阿野公誠
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 文化15年3月17日[1](1818年4月22日) |
死没 | 明治12年(1879年)6月1日[2] |
墓所 | 谷中霊園乙8-8 |
主君 | 仁孝天皇→孝明天皇→明治天皇 |
氏族 | 阿野家 |
父母 | 父:阿野実典 |
兄弟 | 公誠、滋野井実在、冷泉某 |
妻 | 坊城總子(坊城俊克の二女) |
子 |
実允、しず子、櫛笥隆義、北大路季敏 孫:季忠 |
阿野 公誠(あの きんみ)は、幕末の公家、明治期の官僚・華族。麝香間祗候。
経歴
[編集]山城国京都で、阿野実典の長男として生まれる[2]。文政10年3月22日(1827年4月17日)に元服し昇殿を許される[3]。天保14年1月14日(1843年2月12日)侍従 [2][3]。左近衛権少将を経て、安政3年12月22日(1857年1月17日)左近衛中将に任じられる[2][3]。安政5年(1858年)廷臣八十八卿列参事件に加わった[2]。文久2年8月16日(1862年9月9日)には三条実美など公卿13名の一人として連名で岩倉具視・久我建通・千種有文・富小路敬直・今城重子・堀河紀子の6人を幕府にこびへつらう「四奸二嬪」として弾劾する文書を関白近衛忠煕に提出した[2]。同年11月4日(12月24日)参議に任じられ、議奏、国事御用掛を務める[2][3]。文久3年(1863年)、八月十八日の政変に際して議奏再任を命ぜられるも固辞し、「議奏格」にとどまる[4]。ただし同年12月には議奏に再任し、また勅使として一橋慶喜へ遣わされ攘夷期限の決定を督促する朝旨を伝達した[2]。横浜鎖港問題に際しては私心を捨て公論を取るべきだとして建白を行い[4]、元治元年(1864年)8月には議奏を辞任している[4]。慶応4年閏4月21日(1868年6月11日)権中納言に任じられた[2][3]。
慶応4年5月18日(1868年7月7日)弁事として出仕[2][5]。以後、参与、上局副議長、待詔院下局長官、集議院次官、留守次官兼京都府権知事、禄制取調御用掛、宮内少輔兼留守次官、宮内大丞などを歴任し、1873年5月17日に免本官となり退官[2][5]。
1875年8月5日に隠居して家督を長男阿野実允が継承した[1]。1878年6月20日、麝香間祗候を仰せ付けられた[2][5]。
系譜
[編集]- 父:阿野実典
- 母:不詳
- 妻:坊城總子(ふさこ、坊城俊克二女)[1]
- 長男:阿野実允(子爵)[1]
- 長女:阿野しず子(長谷信成の妻)[1]
- 二男:櫛笥隆義(櫛笥隆韶養子)[1]
- 三男:北大路季敏(北大路家祖)[1]
- 弟:滋野井実在(滋野井為国養子)[1]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 修史局編『百官履歴 上巻』日本史籍協会、1928年。
- 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
- 橋本政宣編『公家事典』吉川弘文館、2010年。
公職 | ||
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先代 (新設→欠員) |
宮内少輔 1870年 - 1871年 |
次代 (欠員→)吉井友実 |
先代 岩下方平 |
留守次官 1870年 - 1871年 |
次代 (廃止) |
先代 神田孟恪 丸山作楽 集議院下局次官 |
集議次官 1869年 - 1870年 |
次代 (欠員→廃止) |
先代 渡辺昇 待詔局主事 |
待詔下院長官 1869年 |
次代 (廃止) |
先代 松浦詮 |
上局副議長 1869年 (途中まで松浦詮と共同) |
次代 (廃止) |