コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ミハルカス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ミハルカス
品種 サラブレッド
性別
毛色 黒鹿毛
生誕 1960年4月18日
死没 不明
ヒンドスタン
第弐ハレルヤ
生国 日本千葉県富里村
生産者 千葉社台牧場
馬主 平井太郎
調教師 小西喜蔵東京
競走成績
生涯成績 42戦10勝
獲得賞金 2685万1000円
テンプレートを表示

ミハルカス日本競走馬中央競馬重賞ダイヤモンドステークスオールカマーを優勝した。1965年(昭和40年)に行われた第10回有馬記念のレース終盤において、シンザンとともに観客席の視界から消えるほど外側を走行し、観客を騒然とさせたことで知られている。

経歴

[編集]

デビュー時

[編集]

ミハルカスは1960年(昭和35年)4月、千葉県千葉社台牧場で生まれた。調教師小西喜蔵尾形藤吉との争奪戦に勝って入厩させた期待馬であったが身体が弱く、脚部不安が原因でデビューの予定は度々延期となった[1]。4歳になったばかりの1963年(昭和38年)1月、中山競馬場で行われた新馬戦でデビューしたものの、メイズイの7着に敗れた。当時、脚部不安の競走馬に対しては焼烙を行うのが一般的であったが、小西は馬が可哀相だという理由でこれを採用せず、患部を冷やしながら休み休みレースに出走させた[2]

本格化

[編集]

1964年(昭和39年)の夏頃から脚部不安が改善し始め、コンスタントに出走することができるようになった[3]。同年11月から12月にかけて条件戦を4連勝し、翌1965年(昭和40年)1月には重賞のアメリカジョッキークラブカップに出走。ここでは10着に敗れたものの、4月のダイヤモンドステークス菅原泰夫が騎乗し、初めて重賞を勝った[注釈 1]。この年のシーズン後半には当時の中央競馬トップの競走馬と対戦するようになり、10月のオールカマーでは加賀武見に乗り替わり、前年の天皇賞(秋)有馬記念を勝ったヤマトキヨウダイらを下し優勝した。

11月には天皇賞(秋)に出走し、加賀が向こう正面で後続を30馬身以上引き離す大逃げの戦法をとって3着に粘り、場内を沸かせた。優勝したのは三冠馬シンザンであったが、ミハルカスに騎乗した加賀は前走の目黒記念の結果から正攻法ではシンザンには勝てないと判断し、「なんとか一矢報いたい」という気持ちから大逃げを打ったと後に証言している[4]。しかしシンザンの厩務員を務めた中尾謙太郎によると、シンザン陣営には「どんなレースでも、なにが来ても負けん」という自信があったという[5]

第10回有馬記念

[編集]

天皇賞(秋)の後、ミハルカス陣営は第10回有馬記念への出走を決めた。天皇賞終了時は翌春の戴冠に向けての充電に当てたかったため、参加の予定はなく加賀はフリーであった。その為、有馬記念の前週にシンザンの主戦騎手であった栗田勝がシンザンの管理方針を巡る武田との対立から調整ルームを抜け出して酒をあおり、急性の疾患(急性胃腸カタル[6]または急性アルコール中毒[7])を起こして病院に搬送されるという不祥事を起こした[8][9]際、シンザンの管理調教師である武田文吾は栗田をシンザンから降板させることを決定し、加賀の師匠である阿部正太郎を介して加賀に代役を依頼する事となった。ところが、この話を巡ってミハルカスの管理調教師である小西と阿部との間に対立が生じ、小西が休養予定を変更しミハルカス有馬出走を決め、加賀もシンザン騎乗よりもシンザン打倒を選んだことで話は頓挫。結局、シンザンには栗田の兄弟子である松本善登が騎乗する事となった[10]

有馬記念当日は内側の馬場状態が悪く、加賀はミハルカスを外側に誘導して逃げ[11]第4コーナーで加賀は「直線も中途半端じゃない外に出よう」と決断し、「ほとんど斜行と言ってもいいくらいの角度」でミハルカスを外側へ誘導した[12]。ここでシンザンがミハルカスのさらに外へ進路をとりつつ加速した。加賀にはシンザンがミハルカスよりも内側を通るという予測があり、それによって馬場状態の悪い部分を走ったシンザンの体力が幾分か消耗することを期待していたが、シンザンの動きは予想外のものであったと振り返っている[13][注釈 2]。この時、観客席からは2頭が視界から消えたように見えた。とくにシンザンについてはラチ沿いの溝に落ちたのではないかという観測が生まれ、観客は騒然となった[13]。シンザンの姿はテレビカメラでもとらえられなくなり[14]、「消えた」と実況された[15]。しかし加賀によると実際にはこの時、ミハルカスの外にはおよそ2頭分のスペースが残されており、シンザンが溝に落下することは絶対にあり得なかったという[13]。直線でミハルカスはシンザンに交わされ2着に敗れた。

その後

[編集]

第10回有馬記念の後、ミハルカスは9回レースに出走したが勝利を挙げることはできず、1967年(昭和42年)1月3日の金杯(東)を最後に競走馬を引退した。種牡馬として日本中央競馬会に購入されたが牝馬と交配する能力のないことが判明。日本中央競馬会が運営する宇都宮育成牧場で能力蘇生が図られたが功を奏せず、1972年(昭和47年)に種牡馬廃用となった[16]。ミハルカスはそのまま16年にわたり宇都宮育成牧場で繋養された。1984年(昭和59年)に乗馬クラブに引きとられて以降の消息は不明である[17]

血統表

[編集]
ミハルカス血統ボワルセル系セントサイモン系) / Blandford3×4=18.75% Gallorette5×5=6.25% White Eagle 5×5=6.25% (血統表の出典)

*ヒンドスタン
Hindostan
1946 黒鹿毛
父の父
Bois Roussel
1935 黒鹿毛
Vatout Prince Chimay
Vasthi
Plucky Liege Spearmint
Concertina
父の母
Sonibai
1939 鹿毛
Solario Gainsborough
Sun Worship
Udanipur Blandford
Uganda

第弐ハレルヤ
1943 鹿毛
*ステーツマン
Primero
1930 黒鹿毛
Blandford Swynford
Blanche
Dail Land League
Discourse
母の母
カムフオーコウホート
1936 鹿毛
Cohort Grand Parade
Tetrabbazia
*カムフオーダブル Donnacona
Rocking Chair F-No.4

半兄菊花賞優勝馬のラプソデーがいる。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 菅原にとってもこのダイヤモンドステークスが重賞競走初制覇ともなった。
  2. ^ 第4コーナーで加賀が故意にシンザンを外側に張り出したと言われることもあるが、加賀は騎手人生を通じてそのような戦法をとったことはないと語っている[12]

出典

[編集]
  1. ^ 渡辺1999、330頁。
  2. ^ 渡辺1999、330-331頁。
  3. ^ 渡辺1999、331頁。
  4. ^ 渡辺1999、334頁。
  5. ^ 渡辺1999、335頁。
  6. ^ 大寺1982、228頁。
  7. ^ 吉永1995、176頁。
  8. ^ 大寺1982、220-228頁。
  9. ^ 吉永1995、168-177頁。
  10. ^ 大寺1982、228-231頁。
  11. ^ 渡辺1999、337頁。
  12. ^ a b 渡辺1999、338頁。
  13. ^ a b c 渡辺1999、339頁。
  14. ^ 鈴木和幸 (2009年12月22日). “有馬記念の秘話”. ウマニティ. 2011年8月15日閲覧。
  15. ^ 有馬記念とは”. 第53回有馬記念特集. JRA SYSTEM SERVICE. 2011年8月15日閲覧。
  16. ^ 渡辺1999、342-343頁。
  17. ^ 渡辺1999、343頁。

参考文献

[編集]
  • 大寺駿『黄金の馬シンザン 改訂新版』日本経済通信社、1982年。ISBN 481870055X 
  • 渡辺敬一郎『最強の名馬たち 「競馬名勝負」真実の証言』講談社、1999年。ISBN 4062097125 
  • 鈴木和幸 (2009年12月22日). “有馬記念の秘話”. ウマニティ. 2011年8月15日閲覧。
  • 吉永みち子『シンザン物語 蹄跡よ永遠に』大和出版、1995年。ISBN 480476044X 
  • 有馬記念とは”. 第53回有馬記念特集. JRA SYSTEM SERVICE. 2011年8月15日閲覧。

外部リンク

[編集]