久留島光通
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久留島光通像(安楽寺蔵) | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 宝永元年(1704年) |
死没 | 明和元年9月18日(1764年10月13日) |
改名 | 通綜、光通 |
別名 | 靱負、帯刀(通称) |
戒名 | 泰竜院 |
官位 | 従五位下信濃守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗、家重、家治 |
藩 | 豊後森藩主 |
氏族 | 久留島氏 |
父母 | 久留島通貞、久留島通政 |
妻 | 木下俊量娘、小澤氏 |
子 |
通祐、山崎義俊、通同、青木一新正室、 渡辺信綱継室、高井綽房室、 青木直美正室、久留島通高室、 高井綽房養女ら |
久留島 光通(くるしま てるみち)は、江戸時代中期の大名。通称は靭負、帯刀。豊後国森藩5代藩主。官位は従五位下・信濃守。
略歴
[編集]2500石を領した旗本・久留島通貞(2代藩主・久留島通春の次男)の次男として誕生。初名は通綜。
世嗣だった久留島通重の死去により、正徳5年(1715年)4月27日、先代藩主・久留島通政の養嗣子となる。同年5月28日、7代将軍徳川家継にお目見えする。享保4年(1719年)12月25日、養父通政の死去に伴って家督を継いだ。享保5年12月18日、従五位下信濃守に叙任する。享保17年(1732年)、飢饉が藩内を襲うと、幕府より2000両を借用して対処した。その後、藩財政再建のため、上米制を中心とした藩政改革を行なった。駿府城番を命じられる。寛延3年(1751年)3月1日、大番頭に就任する。宝暦8年(1759年)11月18日、伏見奉行に就任する。
明和元年(1764年)9月18日に61歳で死去し、跡を五男・通祐が継いだ。法号は泰竜院。
系譜
[編集]父母
正室
- 木下俊量の娘
側室
- 小澤氏
子女