フィンガーティップス
「フィンガーティップス」 | ||||
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スティーヴィー・ワンダー の シングル | ||||
初出アルバム『12歳の天才』 | ||||
リリース | ||||
録音 | 1963年 | |||
ジャンル | R&B、ソウル、ファンク | |||
時間 | ||||
レーベル | モータウン | |||
作詞・作曲 |
クラレンス・ポール ヘンリー・コスビー | |||
プロデュース | ベリー・ゴーディ | |||
チャート最高順位 | ||||
スティーヴィー・ワンダー 年表 | ||||
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「フィンガーティップス」 (Fingertips) は、アメリカ合衆国のシンガーソングライターであるスティーヴィー・ワンダーが1963年に発表した楽曲。スティーヴィー・ワンダーの4枚目のシングルで、アルバム『12歳の天才』に収録され、ともに彼が13歳になる直前に発表された。
解説
[編集]この曲は、クラレンス・ポールとヘンリー・コスビーによって書かれたものであり、最初は演奏曲として書かれたもので、『ジャズ・ソウル〜スティーヴィー・ワンダー・ファースト・アルバム』に収録された曲であったが、シングル盤として発売されたのはライブ盤であり、モータウンとしても初の試みであった。モータウンの歴史の中でもライブ晩が全米ヒット・チャート№1になったのは後にも先にもこの曲だけである[2]。
新ヴァージョンはキーがGからCにあげられ、スティーヴィーがボンゴやハーモニカの演奏の合間にヴォーカルのアドリブをとるためのパートがつけ加えられていった。この曲は、1961年末のアポロ劇場に出演中のスティーヴィーのステージに組み入れられ、1962年の1年間をかけて改良が加えられていった。ヒットとなったヴァージョンは、シカゴのリーガル・シアターでレコーディングされたモータウン・レヴューからのものだった[3]。
モータウンのMC、ビル・マーレイによる興奮気味の紹介から始まり、観客の声援はまばらながらも、コンガや手拍子が始まり、スティーヴィーが「イェィ……イェィ」と繰り返し、感情を昂揚させてゆく、それからイントロ、スティーヴィーのアドリブ、ドラムスが参加し、スティーヴィーのハーモニカ、彼の後ろでバンド全員が纏まり、ホーンの間を縫ってリズミカルな旋律を演奏する。頂点に達して、スティーヴィーが叫び出す。「さあみんな、Say Yeah!」観客からも同じフレーズが返ってきて、スティーヴィーも続ける。次のコーラスの後、スティーヴィーは歌い出し、ハーモニカ・ソロと手拍子。全バンドがフィナーレのために参加。スティーヴィーは手拍子だけで歌い続け、さらにメリーさんの羊へと移行する。
アーティストの入れ替えの際、次のバンドが「フィンガーティップス」のラストの部分を演奏して締めくくっている。スティーヴィーのパフォーマンスは、彼の若さゆえのやりどころのないエネルギーの融合で、ロックン・ロールそのものであった[4]。
WJBKの特別番組の中でスティーヴィーは、
みんなが「イェーッ」って叫んだ後はもう、成り行きまかせだったんだ。計画してやったわけじゃないんだよ
と語っている[3]。
スティーヴィーが更に語るところによると、
メリー・ウェルズが次の出番だった。そこっで何が起こったかというと、彼女のベース・プレイヤー(ラリー・モーゼズ)が位置についたんだけれど、僕達はアンコールの最中でね。彼が『キーは何、キーは何』って言ってるんだ。そんなやりとりがレコードに入ってしまったけれど、そのままさ[4]
司会が「それではスティーヴィーに拍手を」と叫んだので、次の出演者のベーシストであったモーゼズはステージに上がった。そこへスティーヴィーが戻って来たので、ラリーはどうすればよいのか、分からなくなったのである。
以上のような混乱したステージの様子や、スティーヴィーの若さの爆発はレコードから溢れんばかりである[3]。
この曲は7分近い長いものであったので、モータウンはシングル盤の両面に分けることとなった。B面の「Part1」が曲のメインパートで、A面の「Part2」が延々と続いたアンコールの部分で、バックバンドの会話や、進行スタッフの咳払い入りで、収拾がつかぬ状態でありながらヒットし、ポップチャート、R&Bチャートともに一位を獲得した。
「フィンガーティップスPart2」はまたたくまにブレイクし、スティーヴィーはモータウンの売れっ子メンバーの一員に挙げられるようになった。彼はミュージシャンとしての自分のいる場所をみつけたが、同時に学校教育の義務教育を終えていない少年でもあった。ジュニアハイスクールへ行く時期であったが、ツアー生活を送っているスティーヴィーにとって、毎日学校へ通って勉強をすることは不可能であった。この問題は学期末に持ち上がってきた話であり、彼は夏のうちに解決しなければならなかった[4]。
その結果、モータウンはスティーヴィーをミシガン州ランシングにあるミシガン盲学校に入学させ、スティーヴィーのための学習プログラムが組まれ、ツアー中は学校の指名する家庭教師を同行させることになった。ところが、困ったことに、ランシングはデトロイトよりも150マイル離れており、平常時もスティーヴィーは家にいることができなくなってしまった。スティーヴィーは文字通りの「モータウンの子供」であり、子供が親との関係の中で人格を形成していくように、モータウンの大人たちの価値観や、会社との関係、会社への要求への対応の中で、自分を作っていったのであった[3]。
脚注
[編集]関連項目
[編集]先代 ザ・タイムス 「なぎさの誓い」 |
Billboard Hot 100 ナンバーワンシングル 1963年8月10日 - 8月24日(3週) |
次代 エンジェルス[要曖昧さ回避] 「私のボーイフレンド」 |