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バット・チェイン・プラー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『バット・チェイン・プラー』
キャプテン・ビーフハートスタジオ・アルバム
リリース
録音 1976年3月16-18日、31日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州 ロサンゼルス パラマウント・スタジオ
ジャンル ブルース・ロック
時間
レーベル ヴォルタナティブ・レコード(VAULTernative Records)
キャプテン・ビーフハート アルバム 年表
烏と案山子とアイスクリーム
(キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンド)
(1982年)
バット・チェイン・プラー
(2012年)
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バット・チェイン・プラー』(Bat Chain Puller)は、ドン・ヴァン・ヴリートが率いるキャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドによって1976年に制作され、ヴァン・ヴリート没後の2012年にキャプテン・ビーフハート名義で発表されたアルバムである。

解説

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制作までの経緯

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1974年11月、キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドの通算9作目に相当するアルバム『ブルージーンズ・アンド・ムーンビームズ』が発表された[注釈 1]。しかしヴァン・ヴリートは、プロデューサーを務めたマネージャーのアンディ・ディマルティーノが、幾つかの収録曲に彼の許可なく手を加えて発表したと主張した。翌年2月から3月に計画されていたツアーはキャンセルされ、マネージャーのアンディとデイブのディマルティーノ兄弟もバンドのメンバーもヴァン・ヴリートから去っていき[1]、1人になったヴァン・ヴリートは北カリフォルニアの自宅に引き籠ってしまった。

北カリフォルニアで芸術を学んでいたジェフ・モリス・テッパーはキャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドの熱心なファンで、彼等がアルバム『クリア・スポット』の発表に合わせて1973年2月から行なったツアーのロサンゼルス公演の後、ヴァン・ヴリートと言葉を交わしたことがあった。ある日、テッパーは偶然ヴァン・ヴリートを見かけたので話しかけ[注釈 2]、それをきっかけに2人の交流が始まった。テッパーは代表作『トラウト・マスク・レプリカ』の複雑な収録曲の幾つかをギターで弾いてヴァン・ヴリートを感心させ、音楽に対する彼の興味を復活させた[2]

一方、ヴァン・ヴリートは契約のしがらみに絡まれていた。数年前にディマルティーノ兄弟をマネージャーに迎えた時に、彼はアメリカではマーキュリー・レコード、イギリスではヴァージン・レコードと契約を結んだ。これらの契約は当時まだ有効であった。さらに彼が署名したディマルティーノ兄弟に対する委任状も有効だった。彼はこれらの契約の対策として、旧友のフランク・ザッパ[注釈 3]に苦境を説明して助けを求めた。そして1975年4月、ザッパが率いるザ・マザーズ・オブ・インヴェンション(以下、MOI)の新作アルバム『ワン・サイズ・フィッツ・オール』の制作にブラッドショット・ローリン・レッドの変名で客演し[注釈 4][3]、続いて4月と5月、MOIの国内ツアーにキャプテン・ビーフハートとして参加した[注釈 5][4]。5月20日と21日にテキサス州オースティンのコンサートで録音された音源が、10月にザッパ/ビーフハート/マザーズの名義でライブ・アルバム『ボンゴ・フューリー』として発表された[注釈 6]

ヴァン・ヴリートは北カリフォルニアに引き籠っている時に、元メンバーのジョン・フレンチ[注釈 7]に再会し、フレンチからバンドを再結成する事を薦められていた。そこで彼はMOIとのツアーが終わると、フレンチ(ドラムス、ギター)、元メンバーで元MOIでもあるエリオット・イングバー[注釈 8](ギター)、元MOIのジミー・カール・ブラック[注釈 9](ドラムス)、元MOIのブルース・ファウラー[注釈 10](トロンボーン)、グレッグ・ダヴィッドソン[注釈 11][5](ギター)とキャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドを再結成した[注釈 12][6]。彼等はザッパのレコード会社であるディスクリート・レコードがハリウッドのサンセット・ブールバードに所有していたリハーサル・ルームで7週間リハーサルを行なったのち、7月5日にイングランドのネブワース・ハウスで開かれた第2回のネブワース・フェスティバルにピンク・フロイドらと共に出演し、その10日後にはハリウッドのロキシー・シアターで2日連続で合計4回のコンサートを開いた[7]。その後ブラックとダヴィッドソンが離脱して[8]、元MOIのデニー・ウォーリー[注釈 13]が加入し[9]、フレンチはドラムス専任になった。そして10月下旬から12月1日までヨーロッパ・ツアーを行ない、帰国後、年末にはカリフォルニアで幾つかのコンサートを開いた。ロンドン公演の評価は、キャプテン・ビーフハートが復活したという論調を持った極めて好意的なものだった[10]

翌1976年の春、ヴァン・ヴリートはキャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドの新作をザッパのディスクリート・レコードから発表することにして、ヴァン・ヴリート、フレンチ(ドラムス、ギター)、ウォーリー(ギター)、テッパー(ギター)、ジョン・トーマス[注釈 14](キーボード)からなるバンドを結成した[注釈 15][11]。彼等はザッパがハリウッドに所有していたスタジオで6週間にわたってリハーサルを行なった後、ロサンゼルスのパラマウント・レコーディング・スタジオで本作を4日間で製作した。ヴァン・ヴリートはプロデューサーを務め、ザッパはエグゼクティブ・プロデューサーになり本作をディスクリート・レコードから発表するための資金を提供した[12]

発表までの経緯

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本作はアメリカではディスクリート・レコードと販売契約を結んでいたワーナー・ブラザーズによって発売されることになった。しかしイギリスでは前マネージャーのディマルティーノ兄弟が結んだヴァージン・レコードとの契約が有効だったので、本作が直ちに発売されることは不可能だった[13]。ヴァン・ヴリートはヴァージン・レコードとの交渉の如何に関わらずワーナー・ブラザーズが本作を発売すると信じていた。そして1976年の末、彼はヴァージン・レコードに本作のテープを渡して、1977年春に発表されることを期待していた[13]。しかし、この時ザッパはマネージャーでディスクリート・レコードを共同で設立運営するビジネス・パートナーだったハーブ・コーヘンと完全に袂を分かち告訴し合うするという有様で、ディスクリート・レコードの先行きは全く不透明になっていた[13]。そのような状況下で本作はお蔵入りになってしまい、オリジナル・テープはザッパの手元に保管されたままになった。

ヴァン・ヴリートはキャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンド名義のアルバム『シャイニー・ビースト(バット・チェイン・プラー)』(1978年)、『美は乱調にあり』(1980年)、『烏と案山子とアイスクリーム』(1982年)に、本作の収録曲の幾つかを再録音して発表した[14]。一方、彼がヴァージン・レコードに渡したテープに由来すると考えられる劣悪な未発表音源が海賊盤になって出廻った[15]。彼は、音楽活動の最後を飾った作品『烏と案山子とアイスクリーム』を製作する前に、ザッパが所有していた本作のオリジナル・テープを自分に渡すように直談判したが、ザッパは拒否した[16]

1993年にザッパが病没した後、彼の財産を管理していた遺族は90年代末に本作を発表する計画をヴァン・ヴリートに打診したが、音楽活動をやめて画家になっていた彼は許可しなかった[17]。2010年12月に彼が病没した後、ザッパの未亡人は本作の発表を予告した。2012年3月、ザッパの遺族が経営するヴォルタナティブ・レコード(VAULTernative Records[18]は、本作をキャプテン・ビーフハート名義で発表した。実質、キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドの通算13作目のアルバムに相当する。

内容

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本作の発表に際して、制作メンバーの一人だったフレンチが音楽監督を担当した。ボーナス・トラックの'Hobo-Ism'はヴァン・ヴリートとウォーリーの共作で[注釈 16]、ウォーリーは同曲のプロデュースを担当した。添付されたブックレットには、二人の解説と回想が記されている。

収録曲

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Bat Chain Puller (CD)
作詞・作曲は記載がない限りDon Van Vlietによる。
#タイトル作詞・作曲再録音を収録したアルバム時間
1.「Bat Chain Puller」 Shiny Beast (Bat Chain Puller)
2.「Seam Crooked Sam」  
3.「Harry Irene」 Shiny Beast (Bat Chain Puller)
4.「81 Poop Hatch」 Ice Cream for Crow
5.「Flavor Bud Living」 Doc at the Radar Station
6.「Brick Bats」 Doc at the Radar Station
7.「Floppy Boot Stomp」 Shiny Beast (Bat Chain Puller)
8.「Ah Carrot Is As Close As A Rabbit Gets To A Diamond」 Doc at the Radar Station
9.「Owed T' Alex」Don Van Vliet, Herb BermannShiny Beast (Bat Chain Puller)
10.「Odd Jobs」  
11.「Human Totem Pole (The 1000th And 10th Day Of The Human Totem Pole)」 Ice Cream for Crow
12.「Apes-Ma」 Shiny Beast (Bat Chain Puller)
13.「Bat Chain Puller (Alternate Mix)」(Bonus Track)  
14.「Candle Mambo」(Bonus Track) Shiny Beast (Bat Chain Puller)
15.「Hobo-Ism」(Bonus Track)Don Van Vliet, Denny Walley 
合計時間:

参加ミュージシャン

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脚注

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注釈

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  1. ^ 1960年代に発表した3作のアルバムと『ミラー・マン』(1971年)はキャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンド名義であった。『ミラー・マン』はヒズ・マジック・バンド時代の1967年の未発表音源集。『ザ・スポットライト・キッド』(1972年)はキャプテン・ビーフハート名義であった。
  2. ^ ヴァン・ヴリートがカボチャ色に近いオレンジ色のシボレー・コルヴェット・スティングレイに乗ってディ―ラーに来たのを偶然見かけた。
  3. ^ ヴァン・ヴリートとザッパはカリフォルニア州ランカスターアンテロープ・バレー・ハイ・スクールの同級生。R&Bのレコード鑑賞を通じて親交を深め、やがてザッパがギター、ヴァン・ヴリートがボーカルを担当して録音する仲になった。1964年には当時ザッパが所有していたスタジオZで、共同で低予算のSF映画を製作。ヴァン・ヴリートはその映画の登場人物の名前だったキャプテン・ビーフハートを自分のステージ名にした。1968年、ザッパはヴァン・ヴリートのマジック・バンドを自分が同年に設立したストレイト・レコードに招き、『トラウト・マスク・レプリカ』(1969年)のプロデューサーを務めた。しかし、この作品の制作を巡って2人の関係は少しずつ険悪化して、1970年代にはすっかり疎遠になっていた。
  4. ^ ハーモニカを担当した。アルバムは1975年6月に発表された。
  5. ^ ザッパは1993年にBBCのインタビューで「ドン(ヴァン・ヴリート)は突き出された契約書の中身をよく理解せずに署名してしまう。だから、あちらこちらの会社と互いに反する契約を結んでしまい、それが結局彼の活動を妨げてしまう。彼はこの時も、ツアーに出ることもレコードを作ることもできない有様だった。だから、彼をマザーズのツアーに参加させた。それが彼が幾らかの稼ぎを得る唯一の手段だったからだ。」と回想した。
  6. ^ ヴァン・ヴリートも参加した2曲のスタジオ録音曲を含む。
  7. ^ デビュー・アルバム『セイフ・アズ・ミルク』(1967年)から通算6作目の『ザ・スポットライト・キッド』(1972年)までの制作に参加し、時に音楽監督の役割も果たした。ヴァン・ヴリートに再会した時には、キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドの元メンバー達が結成したマラードに参加して活動していた。
  8. ^ MOIのデビュー・アルバム『フリーク・アウト!』(1967年)に参加。1972年にキャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドに加入して『ザ・スポットライト・キッド』の制作とそれに続くツアーに参加した後、脱退と再加入を繰り返した。
  9. ^ MOIのオリジナル・ドラマー。MOIの前身バンドのザ・ソウル・ジャイアンツのメンバーであった。MOIには1969年にザッパが一回目の解散宣言をするまで在籍し、その後もMOIやザッパの様々な活動に客演した。
  10. ^ 1972年に、ザッパの通称"Petit Wazoo Tour"に参加したのを皮切りに、MOIとヴァン・ヴリートのツアーを含めてザッパやMOIの数多くの活動に参加した。弟のトム(ベース・ギター)とウォルト(トランペット)もザッパと共演した。
  11. ^ ザッパのファンだったダヴィッドソンは、シカゴでMOIとヴァン・ヴリートのコンサートを観た後、メンバーと談笑する為に楽屋に行き、そこでヴァン・ヴリートに出会った。彼はヴァン・ヴリートがツアーの後でキャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドを再結成するつもりであることを知って、自分はギタリストだと告げると、ヴァン・ヴリートは彼を2日連続でホテルに招いてジャム・セッションを行なった。数週間後、彼はヴァン・ヴリートに電話で「自分達はイングランドに行くから、ロサンゼルスに来てくれ」と言われた。
  12. ^ ベーシストが見つからなかったので、ファウラーがトロンボーンでベース・パートを演奏した。フレンチが再び音楽監督の役についた。チェロキー族の血をひくブラックはインディアン・インク、ダヴィッドソンは『トラウト・マスク・レプリカ』の収録曲の題名に因んでグレッグ・エラ・グル・ダヴィッドソン、ファウラーは古生物学が好きだったことからブルース・フォシル(化石)・ファウラー、というステージ名を名乗った。
  13. ^ スライド・ギターの名手である。1975年に行なわれたMOIとヴァン・ヴリートのツアーをきっかけに、キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドに参加し、ヴァン・ヴリートからFeelers Reboというステージ名を与えられた。その後、80年代に至るまでザッパの様々な作品に参加した。
  14. ^ キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドの元メンバー達が結成したマラードのメンバー。
  15. ^ ベーシストが見つからなかったので、トーマスがシンセサイザーでベース・パートを演奏した。
  16. ^ ヴァン・ヴリートが作詞、ウォーリーが作曲を担当した。

出典

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  1. ^ Barnes (2011), p. 205.
  2. ^ Barnes (2011), pp. 205–206.
  3. ^ Barnes (2011), p. 208.
  4. ^ Barnes (2011), p. 207.
  5. ^ Discogs”. 2022年12月27日閲覧。
  6. ^ Barnes (2011), pp. 213–214.
  7. ^ Barnes (2011), pp. 215–216.
  8. ^ French (2010), pp. 624–625.
  9. ^ French (2010), pp. 625–627.
  10. ^ Barnes (2011), pp. 217–218.
  11. ^ Barnes (2011), pp. 224–225.
  12. ^ Barnes (2011), p. 229.
  13. ^ a b c Barnes (2011), p. 237.
  14. ^ Barnes (2011), pp. 248, 265, 294.
  15. ^ Barnes (2011), pp. 238, 334.
  16. ^ Barnes (2011), pp. 285–286.
  17. ^ Barnes (2011), p. 333.
  18. ^ Discogs”. 2023年4月21日閲覧。

引用文献

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  • Barnes, Mike (2011). Captain Beefheart: The Biography. London: Omnibus Press. ISBN 978-1-78038-076-6 
  • French, John "Drumbo" (2010). Beefheart: Through the Eyes of Magic. London: Proper Music Publishing. ISBN 978-0-9561212-5-7 

関連項目

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