阿野実直
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時代 | 鎌倉時代前期 |
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生誕 | 承元3年(1209年)[1] |
死没 | 建長3年8月10日(1251年9月4日)[1] |
改名 | 実名、実直[2] |
別名 | 中御門中将[3] |
官位 | 正三位、右近衛中将、侍従[2] |
主君 | 後堀河天皇 → 四条天皇 → 後嵯峨天皇 → 後深草天皇 |
氏族 | 藤原北家閑院流阿野家[4] |
父母 | 父:阿野公佐、母:阿野全成の娘[2] |
兄弟 | 実遠、実直、堀川具実の室、女子[2][5] |
子 | 公寛、公仲、公秀、実澄、公員、公澄、持明院基盛の妻[1] |
略歴
[編集]父の公佐は藤原成親の子で閑院流藤原実国の養子となった人物で、母は源頼朝の異母弟・阿野全成と北条時政の娘・阿波局の間に生まれた娘である[2][6]。承久の乱も明けた承久3年(1221年)12月に後白河院の女御だった三条琮子の推挙によって13歳で叙爵、侍従に任じられる[2]。嘉禄2年(1226年)右近衛権少将[7]。寛喜2年(1230年)には従四位下に進み、嘉禎3年(1237年)右近衛中将となる。また尾張、出羽、備中、常陸の介を歴任した。建長元年(1249年)従三位となり公卿に列する。建長3年(1251年)侍従に再任したが、その年に薨去した[2]。子で公卿に昇ったのは長男の公寛のみだが[8]、堂上家として家系を伝えたのは次男の公仲の系統である[4]。
官歴
[編集]※出典のない項目はいずれも『公卿補任』建長元年条による[2]。
- 承久3年(1221年)12月22日:従五位下、12月26日:侍従
- 貞応3年(1224年)1月23日:従五位上
- 嘉禄2年(1226年)12月16日:右近衛権少将[7]
- 嘉禄3年(1227年)1月26日:兼尾張介
- 安貞2年(1228年)4月13日:正五位下
- 寛喜2年(1230年)1月5日:従四位下
- 貞永元年(1232年)1月30日:兼出羽介、8月10日:復任
- 文暦2年(1235年)1月23日:従四位上
- 嘉禎3年(1237年)1月29日:正四位下、4月25日:右近衛中将
- 仁治2年(1241年)2月1日:兼備中権介
- 宝治元年(1247年)1月23日:兼常陸権介
- 建長元年(1249年)11月10日:従三位
- 建長3年(1251年)1月22日:侍従、9月10日:薨
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c 『大日本史料』5-36, pp. 92–93.
- ^ a b c d e f g h 『大日本史料』5-36, p. 92.
- ^ 『大日本史料』5-19, p. 437.
- ^ a b 村田 1979.
- ^ 『尊卑分脉』, §魚名公三男美作守末茂孫.
- ^ 『大日本史料』5-4, pp. 165–166.
- ^ a b 『大日本史料』5-3, p. 459.
- ^ 『大日本史料』5-36, p. 93.
参考文献
[編集]- 村田正志「阿野家」『国史大辞典』 1巻、吉川弘文館、1979年。ISBN 978-4-642-00501-2。
- 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第五編』 3巻、東京大学出版会、1969年。ISBN 978-4-13-090203-8。
- 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第五編』 4巻、東京大学出版会、1969年。ISBN 978-4-13-090204-5。
- 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第五編』 19巻、東京大学出版会、1973年。ISBN 978-4-13-090219-9。
- 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第五編』 36巻、東京大学出版会、2018年。ISBN 978-4-13-090236-6。
- 『尊卑分脉』 2巻、吉川弘文館〈新訂増補国史大系〉、2007年。ISBN 978-4-64-204062-4。