エルンスト・ハッペル
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1978年のハッペル | ||||||
名前 | ||||||
本名 |
エルンスト・フランツ・ハーマン・ハッペル Ernst Franz Hermann Happel | |||||
ラテン文字 | Ernst Happel | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | オーストリア | |||||
生年月日 | 1925年11月29日 | |||||
出身地 | ウィーン | |||||
没年月日 | 1992年11月14日(66歳没) | |||||
身長 | 178cm | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF | |||||
ユース | ||||||
1938-1942 | ラピード・ウィーン | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1942-1954 | ラピード・ウィーン | 177 | (8) | |||
1955-1956 | RCパリ | 42 | (9) | |||
1956-1959 | ラピード・ウィーン | 63 | (17) | |||
通算 | 282 | (34) | ||||
代表歴 | ||||||
1947-1958 | オーストリア | 51 | (5) | |||
監督歴 | ||||||
1962-1969 | ADOデン・ハーグ | |||||
1969-1973 | フェイエノールト | |||||
1973-1974 | セビージャ | |||||
1974-1978 | クラブ・ブルッヘ | |||||
1977-1978 | オランダ | |||||
1979 | KRCハーレルベーケ | |||||
1979-1981 | スタンダール・リエージュ | |||||
1981-1987 | ハンブルガー | |||||
1987-1991 | スワロフスキー・ティロル | |||||
1992 | オーストリア | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
エルンスト・ハッペル(Ernst Happel、1925年11月29日 - 1992年11月14日)は、オーストリア・ウィーン出身の元サッカー選手、サッカー指導者。
指導者としてオランダ、ベルギー、西ドイツ、オーストリア全ての国でリーグと国内カップ戦優勝を果たし、サッカー史上最高の監督の一人にも挙げられている[1][2][3]。1978 FIFAワールドカップでは、外国人監督ながら指揮したオランダ代表を同大会準優勝に導いた[4]。
選手として
[編集]オーストリア代表として51試合に出場。1954年FIFAワールドカップ・スイス大会では3位に入る。
クラブレベルでは1943年から1954年、1956年から1959年まで14年間SKラピード・ウィーンでプレーし、7回のオーストリアリーグ優勝を勝ち取った。間の2年間はフランスのラシン・パリの選手としてプレーした。
監督として
[編集]現役引退後のハッペルはサッカー指導者の道に進んだ。1962年、最初に率いたクラブであるFCデン・ハーグ(現在のADOデン・ハーグ)では1968年のオランダカップを獲得。 FCデン・ハーグの後に1969年にフェイエノールトの監督に就任。ファイタータイプが多く、伝統的に実直で泥臭い戦いをするチームに先進的なプレッシング戦術、良く配慮された攻撃的なフットボールをもたらした。その結果、フェイエノールトは1970年のUEFAチャンピオンズカップとインテーコンチネンタルカップ、1971年のエールディヴィジで優勝[5]。クラブにとってもハッペル本人にとっても黄金期となった。後にハッペルの伝記を書いたクラウス・デァムンツは「彼は妥協無く戦うこのクラブの性格に、優雅さを教え、この街とこのクラブに自信を与えた」と記している[6]。
1978年FIFAワールドカップ・アルゼンチン大会では、オランダ代表の監督として、準優勝に導く[4]。外国人監督のワールドカップ準優勝は他に1958年大会でスウェーデンのイングランド人監督ジョージ・レイノルのみが達成している。
その後、セビージャFC、クラブ・ブルッヘ、ハンブルガーSVなどの監督を歴任。 フェイエノールトでチャンピオンズカップを制した13年後の1983年には、ハンブルガーSVで再びチャンピオンズカップを獲得した。異なる二つのクラブでチャンピオンズカップを獲得した初の監督となった(その後オットマー・ヒッツフェルト、ジョゼ・モウリーニョ、ユップ・ハインケス、カルロ・アンチェロッティが達成)[7]。
1987年、スワロフスキー・ティロルの監督としてオーストリアに戻り、1992年にオーストリア代表の監督になる前に2度オーストリア・ブンデスリーガにて優勝した(1989年、1990年)。
1992年1月、オーストリア代表監督に就任。しかし、就任から10ヶ月後の11月14日に肺がんのため死去した。享年66歳であった。ハッペルの死後4日後に開催されたドイツ代表との親善試合では、ハッペルが生前に好んで使用していた帽子がベンチに置かれ、試合は0-0でのスコアレスドローに終わった[8]。
彼の死後、オーストリアの最も大きなサッカー専用スタジアムであるウィーンのプラターシュタディオンは、エルンスト・ハッペル・シュタディオンへと改名され、1997年にはロッテルダムに「エルンスト・ハッペル通り」と名付けられた通りができた[9]。
ヨーロッパの監督として初めて「プレッシング」の戦術を開発し[10]、オフサイドトラップ、ゾーンプレスなど当時としては最先端の戦術を次々とチームに導入[11]。フェイエノールトの中心選手だったヴィレム・ファン・ハネヘムは「良いフットボールはアムステルダムから生まれたと強調される度に私は腹が立つ。1970年のヨーロッパ・カップ決勝は事実がそうではなかったという最良の証拠だった」と後に語っている[12]。
人物
[編集]元来無骨で無愛想な監督として知られ、記者会見にてハッペル自身のプライベートな質問が投げかけられると決まって不機嫌になり、短い言葉で回答するにとどまっていた[13]。しかし、死後には遺族から裏の顔として子煩悩で自身の孫のことを非常に甘やかしていたとも明かされている[14]。
私生活ではタバコを愛してやまないヘビースモーカーであり、1981年に発行された『Der Spiegel』のハッペルを特集した記事の見出しには「ブンデスリーガの愛煙家王」と記載されていた[15]。
選手経歴
[編集]- SKラピード・ウィーン 1943-1954
- ラシン・パリ 1954-1956
- SKラピード・ウィーン 1956-1959
監督経歴
[編集]- SKラピード・ウィーン 1959-1962
- ADOデン・ハーグ 1962-1968
- フェイエノールト 1968-1973
- セビージャFC 1973-1974
- クラブ・ブルッヘ 1974-1978
- オランダ代表 1978
- KRCハレルベケ 1978-1979
- スタンダール・リエージュ 1979-1981
- ハンブルガーSV 1981-1987
- FCヴァッカー・インスブルック 1987-1992
- オーストリア代表 1992
獲得タイトル(監督として)
[編集]- FIFAワールドカップ
- 準優勝:1回 1978(アルゼンチン大会)
- トヨタカップ
- 優勝:1回 1970
- 準優勝:1回 1983
- UEFAチャンピオンズカップ
- 優勝:2回 1970、1983
- 準優勝:1回 1978
- UEFAカップ
- 準優勝:2回 1976、1982
- ジュピラーリーグ
- 優勝:3回 1976、1977、1978
- 準優勝:1回 1980
- ベルギー・カップ
- 優勝:2回 1977、1981
- エールディヴィジ
- 優勝:2回 1969、1971
- 準優勝:3回 1970、1972、1973
- KNVBカップ
- 優勝:2回 1968、1969
- 準優勝:3回 1963、1964、1966
- ドイツ・ブンデスリーガ
- 優勝:2回 1982、1983
- 準優勝:2回 1984、1987
- DFBポカール
- 優勝:1回 1987
- オーストリア・ブンデスリーガ
- 優勝:2回 1989、1990
- 準優勝:1回 1991
- オーストリア・カップ
- 優勝:1回 1989
- 準優勝:1回 1988
- オーストリア・スーパーカップ
- 準優勝:2回 1989、1990
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ “Ernst Happel - Legendary football manager — The Sporting Blog”. thesporting.blog. 2023年4月12日閲覧。
- ^ “Greatest Managers, No. 14: Ernst Happel” (英語). ESPN.com (2013年8月6日). 2023年4月12日閲覧。
- ^ “Ernst Happel: The 'Weird Man' Who Conquered European Football and Helped Shape the Modern Game”. Sports Illustrated. 2022年2月4日閲覧。
- ^ a b “Yahoo Search – Busca na Web”. br.search.yahoo.com. 2023年4月12日閲覧。
- ^ “来季CL&次回EUROの決勝戦開催地――二つの聖地サン・シーロ&ウェンブリーでの決勝戦の記憶 | サッカーダイジェストWeb”. www.soccerdigestweb.com. 2023年4月12日閲覧。
- ^ ディートリッヒ・シュルツェ=マルメリンク著 『ゲームの支配者 ヨハン・クライフ』
- ^ “バイエルンのハインケス監督、史上4人目の2クラブでのCL制覇”. サッカーキング. 2023年4月12日閲覧。
- ^ Krennhuber, Reinhard; Wien. “Ernst Happel: Riskanter Spielstil, ausschweifende Lebensweise” (ドイツ語). FAZ.NET. ISSN 0174-4909 2023年4月12日閲覧。
- ^ “Kopie des Beschlusses vom 10. Juni 1997.”. BDS.rotterdam. 2022年12月28日閲覧。
- ^ ディートリッヒ・シュルツェ=マルメリンクは著書 『ゲームの支配者 ヨハン・クライフ』の中で「プレッシングという理念をミケルスと"ともに"発明した」と書いている
- ^ “「PPDA」とは何か?ハイプレスの強度を測る新たな守備の指標 - footballista | フットボリスタ”. www.footballista.jp (2020年8月5日). 2023年4月12日閲覧。
- ^ https://www.fr12.nl/nieuws/25108-van-hanegem-over-misverstand-beter-veldspel-d.html
- ^ “Der Feldherr.”. Abendblatt.de. 2022年12月28日閲覧。
- ^ “Wir laufen schon vor lauter Angst. HSV-Serie: Trainer Happel und seine Methoden.”. Abendblatt.de. 2022年12月28日閲覧。
- ^ “König Lungenzug in der Bundesliga” (ドイツ語). Der Spiegel. (1981年8月9日). ISSN 2195-1349 2023年4月12日閲覧。
外部リンク
[編集]- エルンスト・ハッペル - Olympedia
- エルンスト・ハッペル - Sports-Reference.com (Olympics) のアーカイブ
- エルンスト・ハッペル - National-Football-Teams.com
- エルンスト・ハッペル - FootballDatabase.eu
- エルンスト・ハッペル - Transfermarkt.comによる選手データ
- エルンスト・ハッペル - Transfermarkt.comによる指導者データ
- エルンスト・ハッペル - FIFA主催大会成績
- エルンスト・ハッペル - Munzinger Sports Archives