一式陸上攻撃機
三菱 G4M 一式陸上攻撃機
一式陸上攻撃機(いっしきりくじょうこうげきき / いちしき - )は大日本帝国海軍の陸上攻撃機である。略称は一式陸攻(いっしき / いちしきりくこう、- りっこう)。日本海軍の呼び名は中型攻撃機の略の、中攻。連合国側のコードネームは「Betty」(ベティー)。(Betty bomberが、一式陸攻の米軍側の名称)三菱重工業株式会社(改称前は三菱内燃機株式会社)の設計・製造。支那事変(日中戦争)・大東亜戦争(太平洋戦争)で日本海軍の主力攻撃機として使用された。
特徴
[編集]大直径の胴体内部に爆弾や魚雷を搭載し、胴体下の機体外部に搭載していた九六式陸攻よりも攻撃時の空気抵抗を大きく削減した。エンジンは大馬力の火星を装備した。主翼内をインテグラルタンクとし、4,000km以上に達する大航続力を得た。空気力学的洗練により、大型双発機としては軽快な運動性を得た。尾部に20mm旋回機銃を装備するなど、九六式に比べて防御火器を充実しているが、搭乗員や燃料タンクの防護は不十分だった。
機体設計
[編集]九六式陸攻では胴体を細く、後方を引き絞ったために胴体内に爆弾倉を設けることができず、雷爆装は剥き出しで胴体下面に懸吊していたためこれが大きな空気抵抗源となっていた。また一式陸攻では、後方銃座を設ける関係で特に胴体後方は太くせざるを得ないこととなった。そこで空技廠における実験データを参考に、最も太い箇所で幅2 m、高さ2.5 mの楕円断面を持ち前後をゆるく絞った上で丸めた太い葉巻型胴体を採用した。この太い胴体によって空気抵抗源となる雷爆装を収容する爆弾倉を設けることができ、また葉巻型形状によって引き絞らないことによる空気抵抗増を抑えることができた。爆弾倉に搭載する追加燃料タンクも用意され、偵察時はこれを搭載して航続距離をさらに伸ばすことができた。ただし、爆弾倉に開閉式の扉は設置されず、取り外し式の覆いが用意された。この覆いは魚雷用、大型爆弾(50番・80番)用、偵察用の3種類で、25番以下の小型爆弾を搭載して出撃する際は覆いは取り付けなかった。なお、当初一一型の胴体は製造の簡易化を図って側方銃座の後方で前後に分割できるようになっていたが、これはすぐに廃止されている。[1]
主翼は付け根で12.5パーセント、翼端で10パーセントという薄翼とし、アスペクト比8、テーパー比1 : 4というかなり先細りの平面形を採用した。主翼を胴体中ほどに取り付ける中翼形式とすることで、胴体との間にフィレットを設けずに済ますことができた。重心位置を考慮し、燃料タンクは全て主翼の2本の主桁の間に設けられたインテグラルタンクに収められた。外板との接合部を水密処置し躯体を直接燃料タンクとして利用するこの手法によって、重心位置に近い薄い主翼内に5,000リットル近い燃料を搭載することができ、長大な航続距離を実現した。水平尾翼、垂直尾翼は共に面積を大きく取り、各舵面を翼の25パーセントという当時としては小さくとることで操舵力を抑え操縦を容易にした。水平尾翼はアスペクト比が大きく取られているが、垂直尾翼はアスペクト比が小さくなっており強い横滑り時でも方向舵の効きを失わない。また高さを抑えられたため格納庫の高さも高くせずに済んだ。[2]
エンジンは大直径の火星を搭載しているが、エンジンナセルの直径はこれよりも一回り大きく、また最大直径はエンジンのやや後ろにある。これは胴体と同じ空技廠のデータに基づく抗力軽減策に加えて、気化器空気取入口や滑油冷却器空気取入口を完全にエンジンカウル内に収めてさらなる抗力の削減を狙ったものである。そのため一一型初期まではエンジンナセル前部に突出部がなく滑らかに整形されているが、仮称一三型開発時に気化器吸入口をカウル内に開口した場合と、カウル外に開口した場合とで性能比較した所、後者はエンジンの全開高度が1速/2速とも300m高くなり、最高速度[注釈 1]、上昇時間[注釈 2]、上昇限度[注釈 3]が向上した[3][4][注釈 4]。これを受け以降の型式では気化器吸入口がカウル外開口に変更となり、滑油冷却器の空気取入口も流量確保[注釈 5]のため抵抗増を忍んで外部開口に変更されている。九六式陸攻では引き込んでも半分近くが露出していた主脚は完全にエンジンナセルに収容されるように設計された。また主脚、フラップなどの操作系は油圧ではなく電動を採用し、これによって作動油配管からの油漏れを回避することができた。[1][7]
本機はパイロットの技量が確かであれば片発飛行が可能とされ、その場合は機体を軽くするため搭載物の空中投棄が行われる[8]。電信機、機銃、弾倉、機上レーダー、余剰の燃料から航空弁当まで捨てられるが、爆弾の投棄には爆管[注釈 6]を使うため細心の注意を要し、被弾により漏れた燃料に引火すれば命取りになった。実際に火に包まれ敵艦船に自爆した機もあり、別の機は投下を思い止まって生還したが機内は一時、強いガソリン臭がしたという[9]。また本機が海上に不時着した場合、空の燃料タンクが浮力を産み半没状態ながらも数日間沈まなかった例が複数記録されている[10]。
防御
[編集]九六式陸攻で省略された機首銃座は、その後の日華事変の戦訓を受けて一式陸攻では設置された。操縦席後ろの胴体上部、主翼後ろの胴体側面にはそれぞれ卵型のブリスター風防を備えた銃座があり、尾部には20 mmの九九式一号銃を備えた旋回銃座を設置した。これらを合わせると20 mm 1丁、7.7 mm 4丁となり、渡洋爆撃に参加した九六式陸攻一一型(7.7 mm 3丁)と比べると火力・射界ともに大きく向上している。太平洋戦争の進展に伴って銃座の動力化や全周化、口径の増大が行われ、最終生産型の三四型では13 mm 1丁、20 mm 4丁と強力な防御火力を有するに至っている。[11]
ただし防弾装備に関しては、搭乗員に対しての防弾鋼板も、燃料タンクに対する防弾ゴムも、当初はまったく装備されていなかった。一式陸攻開発時には既に、8 mm厚以上のゴムを外貼りしたアルミニウム製燃料タンクであれば7.7 mm焼夷弾によって発火させられずに済むことが実験で確かめられていた。しかし、九六式陸攻に対しては重量増加に対して防弾効果が小さいこと、一式陸攻に対してはインテグラルタンクでは(性能を害しないで)防弾タンク化することは不可能な上、内蔵タンクに改設計した上で防弾タンク化するというのは燃料容量減、構造重量増などデメリットが大きすぎることを理由に採用されなかった。それでも陸攻隊の損害が急速に拡大するにあたってインテグラルタンク前後面に対するスポンジゴム貼り付けや二酸化炭素を利用した自動消火装置の装備がされ、さらに663号機からは性能低下を承知で主翼下外面のインテグラルタンク部に30 mmのスポンジゴムを貼るという対策が実施されるに至った。桜花母機用の二四型丁では、操縦席、1番燃料タンク[注釈 7]、各燃料コックは防弾鋼板によって防護され、2番タンク[注釈 8]は四塩化炭素による液層で防御されていた。[12][13]
1942年(昭和17年)11月には連合艦隊から「航続力を減らしてでも一式陸攻の防弾を充実してほしい」という要望が出され、三四型では主翼構造を再設計して別体の防弾タンクを収納するように改修された。ただし開発に手間取って生産初号機完成は1944年(昭和19年)10月に遅れた上、空襲や地震の影響でわずかしか生産されなかった。[14]
1943年夏頃、ラバウルで「生還機」の被弾状況を調査した所、中央翼にある1番タンクより外側のタンクに被弾が多い事が判明。この戦訓に基づき攻撃時は外側のタンクから先に消費し1番タンクは最後に使用する方針を取っていたという。七五一空の飛行隊長をしていた足立次郎はこれを伝え聞き、話が逆である事を直感してタンクの使用順序を逆にするよう意見具申している[注釈 9]。足立は空になったタンクにも気化燃料が充満しており被弾爆発時の被害が他のタンクよりも大きい1番タンクについて対策を苦慮。ブカ進出後、米袋として当時使っていた南京袋を大量に取り寄せて砂を詰め、作戦飛行する七五一空機の1番タンク上(機内部分)に積み上げさせている[15]。
搭乗員
[編集]通常7人~8人乗り。主操縦員、副操縦員、搭乗整備員、射爆員、主偵察員、副偵察員、電信員。機長は主偵察員か主操縦員の階級上位(先任)者が務め、必要に応じて編隊指揮官が同乗し、その場合は計8人が乗り組む[注釈 10]。それぞれが機銃や電信などを兼任することができた。
なお1943年5月テニアンで錬成中の七五一空では1機5人(操縦、偵察、電信、搭乗整備、射撃)での運用が開始されている[17][注釈 11]。同空の蔵増機では搭乗整備員に操縦の練習をさせ操縦員が倒れた場合に備えていた[18]。七五三空の丸岡虎雄も偵察員ながら折を見て陸攻操縦の練習をし、ブロックスクリーク爆撃で操縦員2人が死傷した際に操縦を代わって帰投、着陸まで成功させている[19][注釈 12]。
名称
[編集]皇紀2601年(西暦1941年)4月に制式採用されたため、「一式陸上攻撃機」と命名された[21]。日本海軍では、急降下爆撃を行える機体を爆撃機、水平爆撃および雷撃のみを行える機体を攻撃機(艦上攻撃機および陸上攻撃機)と呼んだ。これは日本海軍独特の機種の分類であった[22]。
連合国側コードネームは「Betty(ベティー)」であった。太平洋戦争でのアメリカ軍は、日本軍の航空機に対してコードネームを付けて、種類を区別していた。戦闘機などは男性名、爆撃機や輸送機などは女性名を付けているが、実在の人物との関連はないというのが公式の発表である。しかし、一式陸攻の「Betty」と言う名は、命名に携わっていた情報部のとある軍曹のガールフレンドの名前である。彼女はペンシルベニア州で看護師をしていた。機体の左右にある大きなエンジンが、軍曹に彼女の身体的特徴を思い起こさせて、名付けられた[23]。
ワンショットライター
[編集]いわゆる「one-shot lighter」、「fly-ing zippo」は米軍パイロットが使った呼び名で、当時米国で売られていたライターの宣伝文句に引っ掛けた蔑称である。[24][注釈 13]四空主計長としてラバウルに居た野間口文雄は米軍放送が一式陸攻を皮肉る言葉として「一式ライター」[25]を使ったとし、七五一空の陸攻操縦員 蔵増実佳は「敵戦闘機の一撃で火を発しやすいために、敵は"一撃ライター"と称して、あなどっている」[26]と書いている。
ただし後期型では不十分ながらも防漏化や自動消火装置などが効果を発揮し評価の変化がみられる。
一式陸攻の撃墜された瞬間は米戦闘機側のガンカメラによっていくつか記録されているが、その映像内でも炎上する機体は少ない。タラワの戦い(第一次ギルバート諸島沖航空戦)中の1943年11月20日の例では、空母「インディペンデンス」に向かう一式陸攻7機編隊に対してまず米駆逐艦「キッド」が5インチ砲と40mm機関砲を用いて攻撃し2機を撃墜[27]。さらにF6F 4機が一式陸攻編隊を迎撃したがなかなか撃墜できず、インディペンデンスは被雷大破した。その後一式陸攻のうち4機は撃墜されたが、最後の1機は墜落せず、とうとうF6Fは諦めて一式陸攻の逃走を許した。空戦全体を見れば7機中6機が撃墜されたが、アラン・ロビー艦長は戦闘報告書の中で一式陸攻の頑丈さを評価している[28]。
沖縄戦での菊水作戦でも多数の一式陸攻が出撃したが、迎撃したアメリカ海軍・海兵隊戦闘機パイロットの印象では「 (搭載の)AN/M2 12.7mm機関銃で一式陸攻を撃墜するのは難しい」であった。のちにアメリカ海軍・海兵隊主力戦闘機であったF6FヘルキャットにはAN-M3 20mm機関砲が搭載されるようになり、7月14日に伊江島のアメリカ軍飛行場を爆撃した日本軍機を迎撃した、ロバート・ベアド海兵隊大尉のAN-M3 20mm機関砲搭載型のF6F-5N(ヘルキャットの夜間戦闘機型)が1機の一式陸攻を撃墜したが、この戦果によって海兵隊は、ようやくヘルキャットによって一式陸攻が撃墜できるようになり、問題が解決したと評している[29]。
歴史
[編集]開発
[編集]1930年代大日本帝国海軍は、ワシントン海軍軍縮条約・ロンドン条約で対米劣勢を余儀なくされた戦艦・巡洋艦・航空母艦勢力を補うため、陸上基地から発進して洋上にいる敵艦を攻撃する長距離攻撃機(雷撃・爆撃機)の開発に力を注いだ。
こうした目的に沿って試製されたのが、海軍広工廠の九五式陸上攻撃機、三菱内燃機製造株式会社名古屋工場(1935年(昭和10年)10月1日三菱内燃機株式会社名古屋航空機製作所と改称)の本庄季郎技師を主務者として設計された九六式陸上攻撃機だった。細い胴体に双垂直尾翼を配したスマートな機体である九六式陸攻は当時としては高い性能を発揮したが、いわゆる「渡洋爆撃」で大きな被害を出したことから、九六式陸攻の防備能力を向上させた後継機として1937年(昭和12年)9月に「十二試陸上攻撃機」が発注され、再び本庄季郎技師を主務者とした設計陣で開発に取り組んだ。
第一回一式陸攻打ち合わせ会で、本庄季郎技師(三菱)から「防備が不十分。小型で航続距離求めれば燃料タンクに被弾しやすいため、四発機にして搭載量、空力性能、兵儀装要求を満たし増えた二発馬力で防弾鋼板と燃料タンクの防弾、消火装置を備える」と提案があったものの、和田操(航空技術廠長)から「用兵については軍が決める。三菱は黙って軍の仕様通り作ればいい」と議論なく棄却された[30]。
1939年10月、一号機が完成[31]。初飛行は1939年(昭和14年)10月23日、パイロットは志摩勝三。1941年(昭和16年)4月1日、「一式陸上攻撃機」として制式採用された[32]。 このG4M1爆撃機が量産に入る以前に、重護衛戦闘機型を制作することが試みられた[33]。この爆撃機の量産は1940年に開始され、量産1号機は1941年4月に生産ラインを離れた。
制式後
[編集]最初に一式陸攻が配備されたのは、最も練度が高いと言われた高雄空であり、配備された最初の1機は足立次郎大尉と末広飛曹長の2人で飛行、足立は隊友のために「一式陸攻操縦教範」を書き上げたが、高雄空以外にも広く配布された[34]。1941年(昭和16年)7月25日に24機が漢口に進出し、7月29日に6機で行なった宜昌西岸地区爆撃が一式陸攻の初陣[注釈 14]となった[35]。8月11日には零戦との初の協同作戦となる成都攻撃に参加し、零戦の誘導を行なった[36]。 爆弾搭載能力は、前身の九六式陸上攻撃機と変わらなかったが、速力、上昇力に非常に優れ、零戦を随伴して飛行でき、七千メートル以上の高度が取れ、対空砲、敵機圏外から爆撃が可能であった[31]。
太平洋戦争開時、九六式陸攻と協同して台湾からフィリピンのアメリカ陸軍航空基地を攻撃し、B-17爆撃機を含む爆撃機兵力を壊滅させている。また、やはり九六式陸攻と協同して、マレー沖でイギリス海軍の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を撃沈する(マレー沖海戦)など、太平洋戦争初期に活躍した。
その後、海軍陸攻隊の主力として主に南太平洋方面の対連合軍作戦に従事したが、基本構造の問題に起因する防弾性能の低さから、被害が増大するようになった。被害は特に雷撃時に顕著(ミッドウェー海戦に見られるように米軍機でも同様の傾向が見られる)だったが、それなりの数の護衛戦闘機を揃え、この規模の爆撃機としては良好な高高度性能と、防御火力を活かした高高度爆撃を行えば、損耗率を比較的低く抑えることも可能だった。
しかし、戦力バランスが大きく崩れ、護衛戦闘機はおろか陸攻も十分な出撃数を揃えることが出来なくなった大戦中盤以降は、戦術を夜間爆撃、夜間雷撃に変更せざるを得なくなった。それでも、雷撃により、レンネル島沖海戦で重巡洋艦シカゴを撃沈、他重巡2隻、駆逐艦1隻に損傷を与え、他にもトラック島空襲の際に空母イントレピッドを大破、台湾沖航空戦でも重巡キャンベラを大破させるなどの戦果を挙げている。
また、この時期にソロモン諸島ブインで連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将が戦死した際の乗機としてもよく知られる(海軍甲事件を参照)。
大戦終盤は特攻兵器「桜花」の母機としても使用された。しかし、全重量2,270 kgの桜花は一式陸攻の搭載量を遥かに超過しており、飛行性能の低下をもたらした。航続距離は30パーセント減、巡航速度は170ノット(314 km/h)で約10パーセント減、さらに運動性能の低下が著しかった。そのため軍令部は、一式陸攻に強力な援護戦闘機を付ける必要性を感じ、桜花を搭載した一式陸攻の4倍の護衛戦闘機を付ける計画であったが[37]、1945年3月18日の九州沖航空戦での桜花の初陣では、野中五郎少佐指揮による一式陸攻18機(編隊長機3機は桜花未搭載)に対して、最終的に随伴できた護衛機の零戦は32機にしか過ぎず、護衛機を蹴散らしたF6Fヘルキャットに桜花を搭載して退避もままならない一式陸攻は次々と撃墜されて全滅している。
その後、沖縄戦でアメリカ軍は占領した飛行場で桜花を鹵獲すると、潜在的な脅威と認識し、鹵獲した桜花を本国に送ってアメリカ技術航空情報センターで徹底した調査が行われている[38]。そこでは「人間という最高の制御、誘導装置を備えた、潜在的に最も脅威となる対艦攻撃兵器である。」と評価されていくつかの桜花対策が講じられたが、もっとも強調されたのは「桜花母機及び、潜在的な母機となりうる双発機を最優先で攻撃すること。」であり、一式陸攻はアメリカ軍にとって最優先の迎撃目標となった[39]。
一方で日本軍も、第1回目の攻撃失敗を検証して対策を講じ、昼間に一式陸攻の大編隊による攻撃を断念し、主として薄暮及び黎明時に一式陸攻少数機が1 - 2機ずつに分かれての出撃を行う戦術に転換した。その結果として迎撃が分散され、沖縄戦では桜花射程内までアメリカ艦隊に接近できた一式陸攻も増えて戦果も少なからず挙がるようになった(総合戦果、1隻撃沈 2隻大破除籍 1隻大破 3隻損傷)[40]。しかし、アメリカ軍の徹底した対策もあって、日本軍の大きな期待を裏切る戦果に終わり、アメリカ軍は桜花作戦全体に対して「この自殺兵器の使用は成功しなかった。」との総括をし、その原因としては「母機の脆弱性が制限要素となった。」と評している[41]。
また終戦時には白色塗装の上、緑十字を描いた「緑十字機」として、軍使の乗機に使用された。
後継機として、陸上爆撃機「銀河」、十三試陸上攻撃機「深山」、十六試陸上攻撃機「泰山」(計画中止)、十八試陸上攻撃機「連山」、対潜哨戒機・輸送機「大洋」(計画中止)が開発された。
各型
[編集]- 十二試陸上攻撃機(G4M1)
- 一式陸攻の試作機。2機製造。1号機は1940年(昭和15年)1月納入、2号機は3月納入。1号機の試験結果を反映して、2号機は垂直尾翼拡大・補助翼バランスタブ設置等の差異がある。[42]
- 一一型(G4M1)
- 火星一一型を装備した最初の量産型。1940年(昭和15年)12月から引き渡し、1944年(昭和19年)1月の生産終了までに1,200機生産。
- 1942年(昭和17年)8月生産の406号機以降は高高度性能を向上させた火星一五型を搭載して製造された。開発時、既に二二型(当時は仮称一二型)の開発が進められていたため仮称一三型と呼称されたが、海軍の兵器行政上は区別なく一一型として扱われている[43]。書籍により一二型と表記されることがある[44]。
- エンジン換装のほか空気取り入れ口の設計も変更されており、火星一一型搭載機と比べて、最大速度は6,000 mで10ノット、8,000 mで19ノット向上、上昇限度は640 m向上、8,000 mまでの上昇時間は3分短縮されている。954号機以降は、エンジン排気管が集合排気管から推力式単排気管に変えられている。[45]
- 陸攻の損害拡大に伴って自動消火装置の搭載などが行われたほか、663号機以降は主翼下面のインテグラルタンク部に30 mmの防弾ゴム板を貼り付けて生産された。このゴム貼り付けによって最大速度は5ノット減、航続距離は300 km減となっている。[45]
- 二二型(G4M2)
- エンジンを火星二一型に換装、機体も全面的に改設計した型。主な変更点は以下の通り。[46]
- エンジン変更(火星一一型→火星二一型)、推力式排気管採用、プロペラを3翅から4翅に変更。
- 燃料タンク増量(4,900リットル→6,490リットル)。
- 主翼翼型を層流翼に変更、増厚(12.5パーセント→15パーセント)、水平尾翼増積、各翼端は円型に。
- 武装強化(上方7.7 mm機銃は20 mm一号機銃の動力銃塔化、前方7.7 mm機銃は動力銃塔化のうえ予備銃支架を設置、側方7.7 mm機銃のブリスター状覆いをやめ開閉窓化、尾部20 mm一号機銃はスリットを拡大し射界を改善)。
- 主脚強化、尾輪の引き込み化。
- 爆弾槽扉設置(2065号機から)。
- 機種下面に爆撃照準用の平面窓を設置(2105号機から)。
- 試作機は1943年(昭和18年)2月に海軍に引き渡され、生産機は1943年(昭和18年)7月から引き渡しが始まった。なお、試作機では日本電気製造のVDM式電気調速機を装備したが不具合の解決見込みが立たず、生産機ではハミルトン式の油圧調速機に戻されている。また火星二一型の振動、黒煙、首振り問題のために、当初予定の1~4号機に加えて5, 6号機も試験に用いるなど開発に手間取っている。[46]
-
- 二二甲型
- 二二型に三式空六号無線電信機(機上捜索レーダー)を装備し、側方7.7 mm機銃を20 mm一号機銃に変更したもの。[13]
- 二二乙型
- 二二甲型の上方動力銃塔の20 mm一号機銃を同二号機銃に変更したもの。[47]
- 二四型(G4M2a)
- 減速比をプロペラ効率が良い0.54から歯車の数が少なくて済む0.625へ変更した[注釈 15]火星二五型を搭載。1944年(昭和19年)5月から引き渡し。エンジン変更に伴ってカウリングの形状が変わり、側方銃座がより簡便に改良されている。武装は二二型に準じる。なお、1943年(昭和18年)10月から尾翼・爆弾槽扉・座席などの木製化作業が行われたが、一部の艤装品を除いてほとんどは生産機には反映されなかった。[13]
- 二五型(G4M2b)
- 高高度性能を向上させた火星二七型に換装した型。試作機の攻撃状態・重量11,000 kgでの試験飛行では一速・高度3,235 mにて241ノット、二速・高度6,670 mにて252ノットと優速を示したが、工場が空襲で破壊されエンジン調達の見通しがなくなったため生産されなかった。[13]
- 二六型(G4M2c)
- 87オクタン燃料の使用を念頭に、エンジンを燃料噴射装置装備の火星二五乙型に変更した型。2機のみ試作された。[13]
- 二七型(G4M2d)
- 空技廠で1機のみ試作された。二二型をベースにエンジンを火星二五型に換装、排気タービン過給機をエンジンナセル右側に装備したものだが、運転中の機体焼損が相次ぎ性能試験を行わずに中止された。[14]
- 三四型(G4M3a)
- インテグラルタンクを廃止して防弾タンクを装備し、尾部銃座の改良や各部の改修を行った型。主翼翼型は二二型のまま、内部構造を二桁式から単桁式に改めてゴム被膜を施した防弾タンクを内蔵[注釈 16]し、エンジンナセル外側は主桁後方にもタンクを内蔵して燃料搭載量を稼いだ。尾部銃座はスリット入りの風防を手動で回転する方式をやめより操作しやすい固定式に改良した。主翼付け根にはフィレットが設けられた。これらの改修で重心位置が移動したため水平尾翼に上反角を付与している。また自重が300 kgほど増加している。3号機の攻撃状態・重量11,000 kgでの試験では一速・高度2,402 mで250ノット、二速・高度5,066 mで260ノット[注釈 17]と優秀であったが、空襲や昭和東南海地震の影響で生産が進まず、三四甲型を含めても60機程度しか生産されなかった。[14]
-
- 三四甲型(G4M3b)
- 三四型を輸送・対潜哨戒向けに改造した型。[14]
- 三六型(G4M3c)
- 三四型をベースに排気タービン過給機を搭載した型。三菱で改造により2機が製作され、1945年(昭和20年)7月から敗戦まで青森で試験が行われたが結果は不明。[14]
- 十二試陸上攻撃機改(G6M1)
- 陸攻型の量産に先んじて生産されたいわゆる「翼端援護機」。陸攻型の防御火器に加えて胴体下面ゴンドラの前後に20 mm旋回機銃を追加、主翼前後桁とタンク側面に防弾ゴムを装備、外翼のインテグラルタンクを廃止して爆弾槽に防弾ゴムつき燃料タンクを増設している。陸攻編隊の外縁に位置し、強力な防御火器で編隊を守る目的で開発されたが、改修による重量増加等のため速力や運動性が低下し、陸攻隊と行動を共に出来ないと判定され、また零式艦上戦闘機が援護戦闘機として活躍するようになったことから、練習機や輸送機に転用された。[42]
諸元
[編集]制式名称 | 一式陸上攻撃機一一型 (火星一五型装備機) |
一式陸上攻撃機二二型 | 一式陸上攻撃機三四型 |
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機体略号 | G4M1 | G4M2 | G4M3 |
全幅 | 24.88 m | ||
全長 | 19.97 m | 19.63 m | 19.50 m |
全高 (水平) |
4.506 m | 6.000 m | |
主翼面積 | 78.125 m2 | ||
自重 | 6,741 kg | 8,050 kg | 8,391 kg |
過荷重重量 | 12,895 kg | 15,451 kg | 14,772 kg |
発動機 | 火星一五型(離昇1,460馬力) | 火星二一型(離昇1,850馬力) | 火星二五型(離昇1,850馬力) |
最高速度 | 453.7 km/h(高度4,200 m)[注釈 18] | 437.1 km/h(高度4,600 m)[注釈 18] | 479.7 km/h(高度5,066 m) |
実用上昇限度 | 9,660 m | 8,950 m | 9,026 m |
航続距離 | 2,176 km(爆撃)/5,882 km(偵察) | 2,500 km(爆撃)/6,060 km(偵察) | 4,334 km(偵察) |
爆装 | 60 kg爆弾12発、250 kg爆弾4発、 500 kg又は800 kg爆弾1発 | ||
雷装 | 800 kg魚雷1発 | ||
武装 | 7.7 mm旋回機銃4挺(前方・上方・側方) 20 mm旋回機銃1挺(尾部) |
7.7 mm旋回機銃3挺(前方・側方) 20 mm旋回機銃2挺(上方・尾部) |
13 mm旋回機銃1挺(前方) 20 mm旋回機銃4挺(側方・上方・尾部) |
乗員 | 7名(主/副操縦手、主/副偵察手、主/副通信手、搭乗整備員) |
現存する機体
[編集]参考:中攻通信
型名 | 機体写真 | 所在地 | 所有者 | 公開状況 | 状態 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
一一型 | アメリカ カリフォルニア州 | プレーンズ・オブ・フェイム航空博物館 | 公開・非復元 | 静態展示 | 1280号機、尾翼番号 ?-321 (龍を用いる第七六一海軍航空隊所属機と目されている)。[1] | |
一一型 | ソロモン諸島 バラレ島 | ソロモン諸島国立博物館(交渉窓口) | 公開 | 野外放置 | 1800号機および2806号機、尾翼番号 U2-???。[2] | |
一一型 | 主翼・座席等 日本新潟県 山本五十六記念館 [3] 胴体 ソロモン諸島ブーゲンビル島アクア近郊 |
(左記参照) | 公開 | 静態展示 | 2656号機、尾翼番号323。海軍甲事件時に山本五十六連合艦隊司令長官が搭乗していた機体。[4] | |
二二型 | 日本 山梨県 | 河口湖自動車博物館・飛行舘[5] | 公開・胴体のみ | 静態展示 | 12017号機、尾翼番号 62-22の機体だが、現在は尾翼番号 龍41と塗装されている。「龍」の字は第761海軍航空隊所属機を表す。主翼を除いて復元されているが、胴体のみ公開されている。 | |
三四型 | アメリカ メリーランド州 | ポール・E・ガーバー維持・復元・保管施設 | 公開・機首のみ | 静態展示 | ||
一式大型陸上輸送機 | 日本 静岡県 | 磐田市役所 | イベントで公開・部品のみ | 静態展示 | 尾翼と増加燃料タンクの一部が展示されている。[6] |
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トラック諸島に沈む、一式陸上攻撃機
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同左。
登場作品
[編集]映画・テレビドラマ
[編集]- 『永遠の0』
- 長谷川が護衛する機体として登場。護衛中に長谷川がF4F ワイルドキャットに撃たれ、大けがを負う。
- 『雷撃隊出動』
- 基地航空隊の機体として登場。基地で実物を使った撮影が行われたほか、実機の攻撃訓練映像と特撮で敵機動部隊への夜間雷撃が描かれる。
漫画
[編集]- 『戦場まんがシリーズ』
- シリーズの一編「音速雷撃隊」にて、桜花の母機として登場。
- シリーズの一編「スタンレーの魔女」に登場。一式陸攻によるポートモレスビー爆撃を描く。
- 『戦場ロマン・シリーズ』
- シリーズの一編「複合戦線」に登場。戦争末期に単独で飛行中の一式陸攻と、同じく単独で飛行中のB-25 ミッチェルが遭遇し、爆撃機同士で空中戦を行い、双方とも被弾不時着する。
- 『独立戦車隊』
- 「ハート・オブ・ダークネス」にて、終盤、反乱を起こした久留津大佐らが立てこもるパゴダを爆撃する。
- 『ジパング』
- 作中たびたび登場。序盤では、トラック諸島へ向けて連絡飛行中の艦載機「海鳥」をエスコートするため、トラック島配備機と思われる機体が零戦と共に飛来した。
ゲーム
[編集]- 『Gunship Sequel:ww2』
- Betty(G4M1)の表記で登場する。
- 『War Thunder』
- プレイヤーの操縦機体として、一式陸上攻撃機 仮称一三型(G4M1)が登場する。
- 『艦隊これくしょん -艦これ-』
- 陸上基地から呼び出せる航空支援部隊「基地航空隊」の戦力として、一一型・二二型甲・三四型が登場。野中五郎が率いた「野中隊」仕様の機体(形式としては二四丁型)も登場する。と八幡空襲部隊仕様の機体が「一式陸攻(八幡部隊)」として登場
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 高度6000mで2kt、8000mで4kt(一一型より10kt/19kt)
- ^ 8000m到達に約1分短縮(一一型より約3分短縮)
- ^ 10000mに対し10540m(一一型9900m)
- ^ 陸軍戦闘機の鍾馗が最高速度向上を模索して6種類の吸気口をテストした際も、プロペラ直後のラム圧を活かす物が、計算上最適と目された物を上回る最高速度を記録した経緯がある[5]。
- ^ カウル内に開口した一一型では、気化器、滑油冷却器、気筒冷却の3つの流量バランスが相互に干渉して最適化しにくく、流れ易い方に流れ、他方への流量が不足する傾向があったという[6]。
- ^ 少量の火薬で爆弾懸吊帯を切断して投下する、九六陸攻時代にはまだ無かった。
- ^ 胴体内を貫通する主翼内のタンク
- ^ 胴体とエンジンナセルの間の燃料タンク。
- ^ そもそも1番タンクに被弾した機は帰還できず「生還機だけの統計」を疑った
- ^ 小隊長機(3機編隊の1番機)は乗員7名のまま 操/偵 どちらかの最先任者が小隊長に、次席の者が機長を務め1人での兼任はしない。[16]
- ^ 七三二空で陸攻を操縦していた高橋淳も乗員は5人だったと証言している
- ^ 通常、偵察員であっても 操/偵 振り分けの適性を見るため初歩練習機の操縦教育を受けており、操縦の基本は習得しているが陸攻の操縦とは比較にならない[20]
- ^ U.S.pilots called the Betty "the one-shot lighter" and "the fly-ing Zippo"(for the American cigarette lighter with the advertising slogan "Lights every time")
米国のパイロットはベティを「ワンショットライター」「空飛ぶジッポ」と呼んだ (「Lights Every time」という宣伝文句が付いたアメリカのライターにちなむ) - ^ 戦史叢書 79, p. 275によれば7月27日の成都方面攻撃が初陣
- ^ 戦闘機他、小型機の減速歯車を増産するため陸攻は簡略化。[48]
- ^ 当初は鐘淵紡績(現・クラシエホールディングス)の開発したカネビアン合成樹脂を内膜に使った内装式の「カネビアン・タンク」を計画したが、工作に難があったためゴム外皮のアルミタンクをとりあえず搭載し後にカネビアン・タンクに切り替えることとした。しかし生産が振るわずカネビアン・タンク装備機は完成していない。
- ^ 編注、出典では一速・高度5,066 mで260ノット、二速・高度2,400 mで250ノットであるが明らかに誤っているので入れ替えてある。
- ^ a b 主翼下面防弾ゴム装備時。未装備時は仮称一三型463.0 km/h(高度4,200 m)、二二型468.6 km/h(高度5,000 m)
出典
[編集]- ^ a b 旧 世界の傑作機 No.60, pp. 14–16.
- ^ 旧 世界の傑作機 No.60, pp. 6, 14–16.
- ^ 秋本 1995, p. 293.
- ^ 旧 世界の傑作機 No.155, p. 15.
- ^ 設計者の証言 下, pp. 110–112.
- ^ 設計者の証言 下, p. 160.
- ^ 横森 1979, p. 109.
- ^ 高橋勝作、大沢武、大野新一郎、小西良吉、中村友男、足立次郎『海軍陸上攻撃機隊』今日の話題社、1985年10月、126-127,166,246頁。
- ^ 高橋勝作、大沢武、大野新一郎、小西良吉、中村友男、足立次郎『海軍陸上攻撃機隊』今日の話題社、1985年10月、211-213頁。
- ^ 高橋勝作、大沢武、大野新一郎、小西良吉、中村友男、足立次郎『海軍陸上攻撃機隊』今日の話題社、1985年10月、128-132,146-155頁。
- ^ 横森 1979, p. 98-100, 176.
- ^ 横森 1979, pp. 114–116, 176.
- ^ a b c d e f g h i 旧 世界の傑作機 No.60, p. 18.
- ^ a b c d e 旧 世界の傑作機 No.60, p. 51.
- ^ 高橋勝作、大沢武、大野新一郎、小西良吉、中村友男、足立次郎『海軍陸上攻撃機隊』今日の話題社、1985年10月、321-323頁。
- ^ 七期雄飛会『予科練のつばさ』光人社 2003年5月 P198
- ^ 蔵増 1996, pp. 80–81, 99.
- ^ 蔵増 1996, p. 114.
- ^ 七期雄飛会『予科練のつばさ』光人社、2003年5月、202-206頁。
- ^ 七期雄飛会『予科練のつばさ』光人社 2003年5月 P201
- ^ 昭和16年4月2日付 昭和16年海軍省内令兵第24号JACAR:C12070226000「…十二試陸上攻撃機ヲ兵器ニ採用シ一式陸上攻撃機一一型ト呼称ス…」
- ^ 太平洋戦争研究会 2002, p. 179.
- ^ 日本の極秘軍用機(2007年ヒストリーチャンネル製作・放映、原題:SECRET JAPANESE AIRCRAFT OF WORLD WAR II)
- ^ Weapons and Warfare: From Ancient and Medieval Times to the 21st Century [2 volumes] P554
- ^ 中攻会 2005, p. 250.
- ^ 蔵増 1996, p. 113.
- ^ 平義 2002, p. 63.
- ^ 平義 2002, p. 64.
- ^ リエリー 2021, p. 343.
- ^ 牧野 2006, pp. 184–185.
- ^ a b 戦史叢書 79, p. 275.
- ^ 佐藤 2019, p. 60.
- ^ Enzo & Paolo 1981, p. 153.
- ^ 高橋勝作、大沢武、大野新一郎、小西良吉、中村友男、足立次郎『海軍陸上攻撃機隊』今日の話題社、1985年10月、296-297頁。
- ^ 佐藤 2019, pp. 61–63.
- ^ 佐藤 2019, pp. 64–66.
- ^ 内藤 1999, p. 50.
- ^ 加藤 2009, p. 233.
- ^ "Anti-Suicide Action Summary"UNITED STATES FLEET HEADQUARTERS OF THE COMMANDER IN CHIEF NAVY DEPARTMENT WASHINGTON 25, D. C. 31 August 1945
- ^ 公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会『機関紙 特攻』平成24年5月 第91号 P.37
- ^ USSBS 1996, p. 198.
- ^ a b c d 旧 世界の傑作機 No.60, p. 16.
- ^ 昭和19年11月20日付 昭和19年海軍省内令兵第87号(軍極秘)JACAR:C12070526100。「火星発動機一一、一五型二基装備ノモノ」
- ^ 世界の傑作機 No.59, pp. 45, 78.
- ^ a b 旧 世界の傑作機 No.60, p. 17.
- ^ a b 旧 世界の傑作機 No.60, pp. 17–18.
- ^ 旧 世界の傑作機 No.60, p. 8.
- ^ 海軍攻撃機隊, p. 247.
参考文献
[編集]- 雑誌「丸」編集部 編『銀河/一式陸攻』(保存版)光人社〈軍用機メカ・シリーズ 13〉、1994年11月。ISBN 4-7698-0683-3。
- 『世界の傑作機(旧シリーズ)』 No.60《特集 三菱 一式陸上攻撃機》、文林堂、1975年4月。
- 『世界の傑作機(旧シリーズ)』 No.155《特集・1式陸上攻撃機》、文林堂、1986年5月。
- 『世界の傑作機』 No.59《1式陸上攻撃機》、文林堂、1996年7月。ISBN 4-89319-056-3。
- 『帝国海軍一式陸攻 双発機の概念を凌駕した中型陸上攻撃機の真実』学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ 42〉、2003年6月。ISBN 4-05-603176-2。
- 『設計者の証言 日本傑作機開発ドキュメント』 下、酣燈社〈別冊航空情報〉、1994年12月。
- Enzo Angelucci; Paolo Matricardi 著、石川好美 訳『航空機 第二次大戦 2』小学館〈万有ガイド・シリーズ 5〉、1981年8月。
- 秋本実『日本軍用機航空戦全史』 第2巻《南方作戦の銀翼たち》、グリーンアロー出版社、1995年1月。ISBN 4-7663-3170-2。
- 巌谷二三男『中攻 海軍陸上攻撃機隊史 上巻』出版協同社、1956年。
- 巌谷二三男『中攻 海軍陸上攻撃機隊史 下巻』出版協同社、1958年。
- 巌谷二三男『海軍陸上攻撃機 上』朝日ソノラマ〈新戦史シリーズ 85〉、1996年4月。ISBN 4-257-17305-X。
- 巌谷二三男『海軍陸上攻撃機 下』朝日ソノラマ〈新戦史シリーズ 86〉、1996年5月。ISBN 4-257-17306-8。
- 復刻文庫版。
- 巌谷二三男『雷撃隊、出撃せよ! 海軍中攻隊の栄光と悲劇』壹岐春記 監修、文藝春秋〈文春文庫〉、2003年12月。ISBN 4-16-765690-6。
- 再編集文庫版。
- 伊澤保穂『陸攻と銀河』朝日ソノラマ〈新戦史シリーズ 79〉、1995年10月。ISBN 4-257-17299-1。
- 加藤浩『神雷部隊始末記 人間爆弾「桜花」特攻全記録』学研パブリッシング、2009年11月。ISBN 978-4-05-404202-5。
- 蔵増実佳『望郷の戦記 奇蹟の一式陸攻』光人社〈光人社NF文庫〉、1996年12月。ISBN 4-7698-2144-1。
- 佐藤暢彦『一式陸攻戦史 海軍陸上攻撃機の誕生から終焉まで』潮書房光人社、2015年3月。ISBN 978-4-7698-1587-7。
- 佐藤暢彦『一式陸攻戦史 海軍陸上攻撃機の誕生から終焉まで』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2019年1月。ISBN 978-4-7698-3103-7。
- 文庫版。
- 佐藤暢彦『一式陸攻戦史 海軍陸上攻撃機の誕生から終焉まで』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2019年1月。ISBN 978-4-7698-3103-7。
- 須藤朔 他『英国東洋艦隊マレー沖に全滅す 中攻隊空戦記』光人社〈証言・昭和の戦争 リバイバル戦記コレクション8〉、1990年9月。ISBN 4-7698-0509-8。
- 太平洋戦争研究会『日本海軍がよくわかる事典 その組織、機能から兵器、生活まで』PHP研究所〈PHP文庫〉、2002年7月。ISBN 4-569-57763-6。
- 多賀谷修牟 著、小林昇 訳『太平洋戦争の三菱一式陸上攻撃機 部隊と戦歴』大日本絵画〈オスプレイ軍用機シリーズ 26〉、2002年10月。ISBN 4-499-22792-5。
- 高岡迪 ほか『海軍攻撃機隊 海軍航空の攻撃力を支えた雷爆撃機列伝』潮書房光人新社〈光人社NF文庫〉、2020年7月。ISBN 978-4-7698-3174-7。
- 高橋勝作 他『海軍陸上攻撃機隊 海軍中攻隊死闘の記録』今日の話題社〈太平洋戦争ノンフィクション〉、1985年10月。ISBN 4-87565-120-1。
- 中攻会 編『ヨーイ、テーッ! 海軍中攻隊、かく戦えり』文藝春秋、2005年1月。ISBN 4-16-366690-7。
- 平義克己『我敵艦ニ突入ス 駆逐艦キッドとある特攻、57年目の真実』扶桑社、2002年7月。ISBN 4-594-03501-9。
- 内藤初穂『桜花 極限の特攻機』中央公論新社〈中公文庫〉、1999年3月。ISBN 4-12-203379-9。
- 米国戦略爆撃調査団 編、大谷内和夫 訳『ジャパニーズ・エア・パワー 米国戦略爆撃調査団報告/日本空軍の興亡』光人社、1996年8月。ISBN 4-7698-0768-6。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書』 79巻《中国方面海軍作戦<2>昭和十三年四月以降》、朝雲新聞社、1975年1月 。
- 牧野育雄『最終決戦兵器「秋水」設計者の回想 未発表資料により解明する究極のメカニズム』光人社、2006年6月。ISBN 4-7698-1283-3。
- 横森周信『海軍陸上攻撃機 一式陸攻・九六式陸攻のすべて』サンケイ出版〈第二次世界大戦ブックス 77〉、1979年12月。
- ロビン・L・リエリー 著、小田部哲哉 訳『米軍から見た沖縄特攻作戦 カミカゼvs.米戦闘機、レーダー・ピケット艦』並木書房、2021年9月。ISBN 978-4-89063-412-5。
外部リンク
[編集]- 三菱製壱式陸上攻撃機の残骸 - モージャー氏撮影写真資料より
- その1:NDLJP:10756455/216
- その2:NDLJP:10756455/217