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亀戸日勝映画劇場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
亀戸日勝映画劇場
亀戸スカラ座
Kameido Nissho
Kameido Scala
種類 事業場
市場情報 消滅
略称 亀戸日勝、亀戸スカラ
本社所在地 日本の旗 日本
136-0071
東京都江東区亀戸3丁目61番18号
設立 1910年代 (亀戸電気館)
1930年前後 (亀戸昭和館)
1951年7月 (亀戸劇場)
1964年 (亀戸日活・スカラ座)
業種 サービス業
事業内容 映画の興行
代表者 支配人 小沢純一
主要株主 簱興行
関係する人物 簱栄吉
特記事項:略歴
1910年代 亀戸電気館開館
1981年 閉館
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亀戸日勝映画劇場(かめいどにっしょうえいがげきじょう)は、かつて存在した日本の映画館である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12][13][14][15][16][17]。正確な年代は不明だが1910年代の大正年間には東京府南葛飾郡亀戸町(現在の東京都江東区亀戸)に電気館(でんきかん)として開館、のちに亀戸電気館(かめいどでんきかん)と称した[1]。1930年(昭和5年)前後に同町内に開館した亀戸昭和館(かめいどしょうわかん)とともに簱興行傘下に入ったが[4][5]第二次世界大戦末期の東京大空襲で全焼・閉館した。戦後は1951年(昭和26年)7月、亀戸劇場(かめいどげきじょう)として復興[8]、1964年(昭和39年)には建替えられて亀戸日活劇場(かめいどにっかつげきじょう、のちに亀戸日勝映画劇場と改称)、亀戸スカラ座(かめいどスカラざ)として改めて開館した[11][12]。1981年(昭和56年)にはいずれも閉館した[17]

沿革

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  • 1910年代 - 亀戸電気館開館[1][2][3]
  • 1930年前後 - 亀戸昭和館開館[4][5]
  • 1930年代 - 亀戸電気館が亀戸松竹館と改称[6]
  • 1940年前後 - 亀戸松竹館が亀戸映画劇場と改称[6][7]
  • 1945年3月10日 - 東京大空襲で全焼・閉館[6][7]
  • 1951年7月 - 亀戸劇場開館[8][9][10]
  • 1964年 - 建替え、亀戸日活劇場亀戸スカラ座開館[11][12]
  • 1970年前後 - 亀戸日活劇場を亀戸日勝映画劇場と改称[14][15][16]
  • 1981年 - 閉館[17]

データ

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亀戸昭和館 ⇒ 亀戸日勝・スカラ座

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亀戸電気館

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  • 所在地 : 東京府東京市城東区亀戸町3丁目168番地
    • 開館当時の東京府南葛飾郡亀戸町3丁目168番地[1][2][3][4]
  • 経営 :
    1. 大和田晋三郎 (1926年[2]
    2. 大和久邇惣吉 (1927年 - 1929年[3]
    3. 亀戸電気館合資会社 (1929年 - 1930年[4]
    4. 簱興行 (1930年前後[6][7] - 1945年)
  • 支配人 : 田中金次郎 (1929年[4] - 1940年代[6][7]
  • 構造 : 木造
  • 観客定員数 : 351名(1926年[2] - 1929年[3]) ⇒ 375名(1930年[4]) ⇒ 489名(1941年[6] - 1943年[7]

概要

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亀戸電気館と亀戸昭和館

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正確な年代は不明だが、1910年代には東京府南葛飾郡亀戸町3丁目168番地(現在の東京都江東区亀戸三丁目)に電気館として開館、のちに亀戸電気館と称した[1][2]。大正年間を通じて、亀戸駅近辺には、同館のほか、同町6丁目(通称・五の橋。現在の亀戸六丁目)、大島町3丁目164番地、砂町八右衛門字石丸517番地にそれぞれ「電気館」という映画館があり、それぞれ同館同様に、五の橋電気館(興行系統は日活)、大島電気館(興行系統は松竹キネマ)、砂町電気館(興行系統は東亜キネマ)と称した[1][2][3][4]。当時の同館の興行系統は東亜キネマで、昭和に入るとそれに松竹キネマが加わり、1929年(昭和4年)には松竹キネマのみの上映館になった[1][2][3][4]。観客定員数は351名、経営は大和田晋三郎あるいは大和久邇惣吉であるとされ[2][3]、のちに会社組織化し、亀戸電気館合資会社となった[4]

1930年(昭和5年)前後の時期、おなじ亀戸町3丁目の十三間道路(明治通り、現在の東京都道306号王子千住夢の島線)沿いに亀戸昭和館(亀戸町3丁目257番地)が開館している[4][5]。同館を経営したのが、当時、小松川町大字下平井975番地(現在の東京都江戸川区平井2丁目)に平井館(のちの平井松竹館)を経営していた簱興行の簱栄吉であった[4][5][6]。おなじころに亀戸電気館も簱興行の傘下に入り、1930年代には亀戸松竹館と改称、1940年代に入るとさらに亀戸映画劇場に改称している[6][7]。亀戸近辺は、1932年(昭和7年)10月1日、南葛飾郡全域が東京市に編入され、城東区になっている。

簱栄吉は、1940年代までに平井館および同2館のほか、豊島区に池袋日勝映画館(のちの池袋日勝映画劇場池袋町一丁目743番地)、江戸川区小松川電気館小松川三丁目53番地)、小岩松竹館(のちの小岩スカラ座小岩町三丁目1861番地)、城東区(現在の江東区)に三光館(南砂町一丁目285番地)、品川区五反田劇場五反田一丁目261番地)、神奈川県横浜市中区に中島常設館(共進町3丁目55番地)、千葉県市川市市川映画館市川2丁目3057番地)と、同館を含めて10館の映画館を経営していた[6][7]

1942年(昭和17年)には第二次世界大戦による戦時統制が敷かれ、日本におけるすべての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給になり、すべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、同年発行の『映画年鑑 昭和十七年版』によれば、亀戸昭和館が紅系二番館、亀戸映画劇場が紅系四番館である[6][7]。当時の亀戸昭和館は、支配人が峰村政信、観客定員数が432名であり、亀戸映画劇場は、支配人が田中金次郎、観客定員数が489名であった[6][7]。大戦末期の1945年(昭和20年)3月10日、東京大空襲で同地区は壊滅、同2館も全焼、閉館・更地になった[21]。他地区に関しても、簱栄吉はほとんどの映画館を戦災で失っている。

戦後

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跡地現況(旬鮮食品館カズン亀戸店、2014年撮影)。

1947年(昭和22年)3月15日、城東区は深川区と合併して江東区となった。亀戸地区は空襲の爪痕が深く、Goo地図にある同年の航空写真によれば、同2館の跡地は更地のままである[21]。同2館を経営した簱興行がまず復興に取り組んだのは、1946年(昭和21年)10月開館の日勝映画劇場(豊島区池袋1丁目743番地)、1947年7月開館の五反田劇場(品川区五反田1丁目261番地)、1949年(昭和24年)12月開館の八幡映画劇場(市川市八幡町3丁目132番地)、そして小岩映画劇場(江戸川区小岩町3丁目1815番地)も1950年(昭和25年)には復興・開館している[22]

亀戸昭和館の跡地に亀戸劇場として映画館が復興し、開業したのは1951年(昭和26年)7月であった[8]。同館の開館時は、西子平太郎の個人経営、支配人は西子順一、木造二階建で観客定員数300名、興行系統は松竹東映・日活の邦画混映館であった[8][9]。その後、1960年(昭和35年)前後には松竹・大映の混映館になった[10]

1964年(昭和39年)には、もともと簱興行のものであった同地(亀戸昭和館の跡地)に、同社が鉄筋コンクリート造二階建の建物を新築、1階に日活の封切館亀戸日活劇場(347名)、2階に新たに松竹洋画系(SYチェーン)の封切館亀戸スカラ座(408名)を開館した[11][12][23]。当時の「SYチェーン」には、松竹セントラル新宿ピカデリー渋谷松竹映画劇場浅草ロキシー映画劇場新宿昭和館テアトル渋谷池袋スバル座、五反田劇場、川崎銀星座等が加盟していた[23]

日活は経営困難のため1969年(昭和44年)の撮影所売却(のちに買戻し)、1971年(昭和46年)には堀久作が退陣、同年11月にはロマンポルノの製作・配給に踏み切るが[24]、この前後の時期に、簱興行は、亀戸日活劇場を亀戸日勝映画劇場と改称、日活や東映のアクション映画の二本立・三本立興行を行った[14][15][16][25]。亀戸スカラ座は、開館以来、一貫して洋画上映館であった[12][13][14][15][16]

1981年(昭和56年)には、両館いずれも閉館した[17]。閉館後は「ハタセントラルスポーツクラブ亀戸」になったが、その後2003年(平成15年)3月末で閉館し[26]、2004年(平成16年)9月末に「旬鮮食品館カズン亀戸店」が開業するとともにカズン本社も同地に置かれ、現在に至る(2014年)[18][19][20]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g 年鑑[1925], p.464-465,467.
  2. ^ a b c d e f g h i 総覧[1927], p.651,654,656.
  3. ^ a b c d e f g h 総覧[1929], p.249-252.
  4. ^ a b c d e f g h i j k l 総覧[1930], p.558-559,561.
  5. ^ a b c d e 昭和7年の映画館 東京府下 146館、中原行夫の部屋(原典『キネマ旬報』1932年1月1日号)、2014年4月2日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 年鑑[1942], p.10-30,33,40,43.
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n 年鑑[1943], p.448-450,452,455,459.
  8. ^ a b c d e f g h 総覧[1955], p.9,13,17,25.
  9. ^ a b c 総覧[1956], p.1, 6.
  10. ^ a b c d e f g 便覧[1961], p.13.
  11. ^ a b c d e f 便覧[1964], p.11.
  12. ^ a b c d e f 便覧[1965], p.12.
  13. ^ a b c d e f 便覧[1967], p.11.
  14. ^ a b c d e f g h i 便覧[1975], p.35.
  15. ^ a b c d e f g h i 名簿[1977], p.35.
  16. ^ a b c d e f g h i 名簿[1979], p.35.
  17. ^ a b c d e f 名簿[1981], p.31-32.
  18. ^ a b 亀戸店旬鮮食品館カズン、2014年4月2日閲覧。
  19. ^ a b 会社概要、旬鮮食品館カズン、2014年4月2日閲覧。
  20. ^ a b 東京都江東区亀戸3丁目61番18号Google ストリートビュー、2013年7月撮影、2014年4月2日閲覧。
  21. ^ a b c 亀戸日勝映画劇場Goo地図、1947年・1963年撮影、2014年4月2日閲覧。
  22. ^ 年鑑[1951], p.328,332-333,339.
  23. ^ a b 年鑑[1964], p.294.
  24. ^ 日活及び日活撮影所の年譜日本映画監督協会、2014年4月2日閲覧。
  25. ^ 田沢[2006], p.1.
  26. ^ セントラルスポーツ株式会社 平成15年3月期決算説明会資料セントラルスポーツ、2003年3月、2014年4月2日閲覧。

参考文献

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  • 『日本映画年鑑 大正十三・四年』、アサヒグラフ編輯局東京朝日新聞発行所、1925年発行
  • 『日本映画事業総覧 昭和二年版』、国際映画通信社、1927年発行
  • 『日本映画事業総覧 昭和三・四年版』、国際映画通信社、1929年発行
  • 『日本映画事業総覧 昭和五年版』、国際映画通信社、1930年発行
  • 『映画年鑑 昭和十七年版』、日本映画協会、1942年発行
  • 『映画年鑑 昭和十八年版』、日本映画協会、1943年発行
  • 『映画年鑑 1951』、時事通信社、1951年発行
  • 『映画年鑑 1955 別冊 全国映画館総覧』、時事通信社、1955年発行
  • 『映画年鑑 1956 別冊 全国映画館総覧』、時事通信社、1956年発行
  • 『映画年鑑 1961 別冊 映画便覧』、時事通信社、1961年発行
  • 『映画年鑑 1964』、時事通信社、1964年発行
  • 『映画年鑑 1964 別冊 映画便覧』、時事通信社、1964年発行
  • 『映画年鑑 1965 別冊 映画便覧』、時事通信社、1965年発行
  • 『映画年鑑 1967 別冊 映画便覧』、時事通信社、1967年発行
  • 『映画年鑑 1975 別冊 映画便覧』、時事通信社、1975年発行
  • 『映画年鑑 1977 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1977年発行
  • 『映画年鑑 1979 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1979年発行
  • 『映画年鑑 1981 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1981年発行
  • 『東京名画座グラフィティ』、田沢竜次平凡社新書平凡社、2006年9月12日 ISBN 4582853404

関連項目

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外部リンク

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