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奈良華族

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

奈良華族(ならかぞく)は、奈良興福寺塔頭の僧職にあった公家の子弟出身の僧侶のうち、明治維新後に勅令により復飾(還俗)し、公家社会に復帰して華族となった人々の総称[1]。26家ある。いずれも明治17年(1884年7月8日華族令の施行とともに男爵が授爵された。

維新後新たに公家となり華族に列して男爵を授かった家は、この奈良華族以外にも十数家ある。そのほとんどが既存の堂上家からの分家によるものであるが、このうちの3家は幕末まで興福寺以外の寺院の僧職にあった公家の子弟出身の僧侶が復飾したもので、その成立過程には奈良華族のそれと本質的に類似した経緯がある。そこで本項では別節を立てこの3家についても紹介する。

解説

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明治維新後、奈良興福寺の公家出身の僧侶26名が、勅命により還俗することになった[1]。新政府は彼らをそれぞれを独立した生計を営む新規の堂上格の公家として処遇し、明治2年(1869年)に華族制度が始まると彼らも華族に組入れた。これが奈良華族である。

当初はこれら26家のうち、藤原氏出自の22家と他氏出自の4家の間にはその待遇において微妙な差があった。藤原系の22名は復飾すると、すぐに彼らの氏神であり興福寺と習合されていた春日大社神官に転じることができたので、しばらくはそのまま奈良に留まり落ち着いていた。やがて新政府より彼らすべてをそれぞれの実家からは独立した別家扱いとする旨の通知を受け、明治2年(1869年)旧暦3月6日には正式に堂上格の公家として認められ、明治8年(1875年)3月23日に華族に列した。これに対して藤原氏の出自ではなかった梶野・小松(ともに桓武平氏)・西五辻(宇多源氏)・南岩倉(村上源氏)の4名は、復飾後いったん京都の実家の元に戻らざるを得ず、そこでまず一代限りの堂上格として認められ、明治2年旧暦12月19日から終身華族(一代華族)として処遇された後、藤原系の諸家から1年2か月遅れの明治9年(1876年)5月31日に晴れて永世華族に列していた。

しかし差がついたのはそこまでで、その後は奈良華族26家のうち24家が明治17年(1884年)7月8日に一律に男爵に叙爵されている。小松家と芝亭家の叙爵が翌明治18年(1885年)5月2日にずれ込んだのは、華族令が施行された当時、前者は当主が女性だったこと、後者は当主が幼少だったことによるものとみられる。なお堂上華族はそれぞれ爵位決定の内規により、摂家公爵清華家侯爵大臣家伯爵羽林家名家半家のうち中納言在任中に直接大納言に昇進した例のある家が伯爵、それ以外の家が子爵に叙爵されることになっていたが、堂上格とはいえ家としての実績や家格を欠く奈良華族はいずれも「一新後新たに家を興したる者」の内規により男爵の叙爵となった。

授爵後も、明治年間に5家が爵位を返上している(鷺原・竹園・長尾・松林・松崎)。

奈良華族(26家)

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僧職 出自/家祖 門流 家格 爵位 続柄/授爵者 備考
あわたぐち
粟田口
興福寺 塔頭
養賢院 院家
葉室顕孝 六男
粟田口定孝
藤原北家勧修寺流
葉室庶流
堂上格

永世華族
男爵  
初代 粟田口定孝
いまその
今園
興福寺 塔頭
聖賢院 院家
芝山国典 養子2
今園国映
藤原北家勧修寺流
芝山支流
 
初代 今園国映
2実ハ坊城俊政 次男
うずまさ
太秦
興福寺 塔頭
慈尊院 院家
桜井供秀 次男3
太秦供親
藤原北家水無瀬一門
桜井支流
初代供親 養子4
二代 太秦供康
3実ハ堀河康親 四男
4実ハ堀河親賀 三男
かわべ
河辺
興福寺 塔頭
勧修坊 院家
油小路隆晃 三男
河辺隆次
藤原北家四条流
西大路庶流油小路庶流
 
初代 河辺隆次
明治30年(1897年)3月31日 爵位返上[2]
きたおおじ
北大路
興福寺 塔頭
東北院 院家
阿野公誠 次男
北大路季敏
藤原北家閑院流
三条庶流滋野井庶流阿野庶流
二代実慎 養子5
三代 北大路公久
5実ハ高松実村 三男
きたかわはら
北河原
興福寺 塔頭
中蔵院 院家
四辻公績 四男
北河原公憲
藤原北家閑院流
西園寺庶流四辻庶流
 
初代 北河原公憲
さがら
相楽
興福寺 塔頭
慈門院 院家
富小路敬直 次男
相楽富直
藤原北家九条流
摂家二条庶流富小路庶流
初代富直 嫡男
二代 相楽綱直
昭和18年(1943年)10月8日 無嗣断絶[3]
さぎはら
鷺原
興福寺 塔頭
恵海院 院家
甘露寺勝長 四男
鷺原量長
藤原北家勧修寺流
甘露寺庶流
 
初代 鷺原量長
明治21年(1888年)5月10日 爵位返上[3]
しかぞの
鹿園
興福寺 塔頭
喜多院 院家
三条実起 七男
鹿園空晁
藤原北家閑院流
三条庶流
初代空晁 養子6
二代 鹿園実博
6実ハ戸田忠綱 次男
しばこうじ
芝小路
興福寺 塔頭
成身院 院家
芝山国豊 次男7
芝小路豊訓
藤原北家勧修寺流
芝山支流
初代豊訓 嫡男
二代 芝小路豊俊
7実ハ坊城俊明 七男
しばてい
芝亭
興福寺 塔頭
龍雲院 院家
裏辻公愛 三男
芝亭実忠
藤原北家閑院流
正親町支流裏辻庶流
初代実忠 嫡男
二代 芝亭愛古
叙爵は明治18年(1885年)5月2日
すぎたに
杉渓
興福寺 塔頭
妙徳院 院家
山科言縄 三男
杉渓言長
藤原北家四条流
山科支流
 
初代 杉渓言長
たけぞの
竹園
興福寺 塔頭
宝掌院 院家
甘露寺愛長 次男
竹園用長
藤原北家勧修寺流
甘露寺支流
初代用長 嫡男
二代 竹園康長
明治32年(1899年)8月14日 爵位返上[3]
ながお
長尾
興福寺 塔頭
惣珠院 院家
勧修寺顕彰 四男
長尾顕慎
藤原北家勧修寺流
勧修寺支流
 
初代 長尾顕慎
明治20年(1887年)1月13日 爵位返上[3]
なかがわ
中川
興福寺 塔頭
五大院 院家
甘露寺愛長 五男
中川興長
藤原北家勧修寺流
甘露寺庶流
 
初代 中川興長
ふじえ
藤枝
興福寺 塔頭
清浄院 院家
飛鳥井雅典 次男
藤枝雅之
藤原北家花山院流
難波庶流飛鳥井庶流
 
初代 藤枝雅之
ふじおおじ
藤大路
興福寺 塔頭
延寿院 院家
堀河康親 三男
藤大路納親
藤原北家長良流
高倉一門堀河庶流
 
初代 藤大路納親
ほづみ
穂穙
興福寺 塔頭
玉林院 院家
坊城俊明 三男
穂穙俊弘
藤原北家勧修寺流
芝山支流坊城庶流
初代俊弘 婿養子8
二代 穂穙俊香
8実ハ山本実政 三男
まつぞの
松園
興福寺 塔頭
大乗院 門跡
二条治孝 十九男
松園隆温
藤原北家九条流
摂家二条庶流
初代隆温 養子1
二代 松園尚嘉
1実ハ九条尚忠 三男
まつばやし
松林
興福寺 塔頭
松林院 院家
上冷泉為則 五男
松林為成
藤原北家御子左嫡流
冷泉一門
初代為成 嫡男
二代 松林為美
明治29年(1896年)12月21日 爵位返上[4]
みなみ
興福寺 塔頭
修南院 院家
広橋伊光 八男9
南光度
藤原北家日野庶流
広橋支流
初代光度 養子10
二代 南光利
9実ハ豊岡和資 次男
10実ハ竹屋光昭 四男
みやがわ
水谷川
興福寺 塔頭
一乗院 門跡法嗣 
近衛忠熈 八男
水谷川忠起
藤原北家近衛流
摂家近衛庶流
 
初代 水谷川忠起
かじの
梶野
興福寺 塔頭
無量寿院 院家
石井行弘 次男
梶野行篤
桓武平氏高棟王流
西洞院庶流平松庶流石井支族
堂上格

終身華族

永世華族
 
初代 梶野行篤
こまつ
小松
興福寺 塔頭
不動院 院家
石井行弘 三男
小松行敏
桓武平氏高棟王流
西洞院庶流平松庶流石井分家
初代行敏 婿養子11
二代 小松行正
11実ハ平松時言 八男
叙爵は明治18年(1885年)5月2日
にしいつつじ
西五辻
興福寺 塔頭
明王院 院家
五辻高仲 三男
西五辻文仲
宇多源氏五辻庶流  
初代 西五辻文仲
みなみいわくら
南岩倉
興福寺 塔頭
正知院 院家
岩倉具視 長男
南岩倉具義
村上源氏久我庶流
岩倉家分家
初代具義 養嗣子
二代 南岩倉具威

僧職から維新後復飾して公家となり男爵となったその他の家(3家)

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いずれも明治17年(1884年)7月8日に一律に男爵に叙爵されている。

僧職 出自/家祖 門流 家格 爵位 続柄/授爵者 備考
たままつ
玉松
醍醐寺 塔頭
無量寿院 院家12
山本公弘 次男
玉松真弘 (操)
藤原北家閑院流
西園寺庶流阿野支流    
堂上格

永世華族
男爵 初代真弘 養子13
二代 玉松真幸 
12真弘の還俗は天保10年(1839年)に遡る
13実ハ山本実政 次男
明治2年(1869年)堂上格
同年旧暦6月17日 永世華族
にしたかつじ 
西高辻
太宰府安楽寺天満宮
延寿王院 別当
高辻以長 四男
西高辻信厳
菅原氏嫡流
高辻家分家
 
初代 西高辻信厳
明治元年(1868年)堂上格
明治15年(1882年)永世華族
にゃくおうじ
若王子
聖護院 塔頭
若王子 院家
山科言知 次男
若王子遠文
藤原北家四条流
山科支流
 
初代 若王子遠文
明治2年(1869年)堂上格
同年旧暦6月17日 永世華族

脚注

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参考文献

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  • 小田部雄次『華族:近代日本貴族の虚像と実像』〈中公新書〉2006年。ISBN 4-12-101836-2 
  • 華族一覧表 公家分家・地下の部、wolfpac press(2018年2月27日閲覧)

外部リンク

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