フロル・コズロフ
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フロル・コズロフ Фрол Козлов | |
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生年月日 | 1908年8月5日 |
出生地 | ロシア帝国リャザン県カシモフスキー郡ロシュチニノ村 |
没年月日 | 1965年1月30日(56歳没) |
死没地 | ソビエト連邦モスクワ |
出身校 | レニングラード理工科大学 |
前職 | レニングラード市党第一書記、レニングラード州党第一書記、党幹部会員、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国閣僚会議議長(首相)、ソ連閣僚会議第一副議長(第一副首相) |
所属政党 | ロシア共産党(ボリシェヴィキ)→ソ連共産党 |
称号 | レーニン勲章、社会主義労働英雄 |
在任期間 | 1960年4月5日 - 1963年6月21日 |
中央委員会第一書記 | ニキータ・フルシチョフ |
在任期間 | 1957年12月19日 - 1958年3月31日 |
画像外部リンク | |
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フロル・コズロフ |
フロル・ロマノヴィチ・コズロフ(ロシア語: Фрол Рома́нович Козло́в、ラテン文字転写の例:Frol Romanovich Kozlov、ユリウス暦1908年8月5日(グレゴリオ暦8月18日) - 1965年1月30日)は、ソビエト連邦の政治家。
来歴・人物
[編集]コズロフはリャザン州のロシニノ(ロシア語:Лощинино)の村で生まれた。コムソモールなどでの活動などを経て、1953年にレニングラード州CPSU委員会の初代書記に就任しレニングラード事件で指導部が粛清された党組織の再建を担った。
1957年2月14日ソ連共産党幹部会(政治局)員候補に選出される。同年6月29日幹部会員に昇格。1959年7月のニキータ・フルシチョフの訪米に同道し、立ち入りが厳重に制限されていた北カリフォルニアのボヘミアングローブ野営地を訪れた。
1960年にフルシチョフに次ぐ第二書記となり翌1961年には社会主義労働英雄の称号を授与、一時はフルシチョフの後継者として目されたもののアルコール依存症の影響で健康面に不安を残し1963年に脳卒中で倒れる。これに伴い第二書記の座をレオニード・ブレジネフに取って代わられてしまい、フルシチョフ失脚後の1964年11月16日に解任された。
解任後程無くして1965年1月30日に死亡し、クレムリン城壁墓地に埋葬された。
外部リンク
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