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韓明澮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
上党府院君から転送)
韓明澮
各種表記
ハングル 한명회
漢字 韓明澮
発音 ハン・ミョンフェ
日本語読み: かん めいかい
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韓 明澮(ハン・ミョンフェ、かん めいかい、永楽13年10月25日1415年11月26日) - 成化23年11月14日1487年11月28日))は、李氏朝鮮前期の権臣。勲旧派の首領・外戚として朝廷の実権を掌握した。字は子濬、号は狎鴎亭・四友堂。諡は忠成。本貫清州韓氏

生涯

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祖父は芸文館大提学の韓尚質。父は韓起。娘の2人は、睿宗の妃(章順王后)、成宗の妃(恭恵王后)となった。

友人である権擥を通じて首陽大君(後の世祖)の知遇を得、その権力奪取の計画に加担。1453年癸酉靖難で活躍し、靖難功臣一等となる。1455年、世祖が王になると右承旨に進み、成三問死六臣による端宗復位運動を阻み、その誅殺に加わった。

その後も要職を歴任し、1462年の右議政、1463年の左議政を経て、1466年領議政に昇進したが、病気のために退いた。1467年李施愛の乱では、叛乱が疑われ、一時逮捕されている。世祖が没すると、その遺命により、若い睿宗を補佐するために、院相として再び政治に関与、南怡の謀叛事件などで政敵を排除しながら、1469年に領議政に復した。同年、睿宗が没すると、貞熹王后尹氏(世祖の妃)と結んで成宗を即位させ、自らは兵曹判書を兼ねた。1471年、領春秋館事となり、崔恒・申叔舟とともに『世祖実録』を完成させた。1487年に没し、宗廟に世祖の配享功臣として祀られた。享年73。

死後の1504年燕山君による甲子士禍に際し、燕山君の母の尹妃の賜死に関与したとして、韓明澮の墓は暴かれ、遺骸は損壊された(剖棺斬屍)ものの、1506年9月に燕山君が失脚し、中宗即位直後に再び身分が回復した。

年表

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韓明澮のサイン
  • 1451年、集賢殿校理(チップヒョンジョン キョリ 従五品相当)となる。
  • 1452年、敬徳宮直(キョンドクグンジク)に異動。
  • 1453年、軍器寺録事(グンギシノクサ)に異動
    • 11月8日、功により靖難功臣(ジョンナンゴンシン)一等に遇せられる。
    • 11月12日、司僕寺少尹(サボクシソユン 正四品相当)に転任。
  • 1454年8月5日、承政院同副承旨(スンジョンウォン トンブスンジ 正三品堂上相当)に転任。
  • 1455年1月24日、通政大夫(トンジョンテブ 正三品堂上相当)に叙せられ、承政院同副承旨(スンジョンウォン トンブスンジ 正三品堂上相当)を本官とし、経筵庁参賛官(ギョンヨンチャン チャムチャムグァン 正三品堂上相当)・判司宰監事(ハンサジェガムサ)・知礼曹事(ジイエジョサ)などを兼帯。
    • 閏6月10日、承政院右副承旨(スンジョンウォン ウブスンジ)に転任。
    • 閏6月23日、承政院左副承旨(スンジョンウォン チャブスンジ)に転任。
    • 9月20日、功により佐翼功臣(チャイクゴンシン)一等に遇せられ、承政院右承旨(スンジョンウォン ウスンジ)に転任。
  • 1456年8月14日に、承政院左承旨(チャブスンジ)に転任している。
    • 9月11日に承政院都承旨(トスンジ)に転任している。
  • 1457年8月14日、吏曹判書(イジョパンソ 正二品相当)に転任し、崇政大夫(スンジョンテブ 従一品相当)に叙せられる。また、上党君(サンダングン)に封ぜられる。
  • 1458年12月7日、兵曹判書(ピョンジョパンソ 正二品相当)に異動。
  • 1459年11月2日、平安道黄海道都体察使(ピョンアンド ファンヘド トチェチャルサ)を兼帯(以後、1461年までしばしば兼帯)
  • 1460年、崇禄大夫(スンロクテブ 従一品相当)に昇叙。
  • 1461年6月10日、江原道咸吉道都体察使(カンウォンド ハムギルド トチェチャルサ)に兼帯異動。
    • 7月19日、上党府院君(サンダンブウォングン)に遇せられ、輔国崇禄大夫(ポウクグスンロクテブ 正一品相当)に昇叙。
  • 1462年2月13日、平安咸吉江原黄海道都体察使(ピョンアン ハムギル カンウォン ファンヘド トチェチャルサ)を兼帯。以後も1466年あたりまで兼帯の例あり。
    • 5月20日、右議政(ウイジョン 正一品相当)に転任。同日、領議政(ヨンイジョン)には、申叔舟(シンスクチュ)、左議政(チャイジョン)には、権擥(クォンラム)が転任しており、靖難功臣の功臣によって議政府首脳は占められた。
  • 1463年8月29日、左議政(チャイジョン 正一品相当)に転任。
  • 1466年5月29日、戸曹判書(ホジョパンソ)を兼帯。
    • 10月19日、領議政(ヨンイジョン 正一位相当)に転任。
  • 1467年、領議政を辞任。
  • 1468年10月20日、功により翊戴功臣(イクデゴンシン)一等に遇せられる。この年より院相(ウォンジャン)として若い国王の睿宗(イェジョン 数え19歳)を輔翼。
  • 1469年1月23日、領議政(ヨンイジョン)を再任。8月以降、秋に領議政を辞任す。
    • 5月20日、大匡輔国崇禄大夫(テグァンポウグクスンロクテブ 正一品相当)に叙せらる。
    • 12月1日以降、兵曹兼判書(ピョンジョンギョムパンソ)となる。
    • 12月29日、経筵庁領事(ギョンヨンチャンヨンサ 正一品相当)を兼帯。
  • 1471年3月27日、功により、佐理功臣(チャリゴンシン)一等に遇せられる。
    • 12月18日、領春秋館事(ヨンチュンチュガンサ 正一品相当)を兼帯。
  • 1474年5月15日、左議政に再任(領議政歴任者による稀有な例)
  • 1476年3月29日、左議政を辞任。
  • 1484年、老齢により几杖(グエジャン 膝掛けと杖)を特に国王である成宗(ソンジョン)より賜う。

※参考:朝鮮王朝実録

逸話・評価など

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  • 漢江の南に、自らの号に因む狎鴎亭というあずまやを建てた。「狎鴎」には「名利を捨てて鴎と親しみ、風流を楽しむ」という意味合いがある。狎鴎亭(アプクジョン)付近は、現在はソウル江南の高級なショッピングエリアとなっている。
  • 世祖による王位簒奪に加担し、その後も権力抗争に勝ち抜きながら、長きに渡って権力の座にあり続けて権勢を振るったことから、後世におけるイメージはおおむね悪い[1]。ただし、(中央集権を成し遂げた)世祖の精神を守り、若い王たちを輔弼した政治家という見方も存在する[2]
  • 彼を主人公にした辛奉承による小説と、それを原作にしたテレビドラマ「韓明澮〜朝鮮王朝を導いた天才策士〜(原題:한명회)」(1992年、KBS)がある。

家族

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  • 黄驪府夫人 閔氏
    • 娘 - 尹思路(貞顕翁主の夫で世宗の婿)の息子の尹磻と結婚。
    • 娘 - 申叔舟の息子の申澍と結婚。
    • 章順王后(睿宗妃、1445年-1461年)
    • 琅城君 韓堡(1447年-1522年)
    • 恭恵王后成宗妃、1456年-1474年)

韓明澮が登場する作品

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脚注

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  1. ^ たとえば、崔碩義 「狎鴎亭と伴鴎亭の話」 (日本語)
  2. ^ 새로나온 인명사전(あたらしい人名事典)』(民衆書館、2006年)

参考文献

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関連項目

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