ライアン・クロサキ
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基本情報 | |
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国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | ハワイ州・オアフ島ホノルル |
生年月日 | 1952年7月3日(72歳) |
身長 体重 |
5' 10" =約177.8 cm 160 lb =約72.6 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1974年 |
初出場 | 1975年5月20日 |
最終出場 | 1975年6月16日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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ライアン・ヨシトモ・クロサキ(Ryan Yoshitomo Kurosaki、1952年7月3日 - )は、アメリカ合衆国・ハワイ州ホノルル出身の元プロ野球選手(投手)。
メジャーリーグベースボール(MLB)における日系アメリカ人の投手第一号であり、混血でない[1]日系アメリカ人としては初めてMLBでプレーした選手である[2]。
来歴・人物
[編集]クロサキはホノルルで野球を始め、1970年にはホノルルのカラニ高校で州選手権に優勝。この時のチームメイトに二塁手のレン・サカタ[3]がいた。
1974年、ネブラスカ大学リンカーン校を卒業後にフリーエージェント選手としてMLBのセントルイス・カージナルスと契約し、同球団傘下のマイナーリーグ球団でプロ野球選手となった。2シーズン目の1975年、カージナルスのトップチームに昇格して、5月20日のサンディエゴ・パドレス戦で初登板。アジア系アメリカ人として、また日系人としてMLBにおける初の投手となった。その後7試合に登板したが、勝敗には関わらず、防御率も7.62と振るわなかった。6月16日の登板を最後にマイナーリーグへと降格した。その後もクロサキはカージナルス傘下のマイナーリーグ球団で野球を続けたが、1980年を最後に現役を引退した。
引退後はアーカンソー州のリトルロックに移住。同市の消防局で"Fire Captain"(消防司令)を務めている事が、2002年にホノルル・アドバタイザー紙が掲載したクロサキとサカタの二人に対するインタビュー記事の中で紹介された[2]。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1975 | STL | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 61 | 13.0 | 15 | 3 | 7 | 1 | 0 | 6 | 0 | 2 | 11 | 11 | 7.62 | 1.69 |
MLB:1年 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 61 | 13.0 | 15 | 3 | 7 | 1 | 0 | 6 | 0 | 2 | 11 | 11 | 7.62 | 1.69 |
- 「-」は記録なし
脚注
[編集]- ^ 「混血でない」という限定を外し単に「日系アメリカ人」とした場合は、アメリカ人と日本人をそれぞれ生物学上の父と母に持つマイク・ラムがメジャーリーガーにおける第一号。
- ^ a b Kalani's Sakata, Kurosaki major achievers the.honoluluadvertiser.com, August 15, 2002、2016年5月16日参照
- ^ サカタは1977年にミルウォーキー・ブリュワーズへ昇格し、3人目の日系人MLBプレーヤーとなった。以後、11シーズンで565試合に出場し、ボルチモア・オリオールズ在籍中の1983年にはワールドシリーズで優勝するなどの活躍を見せた。