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中島行孝

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中島行孝

中島 行孝(なかじま ゆきたか、1834年9月30日(天保5年8月28日 [1][2][注釈 1])- 1914年大正3年)5月1日[3][4])は、明治から大正初期の大蔵官僚実業家政治家衆議院議員。旧姓・桐生。

経歴

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上野国佐位郡、のちの群馬県[3]佐波郡赤堀村[4][5]赤堀町を経て現伊勢崎市)で、桐生儀兵衛[注釈 2]の長男として生まれ[5]、その後、中島家の養子となる[5]

1869年(明治2年)大蔵省に入省し[5]、大蔵省一等属となる[3][4]。牛込で私塾を開き、塾生には郷誠之助らがいた。1882年(明治15年)に退官し実業界に転じた[5]。東京株式取引所理事、前橋電気軌道社長、東京府農工銀行取締役、同農工貯蓄銀行頭取、帝国商業銀行監査役などを務めた[2][3][4][5]

政界では、東京市会議員、同参事会員、東京府会議員に在任[3][4][5]。1912年(明治45年)5月、第11回衆議院議員総選挙(東京府東京市、立憲国民党)で当選し[5][6]中正会に所属して衆議院議員に1期在任[3][4]。任期途中の1914年5月に死去した[7]。墓所は牛込区宝祥寺

郷里に思いを寄せ、農産同心儀社を設立して、農業経営の向上のため、肥料資金、農機具を寄贈した[5]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『群馬県人名大事典』383頁、『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』445頁では天保7年。
  2. ^ 『人事興信録 初版』597頁では中島儀兵衛。

出典

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  1. ^ 衆議院『第二十九回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1912年、15頁。
  2. ^ a b 『人事興信録 初版』597頁。
  3. ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』445頁。
  4. ^ a b c d e f 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』316-317頁。
  5. ^ a b c d e f g h i 『群馬県人名大事典』383頁。
  6. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』42頁。
  7. ^ 『官報』第527号、大正3年5月4日。

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 初版』人事興信所、1903年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
  • 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
  • 『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。