ハビエル・バローソ
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アトレティコ・マドリードでのバローソ (1926年) | ||||||
名前 | ||||||
本名 |
ハビエル・バローソ・サンチェス=ゲラ Javier Barroso Sánchez-Guerra | |||||
ラテン文字 | Javier Barroso | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | スペイン | |||||
生年月日 | 1903年12月3日 | |||||
出身地 | マドリード | |||||
没年月日 | 1990年9月10日(86歳没) | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW / GK | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1919-1920 | マドリードCF | |||||
1921-1927 | アスレティック・マドリード | |||||
監督歴 | ||||||
1932 | アスレティック・マドリード | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ハビエル・バローソ・サンチェス=ゲラ(Javier Barroso Sánchez-Guerra、1903年12月3日 - 1990年9月10日)は、スペイン・マドリード出身の元サッカー選手、元サッカー指導者、建築家。現役時代のポジションはFW、GK。アトレティコ・マドリード名誉会長、元スペインサッカー連盟会長。
経歴
[編集]マドリードに生まれ、まだラ・リーガ開幕前のスペインでサッカー選手として活躍し、マドリードCFではFWとして、1921年から在籍したアトレティコ・マドリード (当時はアスレティック・マドリード)ではGKとしてプレーした。1925-26シーズン、コパ・デル・レイ決勝のFCバルセロナ戦ではキャプテンとして試合に出場した。
現役引退後の1932年1月、イェニー・ルドルフの後任としてアトレティコ・マドリードの監督に就任し、1931-32シーズンの13試合で指揮を取った。1941年にはスペインサッカー連盟の会長に選出され、5年間会長職を務めた。1955年12月、アトレティコ・マドリードの会長選挙に出馬し、見事当選。その後9年間に渡って同職を全うしたが、この間に多くの改革を施した。
1961年3月17日、バローソは、エスタディオ・メトロポリターノが現在のクラブ規模に見合っていないと考え、マンサナーレス川のほとりに新スタジアム建設予定地を購入した。建築家でもあったバローソは、当時のマドリード市長と共同でスタジアムの設計に携わり、1958年に多額の借金を抱えてスタジアム建設が始まった[1]。1963年にはのちにアトレティコ・マドリードの会長としてスタジアムのその名を残す事になるビセンテ・カルデロンを副会長に任命し、翌年にバローソは会長職から退いた。
主な作品
[編集]サッカー選手としてプレーする傍ら、建築家としても活動した。
- サン・イシドロ教会 - 教会の修復工事、尖塔の復元
- スペイン法務省 - 省舎の改築と増築
- エスタディオ・ナシオナル・コンプルテンセ - 共同で設計、建築
- アントニオ・ネブリハ寮 - マドリード・コンプルテンセ大学にある6つの寮の1つ。
- コロンブス宮殿 - ドミニカ共和国にある宮殿。
- エスタディオ・ビセンテ・カルデロン - アトレティコ・マドリードの旧スタジアム。
バローソは主に兵舎の建設を手掛けており、スペイン全土にバローソ設計・建設の兵舎がある[2]。
脚注
[編集]- ^ “El Calderón a través de los años” (2016年5月2日). 2022年3月2日閲覧。
- ^ “Las casas-cuartel de la Guardia Civil durante la II República y el franquismo: la desconocida labor de un grupo de arquitectos” (2015年7月8日). 2022年3月2日閲覧。