ヒラヌマ
「ヒラヌマ (Hiranuma)」は、第二次世界大戦の太平洋戦争において米軍によって報告された、日本海軍が保有したとされる戦艦[1]。 しかし「ヒラヌマ」なる艦名は日本海軍の命名慣例から大きく外れており[2]、同名の艦船は当時の日本海軍に存在しなかった[注釈 1]。 また金剛型戦艦の「霧島 (きりしま、Kirishima) 」を攻撃したり[注釈 2]、「ヒラヌマ」と共に戦艦「榛名(はるな、Haruna) 」を撃沈したという報道もあった[注釈 3]。 開戦劈頭のフィリピン攻略戦において、アメリカ軍爆撃機の空襲により日本海軍の軽巡洋艦が損傷、もしくは掃海艇が沈没したのを、戦果誤認したものと思われる[注釈 4]。
概要
[編集]「ヒラヌマ」(平沼)とは[5]、1941年(昭和16年)12月10日の南方作戦にともなうフィリピン攻防戦で、アメリカ合衆国が報道した架空の日本戦艦[注釈 5]。 12月11日時点のマニラ発の発表では、ルソン島北部沖合で霧島型戦艦にアメリカ陸軍爆撃機が爆弾3発を命中させたというものだった[注釈 2]。ところがワシントンのヘンリー・スティムソン合衆国陸軍長官が「アメリカ陸軍爆撃機がルソン島北岸沖合で戦艦榛名を撃沈した。」と発表する[注釈 2]。 「ヒラヌマ」という艦名は、この作戦における空中戦において、アメリカ陸軍航空隊が「空の要塞」と誇っていたB-17が初めて撃墜され、機長のコリン・ケリーの死とともに、アメリカでそれが報じられた時に、そのB-17は戦艦を撃沈後に墜落したとし、その際に挙げられた可能性のある戦艦として、金剛型、榛名とともに伝えられた[8]。しかし、当時のアメリカの報道では、コリン・ケリーの報道と「ヒラヌマ」の報道は関連していない(後述)。
「ヒラヌマ」という軍艦は日本に存在せず、また金剛型戦艦が比島作戦に参加したうえに損傷したり沈没した事実もない[9]。 おそらくルソン島攻略作戦に従事していた軽巡洋艦が、B-17の爆撃を受けて損傷したのを誤認したものとみられる[5][注釈 6]。なお漢字で表記された日本語の艦名を英語に翻訳する際、誤訳した事例がいくつか存在する[注釈 7]。
1941年12月10日時点における比叡と霧島は南雲機動部隊に所属して真珠湾攻撃に参加していた。金剛と榛名はマレー作戦に従事してマレー半島沖合を行動しており、東洋艦隊に備えていた(マレー沖海戦)[注釈 8]。
12月10日にルソン島周辺でアメリカ軍機の攻撃を受けた艦隊(艦艇)は以下のとおり。
第五水雷戦隊司令官原顕三郎少将が率いる軽巡名取などのルソン島北部(カガヤン州)アパリ攻略部隊は、アメリカ軍機から幾度も空襲をうけた[13]。名取と駆逐艦春風がアメリカ軍重爆撃機の空襲を受け、名取が至近弾により戦死7名と重軽傷15名を出し、燃料が漏れだした[14]。カガヤン川の河口に派遣された第19号掃海艇は、被弾して爆沈した[15]。
ルソン島南イロコス州ビガン攻略作戦に従事していたのは、第四水雷戦隊司令官西村祥治少将が率いる軽巡那珂と第2駆逐隊(村雨、春雨、五月雨、夕立)と第9駆逐隊(朝雲、峯雲、夏雲)および輸送船団と護衛部隊であった[16]。10日午前8時以降、米軍戦闘機と重爆撃機による空襲が始まり、那珂が至近弾により戦死2名と負傷者6名を出した[17]。輸送船高雄丸が座礁し、大井川丸が炎上した[18]。そして第10号掃海艇がP-35戦闘機の銃撃で機雷の誘爆により爆沈し[15]、P-35(第34追撃中隊、サムエル・H・マレット中尉)1機が第10号掃海艇の爆発に巻き込まれて墜落した[18]。
ルソン島ビガン沖にいて第四水雷戦隊を支援していた第三艦隊(司令長官高橋伊望中将)に所属する重巡洋艦足柄、摩耶、軽巡洋艦球磨、駆逐艦松風、朝風は、足柄が連合国軍飛行艇より爆撃を受けたが命中しなかった[19]。
戦艦撃沈は誤報だが、12月10日のアメリカ陸軍機は戦果を挙げた。生還した搭乗員の報告を司令部の幕僚が「ジェーン海軍年鑑」と照合してまとめて、12月12日ダグラス・マッカーサー大将の名前で本国へ打電された。電報には「讃うべきはフロリダ州マジソン出身ケリー大尉の功績である。大尉は見事に戦艦榛名を攻撃し、これを航行不能とした」とある。前後して新聞記者の美談調の記事が送られ、話はエスカレートしていった[8]。
「ヒラヌマ」報道の変遷
[編集]1941年12月12日付のThe Mercury紙は「日本海軍の戦艦が炎上」と題した記事を掲載した。この記事では、「マニラにて陸軍が発表した声明によるとフィリピンのルソン島沿岸北東10マイルの地点で日本海軍の29,000トン級戦艦ヒラヌマがアメリカ陸軍による爆撃を受け炎上した」と報じており[20]、同日付のThe Canberra Times紙[21]やAdvocate紙[22]も同様の報道を行っている。同12日朝、合衆国アジア艦隊のトーマス・C・ハート長官は「爆撃により日本戦艦金剛に命中弾3発を与えて大損害を与えた」と発表し、英国放送協会も「霧島か比叡、もしくは榛名か平沼を撃沈した」と報じた[5]。 これらの報道にケリーの名は一切登場せず、爆撃機による体当たり攻撃が行われたという報道も存在しない。ヒラヌマに関する報道自体も特に大規模に行われた訳ではない。12月10日の航空戦は「被撃墜後、戦艦榛名の煙突へ体当たりして撃沈した」と報道された。
1944年9月2日付のThe Advertiser紙には「1941年以来の主要な出来事」と題した1941年12月から1944年9月までの年表が掲載された。この中で、1941年12月11日の欄には日本軍によるグアム攻撃と共に「日本の戦艦ヒラヌマを爆撃し、深刻な損傷を与えた」と記載されている[23]。
アメリカ海軍は1944年10月下旬のレイテ沖海戦で栗田艦隊に所属していた榛名を確認し、同年11月下旬に「ケリー大尉が榛名を撃沈した事はない」と発表した[注釈 9]。
一方、1945年8月11日付のThe Daily Newsに掲載された「太平洋戦争のハイライト」と題された年表では、1941年12月11日の欄では「フィリピン沖にて米軍の爆撃により戦艦ヒラヌマが撃沈される」と記載されている[25]。1945年9月28日付のWodonga and Towong Sentinel紙には太平洋戦争の経過を追う年表が付されたが、こちらの1941年12月11日の欄でも同様に記載されている[26]。
戦後、日本海軍の坂井三郎が『大空のサムライ』にて、アメリカにおける報道内容を「コリン大尉以下10名の搭乗するB-17は、圧倒的な日本空軍の攻撃を排除しつつ、ビガンの敵上陸地点を空爆した。戦艦ハルナ、戦艦ヒラヌマほか約40隻の日本艦隊は、上陸作戦中だったが、B-17は500ポンド爆弾3発を投下、そのうち1発はハルナに、2発はヒラヌマに命中、ともに大火災を発生させたが、敵艦載機数10機による包囲攻撃を受け、故障を生じたコリン大尉は、B-17をそのまま降下させ、ハルナに体当たりを遂行しこれを撃沈した。コリン大尉の勇戦こそは全軍の範とすべきである」と紹介して、米軍が「空の要塞」と誇っていたB-17が撃墜されたことから、「士気の低下を恐れた米軍が、(架空の)日本軍戦艦を撃沈した、との情報を流したのであろう」と語っている。なお、坂井三郎はこのB-17を自分が撃墜したと主張しているが(著書では撃墜は確認できなかったので撃墜不確実と報告したと述べている)、記録によれば、坂井三郎はこの出撃で交戦していない。また既述のようにビガン上陸作戦中にB-17の爆撃を受けたのは軽巡那珂、ビガン沖合で至近弾を受けたのは重巡足柄である。
出典
[編集]注釈
[編集]- ^ 帝國軍艦"ひらぬま"撃沈 米、敗戰糊塗に笑止のデマ[3]【東京十二日發】國通=これは又復アメリカ側の飛ばした苦肉 ― ハワイ眞珠灣を始めフイリツピンにおける自國の惨敗をせめて糊塗しようと連日アメリカ側の放送や電報は嘘八百の大戰果を吠え續けてゐるが、今なほフイリツピン沖で「ひらぬま」と稱する日本戰艦を撃沈したとのデマ放送を飛ばし、全敗アメリカの狼狽ぶりを遺憾なく暴露してゐる それによるとアメリカ飛行機がマニラ沖で「ひらぬま」といふ二萬九千三百噸の戰艦に直撃彈を見舞ひ、火災を生ぜしめ遂に撃沈したといふのだが、その後にわざわざ註を附し「ひらぬま」といふ軍艦の名はヂエーンの海軍年鑑に載つてゐないが、あることだけは確かだと冷汗の出るやうな云ひ抜けをくどくど添へてゐる笑止ぶりである 誰でも知つてゐるやるに帝國軍艦の名前は何れも山、川、神社名或は地名などのみで人名は一つもない、それをどう捏造したものか「ひらぬま」撃沈と報道してゐるのだ、これルーズヴエルトをはじめアメリカ政府當局が狼狽と意氣消沈のどん底にある國民に活氣を與へようと如何に血眼になつてゐるかゞ判るではないか(記事おわり)
- ^ a b c ルソン島北部沖合で戰闘艦榛名號撃沈さる スチムソン陸軍長官發表[7]【マニラ十一日】米爆撃機が昨日北ルソン島沖合に於て二万九千噸級霧島型戰闘艦一隻に直撃彈三個を與へ火災を生ぜしめた旨今日發表された ダグラス・マッカーサー中将の情報係副官レグランデ・デラ少佐は今日左の如く發表した(中略)我が陸軍爆機一機は昨日ルソン島東北十哩の沖合に於て二万九千噸級霧島型戰闘艦一隻を襲撃し、命中彈三個を與へ火災を生ぜしめたり【ワシントン十一日】スチムソン陸軍長官は今日、ルソン島北岸沖合で米陸軍爆撃機が日本海軍戰闘艦榛名號(二万九千トン)を撃沈した事實を確認した(以下略)
- ^ 狽へた米國(中略)[4] かうなると何んとかして日本軍艦をも沈めた事にしないでは、喧しいヤンキー連が納まらぬので、考へ出したのが、我が軍艦ヒラヌマの撃沈で、やがて「榛名」までも沈めたと發表しました。そしてこれも眞實を證明するためだと言つて、撃沈飛行士にケリー大尉と言ふのを仕立て、その美しい未亡人が生後一年半の遺兒とともに語るといふ、御念の入つた記事を各新聞に發表しました。ところがこのケリー大尉は、ウエストポイントの陸軍士官學校を出たと書いて、とうとう馬脚を現しました。いくら米國でも、海軍士官が陸士を出るわけではありますまい。又日本海軍では、個人の名をつけた「ヒラヌマ」等と言ふ軍艦があらう筈がありません。(以下略)
- ^ 米英の惡質デマを反駁[5]【一二・一三】米英兩國は開戰以來未曾有の損害を蒙り蔽ふに術なく止むを得ず右の事實を認めると共に沸騰する國内與論の非難を緩和し、世界を欺かんとする意圖のもとに連日帝國海軍の損害に關する虚構の事實を放送してゐるが、大本營陸海軍報道部では十三日次のやうな部員談を發表し米・英の破廉恥なるデマを反駁した/ △大本營海軍報道部員談 ハート米アジア艦隊司令長官は十二日朝米國空軍が日本軍艦金剛に命中彈三發を加へ大損害を與へた旨十二日發表し又英國BBC放送局も十二日米軍が日本軍艦霧島、比叡、或は榛名、平沼を撃沈した旨放送した模様であるが右は比島作戰に於て我が方の輕巡洋艦一隻輕傷、掃海艇一艦沈没一隻大破したる事實(十二日發表の通り)を奇貨とし米英側が逆宣傳の具に供したるものと思惟され、僅か四百噸の掃海艇を二萬九千噸の戰艦と改竄「猫を虎と見せかけん」とする彼等の心理状態は笑止千萬といはねばならない、かゝる苦肉の策は國民の囂々たる非難を抑へんとする彌縫策の一つと見られ從來宣傳上手といはれた米英兩國としては未だ嘗て見なかつた拙劣醜なる宣傳ぶりといはねばならぬ(記事おわり)
- ^ その四[6] アメリカでは、太平洋艦隊の全滅を國民にヒタ隠しに隠すばかりでなく、敗戰を糊塗し、國民の士氣を昂める爲に、さかんにデマを放送し、法螺を世界に振りまいた。その一例として、フイリツピン方面で、米國空軍の一機は、三個の爆彈を投下して日本戰艦「ヒラヌマ」級を一隻撃沈したといふのである。一臺の飛行機が戰艦をやつつけたといふのも可笑しいが、第一、「平沼」などといふ軍艦は日本にないのである。(以下略)
- ^ 「はる名」撃沈に就て[10] 一、曩に華府當局は比島沖に於て日本主力艦榛名又ウェーク島沖合で日本輕巡洋艦、一隻及び驅逐艦一隻を撃沈した旨公表してるが東京十二日發の電報によると日本側は機雷掃海艦一隻の沈没及び他の機雷掃海艇一隻及び輕巡洋艦一隻が損傷を蒙つたことを認めてるのみで右華府當局の發表に對して大本營は沈黙を守つたまゝ全面的に否定の態度を執つてをり、殊に同盟通信は其の世界向け放送に於て榛名の撃沈を否定し、日本權威筋の發表として米國飛行士は損傷を蒙つた巡洋艦を榛名と誤認したものであるとなしてる(以下略)
- ^ 一例として、アメリカ側は1942年10月26日の南太平洋海戦で正規空母「翔鶴(しょうかく)」に爆弾3発以上を命中させ、軽空母「瑞鳳(ずゐほう)」に爆弾1発を命中させたが、合衆国海軍省公式発表では[11]、「龍角級一万七千噸に大爆彈四個乃至六個を命中、他の航空母艦に中爆彈二個(戦艦、重巡戦果略)」となっている。
- ^ 第二艦隊司令長官近藤信竹中将(旗艦「愛宕」)が指揮する南方部隊本隊(愛宕、高雄、金剛、榛名、第4駆逐隊、第6駆逐隊、第8駆逐隊)に所属していた[12]。
- ^ ワシントン二十日 發―[24] 日本戰艦榛名は太平洋戰最初の週間中比島沖で故コリン・ビー・ケレー大尉指揮の空の要塞に依り襲撃された際に撃沈されなかつたとの再三の報は海軍省により確認された 海軍では榛名は最近の第二次比島戰中米國爆撃機により撃破された旨發表した、同艦はシブヤン海及びサン・ベナンヂノ海峡に入るべく企圖して失敗したる日本海軍戰隊の主力を成してゐた日本船艦五隻中の一隻として列記された(太平洋戰初週中の榛名の撃沈は新聞では撃沈を報道されたものの米國側では決して公式には主張されなかつた、日本は同艦の撃沈を否定し續けて来た)(記事おわり)
脚注
[編集]- ^ 小林知治 1943, pp. 47–48(原本85-86頁)1.米英のデマ宣傳
- ^ “軍艦物語り(八)(艦名命名方針について)”. Hoji Shinbun Digital Collection. Singapōru Nippō, 1934.12.22. pp. 01. 2023年9月19日閲覧。
- ^ “Manshū Nichinichi Shinbun, 1941.12.13”. Hoji Shinbun Digital Collection. pp. 02. 2023年9月9日閲覧。
- ^ 山田国男 1942, p. 16原本12-13頁
- ^ a b c d 同盟旬報(通号162号) 1941, p. 9綜合戰況
- ^ 原田杏太郎 1942, p. 43原本72頁
- ^ “Taihoku Nippō, 1941.12.11”. Hoji Shinbun Digital Collection. pp. 08. 2023年9月9日閲覧。
- ^ a b 秦「第二次大戦航空史話 中」30ページ
- ^ “雜報欄 駐アルゼンテン大使富井周氏は 日本軍ホンコンを攻略す、と發表し 戰艦ハルナの沈没及び金剛の損傷は虚報と強く否定す(ブエノス、アイレス電。十三日)”. Hoji Shinbun Digital Collection. Rokkī Nippon, 1941.12.16. pp. 01. 2023年9月19日閲覧。
- ^ “Taihoku Nippō, 1941.12.15”. Hoji Shinbun Digital Collection. pp. 02. 2023年9月9日閲覧。
- ^ “ソロモン大海戰の結果を米海軍省正式發表 日本側大艦七隻に大損害を與ふと”. Hoji Shinbun Digital Collection. Yuta Nippō, 1942.11.02. pp. 03. 2023年9月19日閲覧。
- ^ 戦史叢書24 1969, pp. 132–133南方部隊本隊の馬公進出
- ^ 戦史叢書24 1969, pp. 204–205進撃
- ^ 戦史叢書24 1969, pp. 205a-208揚陸と米軍の反撃
- ^ a b 戦史叢書24 1969, p. 207.
- ^ 戦史叢書24 1969, pp. 208–210三 ビガン急襲/作戦準備
- ^ 戦史叢書24 1969, pp. 213a-215揚陸と米軍の反撃
- ^ a b 戦史叢書24 1969, p. 213b.
- ^ 戦史叢書24 1969, p. 216比島部隊主隊の支援行動
- ^ 1941年12月12日 The Mercury "JAPANESE BATTLESHIP ABLAZE"
- ^ 1941年12月12日 The Canberra Times "JAP. ATTACKS HELD IN PACIFIC"
- ^ 1941年12月12日 Advocate "SITUATION IN MANILA IS "WELL IN HAND""
- ^ 1944年9月2日 Advertiser "OUTSTANDING EVENTS SINCE 1941"
- ^ “ケレー大尉比島で榛名を撃沈せず 米國海軍で確認す”. Hoji Shinbun Digital Collection. Hawaii Times, 1944.11.21. pp. 06. 2023年9月19日閲覧。
- ^ 1945年8月11日 The Daily News "Highlights Of Pacific War"
- ^ 1945年9月28日 Wodonga and Towong Sentinel "Pacific War"
参考文献
[編集]- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 比島・マレー方面海軍進攻作戦』 第24巻、朝雲新聞社、1969年3月。
- アジア歴史資料センター(公式)
- 『同盟旬報第5巻第35号(通号162号)(同盟通信社)』1941年12月。Ref.M23070032400。
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 小林知治「第九章 大東亞戰下日本の對外宣傳」『思想戰略論』地平社、1943年7月 。
- 原田杏太郎『大東亞戰爭 勝利の記録』新紀元社、1942年3月 。
- 山田国男『軍神特別攻撃隊九勇士』一心堂、1942年4月 。