下中野 (岡山市)
下中野 しもなかの | |
---|---|
国 | 日本 |
都道府県 | 岡山県 |
市町村 | 岡山市 |
行政区 | 北区及び南区 |
新設 | 1889年(明治22年)6月1日 |
面積 | |
• 合計 | 0.91 km2 |
最高標高 | 2.4 m |
最低標高 | 0.1 m |
人口 (2020年(令和2年)4月30日現在)[1] | |
• 合計 | 4,326人 |
• 密度 | 4,800人/km2 |
等時帯 | UTC+9 (JST) |
郵便番号 |
700-0973[2] |
市外局番 | 086 |
ナンバープレート | 岡山 |
下中野(しもなかの)は、岡山県岡山市北区及び南区に跨る大字。郵便番号は700-0973(岡山中央郵便局管区)。住居表示に関する法律に基づく住居表示は実施されていない[3]。
地理
[編集]岡山市中心部の南西、北区と南区の境に位置する東西に長い地区である。目抜き通りである県道21号岡山児島線、市道新保138号線、市道今西市線沿線には郊外型のロードサイド店舗が立地しており、特に岡山児島線と市道新保138号線が交わる下中野交差点付近には大型商業施設が複数立地している。それ以外の地域は基本的にアパートや一軒家を中心とした住宅街が広がっており、一部には工場や農地も存在する。
2010年国勢調査による人口は4434人、世帯数は2187世帯、面積は91万5215.60m2、人口密度は4844.8人/km2[4]。
地区内の道路は県道21号岡山児島線と市道新保138号線が上下6車線の大通りであり非常に交通量が多いほか、西部では市道今西市線沿線も上下4車線の目抜き通りとなっている。地区内では東から新保下中野(1995年-2013年)、西部第三(1978年-1997年)、西市下中野(1994年-2007年)、今(1970年-1990年)の4つの土地区画整理事業が実施されている[5]ため、下中野における大部分の道路はそのいずれかの区画整理によって拡幅あるいは新設された街路となっている。ただし、それら区画整理が行われていない一部地域には狭隘な生活道路も残されている。
小・中学校の学区
[編集]行政上、下中野は一体ではなく、公立の小・中学校に通学する場合、学区は次のように指定されている[6] 。ただし郵便番号は全域で共通である。
区 | 区域 | 小学校 | 中学校 |
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北区 | 701番~722番、1218番~1231番 | 西小学校 | 御南中学校 |
上記を除くJR瀬戸大橋線より西の区域 | 大元小学校 | 桑田中学校 | |
南区 | 901番 | 芳明小学校 | 芳田中学校 |
上記を除くJR瀬戸大橋線より東の区域 | 芳田小学校 |
隣接する町丁
[編集]今 今村 | 上中野 大元 西古松 | 大元駅前 東古松南町 東古松 | ||
平田 | 富田 | |||
下中野 | ||||
西市 新保 |
歴史
[編集]地名の由来は、野原が開拓された地を上と下に分けたことによる。もとは御野郡(1900年4月1日からは御津郡)下中野村であり、更に遡れば上中野村と合わせて一村で中野村と称した[7]。
南朝の忠臣多田頼貞が赤松氏の軍勢に敗れて網浜から当地に隠れ忍んだという説がある。江戸時代は宇喜多氏、小早川氏の支配を経て、1603年(慶長8年)から岡山藩領となる。村内は旭川を水源とする西川用水から取水し、金毘羅往来が通っている。1875年(明治8年)には東部に位置していた木村を併合した。1889年(明治22年)6月1日には下中野村を含む周辺7つの自然村の区域を以って町村制を施行し、新たに今村が成立したことにより同村の大字として下中野が新設された。1910年(明治43年)6月12日には中央部に宇野線が開通し、1925年(大正14年)3月6日には下中野北東部から岡山駅の間で経路が変更され、鹿田駅が移転し大元駅に改称されたことにより下中野近辺から鉄道が利用可能となった。下中野周辺ではそれまで米とムギが生産の中心であったが、昭和初頭以降は湿田を利用してイグサも生産されている。
1952年(昭和27年)4月1日には今村が岡山市と合併し、下中野は同市の大字となる。1951年(昭和26年)8月1日には東部を通る汽車製造の旧専用線を転換した岡山臨港鉄道が営業を開始し、下中野に駅は置かれていないが、岡南新保駅が近接していた。それまでは純然たる農村地帯であったが、高度経済成長期になると中央部を通る県道21号岡山児島線沿線に運輸・金属・電気関係の事業所が進出し、南西部・東部は宅地化が進行した。隣接町の住居表示の実施に伴い、1969年(昭和44年)7月20日に下中野の一部を大元駅前へ編入し、1982年(昭和57年)11月20日に下中野の一部を上中野一〜二丁目、今一〜八丁目及び大元一〜二丁目へ編入した。1984年(昭和59年)12月30日には岡山臨港鉄道が廃線となり、起点の大元駅から国道30号に至る2km区間は緑道公園「臨港グリーンアベニュー」として整備された。
2001年(平成13年)12月16日、JR宇野線の高架化により下中野の東西分断が解消された。2009年(平成21年)4月1日には岡山市の政令指定都市移行により行政区が設置されたが、下中野は宇野線の鉄道敷を境に北区と南区に分けられた。また、同日中に西市下中野土地区画整理事業の換地処分に伴う地番整理により、施行区域内の地番が変更されたほか、下中野の一部と新保の一部が双方にそれぞれ編入された[8]。
主要施設
[編集]掲載順は地番の順序による
北区[編集]
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南区[編集]
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脚注
[編集]参考文献
[編集]- ^ “小学校区・町丁別住民基本台帳 世帯数・人口”. 岡山市 (2020年4月30日). 2020年6月11日閲覧。
- ^ “郵便番号7000973 の検索結果 - 日本郵便”. 日本郵便. 2020年6月11日閲覧。
- ^ “住居表示の整備”. 岡山市市民局区政推進課. 2014年2月14日閲覧。
- ^ “平成22年国勢調査、小地域集計、33岡山県”. 総務省統計局(e-Stat) (2010年10月1日). 2014年2月14日閲覧。
- ^ “岡山市の土地区画整理事業”. 岡山市都市整備局市街地整備課. 2014年2月14日閲覧。
- ^ “岡山市立小学校、中学校の就学に関する規則 別表第1” (PDF). 岡山市. 2020年9月30日閲覧。
- ^ 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典33 岡山県』角川書店、1989年6月。ISBN 978-4-04-622946-5。
- ^ “岡山県南広域都市計画事業 新保下中野土地区画整理事業”. 岡山市 都市整備局 市街地整備課区画整理係. 2015年8月3日閲覧。