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久留島光通

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
久留島光通
久留島光通像(安楽寺蔵)
時代 江戸時代中期
生誕 宝永元年(1704年
死没 明和元年9月18日1764年10月13日
改名 通綜、光通
別名 靱負、帯刀(通称)
戒名 泰竜院
官位 従五位下信濃守
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗家重家治
豊後森藩
氏族 久留島氏
父母 久留島通貞久留島通政
木下俊量、小澤氏
通祐山崎義俊通同青木一新正室、
渡辺信綱継室、高井綽房室、
青木直美正室、久留島通高室、
高井綽房養女ら
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久留島 光通(くるしま てるみち)は、江戸時代中期の大名。通称は靭負、帯刀。豊後国森藩5代藩主。官位従五位下信濃守

略歴

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2500石を領した旗本久留島通貞(2代藩主・久留島通春の次男)の次男として誕生。初名は通綜。

世嗣だった久留島通重の死去により、正徳5年(1715年)4月27日、先代藩主・久留島通政の養嗣子となる。同年5月28日、7代将軍徳川家継にお目見えする。享保4年(1719年)12月25日、養父通政の死去に伴って家督を継いだ。享保5年12月18日、従五位下信濃守に叙任する。享保17年(1732年)、飢饉が藩内を襲うと、幕府より2000両を借用して対処した。その後、藩財政再建のため、上米制を中心とした藩政改革を行なった。駿府城番を命じられる。寛延3年(1751年)3月1日、大番頭に就任する。宝暦8年(1759年)11月18日、伏見奉行に就任する。

明和元年(1764年)9月18日に61歳で死去し、跡を五男・通祐が継いだ。法号は泰竜院。

系譜

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父母

正室

側室

  • 小澤氏

子女

脚注

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  1. ^ 2代藩主・久留島通春の次男。
  2. ^ 黒田長堅の父。