三宅康邦
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 明和元年11月5日(1764年11月27日) |
死没 | 寛政4年2月29日(1792年3月21日) |
改名 | 鎌吉、帯刀(幼名)、康邦、紫山(法号) |
戒名 | 瑞巌院殿源宗義鼎大居士 |
墓所 | 愛知県田原市北番場の霊巌寺 |
官位 | 従五位下、能登守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 三河国田原藩主 |
氏族 | 三宅氏 |
父母 |
父:三宅康之、母:於野路(香川氏・思実院) 養父:三宅康武 |
兄弟 |
斧一郎、於滝(大森頼猶室)、市五郎、康武、 康邦、政八郎、康友、於金、 妹(三宅康哉室)、妹(榊原照郷室のち植村正房室)、妹(加藤景久室) |
妻 | 建部政賢の娘・八重(青林院) |
子 | 於美恵、養子:康友 |
三宅 康邦(みやけ やすくに)は、三河田原藩の第7代藩主。田原藩三宅家10代。
明和元年(1764年)11月5日、第5代藩主・三宅康之の四男として生まれる。天明5年(1785年)に兄で第6代藩主の康武が死去したため、末期養子として家督を継ぎ、12月18日に従五位下・能登守に叙位・任官する。
江戸城の門番役を歴任した。藩政では天明7年(1787年)1月、藩財政再建のために7ヵ年の倹約令を出している。寛政4年(1792年)2月29日、江戸で死去した。享年29。跡を弟で養子の康友が継いだ。
系譜
[編集]父母
正室
- 八重、青林院 ー 建部政賢の娘
子女
- 於美恵
養子
- 三宅康友 ー 実弟