ヨー・ガルトナー
ヨー・ガルトナー | |
---|---|
基本情報 | |
国籍 | オーストリア |
出身地 | 同・ウィーン |
生年月日 | 1954年1月4日 |
没年月日 | 1986年6月1日(32歳没) |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1984 |
所属チーム | '84 オゼッラ |
出走回数 | 8 |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 0 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
初戦 | 1984年サンマリノGP |
最終戦 | 1984年ポルトガルGP |
ヨーゼフ・"ヨー"・ガルトナー(Josef "Jo" Gartner, 1954年1月4日 - 1986年6月1日)は、オーストリア・ウィーン出身のレーシングドライバー。
経歴
[編集]初期のキャリア
[編集]レーサーを志望していたが、最初はメカニックとしてレース界に入った。1977年暮れにドライバーとしてホッケンハイムリンクで開催されたノンタイトル戦のフォーミュラ3レースに初エントリー、フォーミュラー・スーパー・Veeにも参戦する。1979年にヨーロッパF3に参戦。F3を1年で卒業し、1980年からはF1直下のカテゴリーであるヨーロッパF2選手権へとステップアップした。
F2参戦三年目となった1983年、所属するEMCOレーシングが、F1へとステップアップしていったスピリット・レーシングから中古のスピリット・201のシャシーを購入。エンジンは外されていたため、これにBMW・M12/7エンジンを搭載しガルトナーはこれまでで最も戦闘力を持つマシンに乗った結果、第6戦ポー・グランプリにてF2初優勝を挙げるなど活躍し、ランキング6位となった。
F1
[編集]1984年にイタリアのオゼッラと契約。第4戦サンマリノGPでF1デビュー。F1での弱小チームではあったが、この年のオゼッラは時折速さを見せ、ガルトナーは第11戦イタリアGPで5位入賞を果たした(チームメイトのピエルカルロ・ギンザーニも第9戦アメリカGPで5位入賞を記録)。
しかし同年のオゼッラのエントリー申請はギンザーニの1カーエントリーで登録されていた為、5位の記録は残ったがガルトナーに選手権ポイントは与えられなかった。また、マシンの信頼性も低く、参戦した8戦中完走は3戦であった。ガルトナーのF1参戦はこの年のみとなった。
アメリカ
[編集]F1でのシートを得られなかったガルトナーはアメリカに渡り、IMSA GTPシリーズに参戦。1986年にはセブリング12時間レースでポルシェ・962Cを駆り、ハンス=ヨアヒム・スタック、ボブ・エイキンと共に総合優勝を飾った。
ル・マン24時間レース
[編集]同年6月1日、ル・マン24時間レースにクレマー・レーシングから高橋国光、サレル・ヴァン・デル・メルヴェとのチームで出場していた最中、ポルシェ・962Cでの夜間走行を担当していたガルトナーは、現地時間の深夜3時過ぎに長い直線で知られるユノディエールで時速300km以上で左側にコースアウト。ガードレールを長い区間なぎ倒した後に車は横転してガードレールの向こう側で停止すると、そこで炎上し車体が燃え尽きた。車両の破壊状態がひどかったため、コースアウトした原因特定は完全ではないが、後輪サスペンションの破損が原因との説[1]、ガルトナーがコース路面に残した左側に向きを変えるタイヤ痕からギアボックスに異変が発生した説、後方を走っていた車両による目撃証言から、他の車が落とした何かを左側に避けた説や、コースを横断した小動物がいた説なども報じられ特定に至っていない[2]。ガルトナーは即死であった。32歳没。
チームのメインスポンサーだったケンウッドは、事故後企業TVCM中にガルトナーへの追悼文を字幕で流した。
ガルトナーは故郷ウィーン・デープリングのデープリンガー墓地に埋葬され眠っている。
レース戦績
[編集]ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権
[編集]年 | チーム | シャシー | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1979年 | Jim Beam Team | マルティニ・MK27 | ルノー | VLL | ÖST 16 |
ZOL 12 |
MAG 12 |
DON DNQ |
ZAN DNQ |
PER |
MNZ DNQ |
KNU DNQ |
KIN DNQ |
JAR |
KAS 4 |
21位 | 3 |
ヨーロッパ・フォーミュラ2選手権
[編集]年 | エントラント | シャーシ | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1980年 | レーシングチーム・アルバトロス | マーチ・782 | BMW・M12/7 | THR | HOC 13 |
NÜR | VLL | PAU | NC | 0 | ||||||||
チーム・ジム・ビーン | SIL 7 |
ZOL | MUG 12 |
ZAN 11 |
PER | MIS | HOC Ret |
|||||||||||
1981年 | ヨー・ガルトナー・レーシング | トールマン・TG280 | SIL | HOC | THR | NÜR 7 |
VLL | MUG 9 |
PAU | PER 6 |
SPA Ret |
DON Ret |
19位 | 1 | ||||
アストラル・チーム・メッツァリオ Srl | マーチ・812 | MIS DNQ |
MAN 8 |
|||||||||||||||
1982年 | チーム・メルツァリオ | メルツァリオ・282 | SIL 6 |
HOC Ret |
THR 10 |
NÜR Ret |
MUG Ret |
VLL 7 |
PAU Ret |
SPA 15 |
HOC 7 |
DON Ret |
MAN Ret |
PER | MIS | 17位 | 1 | |
1983年 | EMCO Sports Team | スピリット・201 | SIL Ret |
THR Ret |
HOC 4 |
NÜR Ret |
VLL Ret |
PAU 1 |
JAR 17 |
DON Ret |
MIS Ret |
PER 5 |
ZOL Ret |
MUG 7 |
6位 | 14 | ||
1984年 | スピリット・201B | SIL Ret |
HOC Ret |
THR | VLL | MUG | PAU | HOC | MIS | PER | DON | BRH | NC | 0 |
マカオグランプリ
[編集]年 | チーム | エンジン | 周回 | 合計タイム | LEG1 | LEG2 | 総合順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1985年 | Walter Funda Racing | VW | 27 | 1:06:50.810 | 16 | 9 | 10位 |
フォーミュラ1
[編集]年 | 所属チーム | シャシー | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | WDC | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1984年 | オゼッラ | FA1E | BRA | RSA | BEL | SMR Ret |
FRA | MON | CAN | DET | DAL | NC (21位) |
0 | |||||||
FA1F | GBR Ret |
GER Ret |
AUT Ret |
NED 12 |
ITA 5‡ |
EUR 12 |
POR 16 |
(key)
- ‡ : 入賞圏内でフィニッシュしたが、オゼッラが1カーエントリー登録であったため、2台目であるガルトナー車への選手権ポイントは与えられず。
ル・マン24時間レース
[編集]年 | チーム | コ・ドライバー | 使用車両 | クラス | 周回 | 総合順位 | クラス順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1985年 | ジョン・フィッツパトリック・レーシング | デヴィッド・ホブス ガイ・エドワーズ |
ポルシェ・956B | C1 | 366 | 4th | 4th |
1986年 | ポルシェ・クレマー・レーシング | サレル・ヴァン・デル・メルヴェ 高橋国光 |
ポルシェ・962C | C1 | 169 | DNF | DNF |
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ Damals & Heute: OEYNHAUSEN: Unvergessen der Besuch von Formel 1 Rennfahrer Jo Gartner MeinBezirk.at 2021年8月10日
- ^ Josef Anton Gartner Motorsport Memorial