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上領頼武

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
上領頼武
時代 戦国時代
生誕 天文23年(1554年
死没 永禄12年10月13日1569年11月21日
別名 通称:与次郎
主君 吉見正頼
氏族 清和源氏為義吉見氏庶流上領氏
父母 父:上領頼規、母:吉見頼興の娘
兄弟 頼武、女(今井筑前守室)、女(長野頼幸室)
なし
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上領 頼武(かみりょう よりたけ)は、戦国時代武将吉見氏の家臣。父は上領氏第7代当主の上領頼規

生涯

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天文23年(1554年)、石見の国人吉見氏の庶流である上領氏第7代当主・上領頼規の嫡男として生まれ[1]、父と共に三本松城の守備についた。

永禄12年(1569年)7月、吉川元春小早川隆景が率いる毛利軍と大友氏の戦い(多々良浜の戦い)が北九州で続く中、尼子勝久山中幸盛らの尼子氏再興軍が出雲国へ侵入し、さらに同年10月11日大友宗麟の客将だった大内輝弘が宗麟の後援を受けて周防国へ侵攻した(大内輝弘の乱[2]

大内輝弘は翌10月12日秋穂から山口へ進軍し、僅かな兵を率いて平野口を守る井上就貞を糸根峠で討ち取って山口に侵入[2]。築山の大内氏館に在陣した輝弘は、城将・市川経好が九州出征中で不在の高嶺城を攻撃した[2]。高嶺城には内藤就藤山県元重竺雲恵心らが僅か百余人の主兵を率いて籠城し、市川経好の妻も甲冑を着用して籠城に加わった[2]。高嶺城攻略に手こずった輝弘は、山口の市街に火を放って高嶺城への示威を試みた。この事態に対し吉見家中では、九州出征中の吉見正頼に代わって、伊藤実信吉賀頼貞らに加えて、上領頼規・頼武父子が、高嶺城を救うため津和野から南下して山口に進撃した[1][2]

10月13日、吉見軍は宮野口の仁保の杖坂[3]において大内輝弘家臣の城井小次郎と戦ったが、この戦いで頼武は伊藤実信と共に戦死した[1][4]。享年16。頼武には子が居らず、父・頼規の弟である頼定(後の赤木行定)が頼規の養子となり、後継となった。

脚注

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  1. ^ a b c 『閥閲録』巻56「赤木九郎左衛門」家譜。
  2. ^ a b c d e 『毛利元就卿伝』p.576。
  3. ^ 現在の山口県山口市宮野上。
  4. ^ 『毛利元就卿伝』p.577。

参考文献

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