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マルコス・アロンソ・ペーニャ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マルコス・アロンソ
名前
本名 マルコス・アロンソ・ペーニャ
Marcos Alonso Peña
ラテン文字 Marcos Alonso
基本情報
国籍 スペインの旗 スペイン
生年月日 (1959-10-01) 1959年10月1日
出身地 カンタブリア州の旗 カンタブリア州サンタンデール
没年月日 (2023-02-09) 2023年2月9日(63歳没) マドリード州の旗 マドリード州マドリード
身長 176cm
体重 74kg
選手情報
ポジション FW / MF (RWG, LWG, OH)
利き足 右足
ユース
スペインの旗 レアル・マドリード
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1977-1979 スペインの旗 ラシン・サンタンデール 51 (5)
1979-1982 スペインの旗 アトレティコ・マドリード 90 (10)
1982-1987 スペインの旗 バルセロナ 124 (28)
1987-1989 スペインの旗 アトレティコ・マドリード 29 (2)
1989-1990 スペインの旗 ログロニェス 8 (1)
1991 スペインの旗 ラシン・サンタンデール 7 (3)
通算 309 (49)
代表歴
1978  スペインU-18 3 (0)
1979  スペインU-19 1 (0)
1979  スペインU-20 3 (0)
1978  スペインU-21 3 (0)
1980-1982  スペインU-23 2 (0)
1979-1983 スペインの旗 スペイン アマチュア 9 (1)
1980 スペインの旗 スペイン B 3 (0)
1981-1985 スペインの旗 スペイン 22 (1)
監督歴
1995-1996 スペインの旗 ラージョ・バジェカーノ
1996-1998 スペインの旗 ラシン・サンタンデール
1998-2000 スペインの旗 セビージャ
2000-2001 スペインの旗 アトレティコ・マドリード
2002 スペインの旗 サラゴサ
2005-2006 スペインの旗 バジャドリード
2006 スペインの旗 マラガ
2008 スペインの旗 グラナダ74
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

マルコス・アロンソ・ペーニャ(Marcos Alonso Peña、1959年10月1日 - 2023年2月9日)は、スペインカンタブリア州サンタンデール出身の元同国代表サッカー選手、元サッカー指導者。ポジションはFWまたはMFだった。

現役時代は、主にアトレティコ・マドリードFCバルセロナでプレーし、ラ・リーガには計13シーズン在籍して通算302試合4ゴールという結果を残した[1]

選手経歴

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クラブ

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カンタブリア州サンタンデールに生まれ、レアル・マドリードの下部組織で育成された。しかし、レアル・マドリードではトップチーム昇格は叶わず、1977-78シーズンに地元の強豪クラブであるラシン・サンタンデールにてプロデビューを果たした。プロ2年目からレギュラーに定着し、19歳ながらプリメーラの舞台で34試合4ゴールと結果を残した。アロンソ以外にもオルランド・ヒメネスが11ゴールを挙げるなど、攻撃陣は奮闘したが、失点の勢いが止まらず、シーズン終了を待たずしてラシン・サンタンデールはセグンダ降格が決定した。

1979年7月、アトレティコ・マドリードへ移籍した[2]。1シーズン目からレギュラーの座を掴み、2シーズン目にはFCバルセロナとレアル・マドリードに次ぐリーグ3位フィニッシュに大きく貢献し、同シーズン中にスペイン代表から初招集を受けた。3シーズン目には前線にウーゴ・サンチェスが加わり、サンチェスとアロンソの2人はアトレティコの攻撃を牽引するほどの選手になった。

アトレティコでの活躍から、1982年にFCバルセロナへと移籍[3]。加入後すぐにチームの中心選手となり、1年目はリーグ4位に終わるも、コパ・デル・レイコパ・デ・ラ・リーガ優勝を果たし、国内カップ2冠を成し遂げた。2シーズン目は、自身のキャリアハイ、そしてキャリア唯一のリーグ2桁得点となる12ゴールを叩き出し、チームトップの得点数を稼いだ。翌1984-85シーズン、バルセロナは実に9シーズンぶりとなるリーガ優勝を達成したが、アロンソ自身はスティーブ・アーチボルドの加入などもあって出場機会を減らした。出番の減少はその後も続き、1986-87シーズン終了後にバルセロナを退団した[2]

1987年7月、古巣のアトレティコ・マドリードに復帰した[4]。加入当初こそリーグ26試合で2ゴールとまずまずの成績を残したものの、2年目に膝に大怪我を負い、シーズンわずか3試合の出場、3年目には冬の1月までリーグ戦出場が皆無になるなど、構想外のような扱いを受けた。その1989-90シーズンの冬の移籍市場でアトレティコを去り、CDログロニェスに加入した。しかし、ログロニェスでも状況が好転せず、シーズン終了後およそ半年でログロニェスを退団した。

1991年4月、フリーとなっていたアロンソは自身がプロデビューを果たしたクラブ、ラシン・サンタンデールに加入した。当時セグンダB所属と、低迷した古巣への復帰となったが、怪我の影響などもあって満足いく出場機会が得られず、シーズン終了時にクラブを去り、31歳で現役を引退した[4]。一方、ラシン・サンタンデールはセグンダBで優勝を果たしてセグンダ昇格を決めている。

代表

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1979年7月、FIFA U-20ワールドカップを戦うスペイン代表に選ばれ、3試合に出場した。しかし、ベスト8のポーランド戦にてPK戦の末敗れ、大会を後にした。

1980年6月、当時アトレティコ・マドリードに在籍していたアロンソは、齢20歳ながらレギュラーとして活躍していたため、この年の1980年モスクワオリンピックを戦うスペイン代表に選出された。本大会ではグループリーグ全3試合に出場して、初戦の東ドイツ戦を引き分けに持ち込む同点弾を決めた。しかし、スペインはグループリーグ全3試合を全て引き分けで終えたため、大会敗退が決まった。

オリンピックから1年経たない1981年3月25日、イングランド代表との親善試合でスペインフル代表デビューを飾った[5]。その後も定期的に代表招集を貰い続けていたが、1982 FIFAワールドカップに出場するスペイン代表メンバー23人からは落選した。大会終了後、UEFA欧州選手権1984出場を目的にFCバルセロナへとステップアップしたアロンソは、UEFA欧州選手権1984予選を戦うスペイン代表のレギュラーに定着し、マルタ戦などの奇跡もあって、無事に本大会出場権を獲得した[4]。しかし、1984年頃からレギュラーの座を奪われ、本大会には参加できたものの、出場機会は掴めなかった。欧州選手権終了後、クラブでの不遇もあって徐々に代表から遠のき、1985年9月25日のアイスランド戦を最後に代表から退いた[4]

指導者経歴

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現役を引退後、アロンソはすぐに指導者に転身した。指導者キャリア初の仕事は、1994年から始まり、当時アトレティコ・マドリードの監督を務めていたホルヘ・ダレッサンドロのアシスタントコーチだった。翌年の1995年10月、ラージョ・バジェカーノから監督就任の打診を受け、自身初となる監督に就いた[6]。シーズン途中就任だったが、序盤こそ安定した成績を残すも、4月からの4連敗などもあって、5月5日のレアル・バリャドリード戦を最後に解任された。

1996-97シーズンは、古巣ラシン・サンタンデールを指揮。フルシーズンを戦い42試合11勝17分14敗とまずまずの結果を残した。1998年には当時セグンダ・ディビシオンに降格していたセビージャFCの監督に就任。プリメーラ復帰が絶対条件だったクラブにおいて、昇格プレーオフを経て、セビージャをプリメーラ復帰に導いた[7]。翌シーズンもセビージャの指揮を執ったが、2000年3月に解任された。

2000年10月、当時セグンダに落ち、低迷していたアトレティコ・マドリードの監督に就任した。リーグ第6節からの采配となり、昇格が期待されたが、4月に成績不振によってまたもや解任されてしまった。その後アトレティコは立て直し、CDテネリフェと同点の勝ち点74を稼いだが、テネリフェとの得失点差1によってプリメーラ昇格を逃してしまった。

アトレティコ・マドリード退任以降は、レアル・サラゴサレアル・バリャドリードマラガCFを率いたが、2008年のグラナダ74CF解任以降は監督業から離れた[6]

人物

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  • 2011年からはスポーツ製品を扱う企業であるプーマのスペイン、イタリア、ポルトガルにおけるマーケティング責任者を務める[6]

エピソード

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  • 自身はアトレティコ・マドリードのサポータであり、妻の家族も全員がアトレティコサポーターだったことから、息子のマルコス・アロンソ・メンドーサをアトレティコの下部組織に入団させようとしたが、メンドーサはより高いレベルの指導を受けられるとしてレアル・マドリードの下部組織に加入した[8]

個人成績

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クラブ

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2021年3月17日現在[9]
クラブ シーズン リーグ戦 国王杯 UEFA大会 その他 合計
ディヴィジョン 試合 得点 試合 得点 試合 得点 試合 得点 試合 得点
ラシン・サンタンデール 1977-78 プリメーラ 17 1 5 0 - 0 0 22 1
1978-79 34 4 8 2 - 0 0 44 6
クラブ通算 51 5 13 2 - 0 0 64 7
アトレティコ・マドリード 1979-80 プリメーラ 29 1 10 2 1 0 0 0 40 3
1980-81 32 4 3 1 - 0 0 35 5
1981-82 29 5 4 0 2 0 0 0 35 4
クラブ通算 110 12 17 3 3 0 0 0 130 15
バルセロナ 1982-83 プリメーラ 30 6 6 2 6 1 6 1 48 10
1983-84 34 12 5 0 5 0 0 0 44 12
1984-85 18 4 6 3 - 4 3 28 10
1985-86 16 5 3 0 9 1 0 0 28 6
1986-87 26 1 2 0 6 0 0 0 34 1
クラブ通算 124 28 22 5 26 2 10 4 182 39
アトレティコ・マドリード 1987-88 プリメーラ 26 2 4 0 - 0 0 30 2
1988-89 3 0 0 0 - 0 0 3 0
1989-90 0 0 0 0 - 0 0 0 0
クラブ通算 29 2 4 0 - 0 0 33 2
ログロニェス 1989-90 プリメーラ 8 1 0 0 - 0 0 8 1
ラシン・サンタンデール 1990-91 セグンダB 7 3 0 0 - 5 0 12 3
キャリア通算 309 49 56 10 29 2 15 4 409 65

代表

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出場大会

試合数

Aマッチ 22試合 1得点 (1981年 - 1985年)


スペイン代表国際Aマッチ
出場得点
1981 5 0
1982 2 0
1983 6 0
1984 1 0
1985 3 1
通算 22 1

得点

# 日付 会場 対戦国 得点 結果 大会
1. 1985年6月12日 アイスランドの旗 ラウガルタルスヴェルル  アイスランド 1–2 1–2 1986 FIFAワールドカップ・予選[10]

タイトル

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クラブ

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FCバルセロナ
ラシン・サンタンデール

脚注

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  1. ^ When Bryan Robson tamed Barca”. BBCスポーツ (22 April 2008). 24 April 2014閲覧。
  2. ^ a b Marcos Alonso, el tercero” (スペイン語). 2021年3月17日閲覧。
  3. ^ La familia Alonso, pasado, presente y futuro” (スペイン語). Vavel. 2021年3月17日閲覧。
  4. ^ a b c d Abuelo, padre e hijo: la saga Marcos Alonso continúa” (スペイン語). アス (2018年3月16日). 2021年3月17日閲覧。
  5. ^ a b c Un caso único en España: así es la saga Marcos Alonso” (スペイン語). マルカ (2018年3月16日). 2021年3月17日閲覧。
  6. ^ a b c ¿Qué fue de Marcos Alonso? De Pichón a Puma” (スペイン語). スポルト (2018年3月8日). 2021年3月17日閲覧。
  7. ^ Marcos Alonso Peña - Biografia” (スペイン語). 2020年8月28日閲覧。
  8. ^ 自分の成り立ち:マルコス・アロンソ”. チェルシーFC公式サイト (2019年4月10日). 2021年3月17日閲覧。
  9. ^ Marcos Alonso - Career Path”. BDFutbol. 2021年3月17日閲覧。
  10. ^ “1–2: España cortó el bacalao [1–2: Spain got job done]” (スペイン語). Mundo Deportivo. (13 June 1985). http://hemeroteca.mundodeportivo.com/preview/1985/06/13/pagina-3/1122021/pdf.html 3 February 2015閲覧。 

関連項目

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外部リンク

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