中川家 (男爵家)
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中川家 | |
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本姓 | 藤原北家甘露寺家庶流 |
家祖 | 中川興長 |
種別 |
公家(堂上格) 華族(男爵) |
出身地 | 山城国 |
主な根拠地 |
山城国 東京市麻布区 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
中川家(なかがわけ[1])は、藤原北家甘露寺家庶流にあたる華族の男爵家。いわゆる「奈良華族」の一つ[2]。
歴史
[編集]甘露寺家当主甘露寺愛長の七男興長は、江戸末期に幼くして奈良興福寺に入れられ五大院住職となったが、明治元年(1868年)に勅命により復飾し、翌2年に堂上格を与えられて一家を起こして中川を家号とした[1][3]。明治8年に華族に列し、明治17年(1884年)7月7日の華族令施行で華族が五爵制になると、翌8日に興長は男爵に叙された[2][3]。明治23年から貴族院の男爵議員に複数回当選して務めた[3]。興長の先妻楢子は清水馬之丞の長女、後妻の岩子は滋野井公寿伯爵の長女[4]。
興長が大正9年5月15日に死去した後、長男の良長(明治9年10月27日生、昭和23年8月20日没)が爵位と家督を相続。彼は東京電燈会社監査役を務め、また大正10年から貴族院の男爵議員に当選して務めた。院内では貴族院改革論者として知られた[3]。昭和2年から5年間満州国の社会情勢を視察して帰国した後、昭和14年に貴族院の男爵議員に再選された[3]。彼の代の昭和前期に中川男爵家の住居は東京市麻布区本村町にあった[3]。良長の先妻千菊は渡辺千秋伯爵の四女だが、大正5年に離婚して、鈴木某の娘いそと再婚している[4]。
良長の長男は浩長(明治41年6月2日生、平成3年8月12日没)、その夫人悦生は篠原惣太郎の三女。浩長の長男和篤(昭和9年1月4日生、昭和58年5月15日没)があり、その夫人明子は稲葉正弘子爵(館山稲葉家)の三女だが、和篤に子供はなかった[4]。
系図
[編集]- 実線は実子、点線(縦)は養子。系図は『平成新修旧華族家系大成 下巻』に準拠[4]。
甘露寺愛長 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
中川興長1 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
良長2 | 資長 | 秀峯 | 貞子[注 1] | 正興[注 2] | 栄子[注 3] | 喜一 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
浩長3 | 泰長 | 秀月 | 正子[注 4] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
和篤4 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
系譜注
[編集]脚注
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年(平成8年)。ISBN 978-4642036719。
- 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342。
- 森岡浩『日本名門・名家大辞典』東京堂出版、2012年(平成24年)。ISBN 978-4490108217。