14 (UTC)
- 歴史教育、というよりも歴史研究の場では、1180年に頼朝が鎌倉に入府して以来、数年をかけて段階的に幕府機構が形成されたとするのが通説とされています。1192年の征夷大将軍任官は、幕府成立史上の数ある画期の一つに過ぎず、現在では重要視されていません。
- つまるところ、現在の歴史研究において、幕府とは「継続的に存在した武家政権」以上の意味を持っていません。「平清盛や豊臣秀吉の政権」も立派な武家政権であり、たまたま世襲化・継続化に失敗したから「幕府」と呼ばれてないだけで、学問上、幕府とそれ以外の武家政権との間に本質的な差異はないと考えられています。征夷大将軍への任官は単なる手続き上の話に過ぎず、例えば1603年を江戸幕府の開始年とするのも便宜上そうしてるだけなのです。ゆえに、上でPikapikaさんが仰ってる内容は現在の歴史研究とは相容れない部分を含んでいます。
- Pikapikaさんは、『江戸時代(江戸幕府)』では「便宜上」で「家康の征夷大将軍任官」を開始年としているのならば、『鎌倉時代(鎌倉幕府)』も同様に「頼朝の任官」で良いのではないか、(=「開始年が変更されたのは、なぜ鎌倉幕府のみなのか?」)と言っているのだと思いますが。
- 歴史とは様々な考えを持った多数の人間が紡ぎ出していくものですから、明確な歴史の画期はなかなか見いだしにくいところがあります。確かに征夷大将軍補任はわかりやすい指標のように見えますが、歴史の本質を探るうちに、1183年の寿永二年十月宣旨や1185年の文治の勅許などがより重要な歴史上の画期と考えられるようになったのです。shimoxx 2008年8月2日 (土) 14:00 (UTC)
2006~08年頃から1185年説が最有力のようですが、最近の新聞記事では6~7説を並列的に扱う教科書が出てきているようです。記事が掲載期限切れになっているので、記事を集めたブログ(ブログ1,ブログ2)を見るに「近年有力な1185(イイハコ)年など六つの説をまとめて紹介」「日本史Bの教科書はほかに5冊あるが、(略)いずれも幕府成立の年を特定していない。」とありました。Wikipedia上では、1185年説=支配的になった後、それをを弱めた表現に変わっているようです(どういう経緯で弱めたのは分かりませんが)。実際のところ、右上の「創設年 1185年」という部分はそのままでいいのでしょうか?--Seisato(会話) 2013年7月14日 (日) 07:54 (UTC)
- 学術方面では、あえて特定せず12世紀末としているものが多いですね。国史大辞典や日本史事典でも事情は同じで、その上で複数の説を解説しているようです。infoboxの引数として上手く表示できれば、「12世紀末」として年数は特定しない方が良いかと思いますが、いずれにせよ「1192年」はないでしょう。--ジャムリン(会話) 2013年7月14日 (日) 08:13 (UTC)
- テンプレート上、数字+年を想定しているようなので、「1180~1192年」としました。--Seisato(会話) 2013年7月20日 (土) 06:35 (UTC)
- 赤リンクになりましたが、これで仕方ないと思います。お疲れ様でした。--ジャムリン(会話) 2013年7月20日 (土) 11:44 (UTC)
- テンプレート上、数字+年を想定しているようなので、「1180~1192年」としました。--Seisato(会話) 2013年7月20日 (土) 06:35 (UTC)
- 『Wikibooks』の『中学校歴史-鎌倉時代』においては「一般に1192年説が採用されている」となっていますが? 参照→http://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2_%E9%8E%8C%E5%80%89%E6%99%82%E4%BB%A3
- ますが何でしょう?何らかの意見や回答を他者にもとめているのでしたら、質問の主旨や目的を曖昧なままにしないでください。『Wikibooks』の『中学校歴史-鎌倉時代』を修正したいのでしたら、決められた手順に添ってお願いします。--ジャムリン(会話) 2015年5月24日 (日) 04:24 (UTC)
意見
[編集]以前の記述を復活させようと思いますかいかがですか?期限は本日まで 今人よ(会話) 2020年9月23日 (水) 13:04 (UTC)
反対 まず、具体的にどの版のどの記述か提示していただけないことには賛成もできませんし意見は出せません。--ジャムリン(会話) 2020年9月23日 (水) 14:16 (UTC)
冒頭部と中立性について
[編集]この編集についてです。
関東の在地領主たちが土地所有を保証するために源頼朝を祀り上げてつくった政権。政権が安定してくると在地領主にとって源氏は必要でなくなり、頼朝の血筋は排除され、頼朝の嫡流は断絶した |
- 出典が示されており、またこの文献の著者本郷和人は東京大学史料編纂所教授で日本中世史の専門家ですから、信頼性やWikipedia:検証可能性の点についてはひとまず問題がないと私は考えています。
ですがWikipedia:中立的な観点ではどうだろうと感じます。一口で言うと、「鎌倉幕府」というものが何であったか、どう評価分析するかは、学者ごとの様々な意見があり、少なくとも冒頭文で書くほどに「誰もの意見が一致している」とはいえないと私は考えます。特にこうした「とんがった」意見はキャッチーではありますが、要注意と感じます。こうした「評価・分析」は、鎌倉幕府#近代以降の研究あたりに、どこの誰による分析であるか明記して(すなわち帰属化して)書くべきです。たとえば次のような感じで。
東京大学史料編纂所の本郷和人は、鎌倉幕府は関東の在地領主たちが土地所有を保証するために源頼朝を祀り上げてつくった政権だとしたうえで、政権が安定してくると在地領主にとって源氏は必要でなくなり、頼朝の血筋は排除され、頼朝の嫡流は断絶した、とした。 |
冒頭部分は、たとえば
(第1文)(A)12世紀末に (B)源頼朝が樹立した、(C)日本で最初の武家政権で、(D)1333年(元弘3)まで続いた。
(第2文)もうちょっと詳しく |
第2文以降をどう書くかはいろいろ選択肢があると思いますが、いずれにせよ冒頭部分では様々な意見の最小公倍数的な記述に留めるほうが無難と思います。
第2文あたりに盛り込むとしたら、(1)鎌倉に拠点が置かれたこと (2)そこには侍所・政所・問注所があったこと (3)全国支配のために守護地頭を配したこと (4)途中から北条氏の執権が実権を握ったこと (5)後醍醐天皇・足利高氏・新田義貞らによって滅ぼされたこと
- そのほか、うまく思いつきませんが、治承・寿永の乱、源氏、征夷大将軍、あたりの単語を使えるとよい。
- 第3文あたりで、どの時点を以て鎌倉幕府の成立とみなすかは諸説あること、かつては1192年とされていたこと、あたりを言及できればいいかなと。
なお現行の「鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、鎌倉時代の日本の武家政権。」というのは少々トートロジーな感じはします。「鎌倉幕府」があったのが「鎌倉時代」でしょ、的な。
いずれにしても表現の仕方はいろいろ考えられるのですが、いかがでしょう?--柒月例祭(会話) 2021年8月10日 (火) 17:23 (UTC)
- 同意します--Wilkinson777(会話) 2021年8月11日 (水) 10:25 (UTC)
中間報告
[編集]冒頭部を調整する方向では賛同は得られたと思うので、具体案を検討しています。
- 第1文
市販の百科事典類から第1文を抜き出しました。出版社に多少偏りがあるかもしれないですが、コトバンクとJapanKnowledgeに収録されているもの総てです。
小学館 | 『日本大百科全書』 | 源頼朝が | 鎌倉に開いた | 武家政権 | ||||
小学館 | 『日本国語大辞典』 | 源頼朝が | 鎌倉に開いた | 初の | 武家政権 | |||
小学館 | 『デジタル大辞泉』 | 源頼朝が | 鎌倉に開いた | 日本最初の | 武家政権 | |||
平凡社 | 『マイペディア』 | 1180年代半ば | 源頼朝が | 平氏を倒し | 鎌倉に幕府を開いてから | 武家政権 | 1333年まで存続した | |
平凡社 | 『世界大百科事典』 | 12世紀末 | 源頼朝が | 鎌倉に開き | 武家政権 | 1333年(元弘3)まで続いた | ||
ブリタニカ | 『国際大百科事典』 | 源頼朝によって | 鎌倉に樹立された | 武家政権 | ||||
旺文社 | 『日本史事典』 | 源頼朝によって | 相模国鎌倉に創立した | 最初の | 武家政権 | |||
吉川弘文館 | 『国史大辞典』 | 十二世紀末、 | 相模国鎌倉を本拠として成立した | 武家政権 | ||||
講談社 | Encyclopedia of Japan | established by Minamoto no Yoritomo | in Kamakura | Japan's first | military or warrior government | |||
日本大百科全書と国史大辞典はともに上横手雅敬の署名記事。 |
以上により最大公約数的なものとして、下記文章を第1文として提案します。
鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、源頼朝が鎌倉で開いた武家政権である。 |
- 「日本初の」 - 言及率およそ5割。おそらく、平将門とか壬申の乱とか言い出すと「日本初とはなんぞや」って話になるのだと思う。
- 始期・終期 - 言及率およそ3割。ややこしい話になるからだと思う。
- 第2文以降
これは難しいです。第1文ほど簡単に二次資料からまとめられません。当座の試案として、次のような感じではどうかなー?と考えています。良いとか悪いとか意見がほしいです。
第2文 | 12世紀末から1333年まで存続した。始期については諸説ある。 |
第3文 | 鎌倉には政治機関として侍所・[[政所]・問注所を設け、全国には守護・地頭を置き、重要地には京都に六波羅探題、九州に鎮西探題、東北に奥州総奉行を置いた。 |
第4文 | 草創期には源氏将軍と北条政子の独裁色が強かったが、執権政治、得宗専制へ移行した。 |
ざっくりこんな感じ。「第2文」は正確には2文から成ってますけど。第3文は、正確には時期により「政所ではなく公文所」「六波羅探題でなく京都守護」「〃鎮西奉行」なんだけど、長くなるので割愛。--柒月例祭(会話) 2021年9月2日 (木) 06:01 (UTC)