コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

中浜村

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
なかはまそん
中浜村
廃止日 1954年8月10日
廃止理由 新設合併
境町外江町余子村上道村渡村中浜村 → 境港町
現在の自治体 境港市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 中国地方山陰地方
都道府県 鳥取県
西伯郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
総人口 4,558
国勢調査、1950年10月1日)
隣接自治体 余子村、渡村、米子市
中浜村役場
所在地 鳥取県中浜村大字小篠津字川端666番地・664番地
地図
旧・中浜村役場庁舎位置
座標 北緯35度30分20秒 東経133度14分54秒 / 北緯35.5055度 東経133.24847度 / 35.5055; 133.24847座標: 北緯35度30分20秒 東経133度14分54秒 / 北緯35.5055度 東経133.24847度 / 35.5055; 133.24847
ウィキプロジェクト
テンプレートを表示

中浜村(なかはまそん)は、鳥取県西伯郡にあった明治22年(1889年) - 昭和29年(1954年) の

歴史

[編集]

明治22年(1889年町村制の実施によって小篠津村佐斐神村新屋村が合併、旧村名を大字に編成して中浜村が誕生した[1]

村名の由来については、古くから「浜ノ目」と呼ばれていた弓が浜半島の中央に位置するところから「中浜村」と命名した[1]

年表

[編集]

政治

[編集]

町村長・町村会の議員について

[編集]

村長

[編集]
本角寅造
(初代中浜村長)
  1. 本角寅造 明治22年(1889年)11月 - 明治30年(1897年)12月[3]
  2. 宮本易孝 明治30年(1897年)12月 - 明治38年(1905年)12月[3]
  3. 永見林三郎 明治38年(1905年)12月 - 明治42年(1909年)12月[3]
  4. 本角文蔵 明治42年(1909年)12月 - 大正6年(1917年)12月[3]
  5. 松篠長蔵 大正7年(1918年)11月 - 大正15年(1926年)11月[3]
  6. 永見勘太郎 昭和2年(1927年)11月 - 昭和14年(1939年)11月[3]
  7. 岡田虎蔵 昭和14年(1939年)11月 - 昭和16年(1941年)10月[3]
  8. 松本積善 昭和16年(1941年)10月 - 昭和21年(1946年)11月[3]
  9. 永井芳房 昭和22年(1947年)4月 - 昭和29年(1954年)8月[3]

助役

[編集]
  1. 長田定七 明治22年(1889年)11月 - 明治25年(1892年)10月[3]
  2. 佐々木遷三 明治25年(1892年)12月 - 明治29年(1896年)12月[3]
  3. 牧島篤通 明治29年(1896年)1月[3]
  4. 長山善完 明治30年(1897年)1月 - 明治34年(1901年)1月[3]
  5. 成田清五郎 明治34年(1901年)2月 - 明治37年(1904年)9月[3]
  6. 牧島篤通 明治37年(1904年)10月 - 明治42年(1909年)12月[3]
  7. 長田貞禄 明治43年(1910年)4月 - 大正6年(1917年)8月[3]
  8. 長田真夫 大正7年(1918年)11月 - 大正11年(1922年)11月[3]
  9. 中本鹿造 昭和2年(1927年)11月 - 昭和5年(1930年)2月[3]
  10. 長山賢雄 昭和13年(1938年)9月 - 昭和15年(1940年)2月[3]
  11. 米谷雄二 昭和16年(1941年)6月 - 昭和20年(1945年)10月[3]
  12. 永井慶 昭和20年(1945年)11月 - 昭和21年(1946年)11月[3]
  13. 永井芳房 昭和21年(1946年)11月 - 昭和22年(1947年)3月[3]
  14. 足立知正 昭和22年(1947年)5月 - 昭和25年(1950年)9月[3]
  15. 木村一 昭和25年(1950年)10月 - 昭和29年(1954年)8月[3]

収入役

[編集]
  1. 宮本易孝 明治22年(1889年)12月 - 明治25年(1892年)9月[3]
  2. 永見徳市郎 明治25年(1892年)9月 - 明治29年(1896年)9月[3]
  3. 牧島篤通 明治29年(1896年)9月 - 明治37年(1904年)10月[3]
  4. 松篠類造 明治37年(1904年)10月 - 明治43年(1910年)6月[3]
  5. 松篠長蔵 明治43年(1910年)7月 - 大正6年(1917年)12月[3]
  6. 角重孝 大正7年(1918年)3月 - 大正9年(1920年)3月[3]
  7. 河岡岩松 大正9年(1920年)3月 - 昭和14年(1939年)11月[3]
  8. 木村一 昭和17年(1942年)2月 - 昭和25年(1950年)10月[3]
  9. 木村正治 昭和25年(1950年)10月 - 昭和29年(1954年)8月[3]

村会議員

[編集]

は補欠 は在任中死去 は辞任のほか召集、取消、失格、隠居、転籍を含む[4]

  • 明治22年(1889年
    木村半十郎村田善三永見国三郎河端貞市郎)、宮木庄五郎長田定七佐々木遷三)、本角寅造)、宮本易孝)、永井茂八郎)、新林蔵中井忠四郎成田清五郎足岡鹿次郎)、中本荘平)、足立友八)、中井忠四郎
  • 明治25年(1892年
    角惣四細川万吉米谷勘太郎宮本易孝木村啓次郎)、足岡鹿次郎
  • 明治28年(1895年
    成田清五郎)、中井忠四郎宮木庄五郎永井又八永見国三郎)、松篠類造角惣四)、永見徳市郎
  • 明治31年(1898年
    松本勘太郎)、細川万吉長山林市木村啓次郎米谷勘太郎中本荘平永見林三郎
  • 明治34年(1901年
    永見徳市郎松篠類造)、先前儀三郎)、角惣四中井忠四郎)、松本峰太郎松本伊勢松
  • 明治37年(1904年
    中本荘平木村保)、細川万吉永見林三郎)、米谷勘太郎長山林市)、村田要之助)、長田貞録)、本角文蔵
  • 明治40年(1907年
    角惣四先前儀三郎松本伊勢松永見徳市郎中井寛太郎松本峰太郎
  • 明治43年(1910年
    細川万吉村田要之助中本荘平米谷勘太郎永見勘太郎長田貞録
  • 大正2年(1913年
    長山賢雄角重孝足立磯太郎中本荘平)、細川万吉永見徳市郎永見勘太郎永井又八)、米谷勘太郎河岡岩松長田貞録)、木村秀市
  • 大正6年(1917年
    角重孝)、永井貞録細川万吉河岡岩松)、中本鹿造足立磯太郎米谷勘太郎浜田清松牧島篤通長田真夫永見勘太郎河端虎彦)、安田力松
  • 大正10年(1921年
    長田真夫浜田清松河田千松永井至澄松本虎次郎宮木藤次郎永見勘太郎岡田虎蔵田口熊市足立政義永井貞録村田要之助
  • 大正14年(1925年
    永井貞録田口熊市木村亀太郎岡田虎蔵永見勘太郎長田真夫松本虎次郎中本鹿造宮木藤次郎足立政義浜田清松村田要之助
  • 昭和4年(1929年
    永井貞録岡田虎蔵木村亀太郎足立政義宮木藤次郎永澤虎松長山賢雄井田辰次郎松下定山崎竹松木村徳次郎松本積善
  • 昭和8年(1933年
    足立正栄足立精木村豊逸永井貞録北盛徳田中忠衛角清太郎長山賢雄斉藤定雄河岡雪雄松本積善田口熊市
  • 昭和12年(1937年
    松本茂永井貞録足立精北精徳田中忠衛米谷雄二松本積善足立正栄河岡雪雄長山賢雄斉藤定雄宮木政寿)、村田精)、松下定
  • 昭和17年(1942年
    足立義久角喜高足立藤六)、松本竹重足立重徳米谷雄二川田章永井康男井田忠義永井慶)、渡辺為徳松本武俊
  • 昭和22年(1947年
    足立精永見至誠松本貞孝安田勝栄松本捷盛米谷雄二足岡慶角鉄栄井田忠義松本真造)、角喜高安田定俊永見寿幸松本繁信)、渡辺為徳長山英一足立弥太郎

産業・経済

[編集]

明治、大正、昭和時代

[編集]
  • 大正元年(1912年)『山陰実業名鑑』(綱島幸次郎編)によると、地価三百円以上の土地所有者、所得税納入者、営業税納入者は以下の通り。
長山善完
(『島根鳥取名士列伝』)
中浜村
地価額 所得税 営業税 住所
米谷勘太郎 二. 九〇〇円 三二〇 五六円 六八〇 六二円 七六〇 新屋村
長山善完 一. 九二七円 二九〇 二三円 一〇〇 二三円 三二〇 佐斐神村
永見勘太郎 一. 九二〇円 一七〇 三六円 八七〇 一五円 二〇〇 小篠津村
長田貞祿 一. 四〇三円 八九〇 一四円 三二〇 佐斐神村
角惣四 一. 三二六円 一四〇 一七円 六七〇 八円 九八〇 小篠津村
永見徳市郎 一. 一四五円 七二〇 一四円 五三〇 九円 八二〇 小篠津村
松篠長蔵 九五八円 二八〇 一九円 八六〇 九円 七五〇 小篠津村
永井又八 七五三円 九二〇 六円 六四〇 小篠津村
永井善四郎 七二〇円 一四〇 六円 九〇〇 小篠津村
中井寛太郎 七〇九円 六九〇 七円 六四〇 佐斐神村
松本峰太郎 六八八円 二八〇 小篠津村
永見熊次郎 六八八円 二八〇 七円 四〇〇 小篠津村
村田善三 六六九円 四二〇 小篠津村
細川万吉 六四九円 八〇〇 一七円 三八〇 三〇円 〇〇〇 小篠津村
川田千松 六二五円 二二〇 八円 八五〇 佐斐神村
本角文蔵 五八五円 五一〇 小篠津村
足立磯太郎 五七五円 七七〇 七円 二六〇 小篠津村
村田治三郎 五四〇円 八一〇 六円 六四〇 小篠津村
成田豊三郎 五二一円 六〇〇 佐斐神村
河岡岩松 四八二円 〇九〇 佐斐神村
角好太郎 四七六円 二四〇 小篠津村
井田義正 四六六円 八一〇 佐斐神村
木村秀市 四六二円 六七〇 六円 六〇〇 小篠津村
宇城敬徳 四六〇円 八一〇 新屋村
足岡榮徳 四五三円 五〇〇 新屋村
濱田清松 四四三円 六二〇 佐斐神村
先前儀三郎 四三九円 七七〇 佐斐神村
足立熊太郎 四三八円三〇〇 佐斐神村
村田友市 四二三円 〇三〇 小篠津村
遠藤長三郎 四一九円 三九〇 小篠津村
足立長次郎 四一五円 八一〇 小篠津村
木村米松 三九六円 六五〇 小篠津村
足立秋三郎 三七五円 八一〇 佐斐神村
木村信榮 三七一円 九四〇 小篠津村
永井荒次郎 三六九円 〇〇〇 小篠津村
安田松太郎 三六七円 二六〇 小篠津村
龍泉寺 三五八円 八五〇 小篠津村
永見榮蔵 三五六円 三四〇 小篠津村
牧島篤通 三五三円 一六〇 佐斐神村
宮本信精 三四七円 八二〇 小篠津村
安田市次郎 三三八円 五六〇 小篠津村
長山賢雄 三三四円 二八〇 佐斐神村
宮木藤次郎 三二八円 三〇〇 小篠津村
岡田虎蔵 三一五円 六〇〇 新屋村
河尻雪壽 三一四円 三三〇 新屋村
有田梅松 三五円 三五〇 佐斐神村
角賢市 六円 六〇〇 小篠津村
渡邊清蔵 一四円 六〇〇 小篠津村
永澤吉太郎 一三円 八八〇 佐斐神村
木村荒次郎 一一円 三六〇 小篠津村
揚本トヨノ 一一円 〇九〇 佐斐神村
大前林吉 九円 二〇〇 佐斐神村
松本近次郎 五円 七五〇 小篠津村
松本繁信 五円 七五〇 小篠津村

耕地整理事業

[編集]
  • 耕地整理事業
    大正2年(1913年)村では耕地整理組合を組織して11月14日郡役所へ耕地整理事業を申請12月2日認可を得た。郡役所は大正4年(1915年)施行にあたっては技術員を配置して指導した[6]
  • 耕地整理組合
    組合長 - 本角文蔵[6]
    副長 - 長山善完[7][6]
    評議員 - 永沢虎松浜田清松細川万吉松篠栄次郎永見徳一角重孝岡田虎蔵字城敬徳永井荒次郎松本峯太郎阿部勘次郎庄司廉[8][6]
  • 工事の概要
    工事の期間 - 大正3年(1914年)1月〜大正7年(1918年)12月[6]
    経費 - 25704円27銭、整理段別・田、58町6段8畝歩 畑、334町9段3畝歩、但し井敷、畦畔を插入した面積[6]
    この外に山林雑種地宅地60町8段4畝18歩を加える(『中浜村郷土誌』)[6]
    耕地整理により道路の新設改修によって、荷車等運搬用具の使用が可能となり農家にとって大変便利になった[6]

苗字

[編集]
  • 佐斐神村の古姓は諏訪神社社伝に伝わる“井田”と外浜地区に共通する“足立”である。
  • 小篠津村木村氏
    「木村弥太郎…某氏に従て朝鮮に戦ひ感状を賜はる」と『伯耆志』にあり、『日御崎神社縁起考』には出雲国富田より来住した尼子遺臣としている。

出身人物

[編集]

政治家

[編集]
  • 長山英一
    佐斐神出身。中浜村助役長山善完長男。境港市会議員、村会議員。大正8年(1919年)陸上1500m日本選手権優勝。
  • 永見勘太郎
    小篠津出身。中浜村長。村会議員、郡会議員。
  • 永見林三郎
    小篠津出身。中浜村長。村会議員。
  • 宮本易孝
    小篠津出身。中浜村長。村会議員、郡会議員。西伯郡町村長代表を務めるほどの実力者村長だった。
  • 本角寅造
    小篠津出身。中浜村長。村会議員、県会議員。本角家は代々"与平"、"所十郎"を襲名する豪農で、大庄屋をつとめた由緒ある家柄だった[9]

実業家

[編集]

医師

[編集]

その他

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b 『境港市三十五年史』平成3年、95頁
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『境港市三十五年史』平成3年、106頁
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag 『境港市三十五年史』平成3年、96頁
  4. ^ 『境港市三十五年史』平成3年、97-98頁
  5. ^ a b 角川日本地名大辞典 31鳥取県』 560頁
  6. ^ a b c d e f g h 『境港市三十五年史』平成3年、102頁
  7. ^ 長山善完は元境港市会議員長山英一実父である
  8. ^ 庄司廉は女優司葉子伯父である
  9. ^ 士分の在方役人に対して郡村行政の実務を担当したのが大庄屋以下の農村自治役人であり、在役人と呼ばれた。在役人はまた郡政を担当する郡役人と、村政を担当する村役人に区分される。郡村行政の最高責任者が大庄屋で、藩初期の会見郡には4名が配置され、会見郡を4構に区分して各々の行政を分担した。宗旨庄屋は寛永10年(1633年)ころから各郡1、2名あて新設された。寛永10年(1633年)の『大庄屋給帳』によると、会見郡には4名の大庄屋が配置されており、その内の一人車尾村次郎左衛門(深田氏)が浜目地区を担当したものと推定される。以後元禄初年までの浜目地区担当の大庄屋としては、小篠津村の角次郎左衛門、角半左衛門、角三郎兵衛、車尾村深田三郎右衛門が続き宗旨庄屋には延宝7年(1679年)以後元禄初年まで角与兵衛があり、その間与兵衛は組頭庄屋をも兼帯していた。郡役人を歴任した小篠津村角氏には現在の小篠津村「本角家」先祖と通称「麦垣角」の2系統があったといわれている。当時の小篠津村は、南弓浜開発の中心基地となった村であり、角家は新田開発の先導役として弓浜半島の豪農に成長したものと思われる(『境港市史 上巻』昭和61年、336-342頁)。「紀氏譜記」には江戸期の 小篠津村の旧家角与兵衛も紀氏一門の末葉につながる由緒を伝えている(『境港市史 上巻』昭和61年、17頁)

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]