下関通り魔殺人事件
下関通り魔殺人事件 | |
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事件当時の下関駅駅舎と駅前広場 ※事件後の2002年8月22日撮影。この駅舎はその後2006年1月7日に放火により焼失し新駅舎に建て替えられた | |
場所 | 日本・山口県下関市 |
日付 | 1999年9月29日 |
標的 | 民間人 |
攻撃手段 | 自動車と包丁 |
死亡者 | 5人 |
負傷者 | 10人 |
動機 | 社会に対する憎悪 |
対処 | 死刑(執行済み) |
下関通り魔殺人事件(しものせきとおりまさつじんじけん)は、1999年(平成11年)9月29日に山口県下関市の西日本旅客鉄道(JR西日本)下関駅において発生した通り魔事件である。
概要
[編集]事件発生
[編集]1999年9月29日午後4時25分頃、加害者である運送業の男Uがレンタカーの乗用車に乗ったままJR下関駅東口駅舎のガラスのドアを突き破って駅構内の自由通路に車ごと侵入[注 1]、そのまま売店や多数の利用客などの存在する駅構内を約60m暴走して7人をはねた。その後車から降り、包丁を振り回しながら改札[注 2]を通過し、2階のプラットホームへと続く階段を上る途中で1人に切りつけ、プラットホームに上がってからさらに7人に無差別に切りつけた[1]。Uは駅員に取り押さえられ山口県警察鉄道警察隊に現行犯逮捕された[2]。
Uのこれらの行為により、5人が死亡、10人が重軽傷を負った[1]。
犯行の動機
[編集]Uは1987年3月に九州大学工学部建築学科を卒業し、1989年から福岡市内の設計事務所やコンピュータソフト会社に勤務したが、対人関係が上手くいかず退職。1992年に一級建築士の資格を取得して、1993年に自身で設計事務所を立ち上げたが、経営に行き詰まり廃業。新婚旅行で訪れたニュージーランドへの移住を計画するようになる。
1998年2月に実家に戻り、「人に会わなくて済むから」という理由で1999年1月に軽トラックを購入して運送業を始めたが、同年6月には単身でニュージーランドに渡航していた妻が帰国し離婚を切り出され、さらに9月には台風18号で軽トラックが冠水し使用不能になった。Uは、ニュージーランドへ移住してこの状況から抜け出そうと考えて、父親に軽トラックのローンの肩代わりと移住費用を無心したが断られ、ローン返済のために実家の車で運送業を続けるよう説得された。「何をやってもうまくいかない」と思うようになったUは、その責任が両親と社会にあると考え、本件での犯行に及んだという[1][3][4]。
Uは当初、人通りの多い日曜を選んで10月3日に決行しようとし、9月28日に包丁を購入するとともに下関駅周辺を下見していた。しかし、9月29日に父親から電話で軽トラックの廃車手続を自分でするよう言われたことに腹を立てて、その日のうちに決行することに決め、午後にレンタカーを借りた後、人通りの多い夕刻を狙って犯行に及んだ。犯行の前には、120錠もの睡眠薬を服用していた[3]。
なお、下関での事件の約3週間前に池袋通り魔殺人事件が起きていた。Uは公判の中で「池袋の事件を意識した」「池袋の事件のようにナイフを使ったのでは大量に殺せないので車を使った」と述べている[1]。
また、Uは月に数回下関市内の民間病院に通っていたことも分かったため、Uの精神状態の調査も実施された[4]。さらにUは、「包丁は犯行のために買った。怪我をした人や死んだ人には悪いことをしたと思うし、可哀想だと思う」と反省の様子も伺わせていた[4]。
裁判・刑執行
[編集]1999年12月より行われた山口地方裁判所下関支部での刑事裁判の中で、弁護側がUの精神鑑定を請求。弁護側の申請した鑑定医による精神鑑定の結果、Uには妄想性パーソナリティ障害(パラノイア)や「受動攻撃性パーソナリティ障害」(通常は受動攻撃性という)があり、事件発生当時心神喪失に近い心神耗弱状態にあったとの鑑定を行った。一方、検察側が証人として申請した鑑定医は、Uには完全責任能力があるとの判断を下した。このように精神鑑定の結果が分かれる中、2002年9月20日に山口地裁下関支部(並木正男裁判長)はUの完全な責任能力を認め、求刑通りUに死刑判決を言い渡した[1]。
Uは控訴したが、控訴審の広島高等裁判所(大渕敏和裁判長)による2005年6月28日の判決も、死刑を支持し、控訴を棄却した[1]。その後、Uは最高裁判所に上告したが、2008年7月11日に最高裁第2小法廷(今井功裁判長)も二審の死刑判決を支持し、Uの上告を棄却、これによりUに対する死刑判決が確定した[5]。
2012年3月27日、小川敏夫法務大臣が死刑執行命令書への署名を行い、翌々日の3月29日に広島拘置所でUの死刑が執行された[6]。死刑の執行は1年8ヶ月ぶりのことで、同日には横浜前妻一家殺人事件、宮崎連続強盗殺人事件の各死刑囚(共に2007年に死刑判決確定)に対しても死刑が執行された[7]。
その他
[編集]自動車による被害は、加害者の故意によるものであっても自動車損害賠償責任保険(自賠責保険)の補償対象となるため、自動車にはねられて死傷した被害者に対しては、自賠責による支払いがおこなわれた。
一方、自動車によらずナイフで死傷した人達に対しては、犯罪被害者等給付金のみが支払われた[注 3]ため、同じ事件でありながら公的補償額が不平等であるとの指摘もあった[8]。このことを契機に、2001年に犯罪被害者等給付金の支給等に関する法律が改正され、犯罪被害者への補償範囲の拡大と支給額の見直しが行われている。
なお、この事件で加害者が自動車で侵入した下関駅東口の駅舎は、通り魔事件から約7年後の2006年(平成18年)1月7日に、放火により焼失(下関駅放火事件)、その後の駅周辺の再開発にあわせて、改札口の位置や形状も事件当時とは大きく変わっている。
関連項目
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f 北芝健『ニッポン犯罪狂時代』扶桑社、2009年8月30日、81-83頁。
- ^ 青沼陽一郎 (2021年4月3日). “5人を殺した下関通り魔事件の犯人…「神の指示で動いた」発言と精神鑑定の行方”. 文春オンライン (株式会社文藝春秋). オリジナルの2021年4月3日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b 青沼陽一郎 (2021年4月3日). “「ただでは死ねない」睡眠薬120錠を飲んで駅に突っ込んだ下関通り魔事件にみる死刑相当事犯の“奇妙な共通点””. 文春オンライン (株式会社文藝春秋). オリジナルの2021年4月3日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b c “下関無差別殺傷「高学歴なのに仕事ない」”. 北日本新聞: 夕刊3面. (1999年9月30日)
- ^ “99年下関駅無差別殺傷、U被告の死刑確定へ”. 朝日新聞. (2008年7月11日). オリジナルの2009年3月25日時点におけるアーカイブ。 実際の記事名には実名が使われているが、日本における死刑囚の一覧との記述矛盾解消のため、イニシャルとする。
- ^ “3人の死刑執行、下関通り魔殺人犯ら 民主党政権下では2回目”. AFPBB News. (2012年3月29日). オリジナルの2021年10月20日時点におけるアーカイブ。 2020年9月30日閲覧。
- ^ “3人の死刑執行 下関無差別殺傷のU死刑囚ら 法務省”. 朝日新聞. (202-03-29). オリジナルの2018年1月4日時点におけるアーカイブ。
- ^ “犯罪被害者損害賠償補償法の制定を!”. 下関駅通り魔事件被害者の会. 2016年11月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月20日閲覧。