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阿野公誠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
阿野 公誠
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文化15年3月17日[1]1818年4月22日
死没 明治12年(1879年6月1日[2]
墓所 谷中霊園乙8-8
主君 仁孝天皇孝明天皇明治天皇
氏族 阿野家
父母 父:阿野実典
兄弟 公誠滋野井実在、冷泉某
坊城總子(坊城俊克の二女)
実允、しず子、櫛笥隆義北大路季敏
孫:季忠
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阿野 公誠(あの きんみ)は、幕末公家明治期の官僚華族麝香間祗候

経歴

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山城国京都で、阿野実典の長男として生まれる[2]文政10年3月22日1827年4月17日)に元服し昇殿を許される[3]天保14年1月14日1843年2月12日)侍従 [2][3]左近衛権少将を経て、安政3年12月22日1857年1月17日)左近衛中将に任じられる[2][3]。安政5年(1858年廷臣八十八卿列参事件に加わった[2]文久2年8月16日1862年9月9日)には三条実美など公卿13名の一人として連名で岩倉具視久我建通千種有文富小路敬直今城重子堀河紀子の6人を幕府にこびへつらう「四奸二嬪」として弾劾する文書を関白近衛忠煕に提出した[2]。同年11月4日(12月24日)参議に任じられ、議奏国事御用掛を務める[2][3]。文久3年(1863年)、八月十八日の政変に際して議奏再任を命ぜられるも固辞し、「議奏格」にとどまる[4]。ただし同年12月には議奏に再任し、また勅使として一橋慶喜へ遣わされ攘夷期限の決定を督促する朝旨を伝達した[2]。横浜鎖港問題に際しては私心を捨て公論を取るべきだとして建白を行い[4]元治元年(1864年)8月には議奏を辞任している[4]慶応4年4月21日1868年6月11日)権中納言に任じられた[2][3]

慶応4年5月18日(1868年7月7日)弁事として出仕[2][5]。以後、参与上局副議長、待詔院下局長官、集議院次官、留守次官兼京都府権知事、禄制取調御用掛、宮内少輔兼留守次官、宮内大丞などを歴任し、1873年5月17日に免本官となり退官[2][5]

1875年8月5日に隠居して家督を長男阿野実允が継承した[1]1878年6月20日、麝香間祗候を仰せ付けられた[2][5]

系譜

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 『平成新修旧華族家系大成』上巻、38頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 『明治維新人名辞典』31頁。
  3. ^ a b c d e 『公家事典』244頁。
  4. ^ a b c 刑部芳則『公家たちの幕末維新』中央公論新社、2018年。 
  5. ^ a b c 『百官履歴 上巻』237-239頁。

参考文献

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公職
先代
(新設→欠員)
日本の旗 宮内少輔
1870年 - 1871年
次代
(欠員→)吉井友実
先代
岩下方平
日本の旗 留守次官
1870年 - 1871年
次代
(廃止)
先代
神田孟恪
丸山作楽
集議院下局次官
日本の旗 集議次官
1869年 - 1870年
次代
(欠員→廃止)
先代
渡辺昇
待詔局主事
日本の旗 待詔下院長官
1869年
次代
(廃止)
先代
松浦詮
日本の旗 上局副議長
1869年
(途中まで松浦詮と共同)
次代
(廃止)